歳月が流れるのは早いもので、いよいよやってきてしまった日曜日だ。
 天気はまさにピーカンと叫びたくなるほどの晴れ晴れとした青空で、阪中家の飼い犬を髣髴とさせる白くて浮ついた雲が産卵期のメダカの群みたいに漂っている。
 朝も早くからジャージ姿で市営グラウンドに集合したメンツは、SOS団の五人と、谷口と国木田の二人。そして毎度御馴染みの、
「よーっし、頑張っぞーっ! 目指せ三冠王だっ! 打って投げて……もっかい打つ!」
 ハルヒに次いで元気大爆走なジャージ姿の眩しい鶴屋さんと、
「あ、みくるちゃん、見て見てこのジャージ! お母さんに買ってもらったんだよー」
 いい加減見飽きた感のある俺の妹。明るいピンク色のジャージに身を包んでいる。ガキっぽくてよく似合ってるじゃないか。
 そしてさらに、その見事な直線を描く胸に抱かれているのは、
「にゃごる」
 シャミセンである。何で連れて来たんだよお前は。銀河鉄道にも乗れなそうな猫だぞ。バットなんか持てやしないだろ。勿論グローブも以下同文だ。
「シャミはね、十番目のナインなの。すっごく上手なんだよ。こないだ石鹸でバスケットボールしてたもん。ねー、シャミー?」
 そりゃ凄いな。でも、野球にドリブルテクニックは必要ないんだぞ。
「いいじゃないのキョン。ベンチに猫なんて、何か縁起が良さそうだし。シャミセン、あんた小判持ってないの?」
「にゃぐ」
 おい、あんまりヒゲを引っ張ってやるな。機嫌が悪くなるんだよ。
「意外とデリケートなのね、あんたって」
 ハルヒはシャミセンの頬を指で弾くと、
「ところで」
 そのまま上半身をぐるんと一捻りし、芋ほり遠足かよと突っ込まれそうなジャージ集団の中にいつの間にやら佇んでいた喜緑さんを目ん玉に収め、
「なんであなたがここにいるの? ……まさか、あのメガネ野郎の差し金! スパイガール!」
 もちろんスパイガールなどではなく、国木田の緩んだ口元から察するに、喜緑さんは快くお誘いに乗ってくれたのだろう。相変わらず、長門とは目を合わせようともしないが。
 俺は一人で会長陰謀論を唱えだした妄想大好き女子高生の手首を素早く捕まえ、即席チームメイトとなった八人からキャリーバッグを運ぶようにして引き離す。車輪が無いせいで重いったらない。
「ちょっと、何すんのよいきなり」
 数歩分離れた所で、思い出したように腕を振り解かれる。お前がいつも俺にしてる事だろうが。
 殺意さえ感じてしまいそうな程筆舌に尽くし難いハルヒの視線を気にも留めず、もう慣れたからな、曲芸師のような軽やかさで俺は言う。
「ときにだ、ハルヒよ。野球に必要なものは何か知ってるか」
 ハルヒは靴下を耳にはめる奇人に遭遇したかのような顔を一瞬見せたが、気を取り直したのか不機嫌面に戻ると、
「バットとグローブと根性よ。決まってるじゃない」 
 大事なものが色々と足りない気がするが、まあそれはいい。俺はやれやれとばかりに額に手をやり、
「甘いなハルヒ。お前は野球のことを原形質ほども理解していない」
「はあ?」
「いいか、俺たちの野球には、決定的に欠けているものがある。それは」
 何言ってんのかしらこのタコ、って感じの表情を浮かべるハルヒの後方、はじめからそにあったのではないかと疑ってしまうほど周囲の風景に自然と溶け込んでいる喜緑さんを指差して、
「マネージャー、もしくはそれに準じて違和感の無い人材だ」
 見ろよあの純朴で清楚な感じ。ヤカンでも持って立ってたら、そりゃもう校庭のマドンナとして汗臭い連中の完璧なマネージメントをしてくれそうじゃないか。
「…………」
 これはハルヒ。ノーリアクションである。あれ? おかしいな。こいつのことだから、
『なるほど、あんたにしては気が利いてるわ。たしかにマネージャーは必要よね』
 なんて言いつつ納得すると思っていたのに。いつもの嫌になるぐらいインフレ気味なテンションはどうしちまったんだ。
 それどころか、ハルヒは一瞬で目の形を杭の底のような鈍角三角形に整形すると、
「あんた、ひょっとしてああいうのがいいわけ?」
 見当違いなことを言い出す始末。いや、俺はどうせ年上なら朝比奈さんの方がよりアバンギャルドにトキメキを、
「うっさいバカ。長口上はいいのよ」
 フリーズドライされた声色。花の保存には適しているかもしれないが、言い草としてはあんまりだ。自分が振ってきたくせに。
 俺は心なしか殺意五十パーセントアップな視線に晒されて流石にたじろぎつつ、
「そういうんじゃねえよ。前にたまたま会った時に野球のこと話したんだ。そしたら観に行きたいって言うからさ、別にいいだろ? ベンチも客席も大して変わらないし」
 最近、出任せばかりが上手くなってる気がする。周りが秘密主義の奴らばっかりなせいに違いないね。
「……ふうん。ま、追い返すわけにもいかないしね。どうせだから、たっぷりとマネージメントしてもらおうじゃないの」 
 待て、何だその表情は。口元は笑ってる癖に目が三角のままじゃないか。もうちょっと丸めなさい。
「あんたがマネージャーって言ったんでしょうが。さしあたってコスチュームチェンジしてもらわないとね。本当はあたしが着るつもりだったんだけど、譲るわ。ジャージの方が締まって動けるから」
 ハルヒはそう宣言すると、受付に向かい歩き出す。
 野球とコスチュームという二つの概念から止揚されうるものなんて、俺の頭には一つしかなかった。それが少し悲しい。
「お前、またあの衣装持ってきたのか」
「たまには袖を通さないと生地が老けるでしょ。それに、そっちの方が気合も入るみたいだし」
 ハルヒは振り返らなかったが、おそらくアヒルみたいな口をして言ったのだろう。
「あんたみたいなマヌケは特に」
 俺はマヌケ面のまま、慣れないお節介なんて焼くとろくな事がない、と早くも後悔していた。


 


 今回の対戦相手は、幸か不幸か上ヶ原パイレーツではなく、中年のおっさん達がボルボックスのようにひしめき合ってできた即席チームだった。
 聞く所によると全員が近所の商店街の店主らしく、かつて白球を追いかけた者同士がセンチメンタリズムを介して繋がり合い、今回出場に至ったという。わざわざ発注したと思しき真新しいユニフォームからはみ出し気味の腹はこちらの油断を誘うが、全員が野球経験者であるという事実を鑑みるに、弱小というわけではないはずだ。
 しかし、和やかな練習の様子を見ていると、勝ちに来たというより楽しみに来たって感じで、去年みたいに大人気の欠片も無い大学生よりは都合のいい相手だと言えるだろう。
「さあみくるちゃん! それと生徒会の人も! 今まさに戦へ赴かんとする猛者どもの士気を高めるの! あたしが昨日わざわざ作り直した頑丈ボンボンなんだから、心配しないで振って振って振りまくりなさい!」
「ひええぇ〜、振ります、ちゃんと振りますからぁ〜! そ、そんなに揺らさないでくださ〜いっ」
「みなさん、頑張ってくださいね」
 十人と一匹しかいないくせにチアガールを二人も擁したうちのチームが相手からどう見えるかってのは、このさい考えない方が良さそうだ。人間万事知らぬが仏。
 さて、それで肝心の試合内容なのだが、結論から言ってしまえばごくごく普通の健全な草野球だった。
 打順とポジションは面倒くさいからというハルヒの超個人的な理由により前回と同じままで決定し、両チーム整列の後にスポーツマンらしく短い挨拶を交わして試合開始。ジャンケンで負けた俺達は後攻だ。
 はじめはハルヒの女子高生らしい細腕とはとても結びつかない球速にビビっていた相手チームも、バカ正直なストレートしか投げることができないと見抜くや否や、バカスカ打ちはじめやがった。下手に球威があるもんだから飛距離が伸びる打球もまま有り、俺と谷口は色んな体液を撒き散らしながら、得点板に致命的な数が描かれないよう、音楽室の防音壁のように穴だらけの外野に走りこみ続けた。
 何とかかんとかアウトをもぎ取り一転して攻撃となると、こちらも負けてはいない。
 長門には事前にやりすぎないよう注意しておいたおかげでぶっちぎりホームランは遠慮しているらしかったが、それでも打率十割のヒット製造機と化し、ハルヒ、古泉、さらに鶴屋さんも安定したバッティングを披露している。
 相手ピッチャーも朝比奈さんや妹に投げる時はまるで愛娘に接すように柔い球を放ってくれて、それでもまったく打てないわけだが、少なくとも怯えたリスのような表情を朝比奈さんが浮かべる事は無かった。
 俺と谷口の体内における水分量の著しい減退を除けば、試合は一進一退。
 神風のごとき幸運に加えて猛練習の成果もあったのだろうが、長門の魔法に頼ることもなく、去年に比べれば風のない湖面のごとく穏やかに進行していたのだ。
 やっぱり草野球ってのはこうでなくちゃいけない。去年のようなどこもかしこも凍った水面みたいにギスギスした試合なんて、それこそテレビの中でやってくれれば十分だ。
 というわけなので、以下、あんまり普通じゃなかった所だけダイジェストでお送りする。



 ハルヒはまだ投げ勝っていたのだが、守備の連携が十分に整っておらず先制点を許してしまい、1−0で迎えた一回裏。
 三塁上ではしょっぱなから気持ちのいいスリーベースを放った背番号一番ハルヒがふんぞり返っており、打席では朝比奈さんが落ち着かない様子で子ウサギのように小刻みに震えている。
「みくるちゃーん! 絶対当てるのよ! 当てるにはいつもより早く振るの! 早く振らなきゃ当たらないんだから、早めに振りなさい!」
 三段論法で真理を証明しようとするハルヒの声に背中を押され、おっかなびっくりバットを肩の位置まで上げる朝比奈さん。
「よ、よろしく、おねがいしまぁすっ」
 丁寧な挨拶に笑顔で頷いた三十代後半であろう小太りのピッチャーは、下投げでゆーっくりとした球を放る。綺麗な弧を描き朝比奈さんの下へと舞い降りる白球。目さえ開けていれば確実に打てそうな球なのだが、
「は、はわああぁ〜っ」
 目を頑なに瞑っていた朝比奈さんはバットを思いっきり空振った末に、自分の方がくるくると振り回され、地面に尻餅をついてしまいそうになる。あわやパンチラ! 
 夢と希望の名の下に思わずしゃがみこんでしまった俺と谷口の視界に入ったのは、清純な白でも大胆な黒でもなく、回転しながら高速で飛来する土色の三塁ベースだった。
 いかん。俺は咄嗟に地に伏せる。
「へぶっ!」
 ベースはそのまま谷口の頭にぶちあたり、
「うわぁっ」
 たまたま隣にいた国木田の体に落下。
「こらー! パンツなんかその気になればいつでも見れるでしょうが! 今この時ぐらいは試合に集中しなさい!」
 並外れた反射速度でベンチに走り込みながら投擲したらしい。息を上げたハルヒが叩き起こされた猪のように突貫してくる。にしてもさすがピッチャー兼強打者。驚くべき豪腕とコントロールだ。
 どうすればいいのかと固まっている相手チームとアウトを宣告するタイミングを逸したらしい塁審を意に介さず、ハルヒはベースを拾い上げてのっしのっしと三塁に戻っていく。
 というか、あいつ思ってた以上に真剣だな。こりゃ負けたらやばいかもしれん。
「うっわ……キョンが避けたせいで泥だらけだよ」
 それは俺のせいではなくて多分パンツのせいである。



 二回表。朝比奈さんの後に控えていた長門のヒットで一点を返したため、現在1−1。
 三塁側にゴロ気味で跳ねた打球を、鶴屋さんが素早く追いかける。
「よっしゃっ! もらったっ!」
 さすがに器用な鶴屋さん。上手くグローブが球を掬い上げた、と思いきや、
「にゃおん」
「あれ? わ、ま、待つにょろ〜!」
 飛び出してきたシャミセンが滅多に見せない野性を発揮し、玉ころがしの要領でボールを追いかけやがった結果、相手チームにもう一点献上。
 数分後、球場には妹により捕獲されハルヒの手で丁重にリュックに詰め込まれるシャミセンの姿が。
 十番目のナイン、退場の瞬間であった。



 さらにその裏。古泉が右中間に抜けるヒットを放ち一塁に出て、続く国木田は三振。次打席の鶴屋さんがバントを上手く転がして古泉を走らせる。
 ツーアウト二塁。一番のハルヒに繋げるため、何としてもヒット性の当たりが欲しい所なのだが、
「チアガール……いいじゃないか」
 続く打者であるはずの谷口は、ベンチ前でウェルテルの如き苦悩の表情を浮かべつつ、遠い目のまま見えない誰かに話しかけていた。おっかない。
「なあ、キョン。友人の想い人を盗るのって、アリだと思うか?」
 んなもん盗る暇があったら塁の一つでも盗ってくれ。
「……すまん国木田。俺、あの子のハートにホームスチールをかけてくる!」
 ナイスセンターフライだった。
 ブーイングも何のその。一皮剥けた男の顔でベンチに戻ってきた谷口は、
「いやー、やっぱり友達は裏切れないじゃん?」
 結果的に友情の勝利である。



 続いて四回表、4−2で、ツーアウト二塁一塁の場面。
 バッターはいかにも強肩といった風体のオッサンで、バットの芯から僅かにずれた打球がレフトに飛び、あわやホームランかというぐらい高く伸びる。妹はそれを見て、
「うわー、たかーい」
 本気で感心していた。まるで花火気分だ。谷口が全力疾走し、何とかキャッチ。走らされすぎて倒れこむ谷口を横目に、俺は妹の頭をはたいた。もうちょっと頑張りなさい。
「きゃは、ごめんなさーい」
 ノーダメージである。



 五回裏。ノーアウトのまま俺の三打席目が回ってきた。
 四回裏に鶴屋さんが活躍して下さったおかげで4−4のスコアまで追いついており、今も二塁には長門の姿がある。逆転するチャンスだ。
 ちなみに、俺の今までの成績は二打席ノーヒット。一打席目は緩いピッチャー返しをあっさりと処理され、二打席目は三振だった。 
 ピッチャーはどうやら変化球、下に抜けたのでフォークか? とにかくそれを持ち合わせているらしい。そこまで切れがいいわけでもないし直球も大して速くないのだが、素人の俺からしてみたらやはり厳しかった。
 前打席の三振も散々揺さぶられた末の空振りだ。
 しかし、今は流れを変える重要な場面。いい勝負なだけに、かかるプレッシャーも超重量級である。
「キョン! 火星までぶちかますのよ! NASAには事後承諾でいいからね! 打てなかったらローラーで轢くからそのつもりで!」
 特に約一名が応援紛いの脅迫をくれるせいで、その重さはねずみ算的に増す一方だった。背ローラーの陣。
 俺は一度素振りして気を落ち着けたあと、白線で縁取られたバッターボックスに入る。
 さあ、俺のピタゴラスもビックリな明晰頭脳よ、今こそ目を覚ますときだ。
 球筋を読め。あのヘラクレスも嘔吐するような猛練習を思い出すんだ。相手の肩部筋肉の動きやその他のあらゆる癖から次の球種を判断し適切なバッティングを、
「ットラーイク! バッターアウト!」
「ばかキョーーン!!」
 ぶっちゃけ無理である。 





 五番の妹が三振に終わった頃、試合の残り時間はあと五分を切ろうとしていた。
 一試合目には九十分の時間制限が課せられている。途中でシャミセンを追い回したりしなきゃもう少し余裕があったのかもしれないが、今更猫科の習性に文句をつけたところで始まるまい。
 古泉が打席に立ち、バッターズサークルでは国木田が待機の姿勢に入る。
 俺は一通りハルヒに罵声を浴びせられたあと、隅のベンチで深い森のような静けさをたたえつつ試合を見守る喜緑さんの隣に腰を下ろし、何とはなしに尋ねた。
「見てるだけで退屈じゃなかったですか?」
「いえ。とても興味深く観戦させてもらっています」
 タオルで瞼の汗を拭ってから試合に目をやると、古泉がまだファールで粘っている。
 せっかく隣に座ったんだし、俺ももうちょっと粘って喜緑さんと話してみるべきなのかもしれないが、これ以上は話題が続きそうにない。どうせつまらない男さ。
 ポップかつティーンでメンズっぽい自虐を弄しながら、タオルの陰から喜緑さんの方をちらと窺ってみても、頑ななまでの微笑からは何も読み取ることはできなかった。
 長門と対する時のように瞳の動きだけで真意を察するなんて真似はもちろん不可能だ。
 だから、喜緑さんが何を考えて今ここにいようが俺には全然関係無いし、たまに視線を寄越してくる国木田のことをどんな風に捉えているのかなんてのも、知ったことではない。
「今日、来てもらえて良かったですよ。人が増えたお陰で、みんな去年より騒ぎやすかったと思います」
 俺はただ、二人のチアリーダーを並べてサイケデリックな動きを指南していたハルヒの姿を思い浮かべながら、苦笑交じりに礼を述べる。
 すると喜緑さんはこちらを向くなり、牡丹のように座ったままで軽く会釈を返してくれた。雅なり花鳥風月と女子高生。国木田が惚れ込むのもよくわかるね。
 見惚れているうちに、やにわに快音が響き渡り、グラウンドでは人が慌しく動いていた。どうやら古泉がヒットを打ったらしい。
 これで一塁三塁になって、試合を勝ちで終わらせる最後のチャンスがやって来た。しかもバッターは国木田。今日いいところ無しだったあいつがカッコいい姿を見せるチャンスでもある。
 ただ難を言うと、ノーヒットの俺が言うのもなんだが、あいつはそこまで野球が上手いわけではない。あんまり期待をかけてやらない方がいいのかもしれん。
 同点のままで終わってもまだジャンケンがあるはずだし、必要以上のプレッシャーを感じたりはしていないだろうが……ま、何はともあれ応援しないと。
 俺はベンチから立ち上がろうとして、
「付き合ってほしいと言われました」
 中腰のままロダンの作品のごとく静止するのを余儀なくされた。
 チームメイトが一際大きな声援をあげる。国木田がバッターボックスに入ったらしい。俺は騒音のせいで突飛な聞き間違えを犯したのかと思い、
「あの、今何か言いました?」
「はい。先ほど付き合って欲しいと言われました。彼に」
 チアガール姿で微笑む喜緑さんの視線の先には、バットを構える国木田の姿がある。
「つ、付き合ってって、あいつからですか?」
「ええ。次の打席でヒットを打てたら、明日の放課後付き合って欲しいと」
「……そっちですか」
 肩透かしを食らったせいで項垂れた俺は、だが喜緑さんに気取られないよう、わずかに首を捻った。
 いくら浮ついてるからって、あいつがそんな漫画の読みすぎで青春を曲解したような台詞を吐くものなのだろうか。
 らしくないと言うか、まあそう言ってしまえば最近のあいつはずっとらしくないのだが、今一つ納得し難い部分がある。
 そもそも先も述べたとおり国木田の野球センスは決して磨かれているとは言えず、都合よくヒットを打てるなんて本人も思っているわけ無いのに、と、疑念が最後まで形になる前に、バットが硬球を捉える音が鳴り響いた。
「マジかよ!?」
 湧き上がるベンチから一歩遅れて身を乗り出すと、放たれた打球は前に出ていた外野の裏をかくように鋭く飛びすさり、フェンス間際でようやくバウンドする。
 相手チームがボールを追っている間に長門は早歩きでホームベースを通過した。
 逆転のタイムリーヒット。
 呆然とする俺の隣で、喜緑さんはギリシャ彫刻のような微笑みを欠片も崩そうとはしない。





 すぐさまタイムアップが宣言され、国木田の凱旋のあとでひとしきり甘美な勝利に酔った俺たちだったのだが、次の試合ができるほどの体力なんて微塵も残っちゃいない事にも誰とも無しに気付いていた。
 そのため俺は皆を代表してハルヒに二回戦の辞退を進言し、初めぐずっていたハルヒも俺の妹が空腹を訴えはじめる段になるや、
「そんじゃ、昼ごはん食べにいきましょうか!」
 ということで、去年と同じファミレスを利用することと相成った。
 それこそ去年の焼き回しのような展開なのだが、一つだけ違うのは、今回俺の財布に何らかの札の類、いやさ硬貨すらも入金されず、要するに出費を喜んで受け入れられるほどのキャパなんて皆無だということだ。
「さあみんな、じゃんじゃん頼んでいいわよ! 今日はうちのキョンがご馳走してあげるから!」
「おい待てこら。どうしてそうなるんだ」
 隣で暢気な鼻歌を奏でつつメニューを手に取るハルヒに、俺はしごく真っ当な疑問をぶつける。今モノローグで金無いって言ったばっかりだぞ。
「ヒットも打てないようなへたれの声なんてあたしの耳には聞こえないわ」
 何だよ、谷口だってノーヒットだったじゃないか。どうして俺ばかり親戚がやたらと多い旧家の正月みたいにお年玉的な費用を、しかも大半が同級生であるこの場で納めなければならないんだ。疑問は尽きない。
「あんたは仮にもSOS団の正式メンバーでしょうが。不甲斐ない団員を持ってしまった団長の無念に満ちた心中ぐらい察しなさい」
 邪魔な雑草でも間引くかのようにすげなく返したハルヒは、『今月のスペシャルハンバーグ』と題されたラミ入り一枚紙のメニューを眺める長門に向かって、
「有希、何でも好きなやつ頼んでいいわよ。そうね、これなんてどう? ファミレスのくせにえらく高い価格設定が食欲をそそるわ」
 こいつ、四番である俺が活躍しなかったのを根に持ってやがる。どうせ十人分なんて絶対払えないし、何とか誤魔化して割り勘にさせる術を考えないと。
 料理を選ぶ前に金策を講じなくてはならない俺の内心を正に嘲笑うように、背後からは楽しげな笑い声が聞こえてくる。
 さすがに十人で一テーブルは狭すぎたため、SOS団以外のメンバーは後ろのテーブルに固まってもらっている。国木田と喜緑さんもそっちの方で向かい合わせに座っているはずだ。
「いい? あんたは普段ボケっとしてるくせに、バッティングとなるとせっかち過ぎるの。一回で打てなくてもいいから、投球をじっくりと見て、打てる球を見極めるなりタイミングを覚えるなりしなさい。そうすりゃ猛打賞ぐらい軽いわよ」
 俺はハルヒが繰り広げる野球論に耳を傾けるフリをしながら、背後の二人の会話を聞き取ろうとしていた。
 考えてみれば、俺は生徒会の手伝いをした日以降、二人が会話しているところを見たことが無かったのだ。よからぬ好奇心を抱くのも無理からぬことさ。
 しかし、聞こえてくるのは妹のはしゃぎ声や鶴屋さんの大爆笑や谷口のどうでもいい話ばかり。国木田も相槌を打ったり話題を振ったりはしているものの、喜緑さんと直接言葉を交わす様子は無い。気になって背後を窺ってみても、国木田の後頭部越しに見える喜緑さんの表情はさっきと何ら変わりないように見える。決定事項となった明日のお付き合いについて、思う所は無いのだろうか。
 ま、そうそう隙を見せるような人ではなさそうだしな。心臓の辺りがわかりやすく光ったりも勿論しない。
 夜明けの海でイカの一匹も釣れなかった漁師みたくすごすごと引き下がろうとした俺は、しかし後ろのテーブル全体を視野に入れる段になって、はたと思い至った、というより、思い出した。
 そう言えば、試合中の俺は何か気にしていた事が有ったはずだ。あれは……何だったっけ? 覚えたと思った英単語が次のページに移るとすぐに零れるように、今の俺はそれを忘れてしまっている。
 もう一度、今度はじっくりと後ろのテーブルを確認する。
 小さな引っ掛かりを逃がさないように、しきり板から浮いた全員の姿を順に探り、そしてもう一度国木田に、一人だけ妙に浮いた肩の色によく目をやると、ようやくそれに気がついた。
「おい、国木田」
「うわっ、ビックリしたー。何だよキョン、人の頭の後ろから」
「お前、ジャージはどうしたんだ」
 俺のせい、ではなく罪作りなパンツのせいで泥まみれになったってやつ。あれがさっきから見当たらない。他の連中は全員ジャージを着ているのに、国木田だけが夏に取り残されたかのように白かった。
「は? ジャージ?…………あ」
 この様子だと、忘れてきてしまったらしいな。こいつは最近色々と熱を上げすぎだ。そりゃメモリだって振り切れる。
「どうすんだよ。ここを出てから取りに戻るか?」
 ここからグラウンドまではそう遠い距離じゃないし、普通ならそうするだろう。どうしてもって言うんならそのまま俺が引き取ってクリーニングしてやってもいいけど。
 しかし国木田は、なぜか考え込むような間を置いてから、
「いや、今日はいいよ。今度自分で取りに行くからさ」
 そうか? せっかく近くにいるんだから、今日のうちに取りに行った方が良いのに。
「いいって。でも迂闊だったなー。全然気付かなかったよ」
 まったくだ。今の今まで気付かなかった他の奴らもだし、うっかり忘れていた俺も俺だが。
「そうですね」
 自分の記憶力に呆れていると、思わぬ人から声がかかった。
「私も、今あなたから指摘されるまで気付きませんでした。ずっと正面にいたのに、どうしてでしょう。不思議ですね」
 いきなり会話に参加してきた喜緑さんに笑いかけられ、国木田は苦笑いで体操着を引っ張っている。
「こらキョン! あんたちゃんと他人の話を聞きなさい! 誰のために必勝打法について語ってあげてると思ってんのよ!」
「いってえ! 耳を引っ張るなよ耳を!」
 耳朶を万力じみた握力で引っ張られながら、涙の染みた視界にもう一度喜緑さんを映したのだが、柔らかな笑顔に揺らぎは無い。誰も今の言葉に疑問を持っていないようで、話は谷口の失敗談へと転がっていってしまった。
 正面の長門は、気がかりなど欠片も無いといった無表情で黙々と豪勢なハンバーグを口に運び続けている。
 だけど俺の頭の中では、ハルヒのトンチキな打法を無理矢理伝授させられている間も、何も燃えていないのに煙だけが撒かれているような妙な違和感が燻っていて、なかなか消えようとしなかった。