月曜日になると、外はまたしても雨だった。ショートの髪が風呂上りに水滴を散すようなささやかなものだったが、やっぱり俺が危惧していた通り、梅雨に逆戻りしたみたいだ。
 野球地獄も終わったことだし、夏男である俺は爽やかな陽射しを何一つ憂うことなく浴びられるだろうと期待で胸躍らせていたのだが、あえなく空振りだな。
 昨日散々暴れまくったお陰で餓鬼のように尽きぬ騒動欲求を少しは満足させたのか、俺とは対照的にご機嫌な感じで教室の桟をくぐったハルヒは、湿った腕を柄にも無く可愛らしいタオルで拭いながら席に座ると、
「あたしさ、このサーっていう音を聞いてるとメチャよく眠れるのよね」
 というどうでもいい個人情報を開示するなり、一時間目から大爆睡。
 教師の視線もお構い無しの大物っぷりに却って感心してしまいながらも、こいつ内申とか大丈夫なのか、なんて至極どうでもいい心配を持て余す俺を乗せて、いつになく静かに時間は過ぎていった。
 前方で真面目にノートを取っているらしき国木田に目をやると、赤ペンでラインを引く手先も浮ついているように見える。
 先の休み時間、正体の掴めない違和感も手伝って、俺は本日執り行われる予定の『お付き合い』とやらに関して国木田に真偽のほどを尋ねたのだが、
「えぇ?」
 何でそれを知ってるんだ、とでも言いた気に固まった国木田は、妙な早口で取り繕うように、
「いや、今日は仕事も無いからね。先週のうちに一段落したんだ。しばらくは学校行事も無いし、これからは今までより暇になるみたいだよ。だから、ほら、折角だしさ」
 努めて飄々を装った顔に、それ以上突っ込むことはできなかった。声が普段と比べて弦を張り直したように弾んでいるのは確かだったし、俺自身、何を聞き出そうとしていたのかよくわかっていなかったからだ。
 さすがに気を回しすぎなのだろう。後ろの寝息に耳をそばだてながら考える。ただでさえ今回はいらんお節介を焼きすぎた。俺に間を取り持ってくれと頼んできたのはもう過去の事で、そろそろ逆にウザがられる頃合と見える。
 やれやれ、まるで思春期の子供を持つ父親のような心境だ。お払い箱になる時は間近。昔から見知った仲としては置いていかれたような気がするし。
 俺だっていい加減、それらしいデートの一つでもできるチャンスが来たっていいんじゃないか。朝比奈さんとかに誘われてさ。ジェットコースターばりの超常現象ラッシュじゃなく、今日みたいに静かな一日が連綿と続いて、その中で一喜一憂できる教科書通りの青春を、一度ぐらいは経験しておきたいもんだよ。
「ぅ、んー……ちゃんとキャッチしなさいっての……」
 と思ってはみたものの、夢の中でも好き勝手に千本ノックをかましてくれる労働基準法ガン無視女との縁を切らない限り、それは無理な相談か。
 俺は一つ欠伸をして、教科書を立てて教師の視線をブロックしつつ、退屈な授業から逃れるために目を閉じた。
 わかっていてもやめられない事なんて、誰にでも山ほどあるんだぜ。身に覚えあるだろ?





 放課後。部室に行くと、古泉は親戚絡みの所用があるとかで(実際は橘京子の件だろう)早退していたため、俺は朝比奈さんとテーブルゲームに興じることにした。
 相手が相手だけに俺のテンションは普段より上がり気味で、途中で首を突っ込んできたハルヒも加えて騒々しく遊んでいると、あっという間に時間が過ぎる。
 区切りのいいところで飲み物を買ってくるとだけ言い残し、後を追って聞こえてきた「あたしオレンジ!」という声はマタドールのようにスルーして、俺は部室を離れて学食の傍にある自販機へと向かった。
 その途中、
「あ、丁度良かった」
 階段の踊り場でばったりと顔を合わせた阪中他見知らぬ女子一名は、俺を指差して言った。
「よう、おつかれさん。ハルヒならまだ部室にいるけど」
「違う違う。今あなたを呼びに行こうと思ってたのね。だから、丁度良かったの」
「俺?」
 ハルヒじゃなく俺になんて、珍しいな。阪中の隣にいる女子は多分コーラス部の後輩なのだろう。大して興味も無さそうに、俺たちの会話を黙って聞いている。
「うん。あたし達さっき買出しから戻ってきたんだけど、下駄箱で声をかけられてね。あなたを呼んできて欲しいって言われたの。裏門の所で待ってるからって。私服姿の女の子だった」
 私服姿の女の子、って誰だよ。こんな雨の中わざわざ俺を訪ねてくるような若い女性の知り合いが、しかも学外にいたか? 考えられる可能性は妹ぐらいのもんだが、そうにしても理由が見当たらない。
「妹さんって小学生だったよね? その人、あたし達と同じぐらいだったの。それにあなたの友達だって言ってたしね」
「名前とか聞かなかったのか?」
「ちゃんと聞いといたよ。名前はね、えっと、あの、あれなのね…………何ていってたっけ?」
 急に水を向けられた後輩は、阪中の耳元で何かを囁く。先輩を一々介さんでも、自分で言ってくれればいいんじゃなかろうか。くすぐったそうにしていた阪中はテントウムシでも捕まえるように両手をぽんと合わせると、
「あ、そうそう。佐々木さんね。うん、佐々木さんっていう人だった。すごく可愛い人」
 佐々木だって?
「本当にそう言ってたのか?」
「うん、間違いないよ。この子もそうだって言ってるしね」
 阪中と後輩はしきりに頷いている。聞き間違いの線は薄いな。
 しかし、だとしたら佐々木がどうして、こんな急勾配の坂の上なんかにある北校にまで来るんだ。普通なら塾に通ってる時間のはずだよな。一体俺に何の用なんだろう。
 これまで道端でばったり会ったり、そうでなくとも事前に連絡が来ていたんだが、よほど急を要する事態でも、それこそ考えるのも嫌になるような事態が発現したのだろうか。
 あいつもハルヒ同様にてんで普通じゃない性質らしいし、それを証明するかのように周りには妙な連中がジュガービーンズを発見したアリのように集まってる。可能性が無いわけじゃあるまい。
 こないだ会った時にでも携帯の番号を交換しとけば良かった。気を使って奥手になるような仲でもないのに。
「あたし達はもう戻るけど、あんまり待たせない方がいいと思うのね。雨がひどくなってきたから」
「ああ、わかってる。わざわざありがとう」
 阪中に礼を述べ、急ぎで階段を下りていく俺の背中から、あれがSOS団の、とか、あの涼宮さんの、などと不穏な単語が漏れ聞こえてきた。
 レッテルで人を見るのは良くないとあの後輩に教えてやりたいところだが、その想いを振り切って一階に着くと、来客口に置きっぱなしにされていた黒い傘を拝借して、正面玄関よりずっとこじんまりとした裏口から外に出る。
 たしかに空模様は悪化していた。煙るように結び合う可愛げのない雨のせいで、ズボンの裾が早速色を変えていく。
 ぬかるんだ砂利道を踏みしめながら、装飾の欠片も無い寂寞とした裏門へ。視界が悪くはっきりとは見えないが、門柱の傍に傘を差した淡い人影が確認できる。
 低温の炎のような浅葱色の傘に、俺は声を掛けた。
「どうしたんだ佐々木、こんな所まで。何かあったのか?」
 答えの代わりに、静かな数秒を置いて佐々木は傘をずらし、口元だけを覗かせて可憐な笑みを向けてきた。
 俺は疑問に思う。
 こいつ、こんな顔する奴だったっけ。
 いや、というか、何かフェイスラインが微妙に、むしろ全体的に違和感が、そもそも全然別人のような……
「……ぁあ! お前!」
「はい、ストップ」
 顎のすぐ下。首筋に冷たいモノが押し当てられる。またナイフかよ。何かと縁がある凶器だな。
 引きつる頬に導かれるようにして、古泉の無駄に爽やかなアルカイックスマイルが脳裏を過ぎった。
 俺やハルヒには直接手を出してこないって言ってたくせに。これだから顔のいい奴は信用できないんだ。今度から防犯グッズを持ち歩くことにしよう。さらば蒙昧なる安全社会。
「ちょっとだけ、一緒に来てもらうからね」
 以前も強引な手段で朝比奈さんを掻っ攫っていった前科者、橘京子が悪戯っぽい笑顔のままで次の時間割を確認するかのようにしどけない口調で言うと、塀の影から男たちがわらわらと湧いて出てくる。
 俺の青春はむさくるしい。 





 あれよあれよと言う間に荷台部の中へ大量発注の冷凍食品みたく詰め込まれた俺を乗せたまま、小型の箱トラックは発進したらしい。
 バッテリー灯のおかげで暗闇に震えずにはすんでいたが、窓が無いせいで外の景色を楽しむことはできない。まったく、気が利かない奴らだ。
「で、佐々木の名前まで騙って、一体何の用だよ。俺の手足を封じないとできないような話なのか」
 両手足を麻縄で縛られている俺の前には、橘京子がいるだけだ。他の奴らは俺の梱包作業が終了するなり、どこへなりと消えてしまった。一対一の状況のお陰で、冷静なフリをする努力ぐらいは放棄せずに済んでいる。
 橘京子は下ろしていた髪を結いなおしながら、
「ごめんなさい。こんな事しといて何だけど、あなたに用は無かったりします」
 理由無き犯罪。行く当ての無いストレスの爆発だ。そんなもんに巻き込むな。
「用は無いけど理由はある、らしいわ。その辺はあたしにもよくわかりません。ただ、あなたがずっと学校にいるままだと、後々あなた自身が困るそうよ」
「意味がわからん。そもそもお前、自分でここまでやっといてよくわからないって、何のつもりだ。ひょっとして健忘症でも患ってたりするのか」
 それとナイフの切っ先を向けるのは是非ともやめろ。トラウマが発動して胃の辺りがきゅんとするから。顔色を信号機のように変える俺を見て、橘京子はくすくすと笑い、
「そんなに怒らないで。それにこれはニセモノよ。ほら」
 自分の手首に刃先を滑らせる。咄嗟に顔をしかめた俺をバカにするかのように、白い肌には傷一つつかない。悔しいような一安心なような。
「ね? まかり間違っても、あなたに傷をつけるわけないです。……あ、それと言っておくけど、この件に佐々木さんは無関係だからね。あたしの名前じゃ呼び出しに応じてくれないだろうから、苗字を使わせてもらっただけ」
 そりゃ当然だ。あいつがこんな非常識的な行動を容認するなんてことはまず無いだろう。
「たしかに非常識だけど、意味のある行動です。今日のため、結構前から準備に準備を重ねてたんだから」
 以前聞いた古泉の言葉が思い出される。
「お前らが何か企んでるって聞いたが、これのことなのか?」
「うーん、まあ、そうですね。その辺の事情を含めて、いま古泉さん達にも説明を行なっている最中です。あなたを攫った事に関しては結果的に事後承諾になってしまうけど、それはしょうがないわ。普通に頼んでも時間がかかりそうだし」
 小数点第三位じゃあるまいし、しょうがないで切り捨てられては堪らない。
「なら、その事情とやらを聞かせろ。それが十分納得いくものなら、反省文程度で許してやらんでもない」
 納得できないものなら、お前らにトンボ持たせて校庭の整備作業をやらせてやるからな。野球部に混じってやらされたが、結構きついぞあれ。
 しかし目の前の誘拐犯は怯えるでもなく腕時計に一旦目を落とすと、ペットショップの子犬を吟味するようなほがらかさで、
「ふふ、強気ね。でも説明する時間にはちょっと早すぎるのです。一度で済む事をわざわざ二度に分ける必要はありません」
「は? お前な、いい加減にせんといくら俺でっ……!」
 車が大きく揺れた。中央で寝そべっていた俺は頭をバウンドさせて底部に軽く打ちつけ、運転手側に寄りかかっていた橘京子は、不服そうに薄壁を叩く。
 どこ走ってんだよ一体。まさかUSAラリーに参加してるんじゃあるまいな。
「大丈夫? 怪我とかしなかった?」
「ちょっと打っただけだ。なんとも無い」
「そう。ごめんね、窮屈な思いさせて。そろそろだと思うから、もうちょっと我慢しててください」
 労わるような表情を浮かべる橘京子。何がしたいんだこいつは。人を強引に拐かしたかと思えばささいなことで心配したり、情緒不安定に陥っているとしか思えん。
 と、今度は金属をかきならすようなブレーキ音が鳴り響く。
 車体が上下に揺れ、俺の頭に再びの衝撃。そろそろってのは俺の歯痒さが今世紀最大のピークを迎えるまでの時間だったんだな。さすがにいつまでも黙って転がされているほどこっちだってお人よしじゃない。
 やがて完全に停止した車内で、待遇についての不満をボルケーノさせてやろうと身体を捩ると、橘京子の目は俺の頭を素通りして背後に向けられていた。
「来たみたい」
「だーかーら! 誰が来たんだよ! 迂遠なセンテンスでなく固有名詞をはっきり言え!」
「長門有希さんが」
「ながっ…………長門?」
 パキっと薄いプラスチックが割れるような音が鳴り、次いで扉口が開く気配がする。フライパンの上に落とされた芋虫のような挙動で振り返ると、雨に濡れて普段より小さく見える長門が、軽やかに荷台へと飛び乗ってくるところだった。
 いつもと同じく気配を感じさせない足取りで歩み寄ってきた長門は、突然のことで何も言えずに転がっている俺を手早く解放すると、いつもとあからさまに違う目の色で橘京子に向き直る。
「…………」
 どうやら凄く怒っているらしい。横で座り込んでいるだけの俺でさえ、ナイフを突きつけられていた時の方がまだ平和な心持だった。
「うん。やっぱり来てくれた」
 当の橘京子は笑顔のまま、道端で知人にばったり会った時のように暢気な相貌で頷いたりしている。
 かと思えば、わざとらしく咳払いをしたあとへなへなと座り込み、昨日旗揚げしたばかりの劇団の入門生も顔をしかめるぐらい作ってるのが見え見えの声色で、
「ああ、参りました。あなたが来たとなると、あたし達は手も足も出すことができず、思うままに嬲られるほかありません。この場を許していただくためには、どんなことでも白状いたします」
 身売りされた貧乏長屋の娘のように、よよよ、と泣き崩れる。
 いきなり何言い出すんだこいつ。いや、待てよ。この拡解釈的思考パターンはこないだテレビで観た誇大妄想の症状とまったく同じだ。 さっき冗談で情緒不安定などと不謹慎な発言をしたが、まさか、こいつが本当にその類の病に罹っていたなんて。
「あの、何ていったらいいのか……ごめんな。そういう事情があると知ってたら、怒鳴ったりしなかったんだけど」
「何勝手に勘違いして謝ってるの! 可哀想な人を見る目で見ないでください! 病気とかじゃないから! もう、あなたはちょっと黙ってて。ただでさえややっこしいんだから」
 できたてのツインテールをせわしなく揺らしていた橘京子は、赤らんだ顔を真剣な表情に切り替えて長門と対峙し、
「先に言っておきます。現在あなたのお仲間に手を出しているのは、九曜さんではありません。確かに彼女らの一部ではありますが、それらはあくまで自律的な部分による運動である、という旨を九曜さんから聞かされています」
 またしても意味不明な話をはじめる。
「ただ、彼女らの一部であるために、こっちから手出しができる状況でもありません。申し訳ないのですが、そちらの方で対処していただくしかないみたい」
 蚊帳の外の俺をちらりと一瞥して、
「彼を連れ出したのは、あなたとこうして話をする時間を作るためです。それだけってわけでもないみたいだけど、どちらにせよ必要な行為だったの。あ、もちろん危害なんて一切加えていないので、ご心配なく」
 過疎化が進んだ地方でお年寄りにすら存在を忘れ去られたお地蔵様のごとく黙って聞いていた俺は、そう言えば発言を控える必要は皆無だったと思い当たり、やっと口を挟む。
「待った。これのどの辺がご心配なくと言える状況だ。人を置いてけぼりにするのも大概にしてくれ。長門、どうなってんだこれは。こいつさっきから何の話をしてるんだよ」
 すると長門は、錆びない鉄のような声にフラットもシャープもつけず、
「天蓋領域の調査にあたっていたTFEIの一個体から、先ほどまで統合思念体に送られていた情報が突如として途絶えた。また同個体の通常空間からの消失も確認されている」
 言葉の意味を吟味するうちに、昼の隙間に落ちる影を固めた九曜の姿が脳裏に浮かぶ。あいつらがまたしても、ちょっかい出してきやがったってわけか。
 長門は一度瞬きをして、
「今の彼女の話も含め考慮すると、こちらの解析行動に対する彼らなりの反動的対応行動、とりわけ全体ではなく刺激に対応する部分の原意識的なリアクションとも考えられる」
 向かい合う橘京子は、俺に向かって頷きを返す。詳しい意味はわからないが、先の話からして九曜の仕業ではないと言いたいのだろうか。
「今の我々では彼らの思考連続性を解釈可能な概念の単位に分割するのは不可能である。個体の保護を目的として行動する他ない」
「保護? 消えたっていうお前らの仲間は、まだ……その、無事なのか?」
「存在が解体されたわけではない。あくまでこの空間からの消失」
 雪山の時、俺たちが豪華なトラップハウスに引きずり込まれたのと似たようなものなのか。
「おそらく。ただ、現状では彼女が捕らわれているであろう位相に繋がる空間が把握できていない」
 長門は今、彼女と言った。
 その代名詞の内に既知のニュアンスを嗅ぎとった俺は、背中を氷でなぞられるような感覚を覚える。外から入ってくる空気の冷たさが原因ではない、内からの低い熱だ。
「その消えたTFEIってのは、誰だ」
 長門は言った。
「喜緑江美里」
 やっぱりだ。悪い方のビンゴ。
「国木田は? 喜緑さんと一緒にいたはずだぞ。あいつはどうした」
「不明」
 となると、ますますまずい状況だ。こんな所で油を大安売りしている場合じゃない。開きっぱなしの扉口から、濡れて黒く光る緑が雨の奥に見える。どうやら人気の無い山道らしい。
 たしかに秘密の話をするにはうってつけだが、下りるのにも苦労しそうだ。
「長門、ここを出て、何とかその空間とやらを探そう。古泉たちにも連絡を取るぞ。あいつらなら、おかしな所にぶちあたればそれと気付けるかもしれない」
「その必要はありませんよ」
 構っていられないと睨みつけた俺の視線を、橘京子は聞き飽きたヒットチャートのように歯牙にも掛けず、
「だってあたしは、その場所が九曜さんの口から漏れるのをたまたま耳にしていたから」
 くすりと笑って、合図するかのように壁を叩く。停止していた車体がゆっくりと動き始めた。
「かくしてあなた達に乗っ取られたトラックは、目的地へと走り出すのです」





 もどかしくも車中で座り込んでいた俺は、橘京子に疑問をぶつけた。喜緑さんの居場所を教えるのに、どうしてこんなまどろっこしい方法を取る必要があったのか。普通に連絡をとってくればよかったんじゃないか。
「だって彼女たち……って言っても、この件で九曜さんの立ち位置は微妙だし、何ていえばいいのかな? まあとにかく、九曜さんを作り出した宇宙人さんと我々は、腐っても協力関係にあるんです」
 両手を合わせて一人で握手するようなジェスチャーを交えつつ、
「だからこれはあくまで、あなたに何とか取り入ろうと無茶な計画を、古泉さん達を呼び出したのも含めてね、それを実行したあたし達の失敗。その結果、図らずしもあちらの行動が漏れてしまった、と」
「……つまり、建前ってわけか」
 天蓋領域とやらには、そこまで人間的で煩雑なやり口が通用するのか? 俺の印象や長門の話と随分違うが。
「いいえ。九曜さん達相手にそんなのは意味がない。文字通り、意味が存在しないのです。下らないものにこだわっているのは向こうではなく、それこそ人間の方。どこもかしこも、一枚岩っていうわけにはいかないの」
 身内の恥を吐き出すように言った橘京子の顔は、事実、憂いに満ちていた。
 なるほどな。大方、要らん手出しをするなとごねる連中が同胞の中にもいたのだろう。どんな組織でも人が集まればコンプレックスを抱えてしまう。集団の性だ。
「あたしとしてはあなたの心証をこれ以上悪くしたくないし、古泉さん達にも有益な情報を提供していますから、良くすれば貸しも作れる。話し合いの場を持てること自体にも価値はあるしね。多少無理にでも動くべきだと判断しました」
 幼さの残る顔に、俺よりもずっと年上に見えてしまうぐらい真摯な色を浮かべた橘京子は、
「わかって欲しいのは、あたしや、多分九曜さんにとっても今回の件は思う所では無かったということ」
 お前が俺に悪印象を与えたくないっていうのはわかるけど、九曜に限ってはその真意など理解するべくもない。まだその辺に群生してるぺんぺん草の方が気持ちを読み取れそうなものだ。
「でも、あたし達に今回の件を教えてくれたのも九曜さんよ。しかも何日も前にね。まるでこうなる事がわかってたみたい。いえ、決まっていたという方が正しいのかな。あの未来人さんもだけど、どうもその辺はよくわかりませんね」
「ますます信用し難い。今こうしている状況も含めて、全てあいつらの手の内で踊らされてるって話かもしれないじゃないか」
「違うわ。もっとシンプルに考えた方がいいのです。彼女があたしに情報を与えてくれたおかげで、あなたはこうして仲間を助けに行ける。今はそれだけが事実。他はあなたの穿った推測に過ぎません」
 今までよりも強い語調だった。眉がピンと弓なりに張っている。よくもまあ、あの応答可能性を根こそぎ奪われたような奴を信用できるもんだな。
「あたし達は手を組んでいます。だから表面的で頼りない繋がりを、それでも信頼しなければならないのです。あなたにならよくわかるんじゃない? 涼宮さんやそこの彼女に、あからさまな過度の信頼を置いているあなたなら」
 ね? と朝比奈さんの足元にも及ばないウィンクを一つ。
 納得のいかない気持ちはまだあったが、そう言われては黙るしかなかった。SOS団なんていう、胡散臭くていまだに個々の正体の全貌が見えない集団を、俺はバカみたいに信用しているからだ。
 確かに、偉そうに説教垂れる立場じゃなかった。ミイラがミイラ取りなんて、身の程知らずな話さ。
 朝比奈さんを攫った件に関してはもちろん許せないが、今回の件に限れば、こいつと、そしてあのショッキングブラックな宇宙人を責める道理は無いのかもしれない。少なくとも今の所は、だけどな。
「わかった。タクシー代わりになってくれた事に関しては、とりあえず感謝しとくよ」
「あ、ならついでに、今後あたしや佐々木さんに協力してもらえると助かるなぁ」
「それは無理だ。調子に乗るな」
 にべも無く答えてやった。しかし橘京子は堪えた風もなく、顔なじみのエスパー野郎とどことなく似た笑いを浮かべ、
「ふふ、わかりました、と今は引き下がりましょう。だからそんな、彼女がいるのに言い寄られて困ってるみたいな顔はしないでよ」
 前言撤回。やはりこいつらは少しぐらい痛い目に遭うべきだと思うね。