愛媛の教科書問題 > 愛媛の教科書問題(3) 2002/08/16〜

◆家永三郎さん逝去/「憲法空洞化」に抗し半生/自らの戦争責任が原点◆


 教科書裁判をライフワークとして活躍してきた家永三郎さんが11月29日無くなった。自らの戦争責任への痛切な反省から、戦後は「憲法の空洞化」に抗し、半生をかけて粘り強く訴訟に取り組んだ。

 原点は教育者、学者である自らの戦争責任論だった。「戦時中、帝国主義に便乗しないことで個人としての良心は守ったが、戦争に反対することもくい止めることもできなかった」

 苦渋の思いから、戦後の占領政策が「逆コース」に向かう中で積極的に政治活動に傘下。教科書裁判もその延長線上にあった。

 「教科書検定は戦前と同じ思想統制。戦争への道はそうして固められていった。私が教科書執筆をやめれば個人良心は守れるが、次の世代からあの時何をしていたのだと問われる」「憲法の精神的自由の条項は何としても守りたい」

 そんな思いから始めた訴訟は3次にわたり、32年間を超す闘いに。法廷や弁護団会議にはほとんど欠席しなかった。一方で歴史研究の著書も次々に発表、小柄な体に秘めたエネルギーは周囲を驚かせた。

 2次訴訟で1970年7月、国民の教育権をうたい家永教科書の不合格処分を違憲とした東京地裁判決(杉本判決)を勝ち取った。

 その後の司法判断は家永さんに厳しかったが決してあきらめなかった。「いずれ必ず正しい審判が下る」と歴史家らしい長い物差しで将来を見据えていた。

 97年8月、3次訴訟で最高裁が「731部隊」の検定についても違法性を認める判断を示した。「訴訟が日本だけでなく世界史的な出来事になって大変光栄」と誇らしげに語った。

●「密室検定に風穴」教科書裁判を支援した太田尭東大名誉教授(教育学)の話し●
 「教育内容への国家介入を許さない」という新年を貫く強靱な自我と、人の話を謙虚に聞く柔軟さを兼ね備えた人だった。脅しの手紙など嫌がらせも受けていたようだが、決してひるむことはなかった。32年間も戦い続けたことは敬服に値する。制度の透明性を高めることを政府に促して、その後の検定意見の文書化などにつなげ、密室で行われていた教科書検定に風穴をあけたと思う。

 支援運動が各地に広がり、教員だけでなく母親たちも、教育について勉強会を開くようになっていった。戦前への半生から「教科書は絶対的に正しいお手本ではなく、子どもたちが考えるための参考資料だ」という教育の新しいあり方も提起していたと思う。

●「民主主義への功績大」市民団体「子どもと教科書全国ネット21」の俵義文事務局長の話●
 家永教科書訴訟の運動は、日本の平和や民主主義に大きな功績を残した。もし訴訟がなければ、日本の教育や教科書はもっとひどい状況になっていただろう。家永さんの石を受け継ぎ、検定制度の廃止に向け努力したい。

(2002/12/02 『愛媛新聞』より)