いささか唐突ではあるが、ここで長門の証言を基にした一週間前の再現VTRをお届けする。


  


 夕暮れ色に染まった街を、一人しずしずと歩く宇宙人製ヒューマノイドインターフェイスこと長門有希。彼女が向かっているのは、通いなれた近所のスーパーである。
 マンションから徒歩十分の位置にあるそのスーパーには、今日も今日とて、家畜の如く飢えた我が子の欲求を満たそうとするマダム達が一パックに二人分詰め込んだお持ち帰り餃子みたいにひしめき合っていた。
 そのような店内にあっても、長門はダイヤモンドじみた低温の冷静さを少しも翳らせることなく、海の色を鱗に映した回遊魚のような優雅さで人ごみの間をすり抜けると、一際閑散としたレトルト食品コーナーにたどり着く。この辺りはタイムサービスとも無縁で、主婦達の魔の手が届く事はないのだ。
 喧騒から特売と言う窓で切り離された静寂が支配する中、何故かやたらと赤や緑が目につく棚の前に立って、彼女は思う。
(今日はカレー曜日)
 この日が何曜日なのか知らないが、どうやらカレー曜日だったらしい。人にはそれぞれのルールがある。そもそもこれは長門の回想シーンであるからして、以降も無意味な突込みは控えることにしよう。
 とにかく長門は最近お気に入りの、発売されてからの長い歴史が謳われているお手ごろ価格のレトルトカレーに手を伸ばした。至福の一瞬は目前に。
 しかし、赤色のパッケージに手が触れそうになった、正にその時である。
「こんにちは」
 いつの間にやら隣に立って挨拶を投げかけてきたのは、長門と同じく宇宙人製ヒューマノイドインターフェイス(多分)の喜緑江美里さんだ。
 長門は思う。いつもならこちらとの表立った接触を良しとしない彼女が、なぜ?
「同じ物を購入しようとしていたようですから、つい」
 表情筋に伝達されないはずの情報を読み取られた事に、一抹の不満を感じる。そんな芸当が可能なのは一人しかいないと考えていたからだ。ひょっとして俺のことなんだろうか。いや、ハルヒかもしれないな。あいつは妙に鋭い時がある。
 それはともかくとして。
 長門の不穏当な疑念も急流に置いた笹舟のようにさらりと流す喜緑さんは、笑顔のままでレトルトカレーに手を伸ばし、
「美味しいですよね、この」
 彼女が手に取ったのは、
「甘口カレー」
 甘口カレーである。
 長門は、今の言葉が信じられなかった。何だって? 甘口? 
 馬鹿な。レトルトカレーにおいて重要な要素は、その手軽さと個体内の情報伝達速度を活性化させる刺激にあり、辛口でないとスパイスの風味が十分に活かされないのである。甘口などというものは、刺激に弱い有機生命体の幼生のためにやむなく取られた処置にすぎず、それは最早カレーと言うより離乳食に近い。
 混乱する長門を他所に、喜緑さんは買い物籠に黄色いパックを次々に放り込みつつ、
「こういうのを、同好の士と言うのでしょうか。あなたに親近感を覚えます。情報の並列化に近いものがありますね」
 長門は咄嗟に甘口の隣の辛口を手にとって、突きつける。
「私は、こっち」
 目の眩むような赤色を目にして、喜緑さんは残念そうに柳眉を下げる。
「あら、そうなんですか……残念です。趣向が似通っていれば、行動予測も容易くなると思ったのに……ですが、甘口も味を楽しめてオススメですよ」
「辛口の方が優れている。情報の伝達に齟齬が生じているものと思われる。外部ポートを開いて欲しい。私と同期することで、より正確な情報を並列化する事ができる」
「ご親切にどうも。ですが、拒否させていただきます。ご存知のとおり、異なる個体同士の同期には統合思念体の許可が必要です。現状では推奨される行動とは言えません」
「ならば訂正を求める。辛口の方がよりカレーの味と効果を明確に把握し、堪能する事が可能」
「それも拒否します。我々がインターフェイスとして仮初めの肉体を有している以上、有機生命的な個体間の差異が発生するのは必然です。無理に矯正する必要はないんじゃないですか?」
 喜緑さんは、一層柔らかく微笑むと、
「それに、辛口ばっかり食べていては、舌が馬鹿になってしまいますよ」
「有機生命体により広く好まれている辛口を嗜むことは、彼らを理解し、引いては涼宮ハルヒの効率的な観察に繋がる」
 長門は、あくまで静かに、
「それに、高カロリーかつ発汗作用も損なわれた甘口では、個体の重量が著しく増加する可能性が高い」
「……何ですか? その視線は」
「個体の外形パラメーターをいじった形跡が」
「有りません」
「下腹部に情報改竄の」
「有り得ません。見間違えです。……あなたこそ、当初のパラメーターより幾分増量している部分があるような気がするんですが、それはやはり彼の」
「違う」
「男性は大きいのが好きな方が多いらしいですからね。参照した情報によると彼の部屋にある成人向け雑誌も大半がその類の」
「あなたはわかっていない。有機生命体の定義する欲情と愛情は別物であると認識した方が正しい」
「あらあら。何だか小さくても愛される可能性はあると言い張っているように聞こえますが、それは私たちの一端としていかがなものかと」
「そちらこそ、彼の個人的嗜好を提示する意義が不明瞭かつ特定の情報に誘導的。率直に伝達すると下品である」
「…………」
「…………」
「……あなたと直接的な接触を行なうことは上から禁じられています。ですが、不正確な情報は淘汰する必要は、常にあると思うんです」
「それについては同意する」
「では、甘口と辛口。どちらがより優れたカレーか、本来的な味覚野を有する有機生命体に判定してもらいましょう」
「理解した。都合の良い日取りがある。北高文化祭の二日目」
「ええ、わかりました。では、その折に……今から楽しみですね、うふふふ」
「…………」
「うふふふふふ」
「………………」
「うふふふふふふふ」
「……………………」


  


「……で、これなわけね」
 お湯で満ち満ちた寸胴の中に放り込まれた銀色のパウチを、菜箸でぐるぐる回しつつ湯煎しながら、俺はため息をついた。
 一旦教室に集合するようアナウンスがあり、出席だけ取らされて戻ってくると時刻はもう九時を回っていて、老若男女入り乱れた一般客がデパートの閉店セールでもやんのかよというぐらいの勢いで学内に溢れかえっている。
 校舎内への通り道に位置する俺たちの屋台の前にも結構な数の人通りが発生しており、先ほどまでは俺の手で木陰に引っ張り込まれて事情を淡々と供述していた長門も、今はハルヒと朝比奈さん共々客寄せの真っ最中だ。
 客寄せしているという事は、つまり俺たちのカレー屋は滞りなく開店したわけで、肝心のルーがレトルトである実証学的事実は、
『考えてみればどっちにしろカレーなんだし、問題はまるで無いわね。むしろ手間が省けてラッキー』
 というポジティブなんだか前頭葉とかの大事な部分が虫にでも食われてるんだかさっぱりな団長の英断により、臭い物はとりあえずミキサーにでもかけて飲ませちまえみたいなパワープレイで何とかなってしまった。いつも通りだ。
 全然何とかなってないだろという意見もあるだろうが、先の長門の話によるとこの事態は必然だったようだし、何よりハルヒが「大人しく部室で人間観察でもしてようぜ」なんていう俺の意見を素直に聞き入れるとも思えない。
 しかも、長門と喜緑さんが申し合わせたように同じだけの数のレトルトカレーを発注していた事について、どうもハルヒは自分と生徒会が決着をつけやすいように取り計らってくれたのだと勘違い(実際決着をつけるのは長門と喜緑さんだ)している節があり、心に灯した闘志という名の火を森林火災レベルにまで炎上させてしまっているため、止めようにも止められないのが実情だ。下手に手をつけて焦がされるよりも、ここはいつもの如く流されるのが吉と見たね。長門まで噛んでいるとなると、どうせなるようにしかならないだろう。
 渋柿と蟹を一緒くたに飲み込んでしまったような顔をしていた会長も、事前に古泉に釘を刺されていたのかもしれない。どうも俺と似たような結論に至ったらしく、今はお向かいでうちと色違いの甘ったるいレトルトカレーをせっせと販売している。ピクピクと脈動していたこめかみから察するに、鉄面皮のメガネの裏では相当イライラしているに違いない。
 が、しかし。
 イライラ度では、うちの団長も負けてはいなかった。
「もう! むっかつくわねー! 何で向こうは繁盛してんのにあたし達のとこには客が全然来ないのよ! 風水学的に悪いとしか思えないじゃない! 有希、みくるちゃん、何か打開策を講じるわよ!」
 ほらな。
 調理部の連中が本格的な軽食店をちゃんとした教室で開いているため、食事目当ての客はどうしてもそっちの方に流れていってしまうのだ。しかもこっちはレトルトで文化祭らしさなんて皆無に等しく、さらに言うなら今はまだ朝の範疇に入る時間帯であり、カレーをがっつり食えるほど腹が減ってる奴なんてそうはいないのだろう。さっきから来る客は三人娘の外面に釣られた馬鹿なナンパ野郎共ばっかで、そいつらにしてもハルヒが一々けちょんけちょんに罵倒するものだから、売れる物もますます売れなくなっていく。まさに客殴りパンダ。今もって売り上げが全くと言っていいほど芳しくない、というか皆無なのも、十分頷ける話である。
 対する生徒会組は、喜緑さんはじめ生徒会女子達の愛想の良さと、会長の麗様な外見と紳士的な振る舞い(の演技)によるものか、まるで洒脱な喫茶店か何かのように軽く寄ってく?的雰囲気を醸し出しており、男女問わずそこそこの客足を獲得しているようだった。今もまた他校の生徒らしき女子二人組みが、互いの肩を叩きあいながら会長を指差し、そのまま屋台の方へと駆け寄っていく。
 何にしたって命運を分けるのは、意外と外面の良さだったりするんだよな。世知辛い真実。
「コラそこ、さっきからわかったような事言ってるけど、ちゃんと自分の仕事してんでしょうね?」
「やってるよ。見てみろこれを。煮過ぎてパックがぐちゃぐちゃになってるだろうが」
 回転率が悪い、というかまるで回転していないため、最初にぶちこんだ分のカレーたちが半時間近く恨みがましい調子で泳いでいる。こんな地獄ありそうだな。永久回転式熱湯地獄とか。
「あんたねぇ……」
 これでも丹精込めてやっているつもりなんだが、エプロンの前で腕組みしていたハルヒは、さも嘆かわしいと言わんばかりにため息をつきやがる。
「そんなの、もうほっぽっといていいわよ。たしかに湯煎しろとは言ったけどね、何もそればっかやる必要は無いでしょうが。言われたことしか出来ない奴なんて、社会に出てもせいぜい平社員止まりよ。自分の仕事ぐらい自分で見つけなさい」
「俺もそうしたい。しかし肝心の仕事が見当たらん」
 そもそも客がいないから、寸胴を眺めるぐらいしかやることが無い。すげえ退屈だ。これまでの怠惰成分多目な人生の中でも稀に見る無駄な時間である。
「ならこの底位置平行線な販売状況に一石を投じるようなアイディアを捻り出す努力をする!」
 人さし指を文字通り人をさすのに使うハルヒ。化粧っ気の無い透明な爪が俺の眉間に刺さっている。
「痛いからとりあえず指をどけろ。あとさっきから思ってたんだけどな、そこまで気張る必要があるのか? まだ朝なんだしさ。勝負時はむしろ、昼ごろに皆が腹を空かしてからじゃないのか」
「皆が腹を空かせるんなら、向こうにだって客は来るでしょうよ。カレーの数にしたってたかが知れてるし、昼になればどっちも売り切れになるのはもう決まってるわ。だからこそ今が正念場なんじゃない。この時間帯にいかに多く売りさばいておくかが勝負の明暗を分けるのよ」
「まあ、一理あるとは思うが」
 しかし俺にはその勝負ってのがそもそもなぁ。珍しく長門が持ち込んできた喧嘩なんだし、できれば勝たせてやりたいとは思うんだが、何だろう。カレーと言う緊張感の欠片も無い響きが鉋となって、俺のやる気を削いでいるのだろうか。個人的には中辛派だし。
 と、ちらと瞬きした間に、ハルヒの隣には苔生した石碑のように立ち尽くす長門の姿が出現していた。
「……長門、どうしたんだいきなり」
 相変わらず前フリが無いな。
「あ、有希。ひょっとして、何かいい案が浮かんだ?」
 長門は視線をハルヒに固定したままコクリと頷いて、
「こちらの客層は、今のところ男性が百パーセントを占めている」
「客というより発情期の哀れなカマキリみたいな連中だけどね。で、それがどうしたの?」
「逆手に取る」
 長門の、定規で引いたかのように真っ直ぐ伸ばされた腕と指先。
 その先に佇んでいるのは、
「……ふぇ? あ、あたし、何かしました?」


 午後九時十五分現在、売り上げは未だゼロのまま。 
 ハルヒ曰く、勝負はまだ始まったばかりである。

  
  

 
「ほらそこ列からはみださない! それとあんた、今シャッター二回切ったでしょ! 一つ購入につきシャッター一回って書いてあるでしょうが! 何のために眼鏡してんのよ! 帰る時もう一食分買っていきなさい!」
 嬉々としたスパルタ的態度で列整理に臨んでいるハルヒを横目にしつつ、蓋付き容器にカレーを盛り付け、ヒューマノイドキャッシュレジスターとなった長門が精算を済ませた客に一つ一つ手渡ししていく。手早くやっているつもりでも、店の前にできた人垣はなかなか捌けなかった。やれやれだ。
 先ほどまでとは一転、閑散としていたのが嘘のようなこの盛況っぷりだが、それには当然わけがある。
「す、涼宮さんっ、あたし、いつまでこの格好してなきゃいけないんですかぁ?」
「うーん、そうねぇ。たしかに同じポージングのままだと、いずれ観客に飽きられてしまうのは目に見えてるわ。よし! じゃあもっとインドっぽい感じにポーズを変えてみましょうか。ほら、もうちょっと腰をこうクネって曲げて」
「いえ、あの、ポーズとかそういう意味じゃなくて……え、え、ちょっと待って! これじゃさっきより恥ずかしくなってますよ!」
「何言ってるのよみくるちゃん。プレイボーイの表紙を飾れるぐらいセクシーなポーズじゃない。ここが部室なら既に押し倒してるわ」
「だから嫌なんです〜!!」
 以上のいかがわしい会話と、カシャカシャ眩しいフラッシュからもわかるとおり、カレーを朝比奈さん撮影会の整理券代わりにしてるってわけだ。つまり『撮影OK。ただし金払ってカレー買え』。上手い話にはすべからく裏があるのである。やはり人間社会は世知辛いね。発案は宇宙人なんだけどさ。
 列に目をやった限り、顔ぶれが去年の焼きそば喫茶に並んでた連中と大分被っているようだが、心中を詮索するだけ野暮と言うものだ。
 何たって今回の朝比奈さんは、サルだったかサリだったか、とにかくそのような名称がつけられたエスニック風味漂う衣装(例によってハルヒがどっかから持ってきた)を身にまとっていらっしゃって、その御姿たるや見るものに法悦の感を抱かせずにはおかないマハラジャの秘宝といったところである。
 一時は朝比奈さんを見世物にすることに反対し多数決主義に陥りやすいという民主主義の脆弱な側面を利用した政治的均衡状態を作り出そうとしながらもハルヒの眼力と長門の無言によってあえなく蹴散らされた俺でさえ、思わず心の中で結果オーライと呟いたとしても誰にも責められはしないはずだ。ちょっと前のことも記憶にございません。
 俺もあとで、一枚ぐらい撮らせてもらおう。パソコンの中の朝比奈フォルダをより充実させるために。
「店員さーん、カレーまだっすかー?」
 数秒手を止めただけで催促されてしまう。まったく、こらえ性の無い客もいたもんだ。人気店で働くのも楽じゃないよな。
「あー、はいはい。少しお待ちくださ…………谷口。お前、生徒会の手伝いしてたんじゃなかったのか」 
 こらえ性の無い客改めデジカメを片手にぶら下げた谷口は、そのにやけた面に付属するいかがわしい眼で朝比奈さんを撫で回しつつ、
「おう。見ればわかるとおり、敵情視察の真っ最中だ。んなことより早くカレーをくれ。今のポーズなら俺的ベストショットを撮れそうな気が」
「はい、熱いから気をつけて下さいね」
「おい! さらっと飛ばして後ろの奴に渡すなよ! 俺だってちゃんと金払ってんだぞ!」
 性犯罪者予備軍を客として扱う必要はちっとも感じないね。店にだって客を選ぶ権利は有していて然るべきだ。
「まださっきのこと根に持ってるのか? は、そんなんじゃ器が知れるぜ、キョン。些細な衝突なんて引き摺ってたら、世界の平和は遠ざかる一方だ。皆、過去を水に流して手を取り合わないといけない時代がやって来てんだよ。だから俺たちも、身近なことから始めていこうぜ?」
「はい、食べ終わったら所定のゴミ箱にきちんと捨てて下さいね」
「うお、また無視かよ。せっかくいい事言ったと思ったのに……くそ、そっちがその気ならな、ぺっぺっ、ほぉら、どうだ! これでその唾つきカレーは俺以外に販売することができまい!」
「おおっと、手が滑ったーい」
 俺の右手から晩夏の蝉のように滑り落ちたカレーは、儚くも散って地面に茶色い花火を描いた。有終の美である。秋(しゅう)だけに。
「何上手いこと言って誤魔化そうとしてんだよ! 絶対わざとだったろうが今の! ええい、こんな不良店員じゃ話になんねえ! 店長を呼べ店長を!」
「お前こそさっさと向こう岸に帰れ! 変質クレーマーに売るカレーなんてこっちには無いんだよ!」
 睨みあう俺たち。これも朝比奈さんの穢れ無き御姿を守るためだ。言わば義憤だ。正義のためだ。果たして再び取っ組み合いのゴングは打ち鳴らされ、
「コラー! うちのみくるちゃんを返しなさーーい!!」
 すぐさま轟いたハルヒの大声にかき消される。気付けば並んでいたはずのカメラマンたちもいなくなっており、がら空きになった屋台の向こう側に見えたのは、教師二人に挟まれて連行される朝比奈さんの姿だった。
「あたし、『世界の民族衣装展』なんて知りません! 盗んでなんてないです! 誤解ですっ、誤解ですぅ! 涼宮さん、助けてくださぁ〜い!」
 追いすがるハルヒの抵抗も虚しく、朝比奈さんはずるずると引き摺られていき、そのまま校舎の中に消えていった。 
 シャッターチャンスが、とぼやく谷口をそのままに、苦虫を噛み潰して嚥下したような顔をしているハルヒに駆け寄って事情を尋ねてみると、
「あの衣装ね、何か被服室にマネキンが置いてあって、それに着せられてたから持って来ちゃったんだけど……ひょっとして展示物だったのかしら……いやいや、まさかまさかね」
 俺は思わず空を仰いだ。秋の空は変わりやすくて複雑だが、今日は朝から変わらず馬鹿みたいに晴れている。
 こいつの頭の中も、きっと似たようなものなのだ。


  


 助けに向かったハルヒ共々こってり絞られたと思しき様子で涙目のまま帰ってきた朝比奈さんは、当然ながらエプロン姿に逆戻りしており、撮影会がおじゃんになるや否や、一時の栄華を誇っていた俺たちの屋台にはまたしても閑古鳥がピーチクパーチクと鳴き始めていた。
「あーあ、一気に決着をつけられると思ったのに。ったく、ちょっと大胆なコスプレもできないで、何のためのお祭りなのよ」
 ぶつくさ言うなよ。すぐに解放されただけで儲け物だろ。これが文化祭じゃなかったらあと一時間は帰ってこれなかったかもしれないんだからな。
「ふん。集客のアイディアにまで一々ケチをつけられたんじゃ、たまったもんじゃないわ。自由な校風が聞いて呆れるわね」
 そのアイディアが風営法に引っかかりそうなやり口でさえなければ、お前の言葉にも頷いてやるよ。
「もう十分売りさばけただろ。三分の一ぐらいはいけたんじゃないか? どちらにせよ、大きなアドバンテージになったはずだ」
 だからそれで満足してくれ。
「そ、そうですよ涼宮さん。あたし達も向こうみたいに地道に売っていきましょう。そっちの方が確実だと思うんです」
 不本意なコスプレのせいで怒られたのがよほど堪えたのだろう。ハト以上に保守派の象徴として機能しそうな朝比奈さんも、安全策をとらせようと必死だ。
 はやる君主を諌めんとする左右に対し、デザインは気に入ったのにサイズが足りない靴を眺めるように眉を寄せていたハルヒだったのだが、やがて顔の筋肉を緩めると、
「ま、それもそうね。もう十時になるし、お腹が空いてくる人だって増えるでしょ。校内から溢れ出した連中をガンガンキャッチしていくわよ!」
 見事なご採択。俺は朝比奈さん共々ほっと息をついた。普通に客を呼び込み捌いていくだけなら、それは平和と言えるだろう。
 しかし、安堵する俺たちを嘲笑うかのようなタイミングで、女性と子供だけで十人ばかりの集団が、校舎の中からぞろぞろと出てきた。
「はい、こちらでーす……じゃなかった、こっちだワン!」
 集団の先頭には一人だけ妙ちきりんな犬の着ぐるみを着た奴がいて、どうもそいつが先導しているらしい。他は普通の格好をしてる人ばかりだし、仮装行列の類では無さそうだ。どこに向かうのかと思って見ていると、案内した先は生徒会の屋台だった。
 財布を取り出しているところからして、どうやら、全員あっちのお客らしい。となると、あの犬は生徒会の宣伝部隊か。手の込んだことしてんなぁ。向こうは思っていた以上に勝負に乗り気なのかもしれない。長門も喜緑さんも、静かなくせして熱くなりやすいタイプなのかね。
「まずった……まさかここで手を打ってくるなんて思わなかったわ」
 しかしこの通り、こっちには周りが熱くなると自分も燃え出さずにはいられない出来損ないの燃焼機関みたいな奴がいるので、できればそういう温度の高いやつは他所でやって欲しかった。
「安全策は撤回。うかうかしてる暇は無さそうね。あっちは女性にターゲットを絞りはじめたようだし、こっちもみくちゃんをフルに活用して、あぶれた男性のターゲットを狙えるような新たな策を練らないと」
「ひぇ、そ、そんなぁっ!?」
 平和は火のついた紙片が燃えて落ちるまでの時間のように短い。俺はさっきとは違う意味で息を吐き出した。
「…………ん?」
 先導を終えた犬の着ぐるみが、一仕事終えて身体をほぐす仕草の途中、くるりとこちらを振り返る。その中に見知った顔を見つけた俺は、一部喧々一部黙々と話し合う三人を一瞥してから、犬の元に向かった。
「国木田」
「あ、キョン。どうしたワン……じゃないや、どうしたの?」
 丁度俺の目線と同じ高さに犬の鼻っ面があって、その大口の中に踊り食いされてるような状態で国木田の顔が表に出ていた。太くたるんだ首の下には、生徒会カレーの宣伝と屋台の場所がわかる簡単な地図が書かれたポップをぶら下げている。
「どうしたワンじゃねえよ。何でまたそんな格好してるんだ」
 それにお前、今の時間はクラスの番をしてるはずだろ。こんなところにいていいのか?
「いや、それが谷口に頼まれちゃってさ。後で色々奢ってくれるっていうから、手伝いやってるんだ。クラスの展示眺めてたって、どうせ暇なだけだしね。アンケート用紙を盗むような暇人なんて世の中にいないと信じてるよ。あとワンっていうのはね、言わなきゃダメなんだってさ。キャラ的に」
 要するにサボりってわけだろ。感心しないな。
「キョンだって似たり寄ったりじゃないか」 
 まあな。どうせうちのクラスは無気力な展示を無気力に行なっているだけだし、忙殺されっぱなしの俺が無理して参加するほどのプライオリティを有してはいないのだ。
「僕にとってもだよ。この格好してたら、結構女の子が話しかけてくれたりするんだよねー。さっきなんて抱きつかれたんだ。キョンも今度やってみるといいいよ」
 一通り身体を動かした国木田は、じゃあ、とそれこそ散歩に呼ばれた犬のような足取りで校舎に消えていった。
 なるほど、抱きつかれたりするのか。妙に楽しそうにしてると思ったら、そんな裏があったとはな。いや、羨ましいなんて思ってないけどさ。本当だぜ。カレーのパックをかき混ぜるだけの人生でも、全然悔しくなんて無いんだぜ。
「キョン、やせ我慢しない方がいいわ」
 突然の声に振り返ると、ハルヒと長門がそこにいた。やせ我慢って何の話だよ。
「今の話、あたし達も聞いてた。だからこそ言うけど、あんたは今、猛烈に着ぐるみを着用したくて溜まらない。でもそのリビドーを、何とかして抑えようとしているの。違う?」
「……まあ、確かに抱きつかれる云々は少し羨ましいと思ったけど、別にそう大層なものじゃ……な、長門?」
 いつの間にか、染みの無いオフホワイトの指先が俺のYシャツを掴まえていた。長門はそのままスタスタと歩き出す。つまづきそうなると、今度は手首をがっちりと握られた。こちらは毎度お馴染みの感触だ。
「さ、行きましょ行きましょ」
 二人に引っ張られながら、朝比奈さんを縋る様に見やると、売られていく仔牛に向けてそうするように弱弱しく首を横に振って返された。
 俺はどこに売られていくのか、せめて教えてくれないか。
 先行くハルヒは振り向きもせずに、 
「そんなの、部室に決まってるじゃない!」


  


「カレー、カレー、辛口カレーはいかがケロー。甘くなくてちょっぴり辛い、まるで男子校の青春のようなカレーはいかがケロー」
「あんたねえ、やる気あんの! ぜんっぜん美味しさが伝わらない口上じゃない! なんか酸っぱそうだし!」
 やる気があるのかと問われれば、もうまるで無えよ。
 カエルの着ぐるみを無理矢理着せられてまで喜んで客寄せに励めるほど、俺は大人ではない。何より辛いのは、国木田犬と違って誰も俺カエルを一顧だにしてくれないことだ。校舎内を練り歩いてみても、抱きつかれるどころか壁際に幅寄せされる始末。童顔とは程遠い自分の顔が憎かった。ハルヒの手で物のついでとばかりにグリーンで彩色された自分の顔が。
「あんただってやればできるわ。国木田に負けないぐらい、その、あれよ。カエルよ。可愛いカエルよ」
 サボらせないための監督役としてついてきたハルヒが、普段では考えられないほど気を使ってくる様も、心を苛む原因の一つだった。客観的に見てもよほど哀れな状態に陥っているに違いない。無自覚な優しさはかえって本人も気付かぬ急所を暴く場合がある。
「あ、ほら! 試しにあそこの光陽園の子に聞いてみましょ」
 引き抜かれて二日経ったヒマワリのように項垂れの角度を深めていく俺に同情を禁じえなかったのか、止める間もなく、ハルヒは目の前を通り過ぎようとした女子に声をかけた。
「ねえねえ、そこの人。ちょっといい? あのカエル見てどう思うか、聞かせて欲しいんだけど」
 振り向いたその顔は、結構可愛かった。俺はさり気なくNHKっぽいポーズなんか決めてみる。きっと女子供にはバカ受けだ。
「え〜っとね〜、素でキモーイ」
 泣いてもいいだろうか。
「あんたの顔の方がキモイわよ! さっさとどっか行きなさいこのぶりっ子が!…………とまあ、こんな具合にね、それだけカエルが個性的だってことじゃないの」
「個性的というか、外見に関して直接的にキモイって言われたケロ。さすがに始めての経験だケロ」
「大丈夫。あの子ツンデレよ」
「……もういいケロ」
 今晩は一人枕を濡らすから、もういい。これ以上心の傷を増やさないでくれ。
「ね、ねぇ、本気でへこまないでよ。何かすごく罪悪感を感じるじゃない。少なくともあたしや有希はカエルも悪くないと思ってるわよ。それにみくるちゃんだって、きっと『わー、キョンくん可愛いですね』って言ってくれるから」
「やかましいケロ。安っぽい慰めなんて不要ケロ。どうせ俺なんて、畦道で自転車に轢かれてるのがお似合いな薄汚い田舎のカエル……」
 ……いや、待てよ?
 そう、これはカエルなんだ。キモイのはカエル。人は一人の内に二重化した系列を置く事はできない。つまりカエルは俺ではないわけだから、俺そのものは別にキモくなんてないはず。イエスアイキャン。
「よし、ハルヒ。せめて俺がこの格好をしている間はだな、俺のことをキョンではなくただのカエルと呼んで欲し」
「キョンくーーん!」
「あ。あれ、こっちに来るの妹ちゃんじゃない?」
「わー! やっぱりキョンくんだ! なにその顔、キョンくんキモイー」
 ははは、こいつったら本当に正直者。
「ちょ、待ちなさいキョン! 早まっちゃダメ! それは窓よ! そしてここは三階よ! 妹ちゃん、あなたも手伝って!!」
「え? う、うん。……キョンくんなんでそんな信じられないぐらいキモイ格好してるのー?」
「違うの妹ちゃん! 自殺幇助してって意味じゃないのよ!」
「死なせてくれケローー!!」