最後に、これは何の事も無い、七月初旬の平日の話だ。
 その日は久方ぶりの大雨模様。いつものごとく文芸部室でだらだらと青春を浪費したあと、朝比奈さんが着替えを始める前にと思って適当な所で部室を後にした俺は、下駄箱で国木田と鉢合わせになった。
「あれ、ここで会うのって珍しいよね。今帰り?」
「ああ。そっちは、まだ生徒会の手伝いやってるのか」
 この前は、そろそろ辞めようと思うって言ってたけど。
「せめて今学期の間ぐらいは続けることにしたよ。今やめるにしても、切が悪いしね」
 応じながら靴を履き替えてすのこから降りた国木田は、傘立の中から手探りで一本、体の割に大き目な黒い傘を選び出す。
 同じく靴を履き替えようとした俺は、思わず手を止めた。
「……お前、傘変えたのか?」
「うん。まぁ、もらい物なんだけど。にしてもキョン、結構目敏いんだね。普通他人の傘なんてそんなに気を払わないのに」
 別に目敏くはないさ。その傘と似た傘を、俺も前に使った覚えがあるってだけの話だ。
「これ、こないだ球場にジャージ取りに行った時さ、変な女の子にもらったんだよ。もらったっていうか、握らされたっていうか、いつの間にか受け取ってたっていうか、そんな感じなんだけど」
 変って、具体的にはどんな風に変だったんだよ。
「それが、自分でもよくわかんないんだよね。その女の子、結構インパクトの強い外見をしてたような気がして、だから変だって思ったんだけど、でも具体的にどんな外見だったのかよく思い出せないんだ」
 俺は追及しようかどうかわずかに迷ったが、やはりやめておいた。
 あんなにボロボロだった傘を直したのが誰だったかなんて、至極どうでもいいことだ。大方どっかの暇な宇宙人辺りが、気まぐれを起こしたってだけの話だろう。
 ただ、国木田でなく俺に渡してくれていれば、家の高級傘を弁償代わりとして来客口に寄付する必要も無かったのに。どうしてあの類の連中は気が利かないんだろうな。
「キョン、どうする? たまには一緒に帰る?」
 国木田の背後。偶然だろう、校舎から雨を切り取る玄関の前で、ペンキで塗り固めたように濃いホワイトの傘を開く、水鳥にも似た優雅な後姿を見つけて、俺は首を横に振った。
「いや、俺はもうしばらく皆を待つよ。じゃあな、国木田」
「うん。じゃあ、また明日」
 黒い傘が、見る見る遠ざかっていく。
 先を行っていた白い傘とゆっくり差を詰めていき、並ぶか並ばないかの所で、俺を呼ぶ声がした。
「あんた、先に帰ったんじゃなかったの?」
 少し気を取られている間に、二人の姿はもう雨の向こうに消えてしまっていた。残されたのはモノクロの海に沈んだ、雨に煙る灰色の風景だけだ。
 二つの傘は、ただすれ違うだけなのか、それともどちらかが足を止めるのか。
 ほんの数十メートル先の情景すら、俺にはきっとずっとわからないままなのだろう。
「ちょっと、何シカトしてんのよ」
「してねえよ。見ての通り大雨でな。傘を忘れたのに気付いて困ってるところだ」
 ハルヒは「あ、そ」とブラジルの天気予報でも教えられたかのように興味の欠片も残さず俺の横を通り過ぎると、洒落っ気の無いビニール傘を差して、さくさくと歩きはじめる。
 興味が無いのなら聞くなと言ってやりたいね。
 ため息をつきながら、ふと、湿った廊下に消えないまま残っている国木田の足跡に目を落とし、以前自作した諺のことを思い出した。
 ハルヒはいつかそれを病気の一種だと喩えたが、なるほど言いえて妙かもしれない。唐突で曖昧でわけがわからず、第三者どころか当人にしてもそれと気付かない場合だってある。
 特に今日みたいな暗くてジメジメしてる時は要注意。
 気は滅入るし、廊下だってよく滑るしな。
「こら、何ぼさっと突っ立ってんの。置いてくわよ」
 俺はせいぜい妙な病気にかからないようシャツのボタンをきちんと閉めると、家に忘れてきたはずの折り畳み傘のせいで無駄に重たい鞄を片手に、雨の中に向かってゆっくりと歩きはじめた。