「戦争よ!」
 部室の天井を貫かんばかりに拳を振り上げながら、どこぞのファシストみたいな事を声高に叫んでいるのは、何を隠そう我らがSOS団団長こと涼宮ハルヒである。いや、隠したいのは山々なんだが、本人に隠れるつもりがまるで無いから隠せないんだ。
「こんな舐めた真似をされて黙って見ているわけにはいかないわ! 古泉君、半紙と墨汁を用意して頂戴。あたしが直々に宣戦布告用の書状をしたためて、あいつらの目ん玉に叩きつけて来るから!」
 鼻息を荒げながらも、ギラついた瞳には生き生きとした輝きが見て取れる。人を食いそうなビー玉。
 俺は机の上に乗せていた顔を上げながら、 
「別に向こうだって好きで被ったわけじゃないだろ。場所も抽選だったし、企画だって俺たちの方が後から無理言って通してもらったんだ。向こうからならまだしも、こっちから喧嘩を売る理由なんて俺にはさっぱり思いつかん」
 それだけ言って、再び机の上にもたれかかる。頬に当たる冷えた木の感触が、今は何より心地良い。
「何ぬるい事言ってんのよ! わざとに決まってるでしょう、わざとに! あんたまさか、機関誌の一件を忘れたわけじゃないでしょうね? もし忘れてるんだったらちゃんと申告しなさいよ。耳かきを鼓膜の奥に突っ込んで脳神経を繋ぎ合わせてあげるから」
 そりゃただの死刑だろ。
「ふんっ。どうせあいつら、適当ないちゃもんつけてあたし達をこの学校から追放しようって腹なのよ。いかにもインテリメガネキャラが考えそうな嫌みったらしい策よね。絶対最初はグーとか言いつつパーを出す奴のことを見込んでチョキを出すタイプだわ」
 想像がスターウォーズ並にスピンオフしまくっているハルヒの言葉を聞き流しつつ、うなだれてはいないまでも何時に無くぐったりしている古泉めがけて疑惑の視線をぶつける。
「おい古泉、実際どうなんだ」
 まさか、またお前が裏から手を回したんじゃないだろうな?
「会長にも同じ事を言われましたよ。『俺はこんな企画出した覚えも無いし、許可した覚えも無い。どうせまたお前らの仕業なんだろ? おかげでこっちは学内視察にかこつけてフケる予定がパーになっちまった。いい迷惑だ』と。どうも僕を黒幕扱いするのが巷の流行みたいですね」
 ため息がちに嘯く古泉。それはお前の日ごろの行いが悪いせいだ。
「本当の善行とは、悪行を以ってしかなせない時もあります」
 苦笑混じりの言い訳なんだか開き直りなんだかわからない言葉を流して、俺はさっさと結論に辿り着こうと、
「で、結局お前らの仕業じゃないんだな?」
「ええ、とんでもない誤解です。僕だってタイミングぐらい考えますよ。退屈していない涼宮さんをわざわざ刺激するなんて、それこそ藪に蛇でしょうしね」
 古泉は生温い呼吸をして、
「それに、最近はただでさえ文化祭の用意で大忙しだったじゃないですか。本音を言ってしまうと、少し休ませて欲しいぐらいです」
 それっきり、瞑想するように瞼を閉じた。疲れているのは本当なのだろう。いくら超能力者とは言え、細胞内に入り込んだ乳酸を取り除く事はできないらしい。
 机に載せたままの首を少しずらして周りを見渡せば、メイド服に着替えることもせずに湯飲みを握り締めてうとうとしていらっしゃる、朝の子供向け番組から飛び出してきたかの如く可憐な朝比奈さんが目に入ってくる。
 そして、窓際には普段と何ら変わらない様子でハードカバーの洋書を読んでいる長門の姿。
 俺は、非常に珍しい事に今回の騒動の発端を作った読書好きインターフェイスを横目に、およそ一月前から現在に至る意識の燐光を、ニガウリを口一杯に詰め込まれた牛のように苦々しく反芻するのだった。


  


 時が過ぎるのは早いもので、季節は秋。紅葉のシーズンである。
 そんな季節感とは関係無しに年中脳みそが高揚気味のハルヒによって宣言された、高校に入って二度目の文化祭に向けたSOS団々活のプランニングは、魚類でもヒレを伸ばして目を覆わんばかりのものだった。
 ホワイトボードにやたらでかでかと書かれた文字は、映画撮影にバンド演奏に歌とダンス。
 ブーたれる俺と目を回す朝比奈さんを、いつもどおりの強引さで寄り切ったハルヒは、盆と正月と黒船に乗った異人さんが一遍に来たようなスケジュールを定め、そして全て実行に移した。案の定というか何と言うか、クフ王の奴隷達と同じぐらいの労働量をその身に課された俺たちは、オールマイティー長門は別として、古泉までもが吐く息を青くするぐらい駆けずり回り、それぞれのスケジュールを消化し続けること一ヶ月。何とかかんとか二目と見れないほどエキセントリックな脚本に基づいた映画を撮り終え、素人バンドも中学校の演奏会レベルに引き上げて、歌とダンスも五人の息を合わせられる程度には進歩し、あとは詰めの作業を残すのみとなった。兎にも角にも一息つける状態に辿り着いたわけだ。
 しかし、そんな時。
 もう恒例となっていた朝から晩までのダンスレッスンを終えた部室で、全体的に緑っぽい色になっていた俺たちの中、ただ一人だけ顔色一つ変えていなかった長門が、ぽつりと言ったのである。
「模擬店を出したい」
 リストラされて心機一転ラーメン屋でも開こうとする中年のような台詞が長門の口から出たことに驚きを隠せなかった俺たちの中で、一早く回復したハルヒは、
「模擬店って、何の?」
 こいつにしては至極まっとうな問いかけだったと言えよう。
 一度瞬きをした長門は、いつものように小さく呟く。
「カレー」
 ……カレー?
 俺を含む他三名が疑問符を浮かべながら口を半開きにして状況を見守る中で、五秒ほど考え込んだハルヒは、
「採用」
 ぐっと親指を上に突き出した。
 しばし固まっていた俺は、その仕草の意味する所を悟って、脊椎反射的に立ち上がり、
「お、おいおい。幾らなんでも、これ以上何かやるってのは無理だろ。体力的にも時間的にも余裕が無さ過ぎるって。それに俺たちは五人しかいないんだ。クラス規模で軽食店をやるのとはわけが違う」
「大丈夫よ。映画なら勝手に上映されるし、ステージは一日目だけでしょ。二日目が丸々空いてるじゃないの。間に一晩挟めば体力ぐらい元に戻るし。準備だって人を上手く使えばなんとかなるわ。量をそれなりに限定しとけば、模擬店ぐらい五人でも十分回せる。ほら完璧」
 RPGじゃあるまいし、そう都合良くHPは満タンにならないぜ。疲労は澱みたく深い底に溜まるんだ。現実のドットは荒い。
「それ以前にだな、もう空いてる教室なんて無いだろ」
「あんたホント馬鹿ね。ばっか。外でやればいいのよ。カレーと言えば川の傍の岩場と相場が決まってるわ」
 そりゃキャンプだろうが。第一、食い物を客に出すとなると雑菌調査だのなんだのと色々面倒な手続きが必要だ。
 しかし、俺のそんな不平不満も、
「それに有希がこんな事言い出すなんて、今までに無かったじゃない! どんな心境の変化か知らないけど、とってもいい変化だわ! やっぱりSOS団の団員たるもの、それぐらいアグレッシブじゃないとね!」
 このハルヒの一言の後では、口に出せなくなってしまった。
 長門の、いつもの如く無色透明な瞳。
 その奥に少しだけ熱っぽいものを感じたような気がした俺は、椅子に座りなおして両手を挙げると、
「わかったよ。やろう。出し物が三つでも四つでも、大して変わりゃしないしな」
 長門には、俺たち揃いも揃って常日頃お世話になりっぱなしなわけで、数多の恩に比べれば、カレーの屋台を出すぐらいどうってことはないさ。何を考えてそんなことしたいのかは、今ひとつよくわからんが。
 朝比奈さんと古泉もそれぞれ思うところがあったようで、俺に同調するように苦笑混じりの頷きを返す。
「よし、そうと決まれば実行委員への談判と模擬店設営用の人材確保ね! とりあえず隣の連中は準団員だから手伝わせるのは当然として、あとはこないだあたしに助っ人を頼んできたバレー部の連中も……」
 この時のハルヒは上機嫌で、俺は疲労を重ねながらも、何だかんだで平穏な心持ちだった。
 ステージの練習の山も越えたし、あとはその成果を披露するだけ。模擬店だって、大騒ぎしながらも鼻歌交じりにちょちょいとこなせるに違いない。
 ハルヒに妙な火種をくべるようなトラブルの類は、少なくとも文化祭の間はもう現れないだろうと安心しきっていたのである。
 文化祭初日を迎え、思い出したくも無いぐらいテンションを上げてしまったステージも終了し、部室の扉に挟まれていた模擬店の配置図を目にするまでは。


  


「それにしても、我々の向かい側が同じくカレーの屋台、しかもそれが生徒会名義ともなれば、涼宮さんでなくとも色々と勘繰ってしまいたくなりますね」
 五人でアリの行軍のようにぞろぞろと坂道を下っていると、前方を大股で歩くハルヒに聞こえない程度の声量で、隣の古泉が耳打ちしてくる。
「お前じゃないってんなら、本当にただの偶然なんだろうさ。今まで気付かなかったせいで、なんか意外に思っちまうってだけの話だろ」
 俺たちはステージのことで一杯一杯だったため模擬店設営のことはハルヒに任せっきりで、当のハルヒにしても俺たち同様練習に打ち込まなくてはならず、設営のプロデュースは出来ても現場監督として直接的に関わる機会はほとんど無かった。
 そのため、つい先ほどまで明日出す模擬店の向かいが生徒会名義の、それもカレーを出す模擬店だとは気づかなかったのである。
「ですが、生徒会のトップである会長も知らない間にとなると、やはりどう考えても普通ではありませんよ。何者かがそう仕向けたとしか思えません」
 何者かって、今度は誰だよ。ちょっかい出してきそうな奴の心当たりが多すぎて俺にはさっぱりだし、これ以上シルエットだけの登場人物なんて増えて欲しくもないんだが。重力の虹かっつーの。
「そうですね、例えば……喜緑江美里さん、なんていかがでしょうか」
 喜緑さんって、あの?
「ええ。考えてもみて下さい。我々に模擬店を出店させたのは長門さんです。彼女が意味もなく、まして自分の嗜好であのような案を呈するとは、少なくとも今までの行動からは考えられにくいことです。加えて生徒会には長門さんと対照されうる人物、喜緑さんが籍を置いています。無関係ということはないでしょう。ひょっとしたら、今回の件は統合思念体の意志が絡んでいるのかもしれませんよ」
「……だからって、カレーってのはどうも緊張感に欠けすぎだろ」
 カレーに絡む宇宙的な思惑って一体何なんだよ。ただの暴走女子高生である所のハルヒが妙な力を持ってるんだから、カレーに何か特別な意味を求める気持ちもわからないでもないが、それにしたって、なあ?
「皆、いいわね!」
 インドに潜む神秘の事を考えていると、いつの間にやら別れ道に差し掛かっていたらしい。ハルヒは俺たちの方にぐるりと振り返り、
「古泉君はクラスの喫茶店があるから昼からでいいとして、いい? 他の三人は朝六時に学校集合よ!」
 普通なら料理の準備などは前日のうちに済ませておくものなのだが、長門の手配した食材がどうしても当日の早朝にしか届けられないということで、俺たちは登校時間の繰り下げを已む無くされていた。
 とは言え、別段文句があるわけではなく、むしろ自主的に食材の手配を買って出てくれた長門には感謝の気持ちしか抱きようもないのだが、古泉の誇大妄想的な発言は置いておくとしても、長門の異様な積極性に疑問が残るのも確かだ。
 最近忙しかったせいで、結局その真意を問い質すことはできずじまいだったのだが。
「キョン! みくるちゃんも! 手ぶら組みのあんた達は特に遅刻厳禁だかんね! 突発性のナルコレプシーに罹ったとしても根性で布団から這い出しなさい!」
「は、はい。がんばって早起きします」
「へいへい」
 可愛らしく腕を胸元に上げて頑張りますっと言わんばかりのキューティーポーズを取る朝比奈さんと、諦観の果てから漏れ出たような声を出す俺を、無駄にでかい瞳に写したハルヒは、
「よーっし! 明日の勝負を制するのは我がSOS団よ! 生徒会だかサイドカーだか知んないけど、あんな連中はくっしゃくしゃにしてポイしたあと、燃えるゴミと燃えないゴミに別けずにコンビニの前とかに放置してやるんだから!」
 非常にはた迷惑である。都内だったら即民事訴訟。
 ため息をついた俺が、いつの間に勝負事になったんだ、と苦言を呈する前に、ハルヒは人目も省みずに右手を振り上げ、
「えい、えい、おー! ……ほら、何やってんの。あんた達も一緒にやんのよ。せーの、えい、えい、おーー!」
「「「お、おー」」」
「……おー」
「宜しい! では解散!」
 満足げに頷いたハルヒは、遠足の前日に眠れない子供に負けないぐらいの落ち着きの無さで走り去り、あとに残されたのは中途半端に手を振り上げたマヌケな四人組と、目の前で急ブレーキをかけた一台の地方タクシー。
 誰だ、手を挙げようなんて言った奴は。


  


 そんでもって翌朝。北高文化祭の二日目だ。
 昨晩他の連中と別れた後、自宅に帰ってから食傷気味の夕飯をどうにかこうにか平らげた後でいっそ槍でも降ってくれという願いを込めて妹と共に即興の雨乞いダンスを踊ったにも関わらず、今日は太陽に唾を吐き掛けたくなるような晴天だった。空気読めよ。
 かと言って仮病を決め込むわけにもいかず、まだうっすらと暗い、リノリウム材の床面みたいに空気の冷えた坂道を、だるい体と零れる欠伸を引き摺りながら上っていくと、夕暮れの放課後かと錯覚してしまいそうなざわめきが聞こえてきた。
 ド派手に飾り付けられた校門の前にたどり着けば、普段は落ち葉ぐらいしか見当たらない校舎への石畳の上が喧騒で覆い尽くされている。どこの国のどの時代をイメージしてるんだか分からないコスチュームを着た一団や、カラフルなエプロンをつけた女子の集団が、転がる箸を見た時のようにキャッキャと騒ぎまくりだ。ほとんどの模擬店は昨日の段階で開いていたらしく、慣れた様子で雑談を交わしながら準備している生徒がほとんどだった。授業中のダレた空気からは連想しにくい瑞々しさ。
 文化祭って、こんなんだったんだな。去年の今頃は部室でハルヒ共々ぐーすかと眠りこけていたし、昨日は周囲に気を配る余裕なんて一滴たりとも無かったわけで、何だか新鮮だった。
 校門の前でしばらく佇んでいた俺は、ハルヒの遅刻厳禁という言葉を思い出し、SOS団名義の屋台目指して歩を進める。
 昨日見た配置図によると、俺たちの模擬店は、校門から左右向かい合わせに続く出店の中で、最も端っこ。正面玄関の目と鼻の先だ。
 俺が血のように赤いエプロンを身につけたハルヒに声をかけるのと入れ違いに、見慣れない女子生徒たちが会釈をしながら立ち去っていく。設営を手伝ってくれていた女バレの子だろう。
「やーっと来たわね。あんたが四番手、古泉くんがいないから要するに最後尾よ。いつもだったら何なりと奢らせるとこだけどね、今日はそんな時間無いから勘弁したげるわ。ほら、さっさとコレつけなさい」
 やたらと張り切った様子でそのまま宇宙にまで飛び出し衛星の一つとして活動できそうな雰囲気のハルヒが突きつけてきたのは、目に痛い真っ赤な塊。ひどく不吉だ。
「全然不吉じゃないっての。むしろ幸運を呼びまくりのエプロンよ」
「エプロンって、俺の? ちゃんと自分の持ってきたから、貸してくれなくても大丈夫なんだけど」
「いいからつける!」
 目を吊り上げて無理矢理押し付けてくる。
 渋々受け取り、広げてよく見ると、というかよく見ずとも、胸の真ん中にでかでかと白のフェルト地で『SOS』と横書きに記されている。
 なんだこれは。海で遭難した時にでも着りゃいいのか。どちらかと言えば救命胴衣の方が有り難いんだが。
「昨日慌てて作ったのよ。やっぱコスチュームに統一感は必要よね。これならSOS団の宣伝にもなるし」
 なんて無駄なバイタリティだ、と半ば感心しながら恥ずかしいエプロンの紐を結びつつ、出来立てホヤホヤの我が模擬店を見渡してみる。
 白いテントの下には長机が三つ並べられており、そこかしこに貼り付けられた素人臭いカレーのイラストが文化祭らしい賑やかさを醸し出していた。ハルヒの絵ではなさそうだから、女バレの誰かが描いてくれたのだろうか。机の奥の地べたには、休憩用のパイプ椅子に、ガステーブルが二つ連なったタイプのカセットコンロと、簡易食器類が詰めこまれたポリ袋が置いてあるだけだ。
 ……やたらと道具が少ないように思うんだが、こんなんでカレーなんて作れるのか? 炊飯器さえ無いじゃないか。
「業務用の炊飯器を食堂から借りることになってるから心配ないわ。ルーも調理室で作ったのをこっちに持ってこないといけないから、あんたはそういうのを運搬する係。材料の方も、今みくるちゃんと有希が受け取りにいってるから、こっちでできる準備はほとんど万端ってわけね。カレー程度なら目を瞑ってでも作れるし、楽勝よ」
 小鼻を膨らませるハルヒ。毎度振りすぎた炭酸のようにあふれ出る自信には恐れ入るが、こいつのことだから、どうせ言葉通り料理もそつなくこなしちまうんだろうさ。
 苦笑を浮かべている間に、俺たちと同じくSOSエプロンを身につけた朝比奈さんと長門が、それぞれ荷物を載せた台車を押しながら駐車場の方からやってきた。
 俺は、すわ手伝わねばと慌てて駆け寄ったのだが、
「問題ない」
「あたしも大丈夫ですよ。お米は長門さんが持ってくれてるし、こっちはそこまで重くないから」
 まるで頼りにされていない。男としてどうなんだそこんとこ。
 自分の存在価値に疑問を抱いているうちに二人はテントに到着。長門が運んできたのは一目で白米だとわかるが、朝比奈さんの台車には、そう大きくも無いダンボールが幾つも積み上げられていて、何が入っているのかは確認できない。まあ、野菜だの肉だのが入ってるんだろうが。
「よし、来たわね。キョンは早速炊飯器を受け取ってきてちょうだい。その間にあたし達で材料をチェックしとくから、戻ってきたらそっちの方を調理室に……」
 トンボでも捕獲するかのように人差し指をブンブン振り回していたハルヒは、俺の肩越しに視線を固めると、やおら犬歯をむき出しにして、
「ふっふっふ。ようやくおいでなすったわね」
 サドっ気たっぷりでマフィアの女幹部っぽく呟くハルヒに、身内ながら少し引きつつ背後を振り返ってみると、正面玄関から見覚えのある長身のシルエットと、その後ろに続いて小柄な女子生徒が姿を現した。
 言うまでも無く、エセメガネ生徒会長と、長門の同類であるかもしれない喜緑江美里さんのトンデモ生徒会ペアである。
 悠然と歩いてきた会長は、俺たちの前で足を止め、
「なんだ。直前になって企画を捻じ込んできた迷惑な連中がいるとは聞いていたが、キミ達だったのか。張り切るのは結構だがね、文芸部の存在は我々の目こぼしあってのものだという事を忘れないよう、程ほどにしたまえよ」
 わざとらしくメガネの位置を調整し、その奥の怜悧な眼光をハルヒに注ぐ。悪役のステレオタイプ。
 しかし当然、そんなもので微動するほどハルヒの心根は浅くなく、むしろ反発力をフル活用するかのようにしなり、
「白々しいのは無しにしましょう。真っ向からあたし達を潰せなかったからって、とんだ搦め手で来たもんだわ。同じカレーの模擬店を出すことで、あたし達の経済的破綻を企むなんて、いかにも姑息狡猾陀蝎で鳴らした生徒会っぽい感じじゃない」
「経済的……? 喜緑君、今日の企画に経済的利益を趣旨として含むものが提出されていたのかね」
「いえ、会長。いずれも地域に対する社会奉仕活動、及び学内に於ける芸術活動の成果を発表する場として企画されたものばかりです」
「だ、そうだ。文化祭で得た利益は、全て来年度の予算として学内に還元される。第一、破綻も何も、模擬店を開くと申請した時点でキミ達にも予算が下りている筈だが」
「はあ? 予算なんて雀の涙じゃないの。あんなんじゃ空き缶の見本市ぐらいしか出店できないわよ!」
「当然だ。文芸部は部員が一人しかいないのだから、予算もそれ相応になる。第一、キミ達が普段受け取っている部費はただでさえ破格なんだ。たまには謹んでもいいだろう」
「あ、そう。じゃあ還元する利益とやらも、一人分で構わないわけね。残りの分は、あたし達の好きにさせてもらえるって事でOK?」
 手榴弾のピンを抜くや抜かぬやといった緊張感が二人の間に立ち込める。
 にしても、相変わらず図太いね、この会長も。ハルヒとこうも拮抗できるなんて、演技とは思えない啖呵だぜ。
 俺は眼光を散らす二人と、なぜか先ほどから近距離で見詰め合っている長門と喜緑さんを横目に、隣でおろおろするばかりの朝比奈さんを促して、
「とりあえず、俺たちはやる事やりましょうか」
 個人的には生徒会と喧嘩するつもりなんてこれっぽっちもないし、こんな鉄火場に朝比奈さん共々巻き込まれることはあるまい。
「あ……そ、そうですね。あたし、材料の確認しないと」
 気を取り直すように真珠みたいな眼を瞬かせた朝比奈さんは、えっちらおっちらと軽そうなダンボールをテントの下に運び込んでいく。
 人形劇じみた可愛らしい所作を微笑ましく見守りながら、本当に手伝いの必要は無さそうだと判断した俺が、さて米でも運ぶかね、と思いカッターシャツの袖を捲くっていると、
「会長ー、荷物どこに置けばいいんすかー?」
 いやに耳慣れた声が聞こえてきた。
 またしても駐車場の方から、生徒会のメンバーらしき女子生徒に先導されて台車をガラガラと運んできたのは、
「……谷口?」
「いよう、キョン」
 いようじゃねえだろ。何でお前が生徒会の手伝いなんかしてんだよ。ボランティアか? 柄にもない事甚だしいぞ。
「ふ、何で、だと?」
 谷口は、俺達のと似たようなダンボールを積んだ台車を急停止させ、気取ったナマコのようにキモイ仕草で髪を撫で付けると、会長の横で微笑む喜緑さんをちらりと見やり、
「そんなの、決まってるじゃねえか」
 ああ、美人局にやられたんだな。
「ちげえよバカ! 手伝ったら電話番号教えてくれるって約束したんだ!」
 完全にやられてるじゃないか。あとバカ言うな。
「谷口、残念だが、喜緑さんの電話番号がお前に伝わる事は絶対に無いと断言してやる」
 どうせ情報操作されて記憶をいじられるのがオチだ。タライオチより読み易いぜ。
 しかし俺の親切なご注進を、アホは鼻息一つで吹き飛ばし、
「は、言ってろよ。後で羨ましがったって絶対教えてやんねーからな」
 バカな奴だな。せっかく人が静かの海より大きな心で忠告してやったというのに。
「いいか、谷口。あの人はな、何ていうか、お前の手に負えるような相手じゃ……」
「はいはい、ジェラシージェラシー。心配すんなって、彼女ができても、俺とお前は友達だゼ!」
 お前な、人の話ぐらいちゃんと聞けって。そんなんだからもてないんだよ。
「なっ、う、うっせー! 別にもてなくねえよ! ただなんか長続きしないだけだ! ……くっそ〜、なんだよ、嫌なとこを妙に突っつきやがって」
 急に小声になった谷口は、わざとらしく目線を外すと、唇を三角に突き出しながら、
「大体、周りに可愛い子ばっかいるからって調子乗ってんだよなこいつ。気持ち悪いあだ名のくせに」
 あれ? 何か今、気持ち悪いとか何とか聞こえたよう聞こえないようなやっぱり聞こえたような……
「……谷口とかいう凡な苗字よりマシだ」
「あ、お前今俺の親をバカにしただろ! そういうのはな、一番傷つくんだよ! 言っていい事と悪い事があるだろ!」
「お前こそ気持ち悪いとか小声で言うんじゃねえよ! どうせ言うんなら初対面の時に言ってくれ! 今更言われたら何か本当は言いたかったけど言えなかった事を言われてるみたいで余計腹立つんだよ!」
「正にその通りだよこのバカ!」
「何だとこのもてない上にバカ!」
「「バーカ! バーカ!」」


  
 

「ふん。谷口を引き込んだってわけ? 生憎だけど、ご覧の通りあいつはただのアホよ。うちのキョンと同様、大した役には立たないわ」
「彼は自主的に手伝いを申し込んできただけだ。涼宮くん、先も述べたとおり、我々はただ当文化祭において実施可能な地域奉仕活動の一環として出店するのであって、キミ達と何がしかの関わりを持つつもりは毛頭無いのだ」
「これまたご大層な大義名分を用意したもんじゃないの。まあ、あんたの立場を考えればそこそこの上策だとは認めてあげるわ。でもね、そんな上っ面を気にする必要は無いのよ別に。何ならガチの殴り合いでも全然いけるんだから、あたしは」
「相変わらず野蛮だなキミは。その上意志の疎通が図りにくい。キミの成績は大変優れているそうだが、たまにはその知能を有意義な分野でも発揮してもらえるとありがたいのだがね」
「有意義か無意義かはあたしが決めるの。そしてあたしは有意義なこと以外やったことがないしこれからもやらないわ」
「ならキミは物事に対する根本的な認識を変える必要があるな。でなければ、能力の高さも宝の持ち腐れだ。益の無い荷物に過ぎん。なるほど、結局はそこの役立たずの彼とお似合いというわけだな。徒党を組むのも頷ける……ん? どうしたんだねそんなに震えて。秋風邪でも引いたのなら、すぐに保健室の手配を」
「……あんた、あたしだけじゃ飽き足らず、あたしの一の子分であるキョンまで馬鹿にしたわね……」
「は? それはキミがさっき自分で」
「もういい。もういいわ。話し合いの余地は消えたの。そもそも、売上げだけで勝負してやろうと仏心を出したあたしが間違ってたのよ。見てなさい! ジャガイモとニンジンと柔らかく煮立てた牛肉に殺された初の人類として、あんたの名前を草書体で墓石に刻んでやるから!!」
「少しは人の話を聞き給え涼宮くん。先ほどキミが自分で役立たずだと」
「戦争よ! 第一次カレー大戦よ! やるからにはもちろん殲滅戦、草木一本だって残さないんだから!!」
「いや、だからだね……」

  
  


「わかっていますね、長門さん。値段は税込み二百円。情報操作の構文はその一切を一時的凍結状態に置くこと。その上で、公平に用意した数量を先に全て売り切った方の情報が、より正確だということで」
「理解している。説明は今更不要」
「そうですか。では、もう何も言いません。ただ、どのような結果がでるのか、とても楽しみです」
「私も楽しみ」
「あら、うふふふ」
「…………」
「うふふふふふ」
「………………」
「うふふふふふふふ」
「……………………」


  
  

「あ、あの〜、みなさん、ちょっとよろしいですか?」
 谷口と取っ組み合いをしていると、戦場を駆ける一陣の涼風のような朝比奈さんの声が響き渡り、俺は隣のハルヒ共々、揃って振り向いた。
「朝比奈さん! 俺のあだ名別に気持ち悪くないですよね!?」
「いやいや、口に出さないだけで皆キモイと思ってるって」
「お前そろそろ殴るぞこの野郎!」
「あーっ! うっさい! あんた達ちょっと黙ってなさい!」
 うっさいとは何だ、うっさいとは。俺の矜持に関わる重要な問題なんだぞ。
「あんたはまず辞書を引いて矜持って言葉の意味を真剣に考え直しなさい……で、どうしたのみくるちゃん。ジャガイモじゃなくてサトイモでも入ってたの? それでもいいわよ、あたしは。最高に美味しいとろろカレー作っちゃうから」
 ハルヒの言葉を聞いた朝比奈さんは、何故か目を点にしたままぷるぷると首を振ると、
「ジャガイモとか、そういうんじゃなくてですね、その」
 ダンボールの中から長方形の物体を取り出し……長方形?
「中身、全部これなんですけど……」
 輝く赤いボディに、お年寄りも間違えようが無いぐらい分かり易く書かれた『辛口』の二文字。もちろんジャガイモでもニンジンでも牛肉でも無いそれは、親がいない時なんかに重宝するでお馴染みの、
「ぷぷっ。おいキョン、お前ら、文化祭でレトルトカレーなんて出すつもりだったのかよ」
 谷口の馬鹿にしたような声に、返す言葉も出てこない。実際それは安くてお手軽でお馴染み、俺もよく利用するレトルトカレーだったからだ。
 あれ、と硬直する俺とハルヒに対し、明らかな侮蔑の色を浮かべた会長は、メガネの蔓に手をやると、 
「レトルトだと? まったく、ふざけるのもいい加減にしたまえ。文化祭はあくまで自分達で作った製作物の発表の場であり、その辺のコンビニエンスストアと勘違いしてもらっては困る」
「……あの」
「ついでとは言わず、訓告せねばならない事項はまだある。昨日のキミらのステージについてだ。ただでさえ正式な部でないにも関わらず、体育館を法外に長時間占領した末の、あの珍妙な出し物。いいかね、我々はまず第一に学生なのだ。文化祭だからといって、盛り上げればいいというわけでは無い。意味意義主義主張、それも健全なもの、啓蒙するに相応しいイデオロギーが必要なのだ。別段贅沢は言わんさ。題目だけのものであっても構いはしない。羊頭狗肉で構わんのだ。キミらのように徹頭徹尾として狗の肉で無い限りは」
「あのー、会長?」
「加えて、あの映画というにはあまりに不健全極まりなく、見るものに目を覆うことしか許さないような代物も。あのように低俗なものを無断で撮影し上映するなど、出来不出来云々以前に北高生として」
「か、会長!」
「言語道断……何だ。どうかしたのかね」
 会長が目を投じた先で、さっきから声をあげていた名も知らぬ女子生徒が、
「えっと、その、それがですね」
 ひどく申し訳無さそうに、生徒会側のダンボールから黄色い長方形を取り出すと、
「こちらのも、全部レトルトカレーなんですけど……」
 唯でさえ寒風吹きすさんでいた場の空気は、瞬間冷凍されるに至った。


  


 かくして、長門と喜緑さんを除く全員が口を半開きにする中、後の北高の歴史に深く昏い爪痕を残すことになる第一次カレー大戦(レトルト)が、その幕を開くことと相成ったのである。
 ここは各自、脳内で荘厳なBGMを鳴らして欲しい。