俺たちが降ろされた場所は、昨日出向いたばかりの市営グラウンドだった。橘京子はすでに走り去ってしまっている。
 さっきまでとは段違いの激しさで叩きつけてくる風雨のせいで借りていた傘は即座にめくれてしまい、「後で弁償しますから」と手を合わせつつ建物の陰に放置して、俺と長門は濡れ鼠のまま球場の門を潜る。
 車を出てからひっきりなしに古泉からの着信が入っていたのだが、今は一刻を争いかねない状況なので、長門と一緒だから心配不要とだけメールにしたためて送信し、携帯を閉じた。
「しっかし、本当にこんなとこにいるのか? あの二人」
 入場口から見渡す雨に降られたグラウンドは、朽葉色の海のようだ。風にさらわれ荒れ狂う。当然人影も見当たらない。
 だが長門は、歩いて見て回ろうとする俺の裾を掴んで止めた。虚空を静かに見る目は鋭い。
「天蓋領域のものと思われる情報制御空間の存在を確認。解析が終了しだい、侵入する。予測される危険は未知数であるが、あなたは」
「一緒に行くよ」
 間髪入れずに俺は答える。こんな豪雨の中に一人で置いていかれたんじゃたまらないからな。
 長門はじっと俺を見上げ、それ以上は何も言わず、ピッチを上げすぎた小人の歌みたいな声を発生させる。
 俺は目を瞑り、雨の音がだんだんと遠ざかっていくのを聞いていた。





 白紙にインクを垂らすように瞼の奥まで染みて広がっていく光を感じ、目を開く。
 俺たちは相変わらず野球場に突っ立っていた。以前のようにいきなり茶色の空間にほっぽりだされずに済んで安堵したのも束の間、髪を焼く陽射しの熱さに目をそばめる。
 すっかり雨は止んでいて、見上げれば昨日の天気を再生しているような晴れた空が広がっていた。濡れて奪われていた体温にお釣りとキックバックがくるほどの暑さは昨日よりも断然激しいが。
 靴の裏で感じていたはずのぬかるんだ地面も元の固さを取り戻し、ただ生物の目玉に似た太陽だけが不自然なほど天頂に位置している。
 手の平を額に被せながら、俺は改めて辺りを見渡す。誰もいないスタンドが、たった今通ってきたはずの入場口まで飲み込んで、円状に切れ目無く続き俺たちを囲っていた。その外側にある景色は書割りのように動いていない。
 対して球場内の様子にこれといった変化は見られず、まっすぐに引かれた白いライン、置きっぱなしのベース、オアシスのような陰が吹き溜まるベンチ、そして、
「……いたぞ。喜緑さんだ」
 隣に立っていた長門の肩を叩いて促し、照り返されたバッターボックスに駆け寄る。
 白線の内側で、制服姿の喜緑さんは身体を丸めたまま眠っていた。どうしてか傍には金属製のバットと白いメットが落ちており、まるで打席の途中で熱射病を患い卒倒したバッターみたいな有様だ。
 表情の消えた寝顔はちっとも快適そうには見えない。長門が熱を出した時とまったく同じ。
 大丈夫なのか?
「この空間が我々に与える負荷は強い。自衛のために意識レベルを低下させている」
 かがみながらスキャニングでもするような仕草で喜緑さんに触れている長門に、
「お前も、ここに長く居ちゃまずいんだな?」
「かもしれない」
 俺も同じだよ。六月にしてもここはちょっと暑すぎる。いくら夏男でも服を着たままサウナなんて御免だ。
 喜緑さんを担ぎ上げて日陰になっているベンチまで運び、ゆっくり寝かせると、俺たちは再び日の当たる所まで歩み出てもう一つあるはずの人影を探す。
 どこにいやがるんだ、あいつは。歩き回っても周囲には気配すらなく、雨音さえ切れた明るい球場はかえって打ち捨てられた廃墟のように佇むだけだ。色のついたフィルムを眺めている気分だった。
 俺は長門に確認しようと、
「なあ、国木田もここにいると思うか?」
 沈黙だけが伝播し、俺の耳には何も返って来ない。
「……長門?」
 振り返った先のマウンドでは、長門が今にも膝を突きそうにゆらゆらと揺れていた。
「なっ……!」
 転がりながら飛び込んで長門の肩に手を回し、倒れ伏すのを何とか防ぐ。思わず息をついた。まったく、ついて来て正解だったな。見えない所で倒れられたら肩を貸すこともできない。
 しかし、目を瞑ったままの長門を見るにつけ、一瞬の安心感はすぐに消えた。俺はやたらと軽い身体を抱きかかえて陽射しから庇い、ベンチに走る。
 湿った制服の向こう側は、つけっぱなしのブラウン管のように熱い。
 長門だけじゃなく、いつの間にか陽射しそのものが強くなっているのに、俺は気付いた。湿っていたYシャツの背中が急速に乾き、じわじわと妙な不快感が這い上がってくる。
 そして俺の不快感に拍車をかけるように、傷のついたテープにも似たノイズだらけの低い音が、スタンドの支柱に巻きつけられたスピーカーから漏れはじめた。
 長門をベンチに運んでいる間にやがてその音はチューニングを合わせていき、女性の、ウグイス嬢のように高く、しかし音域の異なる素材を継ぎはぎしたかのように素っ頓狂な声で、
『二ばン、ばったー、ナがトさん』
 スピーカーが鳴り止むと同時、今しがた離れたばかりのマウンドに、降って湧いたような思いがけなさで人影が出現する。
「国木田……今までどこにいたんだよ!」
 思わず呼びつけたあと、俺は国木田の様子がおかしいことに気付いた。
 半袖のカッターシャツを羽織った国木田は、グローブの中に硬球を収め、動力部を引っこ抜かれた玩具のように動かないまま、視線だけがバッターボックスに向けられている。
「国木田!」
 もう一度呼んでみても返事は無い。じっと止まっている。何でだよ。
 混乱しながらも、とりあえず長門を寝かせようとすると、肩にそっと手を添えられた。今まで閉じていた瞼が開き、濁らない長門の瞳が覗いている。
 そのまま俺の手をすり抜けるように身体を離した長門に、
「長門、無理しないでいいって。もう少し休んどけ。俺が国木田を連れて来るから」
 ここは気温に目を瞑ったって快適とは言い難いが、俺なら少なくともぶっ倒れることはない。お前は日陰でゆっくりと帰り支度でもしておいてくれよ。
 だけど長門は、かくしゃくと直立したままで、とんでもないことを言い出した。
「用意していた脱出経路に、特殊な条件付けがなされた未知のコードによる強固な情報封鎖が敷かれた」
 閉鎖とか封鎖とかは、俺の聞きたくない言葉ワーストワンに去年からこっち輝き続けている。閉じ込められるのが好きな奴なんて滅多にいないはずだ。
「……ひょっとして、出られないのか?」
「そう」
 驚きはしたものの、俺は結構落ち着いていた。この類のトラブルは何事もないまま終わる方が今までの経験からしてイレギュラーなケースであり、長門を一人で行かせなかったのもこういう事態を見越してのことだ。
 かと言って何か出来るってわけでもなく、いざ事が起きても結局は長門に頼るしかなかったりするのだが。
「入って来た時みたいに、無理矢理には?」
「困難。条件を正規的にパスしなくてはならない」
 何かを伝えたがっているように、こっちの目を見据えてくる。スピーカーから長門を呼び出す狂った音が再び流れはじめた。二番、バッター、長門さん。
 長門は琥珀の視線を、降る陽に焼かれているせいで滲んだ色のマウンドにゆっくりと移した。俺もそれに倣う。ピッチャーがいるべき場所には既に国木田がいて、今もしっかりとボールを握っている。
 長門は呟いた。
「あれを打てば」
「……あれって、あのボールを?」
 首肯が返ってくる。
 いやいや。頷かれても、こっちにはさっぱり意味がわからん。
「待ってくれよ長門。打つ打たない以前にな、どうして国木田があんなとこでピッチャー役なんてやってるんだ。もしわかるんなら説明してくれ」
 割と長い付き合いだが、趣味が草野球だなんて聞いた事が無いし思えもしない。
「おそらく我々が確認できない経路によって脳組織と神経系の一部に操作を加えられている」
 長門は恐ろしいことをさらっと言い、そこに重ねて、
「我々が彼らを解析しようとすれば、それに応じて彼らのうちでも我々を解析しようとする動きが表れる。特に喜緑江美里は彼らの一部である周防九曜と直接的な接触を持った最初の個体。故に彼らはまず彼女を選んだのだろう」
 焦点を国木田に定め、
「彼を操作する事で喜緑江美里に刺激を与え反応を観測していたと思われる。今はその過程で新しく得た概念を自身の内で構築化させるべく、模倣の段階に入った。それは自己を拡大させるための極めて原始的な欲求」
 模倣って、まさか野球をか? んな馬鹿な。
 小難しい言葉を咀嚼しようと頭を回すのに必死な俺を置いて、先ほどまでふらついていたとは思えないほどしっかりとした足取りでベンチを出た長門は、バッターボックスへと向かっていく。
 慌てて後を追おうとした俺は、しかしベンチから出ることすら叶わなかった。いつの間にかベンチ全体が膨らませたビニールのように柔らかい空気の膜に覆われている。叩いても引っ張っても千切れそうに無い。
 実際のビニール袋もこれぐらい丈夫ならいいのにな、くそ。
 膜の向こう側では、落ちていたメットを被り、同じく落ちていたバットを持ち上げた長門が、腕を上げて構える。キャッチャーすら不在のままで勝負が始まろうとしていた。
 どうしても破れない膜を俺は諦め、とにかく事態を見守るしかない。
 長門の話を聞く限り、俺たちをここに閉じ込めた奴らは、野球をやってみたくてしょうがないらしい。投手と打者しかいないのでどちらかと言えば一騎打ちの体だが、にしてもわざわざ出口を塞いでまでの強制参加とは恐れ入るね。
 しかし、だとすれば、だ。
 こんな馬鹿げた状況はすぐに終わると、俺は思っていた。その気になれば隕石だって打ってしまえるような長門に、国木田があっさり敗れてゲームセット。勝負になんてなるわけがない。
 俺が自分の間違いを悟ったのは、国木田がやたらと綺麗なフォームで左足を振り上げて右腕を引き、そして左足を踏み出したところで、ようやくだった。
 放たれたボールはその白さがギリギリ視認できるスピードで長門のストライクゾーンを貫いて、キャッチャー代わりのネットに突き刺さる。スピーカーが耳障りな音を鳴らした。
『ストらいク、わン』
 俺は顎を落とす他なかった。
 何キロ出てるかなんてわからないが、少なくとも今まで見てきたどんなピッチャーよりも速い。テレビの中も含めてだ。だけど俺が驚いたのは、そんな事じゃなかった。
 長門が明らかに投球に追いつけていないのだ。
 まるでバットに振り回されているような、それこそ朝比奈さんと大して変わらないスロースイングは、ネットが揺れてから一拍置いた後だった。
 あいつ、全然調子戻ってないじゃないか。何事も無かったみたいに出て行くもんだから、マシになったものとばかり思っていたのに。無理矢理にでも寝かせておいた方が良かったんだ。
 どういう仕組みなのか、跳ね返って転がっていたボールが消えて再び国木田の手元に戻る。
 バットを地面にくっつけたまま休んでいた様子の長門は、苦いものを飲み下す俺をよそに、打つ構えをとった。さっきより目に見えて力が入っていない。当然、速球を打てるはずも無く、
『スとらイク、ツー』
「長門!?」
 長門は地に付けたバットにもたれかかる。今にも倒れそうだ。火をくべられたように、太陽がぎらぎらとした輝きを増している。
 俺は眠ったままの喜緑さんを顧みる。二番打者が長門なら、一番は喜緑さんだったのだろう。打席の途中で強い陽に耐えかねたかのように倒れていた。
「おい待てお前ら! タイムだタイム! 長門、いいからこっちに戻って来い!」
 項垂れていた長門はまたしても顔を上げた。国木田が振りかぶる。
「やめろって!!」
 俺は体当たりをしても破れない膜に腹を据えかね、いっそ噛み千切ってやろうと中空に歯を立てる。しかしすでにボールは投げられ、長門はとうとうバットを振ることもできず、ゼンマイの切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
『バったー、アうト』
 突然消えた膜を気にする余裕も無く、長門の元へ走る。白く燃え残った木炭みたく芯から熱い身体を抱き上げても、目を覚ます様子は無かった。
 スピーカーからは、三番バッターとして俺の名前がアナウンスされている。長門の額は今までに無く熱いままだ。俺はスピーカーを睨みつけた。やかましいんだよクソッタレ。
「ふざけんのもいい加減にしろ。長門も喜緑さんも熱が出てるんだ。これ以上付き合ってなんていられるかよ。なあ、日本語ぐらいわかってんだろ? さっさと俺たちをここから出せ」
 馬鹿にするような角度でこちらを見下ろすスピーカーは、再三に渡って俺の名前を呼びつける。
 いいさ。そっちがその気なら、力づくでやってやる。
 長門を喜緑さんの隣に横たえた俺は、ピッチャーを引き摺りおろしてやろうとマウンドに登る。
 だがまたしても空気の膜に阻まれ、国木田を中心に球形を形作っているらしきそれは、バットで叩き壊そうとしても、出来のいい綿毛の塊でも打っているように手ごたえが無かった。
 諦めきれずに振り回していたバットは、やがて汗で滑り、俺の手を離れて焦げた地面に落ちる。むき出しの腕を焼く気温は、さっきよりも明らかに上がっていた。カラカラの喉が絞られたように痛んだ。
 疲れと暑さで立っていられず、とうとう俺は蹲った。頬を伝い唇の先から落ちた一滴の汗をじっと見つめる。
 さて、どうする。
 あんな球は打てるわけがない。長門と喜緑さんはただでさえやばい状態だ。この上スリーアウトを取られたらどうなるかなんて想像したくもない。いや、今のままでも一緒か。俺も含めて暑さでやられちまうのは時間の問題だ。
 携帯を取り出してみてもウンともスンとも言わず、助っ人も呼べない。球場の外には出れないだろう。つまり逃げる事すら叶わない。
 なるほど、どうしようも無いな。お手上げだ。何てこった。茹った頭からは、ネガティブな考えしか浮かんでこない。希望は水と同じく真っ先に渇いて消えていた。





 俺は、すがるように顎を上げた。
「国木田、いいのかよ? 喜緑さん苦しそうだぞ」
 無言のままの国木田は、焦点が合っているのかいないのか虚な目でバッターボックスをねめつけている。
 こいつ、厄介なものに取り憑かれてるみたいだけど、それは一体いつからだった? あの日、廊下で頭を打った、最初の時からか?
 じゃあこんな事言っても無駄だろうな。頭をもう一度ゴツンとやれば、すぐに醒める夢みたいなものに、こいつは罹っていただけなんだから。ほら見ろ。一目惚れなんて病人の譫言と何も変わりゃしないじゃないか。
 しかしだとしたら、俺は何のための余計な節介を焼いてたんだろう。少なくともベンチで寝てる二人に夏風邪を引かせるためじゃなかったと思う。
 並んで横たわる二人は、遠くで陽炎に溶けていくように映る。逆に昨日のファミレスで感じていた煙のような違和感は、俺の中でだんだんと形になっていった。
 どうしてわざわざ喜緑さんは、あのタイミングであんな事を言ったのか。
 決まってる。喜緑さんは、国木田の背後に何かがいると気付いてたんだ。
 目の前にあってもそれと気付かせない、特定の事物に対する認識能力を低下させる隠密能力は、あいつらの十八番だ。九曜と初めて会った時もそうだし、喜緑さんだって以前喫茶店で鉢合わせした時、似たような能力を行使していた節があった。
 少なくとも昨日の段階で、国木田が普通の状態にない事ぐらい察しがついたはずなんだ。誰も、それこそ喜緑さんですら気付かなかったのかもしれない汚れたジャージという忘れ物を、俺が指摘したから。
 或いはずっと前。初めからわかっていたのか。
 じゃあ、どうしてそうとわかって国木田に付き合ってたんだ。今日だってあいつについていかなければ、多分こんなところに閉じ込められたりしなかっただろう。
 どうして。未知への探究心か。向こうから接触してくるのなら、情報を集めるにはいい機会だとでも思ったのだろうか。向こうもそう考えていたのかもしれないな。わかっていたって乗ってくるはずだ、と。互いの腹を探り合うチャンスなのだから。
 喜緑さんの同僚でもある長門はどうだ。俺がマンションを訪ねていった時は何も知らない様子だったが、それ以降はわからない。途中から気付いていたが、聞かれなかったから言わなかっただけとか。有りえそうで困る。
 それと九曜。あの漆黒の宇宙人。あいつは関係無いとか何とか言っていたが、今のザマを鑑みれば結果的に罠に嵌められたような気もする。何の思惑があって俺たちをここに導いたのか。
 それから橘京子。古泉たちと何を話し合ってるんだ? やはりこいつも腹に一物抱えていて、俺たちをダシに無理な要求を突きつけてるんじゃなかろうか。疑いたいわけじゃないが普段の素行が悪すぎる。自業自得だ。
 ああ、この際だから言ってしまえば、古泉たちの機関にしても大概わけがわからない。もう一年ちょっとの付き合いになるが未だほとんどシルエットの状態だし、優秀な人たちが揃ってるのはわかるけど、活動資金とかどうなってるんだよ。
 朝比奈さんはどうだ。もちろん俺の心のアイドル。だが大きくなった彼女の思惑はまったく読めないし、もう一人の未来人であるあの不愉快な野郎に関しては語る言葉を俺は持たないしこれから持つ予定も無いし必要も感じない。
 ……いや、待て。そもそも何考えようとしてたんだ俺は。もうわけがわからなくなってきた。途中からただの愚痴になってる。
 まあいいか。とにかく俺の知らないところで、色々な思惑がぐるぐると回っているのだ。暑さで目玉もぐるぐる回るし、そうやってぐるぐる考えてると、だんだん腹も立ってくる。
 世の中はどうしてこう正体のわからない雑多なものが入り混じって暗い雨雲のようにわだかまり、理不尽にも俺に降りかかるのか。
 ただでさえジメジメした梅雨のこの時期に、掘りごたつの底みたいな炎天下で、何の因果でエイリアンと野球なんてやらなきゃならない。イロモノ三流映画のシナリオかっての。
 ひょっとしたら、ハルヒも中学の時はいつもこんな気持ちだったのだろうか。だとしたらあの無駄に不敵な態度の理由も少しはわかる気がするね。
「……ほんと、全部投げ出したくなるよな。そうでもしないとさ」
 頭を軽くはたいて回っていた目玉を止め、俺は立ち上がる。
 何より一番理不尽なのは、そんな世の中も悪くないと思ってる俺自身なのかもしれない。
 ハルヒがこの面白みに欠ける世界を捨てられなかったように、クリパで食った鍋みたいにごちゃ混ぜの世界の中にも、俺にだってわかるぐらい易しくてシンプルな答えがあると、勝手に思い込んでいる。性質の悪い病気だ。
 だからSOS団の雑用係である俺は、団長含め他の団員を馬鹿みたいに信用しているし、これまた厄介なことに、いらん世話を散々焼いてしまったピエロな俺としても、最後まで信じなくてはならないものがある。
 別に勘違いでもいいのさ。
 俺たちがこんな場所でくたばる事が無いのは勿論、国木田は理解不能な一目惚れとやらにマジで陥っていて、そして喜緑さんはそんな譫言に付き合うのが、きっと楽しかったんだ。

 ――少しだけ。

 俺は国木田の凝り固まったつまらない顔を一瞥し、バッターボックスへと向かう。
 考え続ける事に価値のある場面とまるで無い場面があるが、今は間違いなく後者だ。
 要はあの雪山とおなじ事だ。あっちは頭を使ったが、こっちは身体を使えばいい。ややこしい定理だの公理だのも出てこないし、最初っから鍵はあって、それを打てば開くのだ。数学の苦手な俺には正にうってつけ。
 一度素振りして頭に凝る靄を晴らし、白線で縁取られたバッターボックスに入る。白いメットを被ると、頭を焼いていた熱は大分マシになった。
「さあ、投げて来いよ、へぼピッチャー」
 国木田の、さらに頭上で澄ました顔のままかつ偉そうにのさばっている太陽にバットを向ける。熱に浮かされておかしなテンションのまま、心の内で頑固な汚れのようにこびりついている根拠の無い自信をかき集めて唇をへし曲げ、
「ボッコボコに打ちまくってやる」
 こう見えても強打が売りの四番バッターなんだ。もし打球が飛んできてもキレるんじゃねえぞ。スポーツに怪我は付き物だからな。






 バットを構えると、国木田も左足を上げて投球の姿勢に入る。
 俺は白い球だけを見つめる。大丈夫、特急電車並に速いだけの直球だ。コースもストライクゾーンに限定されている。ハルヒの球と一緒で、タイミングを覚えればすぐに打てる。
 こちらが一度瞬きを終えると同時に、国木田の腕が振りぬかれる。目で追えない。感覚だけでバットを振った。遅い。一瞬と経たずにネットが揺さぶられる。ワンストライク。
 ニヤついた顔のまま、先ほどの球を反芻する。ベンチから見てた時よりもずっと速く感じる球だ。特急電車というより新幹線と言ったほうが正しい。タイミングを掴むのはおそらく不可能だ。どうする。まぐれ当たりを願うしかないのか。
 国木田はこちらの準備を待たず、ピッチングのモーションに入っている。慌てて構える俺を笑うように球を握った腕がしなった。急な動きにつられて、こちらもバットを動かしてしまう。
 馬鹿。今度は早過ぎだ。
 タイミングもフォームもちぐはぐなバットとすれ違いに、ボールはベルトラインを縫う完璧なコースでホームベースの真上を通過する。ツーストライク。
 あっという間に残り一球。しかめ面を作りそうになるのを堪えつつ、顔中に浮いた汗を袖で拭う。
 シャツ越しにも熱気を感じる。気温はいよいよ真夏日をはるかに上回ろうとしていた。目を閉じると、心臓が痛いほど鳴っている。もう後が無いと思うと気ばかりが逸ってしょうがない。バットを握る手が小刻みに揺れていた。
 やれやれだよ、まったく。
 ゆっくりと深呼吸したあと、目を開いた。眩い白に輪郭を縁取られた国木田の表情は、影に喰われたように無い。喰われたってことは喰った奴がいるってことだ。
 俺はバットを構える。
 同時に、国木田の腕が三度振り上げられた。思わずバットを動かそうとするせっかちな俺の腕を、何とか抑えて、言い聞かせる。
 逸るな。焦るな。球を見ろ。可能な限りギリギリまでじっくりと。二回でタイミングを覚えられなくても、三回目で覚えて、そのまま打ってやればいい。
 国木田の左足が上がる。球を握った右手が引き絞られる。
 張り詰めた空気の中、俺はじっと白い球だけを見詰める。
 ずん、と強い地鳴りが起こった。
 陽射しが突如現れた巨体に遮られ、マウンドに日陰が降りても、俺は白い球だけを見つめる。足場ごと姿勢を崩した国木田の腕からすっぽ抜けて、放物線を描く遅い球。
 ところで、テレビでもろくすっぽお目にかかれないような剛速球を見極めろだなんて、素人に向けるにしては難易度の高すぎるアドバイスだとは思わないか?
 俺は今度こそ本当に笑いながら、妹でも打てそうな速度で暗い陰の上をゆっくりと走る白球めがけ、渾身の力でバットを振り抜いた。