『大脱出劇の後でお疲れのところ、申し訳ないとは思うのですが』
 事の経緯を説明し終えた俺に、携帯の向こうの古泉は普段より若干ハイペースな語調で、
『迎えをやるので、至急学校に戻ってください。涼宮さんの心を乱しているものの正体を突き止めて、もし可能なら、それを除去していただけると非常に助かります』
「やっぱり出てたのか、閉鎖空間」
『ええ。それも、最近では珍しいほど大規模のものが。今あなた方のいる市営グラウンドもすっぽり覆われていますよ』
 ベンチから顔を突き出して見回してみても、水を司る蛇神様か何かが蛇口の調節をミスったかのように暴れまわっていた雨足が常識の範疇に収まる程度に弱まったぐらいで、特に変化は認められない。俺が一般人である証拠だな。
『あなたが目にした巨体というのは、間違いなく神人でしょう。たまたま市営グラウンド付近に発生した涼宮さんの閉鎖空間が、天蓋領域の展開していた特異空間を喰い破った結果、危機に瀕していたあなたの元に神人が現れたと』
 えらくドンピシャのタイミングだったんだが、本当にたまたまって言っていいのか。
『さあ、どうなのでしょうね。僕なりの事態に対する解釈を披露しても良いのですが、今はそう余裕のある状況ではありませんし、事実はどうあれ、僕たちがやらなくてはならない事に変わりはありません』
 僕たちってのは、ひょっとして俺も含まれてるのか。まだ税金を払わなくてもいい身の上なのに、いつの間に厄介な義務を背負わされたんだろうね。
『ずいぶん水臭いことを言いますね。ところで、桃李成蹊という熟語をご存知ですか?』
 あいつが桃や李って柄か。食虫植物っていうんならわかるけどさ。
 だがまあ確かに、今更文句を言うのも筋違いではある。
 空気を読んで黙る俺に、古泉は降伏の意を感じ取ったらしく、
『では重ねて、あなたは涼宮さんの方を、どうかよろしくお願いします。出現済みの閉鎖空間の方は我々が確実に処理しておきますので』
「あ、待て待て古泉」
 不意に、不愉快誘拐犯橘京子のこしゃまっくれた顔が脳裏を過ぎ去ったため、俺は切られる寸前だった電波の糸を引っつかむ。
「お前ら、向こうの組織と話し合いしてたんだろ? そっちの方はどうだったんだよ。何か進展はあったのか?」
 手を取り合うとまではいかなくとも、俺の周囲が少しでも平穏になるような類の平和条約が締結されていたりしないだろうか。
 しかし古泉は、俺の甘い期待に額面だけでも沿おうと努めるかのように、いつもより息多めの、乳白色の入浴剤を溶かし込んだぬるま湯のようにゆったりとした声で、
『なかなか良いお茶を出していただきましたが、やはり朝比奈さんが淹れて下さったものとは比べるべくもありませんでしたよ。どうにも、舌が肥えてしまったようです』
 半笑いで煙に巻きやがった。着信拒否にしてやりたい。
 腹立ち紛れに携帯の電源を強めに切ってから、振り返ってみれば、ベンチに横たえられたままの国木田は、まだ目を覚ます気配が無いようだ。
 野球空間を脱出し、揃って大雨の中に投げ出された俺たちの内で、長門と喜緑さんは直前まで昏倒していたとは思えないほどケロッとした顔で立ち上がったのだが、国木田だけがなぜか目を覚ます様子を見せず、今もこうして眠り続けている。
「長門、こいつ本当に大丈夫なのか?」
 行儀のいい姿勢でベンチに腰掛けていた長門は、立ちっぱなしの俺の顔を見上げるため首の角度を少し上向きにして、
「問題ない。彼らによって加えられていた操作信号が消失し、一時的なショック状態に陥っているだけ」
「いや、だけって言われても……」
 普通に心配なんだが。後遺症とか大丈夫なのかね。
 長門より奥まったベンチで、寝かされた国木田の横に腰を落ち着けている喜緑さんに目を向けても、こちらもまるで心を砕く様子も見せず、能天気に笑うてるてる坊主のようにマウンドを濡らす雨を見つめているだけだ。
 そう言えば、天蓋領域による操作が消えちまったってことは、つまり国木田の上に被さっていたピンク色の憑き物も消えちまったってことなんだよな。
 俺は静かな表情の喜緑さんを見つめ、そして今更ながら女性陣の薄い夏服が肌にはりついているのに気付くや、ピーピングの汚名を避けるための名案を探りつつ、とりあえずは髪から一滴垂れた水の慎ましさに倣い下を向いた。
 雨天だろうと何だろうと、眩しいもんは眩しいんだよ。





 傘を持って迎えに来てくれた新川さんに連れられ、球場に横付けされていたタクシーに乗り込むと、法定速度を二十キロほどオーバーしているような気がしないでもない速度で一路北高へ。
 校門前に到着すると、まずは国木田を担ぎ出して保健室のベッドに寝かせる。一人にするのも心配だったのでその場は喜緑さんにお願いし、俺と長門はとるものもとりあえず文芸部室へと向かった。
 ハルヒが閉鎖空間を発生させている。原因は一体何なんだろう。あいつまさか、自分の頼んだオレンジジュースをシカトされたぐらいで腹を立ててるんじゃないだろうな。
 反応の乏しい長門に壁打ちテニスのごとく自分の推測をぶつけていると益々不安になってきたので、途中で一旦引き返し自販機でオレンジジュースを購入してから、文芸部室の扉を叩いた。
「あっ、キョンくん……」
 部屋に入った途端、筆の穂先で耳をなぞるような切ない呟きに出迎えられる。
 何事かと思えば、朝比奈さんがいつもの椅子に座ったままで唇の形をちょこちょこと動かしつつ、こちらにちらちらと視線を送ってくる瞼の下では、赤く艶やかに熟れたパプリカのような頬が薄暗い部屋の中で瞬いている。
「キョン」
 こっちはなぜか窓の方を向いたまま腕組みしているハルヒが、くそ真面目な声色で俺を呼びつけてきた。
 その背中はどこかしら俺たちを突き放すような雰囲気を纏っており、何か知らんがまずいと思った俺は不機嫌な取引先の社長をなだめんとする営業部長のように土産を差し出すと、
「すまんハルヒ。ちょっと遅くなったけど、買ってきたぞ。ほら、オレンジジュース」
「そんなものはどうでもいいわ」
 オレンジ畑の人たちに謝れ。
 バレンシア州の人々の嘆きに耳を貸しもせず、ハルヒは弔問でも述べるかのように端厳と、
「あたしはね、恋愛なんて精神病の一種だと思ってるし、ひどく馬鹿馬鹿しいとも思っているわ。正直な所。そんなものは、他人におもねることでしか生きていけないひ弱な奴らの言い訳に過ぎないってね」
 相も変わらずエロースの涙もちょちょぎれそうなほど醒めた恋愛論だが、どうしていきなりそんな話を始めるんだよ。
「だけど、自分の価値観を他人に押し付けるつもりなんて、あたしには更々無いの」
 話は俺を置き去りにずんずんと前に進んでいっているようで、
「同じ団体内での恋愛なんて、色々ややこしくなりそうだし、団長としては厳しく取り締まりたいところなんだけど。……でも、お互いが本当にそうしたいのなら、誰にも止める権利なんてないっていうのもわかってる」 
 それまで向けていた背中を突如として反転させて、現れたハルヒの顔は恐ろしいほど無表情だった。
 普段がやかましい分、星の無い夜空を髣髴とさせる。寂しいと思うのは純朴なガキぐらいのもんだろうが、生憎と俺もまだまだガキだ。こちらと決して目を合わせようとしないのも気に掛かるし。
「さっき怒鳴って追い出したのは、まあ、突然だったからビックリしただけよ。別にあたしも、あんた達の事を邪魔しようってわけじゃないわ。だから」
「なあ、ハルヒ。話が盛り上がっているところに水を差すのも、我ながらアレだとは思うんだが」
 いい加減黙って聞くのに痺れを切らした俺は、沸騰しそうなやかんの蓋を押さえる具合で団長机に手を置いて、
「お前、さっきから何の話してるんだ?」
「いいってば、別に誤魔化さなくても。あんたみたいな唐変木がこっちの耳を腐らせるような言葉をあれだけ吐くってことは、よっぽどの決意だったんでしょうよ。変な気を使ってふいにしたりしちゃ勿体無いじゃない」
 ハルヒは歪に唇を歪めると、
「答えをちゃんと聞きたいでしょ? いいわよ。今日の団活はもうおしまい。古泉くんだって欠席してるし。有希もあたしが連れて出ていくから、あとは二人でごゆっくりどうぞ」
「あ、ちょっと、待てって。長門まで連れ出してどうするってんだよ」
 大股で歩き出したかと思えば長門の手を取ってさっさと部屋を出て行こうとするハルヒの肩を、掴んで止めた。
 途端、触れられた事が我慢ならないとでも言わんばかりに痴漢のまたぐらを蹴り上げるかのごとく俺の手首を捻り上げ、
「だから! あんたがさっきみくるちゃんにこ…………コクった事に関して、あたしは別に怒ってないし邪魔もしないし気を使って今すぐ出て行ってやるって言ってんじゃないのこのビッグバンバカっ!!」
 鼓膜を突き破り、くるりと捻じ曲がった内耳を一直線に伸ばしてしまいそうなほどでかい声を浴びせられる。かわいそうなのは俺のカタツムリだ。
 つうか、こいつ今何て言った?
「お前な、わけわかんないこと言うのも大概にしろよ。俺がいつ朝比奈さんにコクったっていうんだ」
 んなことできるんならな、去年出会ってすぐの時点で熱い想いを打ち明けてるっつーの。
 捻られた手を引き抜いて庇いつつ、己の甲斐性の無さを露呈する俺の羞恥に対し、いささかの注意も払わないままでハルヒは静かに牙を剥く。
「いつもクソも、ついさっきここで、あたしがいるのもお構い無しに、リルケもボードレールも泡を食らうほどロマン情緒たっぷりにあんたがみくるちゃんに抱く愛情とやらを謳い上げてくれたじゃないのよ」
 ……ついさっきここで?
 朝比奈さんは、俺と目を合わせるやいなや、こっちが心配になるぐらい真っ赤な顔をさらに炎上させて、すぐさま俯いてしまった。一方のハルヒは自らの激昂を恥じるように顔をしかめると、冷えた表情に逆戻り。
 二人の様子からして何かあった事は間違い無さそうだが、しかし、今ハルヒが口にしたことが事実であるはずもない。
「いいか、ハルヒ。俺はな、飲み物を買いに行くためにこの部屋を出てから、今の今まで、国木田の用事に付き合って学校の外にいたんだ」
 ハルヒは昏黒の眼光を寄越してくるが、実際に俺は今しがた学校に到着したばかりだ。嘘をついているわけでもないし、口の滑りは好調だった。
「つまり、俺がついさっきもこの部屋に来てたなんてことは、絶対にありえないわけだ。嘘だと思うんなら長門に聞いてみろよ。長門も途中から合流して、俺たちと一緒に行動してたから」
 な? と同意を求めると、かくりと長門は頷いた。
 しかし、ハルヒは尚も信じる素振りすら見せず、
「下手な嘘に有希まで付き合わせるんじゃないわよ。あたしもみくるちゃんも、あんたの事をはっきりとこの目で見て、あんたのトンチキな声だってこの耳で聞いてるの。今更誤魔化されるわけないじゃない」
「んな事言われても、こっちだって身に覚えが無いんだよ。お前も朝比奈さんも、幻覚でも見たんじゃないのか? ほら、雪山の時みたいにさ」
 俺は古泉の真似をして、強引なこじつけを、さもそれらしく、
「極限状態ではないにせよ、等間隔に響く雨の音、それに、朝比奈さんのお茶でも飲みながらまったりしてれば、嫌でも眠くなってくるだろうし。どっちかの寝言が耳に入って、結果的に二人とも同じ夢を見てたとか、ありそうな話だ」
 自分の言葉に頷きながら、
「どうだ。もう一度冷静に考えてみろよ。さっきここに来た俺とやらは、本当に俺だったのか?」
 思い当たる節があったのだろう。不機嫌そうな面は崩さないまでも、唸るような様子を見せたハルヒは腕組みしつつ、 
「……確かに、変ではあったわ。あんたなら口にする前に首を吊りそうな台詞を惜しげもなく言い放ってたし、そうね、雪山で遭難した時の夢に出てきた偽者のあんたと、似たような感じだったかも」
「だろ? とにかくな、それが俺じゃないのは確かなんだって。神様なんて信じちゃいないが、何なら家族と親戚一同に誓ったっていい。俺は無実、無罪、冤罪だ」
 両手を上げて身の潔白をアピールする俺を見ても、朝比奈さんの方は今ひとつ状況が飲み込めていないのか、顔を桃色に染めたまま、ほのかに咲いた唇に指を当ててキョトンとしていた。ヴィーナスも真っ裸で貝を譲るね。
 そう。俺ふぜいが朝比奈さんに向かって愛を訴えるなんて、罪悪に他ならない。聖書の目録に載ってたって不自然じゃないほどのな。
 おそらく、朝比奈さんに告白したとかいう罰当たりな俺の方は、雪山の館と同様に、長門なり統合思念体なりが用意した幻覚なのだろう。
 俺たちが天蓋領域の作り出した空間から脱出できたのは神人が発生したおかげだし、仮に俺があの場で球を打てなくとも、神人がちょっと暴れるだけで、あんな野球場ぐらいすぐにぶっ壊れてしまったに違いない。
 言うなれば今回の閉鎖空間の発生は正に救済処置であり、そのためにハルヒのストレスを爆発させてやらなければならなかったわけだ。
 そして、今回ハルヒがストレスを爆発させたのは、さっき本人も言っていた通り、俺と朝比奈さんが特別な関係を結ぶことで、SOS団内部に何らかの軋轢が生じるのではないかという危惧によるものだった。
 別に、組み合わせが俺と朝比奈さんだったからというわけではない。たとえそれが古泉だったにせよ長門だったにせよ、団員同士の関係が変化すること自体が、こいつにとっては不安だったんだろう。
 しかし、と俺は苦笑する。
 変化を恐れる、か。裏を返せば、現状にはそこそこ満足してくれてると思っていいのかね。
 気取られぬよう肩を竦めつつ、長門に事の真偽を正す算段をつけていると、
「でも、あの時の偽者とも雰囲気が違ってたのよね。上手く言えないけど、照れてるんだか開き直ってるんだかわかんないような中途半端に拙い感じが正にあんたらしかったし、少なくともあたしは、本物のキョンだって思ったもの」
 ハルヒにかかった疑念のヴェールは未だに晴れないらしい。今度は俺の周りをぐるぐると歩き回り始めた。じろじろと無遠慮な視線を感じる。出荷される直前に健康チェックを受ける牛になった気分だ。
 やれやれ。こいつをどう説得したもんか。
 俺は頭を悩ませつつ、
「だからさ、考えてもみろよ。俺が学校の外にいた時間に、俺がこの部屋にやってくる。矛盾してるだろ? 一人の人間が、別々の空間に同時に存在できるわけがないんだから。それこそ、SF的な小道具でも使わない限り無理な……」
 そこまで言って、はたと気付いた。
 待てよ。
 朝比奈さんに告白した俺は本物だと言うハルヒと、そんな事にはさっぱり身に覚えが無い今現在の俺。
 両方の主張をまるっと肯定し矛盾を解決してくれるような、一人の人間が別々の空間に同時に存在するという事象を可能にするSF的小道具にバリバリ心当たりがあるのは、俺の気のせいなんだろうか。
 銀を円形の鋳型に流し込んだような長門の虹彩は、何も語ろうとはしない。というか別段、俺に伝えるべきものを抱えてはいないように見えた。
 一方で、未だに話の要旨が掴めていない様子の朝比奈さんの、その薄っすらと濡れた双眸の向こう側には、朝比奈さん(大)が悪戯っぽいウィンクを俺に投げかけてきているような、これは多分錯覚だろう。
「……ひょっとして、今のあんたの方が偽者だったりしないわよね?」
 さんざんっぱら悩んだ挙句にハルヒが導き出したトンチンカンな回答がほんの少しだけ魅力的に聞こえたのも、きっと気のせいに違いないのさ。





 俺が抱く希望的観測は、やや外れ易い傾向にあるらしい。
 それから数日と経たないうちに、歯医者を恐れる園児のように項垂れた俺は、未来からの指令書を携えつつ頬を膨らませた朝比奈さんに連れられて幾度目かの時間跳躍を行ない、冒頭の状況に至るってわけだ。
 あの後のことを詳しく語るつもりはないが、穴があったら入って即身仏になってしまいたいほどこっぱずかしかった、とだけ言っておこう。
 肉体的ではなく精神的な意味で命からがら任務を遂行し、ほうほうの体で元の時間に戻ると、涙目になった朝比奈さんはもみじで撫でるような軽いビンタを俺の頬にぺちりと当てて、
「あたしの気持ちを弄んだ罰ですよ」
 男子のうちの誰かに聞かれでもしたら盛大な誤解を招き闇討ちされた挙句縄で縛られて国旗専用のポールに全裸で掲揚されかねないような朝比奈さんの言葉は、真摯にして俺の胸を揺さぶった。
 過去の辻褄を合せるためにやむを得なかったとは言え、不誠実な告白をされた方は堪ったものではないだろう。最高に失礼な話だ。こういった形で不満を表明されるのも当然だと思う。
 マジでへこむ俺を前に、しかし朝比奈さんはすぐに優しい笑顔を見せてくれた。やっぱ女神だ。
「あの手紙に書いてあった台詞、もう一回あたしの前で言ってくれたら、全部許しちゃいます」
 贖罪の道は予想以上に険しかった。





 さて、国木田の一目惚れがどのような顛末に至ったのかについても、少しは語っておかなければなるまい。
 とは言え、語るべきことなんてほとんどありはしないんだが。
 なぜならばそれは最初から一目惚れなんかではなく、中河と同様、宇宙的存在の仲介あってこそ発生した恣意的な感情であり、干渉が途絶えれば醒めてしまう夢のようなものだったからだ。
 保健室で目を覚ました国木田は、喜緑さんに看病の礼だけ述べると、すぐに帰宅してしまったらしい。
 翌日登校してきた国木田に、俺は訊ねた。
「よう。昨日はどうだったんだ?」
 国木田は何のことだか分からなかった様子で、ひょいと小首を傾げながら、
「どうもこうも、昨日は僕、放課後になってから熱出しちゃったみたいでさ、夕方までずっと保健室で寝てたよ。一昨日の疲れがたまってたのかも。本当は野球場までジャージ取りに行きたかったんだけどね」
「……喜緑さんと出かけるって話は、どうなったんだよ」
「は? 何それ」
 心底不思議そうに、国木田は言った。
 俺は、何でもない、と首を振って、
「よかったじゃないか。すぐ治って」
「あぁ、うん。その喜緑さんがさ、熱出した時にたまたま近くにいたらしくて、保健室にまで連れて行ってくれたみたい。先生がいなかったから薬も飲ませてくれたんだって。ぼーっとしてたから、僕はあんまりよく覚えてないんだけど」
 そりゃラッキーだったな。せいぜい生徒会の仕事にでも励んで、恩を返してさしあげろよ。
 わかってるよ、と頷いてから自分の席に着こうとしていた国木田は、鞄を置いてから俺の方を振り返ると、
「でも、僕ってどうして生徒会の手伝いなんかしてるんだろ」
 今まで一緒にいた誰かに置いていかれたような戸惑いが、ぽかんと寂しく浮かんでいた。
「さぁな。俺が知るわけないだろ」
 窓の外を見ると、白い汚れが目立つ窓の向こうに雲一つ無い晴れ間が広がっていた。
 散々な目に遭った今年の梅雨も、そろそろ終わろうとしている。





 国木田が廊下ですっ転んでから始まり、俺が散々な目に遭い続けた一連の騒動も、そろそろ幕の終い時だ。
 古泉たちと橘京子連中の会談の内容がどのようなものだったのかとか、結局天蓋領域とやらは何がしたかったのかとか、統合思念体は何を考えているのかとか、この辺の肝心な部分はいつもと同じくわからないまま。
 こっちを波間に浮かべた棒切れか何かのように好き勝手巻き込んでおいて、去っていく時は挨拶もなしだってんだから、ふてぶてしいもんだよ。
 しかしまぁ、あれだけうざったかった雨音も、消えてしまえば寂しいものだ。 
 惚気にすらなっていない他人の話だって、ひょっとしたら似たようなものなのかもしれない。