規則正しく時を刻む音。  わたしを突き動かすあの音。  今も昔も、止め処なく刻み続けるあの音が、今のわたしの全てだった。 「お嬢様。紅茶をお持ちしました」  止め処無く続いていく毎日。  透明で、空っぽな毎日。 「うん。ありがとうね」  もうどれくらい繰り返したのか。  テーブルに紅茶を並べる。 その一つ一つがもう毎日決まったような作業で、わたしの心は空っぽだった。 「どうしたの咲夜?何か不満でも?」  いつも決められた位置に、わたしは立っている。  立っているだけで、それ以外何もしていない。ふと見回した室内は、 透明な色彩が上塗りされたようにのっぺりとしていて、生活感に欠けていた。 「いいえ、何も」  だけど不満なんて、ない。  もちろんお嬢様にも責任はない。  わたしが空っぽで、わたしがわたしでないことは、誰のせいでもない。 「そう。最近ぼうっとしてること多いわよ。しっかりしてちょうだい」  薄い紅色の口元に、紅茶のカップが触れる。  その表面に、お嬢様の瞳が色濃く映った。  見つめれば見つめるほどに、その瞳は濃さを増していく。 まるで身体ごと吸い込まれていくようなその瞳の色が、わたしには少し怖かった。 「はい。すみません」  だからというわけでもない。  わたしは謝っていた。  きちんと仕事をこなしているのに。  ただでさえ忙しくて、忙しくて時間がないのに。  自分自身を納得させることに、意味なんてものはなかった。 納得するよりも、目の前にあるそれに早く順応することの方が、意味を成すことが多い。 疑うよりも信じてしまう方が簡単で、少しばかりは心が自由でいられた。 「それでは失礼します」  だからわたしはお嬢様の部屋を出て行く。  出て行く。  動作一つ一つが単純で、機械的で、わたしを空っぽにしていく。 きっと今でも心の隙間はどんどん広がっているんだと思う。今まで埋め尽くしていたものを、 どんどん食いつぶしていくんだろう。 でももう何も浮かんでこない。  ただ一点の曇りだけがわたしを突き動かしている。 「庭の掃除、まだしていなかったわ」  屋敷の外に出たいと思った。  大きな屋敷の外に。  わたしがやらなければ、誰もこの庭を管理することはできない。 こんなに綺麗に咲き誇っている花々も、刈り込まれた芝もわたしが世話しなければやがては枯れていく。 わたしがやらなければ。 わたしがいなければ。  それでも、今のわたしには、そんなことも大して意味はない、ほんの些細なことにしか思えなかった。 たとえばわたしがいなくなったとして。たとえばこの花を誰も世話してやることができなくなったとして。 枯れていくしかないこの花は可哀想だけれども、枯れていくことがそんなに悪いことではないように思えた。 どうせ悪魔や人に見られることしか咲いている目的はなくて、世話もしなければ生きることもできないのだ。 「こんなものの世話に、わたしは縛られているというの?」  こんなもの。  ここの庭でしか生きていけない花。  縛られて生きることしかできず、生かすも殺すもわたしに委ねられて。 与える水の分量すら気を遣わなくてはいけない。 「ふふっ…。哀れよね。ここでしか生きていけず、ここでしか死ぬことも許されないのよ? どんなに綺麗でいても、それを見ているのはほんの一握りの悪魔たちなんだから」  美しく花を咲かせたそれに、わたしは問いかけた。きっとわたしもそれは一緒だ。 人間であってもわたしは他の人間と滅多に触れ合う機会はなく、毎日ただ淡々と悪魔のために仕事をこなし、 大して彩りもなく生涯を終えていく未来しか待ち受けていない。それは確かにわたしの本望でもあるけれども。  それでも、この焦燥を抱えて生きることにわたしは憤りを感じれずにはいられなかった。 それは人間として当たり前の感情だと思う。 わたしは本当にただの人間であって、ここにいる無数の悪魔たちとは違うものだった。 「簡単なことよ。あなたはここのメイドなのだから」  そうなのかもしれない。  そう信じてしまえば、わたしは満たされていた。 「お嬢様。どうしたのですか?」  花に如雨露を傾ける手が止まる。ふと目が離れた先には、好奇の眼差しが咲夜を見つめていた。 「あなた、最近ちょっとここでの生活に退屈しているでしょ?」  きれいに刈り込まれた芝の上に、お嬢様は日傘を差して立っている。  にやりとお嬢様は笑った。小さな口元から鋭い八重歯が覗く。 「そんなことはありませんよ。ここでの仕事はとても充実しています。退屈だなんて、そんなこと考える時間も惜しいくらい量も多いですし」  しかし努めて咲夜は冷静だった。空気のように透明な声量。涼しげな顔に、どこにも感情は現れていない。 「散歩ならわたしもお付き致しますが?紅茶などご用意しましょうか?」  つまらない会話だ。こんな事務的なやりとりに、また咲夜は焦燥していく。 多少お嬢様が感づいたとしても、それほどに慌てる問題ではなかった。 あるいは慌てたほうが、レミリア様にとっては愉快なのかもしれない。 主人を喜ばすことは、多少意味があるのかもしれなかった。 「ほぉら。またつまらなそうな顔してるわね。まったく、わたしとの会話がそんなに退屈なのかしら」  しかし、レミリアはそんなこともお見通しらしかった。形の整った顎に手を添え、しばしレミリアは一考する。 「お嬢様。貴女のお話はとても…」 「少し黙ってて。考えたいの」  どうしてかはわからない。レミリアは極めて真剣だった。 微笑みの消えた口元には、薄暗い翳りが浮かんでいる。行き場を無くした咲夜の視線は、 ただただ周りの花ばかりに揺れていた。 「そう。ならどうかしら咲夜?」  それから一刻ばかりが過ぎ、レミリアは唐突に言い放った。 「どうかいたしましたか?」  気まずい空気は一変して、レミリアはさも嬉しそうに指を鳴らす。そういった彼女の姿を見るのは珍しかった。 「あなたに休暇を与えましょう。そう、暇を与えるわ。しかも無期限で」  最初は、ただの冗談だと思った。  とびきりに悪質なものだと。 「あなたの好きなようにしてみなさい。期限はないのだからいつ帰ってきてもいいわ。 あなたが納得のいくまで外の世界を堪能してくるといい。なんならもう帰ってこなくてもいいわ」 あの、魂まで吸い込まれそうな、澄んだ真紅の瞳。 その目は決して笑ってはいなかった。 「それは…どういうことですか?」  わたし一人で管理しているといっても過言ではない紅魔館の管理をどうするのか。  それよりもわたしはもう紅魔館に不要なメイドどなってしまったのか。  わたしは、わたしは結局そんなものだったのか。  様々な疑問が湧いて溢れ出た。それこそ日々の焦燥なんてものを簡単にかき消してしまうほどに。 「意味なんてないわ。ただ、わたしがそうしたいのよ」  でも、お嬢様の口から紡がれた答えもわたしを余計に混乱させ、困惑させるものでしかなかった。 理由もなく、意味もなくわたしをここから追い出す。帰ってこなくてもいい。言葉だけが咲夜の心を深く抉った。 「―かしこまりました」  だからといって、従わないわけにはいかない。むしろそこにわたしの意思があったにしろなかったにしろ、 きっとわたしの答えは一緒だった。 なにも今は考えることができない。 たぶん、考える時間もお嬢様は与えてくれない。 その代わり、お嬢様の要望が本当ならば、わたしにはこれから考える時間なんてたくさんある。  ただ、せめてもの救いはお嬢様が『いつでも帰ってきていい』と言ってくれたこと。  きっとわたしはいろいろな答えを見つけるまでここに戻ることはできないのだろうけど、 それだけは唯一理解できたことだった。 「さぁ、早く仕度でも始めなさいな」  それだけを言い残してレミリアは去っていった。彼女は彼女なりに気を遣ったのかもしれない。 「まったく…」  淡い溜息だけがそこに残った。 『さて、これからどうしよう』  そんな思案にふける気にもなれない。とにかく、ここからわたしは出て行かなくてはいけない。 それがどうしようもなく胸に痛かった。 もちろん、考えようによっては、今のわたしを変えるいい機会なのかもしれない。 気分転換、ちょっとした息抜きだと思えば、少しは救われた心持ちになった。 でも、でもだからといってそれに安心してしまうほど、自分は楽観的になれなかった。  メイドとしての仕事、そしてここ紅魔館の住人たちともしばしの別れとなる。 お嬢様の言っていた外の世界、なんてものはまだよくわからないけれど、とにかく、今のわたしでいるよりは幾分もマシなのかもしれない。  そう思ってわたしはもう一度この大きな屋敷を見上げた。 今はまだ淡白な光を映す透明な色彩は、帰ってきたときのわたしにどう見えているのだろうか。 もっと新鮮な色合いに満ちているのだろうか。それとも…。  今のわたしには、まだわからない。    ***