後日、なんと国木田はマジで生徒会に入った。
 時期的に正式加入は不可能であり、名目上は自主的なボランティアということになっているらしいが、それにしても大した思い切りの良さだ。普段落ち着いた奴ほどいざという時の行動力には目を瞠るものがあるというが、どうやらそれを地でいく男だったらしい。
 俺は面白半分で頑張れよとか何とか適当に応援しながら、残りの半分は心配だったわけで、いつか国木田が「喜緑さん? 誰だっけ?」とか言い出しやしないかと危ぶんでいたのだが、今のところ杞憂で済んでいた。
 しかし、そのあいだ平和な時間を堪能していたのかと問われれば、谷口共々首を横に振らずにはいられない。
 問題は主に昼休みの下らないおしゃべり。
 国木田が語る、喜緑さんと何回言葉を交わしただの、目の前で失敗をやらかして憂鬱だの、ウェーブ掛かった髪から香る芳醇な調べは教会に響き渡る子供達の聖歌を髣髴とさせるだの、超指向的なトピックスだ。
 この世でどうでもいい話はそれこそノイズワードをいくら定義し直しても足りないぐらいあるのだが、その中でも他人の惚気にすらなっていない話は間違いなくピラミッドの頂上付近に位置している。
 しかも本人は自然な流れで話しているつもりらしいが、実際は超変則的話題転換を用いており、どうして昔集めていたセミの抜け殻の話から喜緑さんの睫毛のカール具合の話に至るのか未だにわからない。
 それでも、友人の夢見るような言葉の数々に水を指すのは憚られるわけで。
 俺は江戸時代のカラクリじみたぎこちなさで、片や谷口はバレンタインにもらった変な味のするチョコを無理矢理頬張っているような笑顔で黙って聞いてやるしか術が無かった。
 正直、辛かったね。そのうち外耳に緑色のタコができるんじゃないかと思ったぐらいだ。
 好成績を旗印に俺たちの前を颯爽と歩いていた国木田はどこに行ってしまったのだろうかと、谷口と二人で慨嘆する事しきりだったのだが、俺はその内、頭を悩ませる余裕すら無くなってしまっていた。 
 それは珍しく晴れた日の放課後、例によって後ろの席でハルヒがぶちまけた言葉による。
「ねえ、キョン。来週は何のイベントがあるか知ってる?」
 イベント? 株主総会か?
 弁当箱しか入っていない鞄をいじくりながら適当に応じる俺に向かって、ハルヒは愛想が尽きたとばかりにため息をつくと、
「ばっか、あんたの記憶は一体どこに蓄積されてんのよ。三日に一度ぐらいの周期で燃えるゴミにでも出してんの? これよこれ。じゃーん! 野球大会!」
 そんなに近づけられたら逆に見えねえだろ。
 ボールとバットの描かれているらしきプリントを中国産妖怪のように額に貼り付けられながら、俺はしみじみと言った。
「今年も出ちまうのか、それ」
「当ったり前じゃない。去年も勝ったんだから、今年も勝たないとね。それが勝者の義務であり責任でもあるわ。早速練習に入るから。制服のままじゃ動きにくいし、めいめいちゃんとした体操着に着替えて部室に集合!」
 虚数空間からはみ出してきた責任感を振りかざしつつ、部室で着替えるつもりなのだろう、巾着袋を手にしたハルヒは、チーターのように飛び出して行く。
 俺はどうして今日に限って晴れてるんだと日干しされた校庭を恨み、まさかハルヒが願ったせいかと古泉的な勘繰りを巡らせつつ、結局はジャージに足を通している自分に対して悲嘆に暮れながらその後を追った。
 それからしばらくは野球漬けだ。
 北高野球部に乗り込んだ俺たちは、前回同様無理矢理な手口で、もしくは裏から古泉が手を回していたのか、とにかく練習権を接収せしめた。
 ハルヒは去年より表情こそ柔らかいもののその極悪さは少しも劣ることの無いノックを俺たちに課し、やはり朝比奈さんは早々と退場めされ、長門は黙々と自分の方に来た球をグローブに収めていく。
 心なしか普段より生き生きとしている古泉はともかく、俺は運動部でもないのにどうしてこんな事を? と自己の存在に対する思索を錨のように深く沈めながら嫌々白球を追っていた。つくづくスポ根には向かない性格だ。
 多分気まぐれなんだろうが、前回より気合が入ってしまっているハルヒに比喩抜きで尻を蹴られつつ、連日授業が終われば野球部の連中に混じって打つの投げるの球を拾うの。終いには朝練とか言い出す始末。
 お陰さまで、俺の一日は十時に寝て五時に起きるという七十代前半の老人みたいなタイムスケジュールさ。あいつは俺たち全員を賢いエミールにでもするつもりなのかもしれない。
 そんな調子で数日が経てば、俺の一車両分しかない体力ゲージが電子顕微鏡じゃないと確認できないぐらいミニマムになるのも自明だろう。
 かくして、学生生活の醍醐味とも言える昼休みは、オーバーワークで火を噴きそうな体を休めるための睡眠時間へと観念的変容を遂げたのであった。めでたしめでたし。
 谷口、聴衆役は任せたぞ。緑色のタコができたら見せてくれよ。





 朝練の最中、ハルヒの投げるバカに早いストレートを長門が無表情でホームラン軌道に乗せまくっている間、俺は見る影も無くなってしまった体力を少しでも回復させようと、ネット裏で背中を休ませていた。
 長門は最初、自身がスピードガンと化したかの如く球が来ても不動の姿勢を貫いていたのだが、ハルヒの「真面目にしなさい!」という言葉を受け、本人なりに真面目にやる事にしたらしい。
 やりすぎではあるが、まあいいさ。日頃溜まったストレスの解消になってくれていれば尚いいけど。
 俺は宇宙まで飛んでいってそのまま衛星にでもなるんじゃないかと危惧してしまうぐらい高く伸びる白球に導かれ、顔を上に向けた。
 ハルヒが野球熱中宣言をぶちかまして以来の数日、湿りを孕んだ空はそれでも乾いた布で磨き上げたような晴天続きであり、梅雨明けだとかニュースキャスターが言ってたが、それもどこまで本当なんだかね。
 青空の下で響くカキンカキンという携帯サイトの登録数を思わず確認してしまいそうな効果音を聞くとも無しに聞いていると、古泉がご自慢のニヤケ面をぶら下げたまま、すぐ傍まで近寄ってくる。蚊取り線香を常備しておくべきだった。
「聞きましたよ、あなたのご友人が生徒会に入られたようで。会長もひどく喜んでいました。使える猫の手は多いに越したことは無い、とね」
 机に足を乗せ、タバコをふかす会長の姿が目に浮かぶ。それなら、今度シャミセンでも貸してやるよって伝えてくれ。
「シャミセン氏は非常に賢いですからね。意外といい仕事をしてくれるかもしれません」
 ああ。少なくとも、妹の遊び相手は十分こなしてくれてるよ。
「それで。何か用なのか、古泉」
 さすがに一年も一緒に行動していると、雑談する雰囲気かそうでないかぐらい俺にだってわかってしまう。
 予想通り、古泉は腐りかけたトマトみたく柔い言葉に僅かな真剣さをトッピングして、
「良い知らせ、というわけでもないので甚だ恐縮ではあるのですが……あちら側の組織について、少しお耳に入れたい話があります」
 お前が良い知らせを持ってきたことなんて、これまでに幾つも無かっただろ。
 軽口を叩きながらも、シリアスな空気にあてられて少しばかり身を強張らせつつ、
「あちら側っていうと、橘京子たちのことか」
「ええ、まさしく」
 古泉は一層声を落とすと、
「最近になって、彼女らの動きが妙に慌しくなっています。何か行動を起こそうと考えているのか、それとも別の目的があるのか、ともあれ落ち着きの無い状態であることは確かなようです」
 喫茶店で熱弁を振るっていた橘京子の姿を思い出そうとしたのだが、勝手に朝比奈さんが誘拐された時の忌々しい記憶まで浮かび上がってきたせいで、俺は苦りきった表情を作ってしまう。
 ちなみに朝比奈さんは現在ねんざで療養中、という事にして、ハルヒの魔の手から遠ざけていた。あの方だけは守らなければならない。俺は中世の騎士のような使命感に現在進行形で燃えているのである。
「事によっては、僕も色々と動き回らなくてはならない場合があるやもしれません。ああ、もちろん野球大会には這ってでも参加しますよ。これまでの練習を無駄にしたくは無いですからね」
 安心しろと言わんばかりの気色悪い視線をよこす古泉から目を逸らしつつ、
「心配せんでも、お前がいない間ぐらいハルヒの面倒は俺たちでみとくさ」
 だから心置きなく超能力合戦でも陰謀渦巻く組織抗争でも何でもやってくれ。
「非常に心強いお言葉です。ですが、気遣っていただく必要は無いと思いますよ」
 何だよ、留守を頼むって事を言いたかったんじゃないのか? 
 古泉はいえいえ、と高級外車のワイパーのように両手を振りながら、
「涼宮さんの内面については、現在小康状態にあると評して良いでしょう。言いたいのはむしろその逆です。僕が学校を休んだりしても、それは今話した件に従事しているのであって、神人が大発生しているなんて事ではありませんので」
 ああ、別にそこまで心配性じゃないさ。それにな、トラブルが起きる時はどうしたって起きるもんだ。
 俺にはそれを事前にどうこうできるような力は無いが、いざとなれば長門も朝比奈さんもいるし、ジョーカーを五十二枚重ねたようなハルヒだっているからな。
「しかし、お前もえらく暢気な様子だけど、そんなんで大丈夫か? あっちは何か企んでるんだろ?」
 他人の心配ばかりしている場合なのか。灯台の下はいつだって暗いのだ。
「以前も言った通り、彼女があなたや涼宮さんに直接手を出してくるような真似をする可能性はまずないでしょうから。喉元を掴まれないのなら、どこまでいっても小競り合いの域をでません。お互いにね」
 古泉は金庫に鍵が掛かっていると信じきった様子で言うと、
「それに、向こうはどうも機関の人間を呼び出したがっているような気配がありまして。特にあなた方の近くにいる僕とは、何がしかの話し合いを持ちたいのかもしれませんね。無駄になる可能性が大きいと思いますが」
 革命で敗れた権力派閥に供するにも似た同情の気配を言下に見せたものの、それをすぐに打ち消し、
「あちらにどのような意図があるにせよ、アクションには違いないので。ここで彼女たちに対応するのは僕の役回りでしょう。彼女たちとは肩書きも似たようなものです。お茶会でも何でも、出席するのにやぶさかではありませんよ」
 擬古的なレトリックを身体で表現するかのように芝居じみた動きで肩を竦める。しばしの沈黙。
 会話の切れ目ってのは、どうしてこうも他の音が目立とうとするのか。部活生のただでさえ大きな声が殊更大きく聞こえる。耳が寂しがっているのかもな。そういやでかい耳を持つウサギなんか、よく寂しがり屋だと表現される。
「お前らの事情はよくわからないけど、俺としてはまた朝比奈さんが攫われるような事態に陥らない限り、何でもいいってのが本音だな」
 俺は場を繋ぐために総括的な感想を述べ、
「ええ、あなたらしくて実に結構です。僕もその認識が最も適切だと思いますよ」
 愉快そうな古泉の言に不愉快な含みを感じつつ耳を傾けていると、距離が近い分、他を圧倒してドでかいハルヒの声がフェンスを叩いた。
「何よ有希、やっぱりできるんじゃないの。全弾ホームランにするなんて、いっそ清清しいわ。あんたって何か苦手なこととかないわけ? ……さ、次は古泉君よ! あたしの魔球を見事打ち果たしてみせなさい!」
 疲れも見せずに腕を回す。魔球もくそも、ど真ん中ストレートしか投げれないだろうがお前は。
 散々バットを振り回してもやはり汗一つかいていない長門は、白鷺のように静謐な足取りでベンチに下がると、辞書にしか見えないハードカバーを捲り始める。
 古泉は片手を上げてチェンジ申請に同意を示し、バットを持った方の肩をしゃくるように動かした。
「いやしかし、朝からこうして体を動かすのも悪くないものです。少なくとも、あれこれと考え込まずに済みますし。ああ、勿論たまにならの話ですよ。要らぬ考えを巡らせるのも、そう嫌いなわけではありません」
 お前の趣味嗜好はどうでもいいが、まあせいぜい頑張って打率を高めてくれよ。インチキ能力を抜かせば、まともにスポーツできる戦力なんてハルヒかお前ぐらいしかいないんだからな。
「お任せ下さい。これでも球技は得意なもので」
 自分の超能力に引っ掛けたつもりなのか、微妙なニュアンスの言葉を残して、バッターボックスに向かう古泉。
 俺はただぼんやりとそれを見送りながら、橘京子と古泉が森の中の喫茶店でティーポットを分かち合う様を想像しようとしていたのだが、なかなか上手くいかなかった。
 湿った空気を長く吸ってたせいかな。想像力だって錆びるのかもしれない。





「キョン」
「あー?」
「相談に乗ってくれないか」
 アスパラのベーコン巻きを口に運んでいると、向かいでパンを貪っていた谷口が珍しく深刻な顔で持ちかけてきた。
「何だよ、またフラれたのか?」
「またって何だよ! 国木田の事だ国木田の! お前はいつもグースカ寝てるからいいけどな、最近のあいつってば本当ヒドイんだぜ」 
 ちなみに、当の国木田は生徒会絡みの仕事があるらしく、人間になれると聞いたピノキオのように勇んで生徒会室に出向していた。鯨の腹では書類仕事が待っているのだろう。
 俺はベーコンのせいで赤みがついてしまっている玉子焼きを咀嚼しつつ、
「じゃあ、何だ。ひょっとして、関係が進み過ぎて生々しい話にまでいっちゃってるとか?」
 ガラスでできた大人の階段を恐る恐る登っているというのか、あの童顔が。割と下の方にいる俺としてはできれば蹴落としてやりたいね。他人の不幸は玉子味。
「いや、そういうドキドキ要素があるならまだいいんだ。かなり腹は立つけど今後の参考になるし」
 すんなよ。
「そうじゃなくてだ! あんな幼稚園児の砂場遊びみたいにやれ指の先が触れ合いそうになっただの数センチの距離で目が合っただの言われ続けてみろよ。プラトニック至上主義に宗旨変えしちまいそうだぜ、俺は」
 甘いな谷口よ。最近の幼稚園児はママゴトしてても平気で浮気とか愛人とか離婚とか口に出すらしいぜ。これも欧米化の一様相と取れないこともない気がするな。ろくでもないものばかり輸入してる。
「欧米化でも過酸化水素水でもいいけどよ、とにかく何とかしないと、もうこの国はお終いだ。少子化に止めの一撃を打ち込みかねないんだよ」
 一国を滅ぼす純情だ。どう考えても言い過ぎである。
 呆れている俺目掛けて、谷口は口の端からパンくずを飛ばしながら、
「つまり、今のあいつらの距離感が全ての元凶だ。そこで俺は考えた。昨日は寝ずに考えた。そして、もういっそ爆発させてやろうじゃないかという結論に至った」
 プルトニウムの新しい活用法を見出してしまったマッドサイエンティストのように目を見開く。爆発って、二人の間を無茶苦茶にする気なのか?  
「おいおい、それはいくら何でも」
「おーっとっと、勘違いすんなよ。爆発っていっても、何も吹き飛ばそうってわけじゃない。これはあいつの為でもあるんだ。いいか?」
 谷口はいかがわしい睡眠術の大先生にでも師事したのか、人差し指をゆらりと揺らすと、
「このままじゃどっちみちジリ貧だろ? だから、ここらでパーっとイベントを提供してやってだな、それで二人の距離が近づくならよし。ダメになるならそういう運命だ」
 なんか去年も似たような台詞を聞いた気がする。ナイフの光沢のようにギラついた夕暮れ時の思い出だ。
 俺は最後に残ったから揚げを口の中に放り込み、冷たい油のかたまりを噛み締めつつ、
「そういうのは他人がどうこうしたらダメな部分だろ。第一、俺は今野球に賭ける青春なんだ。忙しいんだよ。何かやるんなら、一人でやってくれ」
 ただし、あんまり邪魔立てするんじゃないぞ。馬に蹴られたくないならな。じゃあ、俺はもう寝るから。
「待て待て、まだ相談の部分まで達して無いんだって。今寝たら、お前が長門有希と放課後の教室で抱き合っていた事を涼宮にチクるぞ」
 そりゃ完全に誤解だし、ハルヒに言ったからといってどうなるわけでもない。
 だが、この調子で騒がれでもしたら眠れるわけがないのも確かで、俺は沈めていた顔を上げ、渋々と聞いた。
「……何なんだよそのイベントってのは」
「だから、それをお前と今から考えようって相談だよ。ドゥーユーアンダスタン?」
 すっげえうざいイングリッシュで返される。ひどい昼休みだな、今日は。
「まま、そうため息をつくなよ。幸せが逃げていく足音もきっとそんな音に違いないぜ。ちゃんと俺なりに案を考えてきたからよ」
 その案がまたひどかった。不良っぽい格好をした谷口並びに何故か俺が喜緑さんを襲い、そこをわざとらしく通りかかった国木田が助けにはいるという、完全に二十世紀的発想だ。
 土佐日記と同じぐらいの古典っぷりに舌を巻く俺の方を見もせずに、谷口は自信を溢れ出させ、
「グラサンとタトゥーシールさえあれば、俺たちゃ北高のギャングスターだぜ」
 こいつの頭は常に引き潮なのだ。脳みそはもうカピカピ。
「俺たちがギャングスターになるより、永久機関が発見される方がだいぶ早い。もっと現実的な話をしてくれ」
「じゃあ合コンでもセッティングして、飲んだ勢いでこう、何かいい感じに……」
「それは色々とまずいだろ。あと、国木田は下戸だ。すぐに寝るぞ」
 中学が終わり遊び呆けていた春休みに勢い余って少し飲ませた事があるんだが、ビールを舐めただけで即入眠だった。
「ちっ。なら、もういっそ川原で殴り合わせるしか……いや待てよ。その前に、図書館で同じ本に手を伸ばす二人ってのはどうだ。不意に重なりあう指先、そこにはいつの間にか恋の花が」
「咲かねえよ」
 っていうかそもそもプロセスをはしょりすぎだろ。
 その後も、当然と言えば当然だし別にそれでまったく構わないのだが、谷口のミカンを包装する網みたく用途の限られた頭からは瞠目すべきアイディアなど出てはこず、いい加減眠らせてくれとボヤいていると、
「谷口!」
 食堂にいるはずのハルヒが、ロケット花火みたいな勢いで教室に飛び込んできた。散る火花のような目線は谷口を焦がしている。
「あんた、今週の日曜空けときなさい。野球大会に出してあげるから。……あれ、もう一人のちっこい奴はいないの? キョン、あいつにもちゃんと伝えとくのよ。もち、妹ちゃんにもね」
 それだけ言うと、せわしなくも廊下に戻り、またいずこかへと駆けていった。
 後で聞いた話によると、助っ人として参加するはずだった野球部の連中が、揃って辞退したらしい。
 野球部の監督を優に越えたハルヒの鬼コーチっぷりに恐れをなしていた彼らだから、安請け合いしといてもし負けでもしたら何されるかわかったもんじゃないと思ったんだろう。
 非常に正しい判断だ。もれなく世界が壊される。今はそんな事しでかさないと信じたいものだが、さて、どうなのかね。日曜日を乞うご不安だ。
「おいおい! 俺はまだ出るなんて言ってねえだろ!」
 ハルヒの足音も聞こえなくなってから遅すぎる抗議を口にする谷口を横目にしながら、俺は胸の内でふと湧き出した思いつきにすっかり気を取られてしまっていた。
 野球大会、か。





 放課後になり、シャナンハムも凍えそうなほど厳しいハルヒの野球特訓も終了する時間になると、忘れ物をふと思い出したかのような唐突さで、小さな雨の銀幕が空を覆った。
 もう少し早く降ってくれていれば、ヘッドスライディングを強要されて泥まみれになることも無かったかもしれないのに。
 下駄箱の前で突っ立ったまま口を尖らせる俺の脇を、幾人かの生徒が頭に鞄を乗せながら通り過ぎていく。教科書よりも自分が大切なんだろう。わかるねその気持ち。
 勝手に同調しながら、せんでもいいのに無理して成長しようとする筋肉の痛みをもみほぐしていると、背後から声がかかった。
「あれ、ここで会うのって珍しいよね。今帰り?」
「ああ。たまには一緒に帰るか」
 振り向いた俺を一瞥し、靴を履き替えてすのこから降りた国木田は、傘立の中から手探りで一本、体の割に大き目な藍色の傘を選び出すと、
「キョン、ちゃんと持ってきてる?」
 俺は頷いて、鞄の中から親父臭い折り畳み傘を引き抜いた。備えあれば憂い無し。最近天気予報が信じられなくなってきたからな。自分の機嫌を鏡に映すように空模様を変えてしまいかねない奴がいるせいだ。
 国木田は気の知れた感じの無表情で軒先に出ると、藍色の傘を広げて一歩踏み出した。俺もその後に続く。
 軽微な雨粒が弾ける、潮が流れるような間断ない一音を聞きながら、坂を下る足並みを揃えた。
「野球大会の話聞いたか?」
「ああ、聞いた聞いた。去年は勝っちゃったからねー。今年はどうなるだろ」
 どうやら出る気まんまんらしい。相も変わらずノリのいい助っ人だよ。昔から無駄に付き合いのいい奴だからな。たまには迷惑賃を払ってやらないとバチが当たりそうだ。
 切り出すタイミングを考えようとして、途中でやめた。面倒だし、俺はそういう気の使い方があんまり得意じゃない。
「どうせお前が出るんなら、誘ってみたらどうだ? 喜緑さん」
 我ながら何の脈絡も無い提案は国木田にとってもよほど不意だったらしく、縄張りの草が全て枯れる夢をみたせいで寝違えたヌーのように俺目掛けて首を捻ると、
「……なんで?」
 目をむいたまま口パクした末、端的に疑問を表現した。
 俺は事前に用意していた口上を述べる。
「どっちにしろ補欠が欲しかった所なんだ。ハルヒはあんなんだから勝たなきゃ済ませられない性分だし、特にうちの妹なんて野球に関しちゃそこらのダンゴムシといい勝負だからな。もう少しまともな人材が欲しい」
「それで、何で喜緑さん?」
「知り合いだからに決まってる。俺は他にも探してみるつもりだし。補欠は何人いたっていいだろ? だから、お前には喜緑さんをあたってみて欲しいって、そういうことだ」
 もちろん俺にしてみれば野球の勝敗の行方など新聞の地方芸能欄以上にどうでもよく、他の補欠を探すつもりなんて最初っから無かった。
 谷口に釘を刺しといてなんだが、学外でプライベートな時間を共有すればもうちょっと仲良くなれるんじゃないかという短絡的な考えに基づいた、これは完全なお節介だ。
 都合のいいことに野球大会が目前に迫っていることだし、こいつを利用しない手はないさ。ドラマチックベースボールだ。たまには汗臭くない異性間のドラマだってあるかもしれないだろ?
 ま、あれだ。あんまり自分に縁がないと、他人の中にそれを認めるだけで満足してしまうものじゃないか。こういう心理状態って何か名前がついてたような覚えがあるな。負け犬シンドロームだっけ。ああ、どこかに俺の愛の矢を朝比奈さんの胸の真ん中に突き刺してくれる親切な代理狩人はいないのだろうか。
 切ない気持ちになりながら、俺は続ける。
「誘うだけ誘ってみてくれよ。SOS団からの頼みって言えば、多分来てくれるような気がする。もしダメでも、いい話の種になるんじゃないか」
 部長氏の件を貸しなんて言うつもりはないし、向こうもそう思っちゃいないだろうけど、ひょっとしたら、な。
 それに、大会には長門だって出場するわけだから、あいつの監視が喜緑さんの役割だとしても職務違反ってことにはならないだろう。
 薄い雨は止まない。干されたシーツを何枚も潜るようにしてしばらく歩いたあと、国木田は傘の下に戻ると、
「わかった。誘ってみるよ」
 何でもない風に答えているが、どうなんだろう、本当は。やっぱ青臭い葛藤とかその他諸々が煮詰まっているのだろうか。背丈の関係上、表情を窺う事はできなかった。大は小を兼ねないな。
「国木田」
 気付けば、俺の口は開いていた。あんまり自然に開いたもんだから、自分でも少し驚いたぐらいだ。
「なに?」
「お前、どうしてそんなに喜緑さんと、その、あれだ、友達になりたいんだ?」 
 こういう事は誰にだって滅多に聞いたりしないんだけど、今回は成り行き任せの特別の特例ってことで勘弁してくれ。なんせ相手があの喜緑さんだからな。俺たちSOS団の今後にダイレクトに関わるキャストであることはもう間違いなさそうな人だ。
 これ以上俺の知らない所から張り巡らされた蜘蛛の巣状の複雑な関係図に、不用意な線を引くのはおっかない。
 例の如くポロスの意見に反駁するソクラテスのような舌好調喜緑トークを覚悟していた俺に向かって、しかし国木田は静かに呟いただけだった。
「さあ、どうしてだろ」
 どうしてだろって、お前な。いつも散々あーだのこーだの言ってるじゃないか。
「それはそうなんだけどさ。…………じゃあ、一年前のキョンはどうして涼宮さんに声をかけたの?」
 はあ? どうしてあいつの名前が出てくるんだよ。
「いいからほら、きちんと答えてよ」
 何だか妙に強気だな、最近のこいつ。そもそも先に尋ねたのはこっちの方なんだが。
 納得いかない部分もあったが、わざわざ口に出すほどのことでも無いし、痛くも無い腹を藪医者に探られるのは真っ平御免なので、至って普通に答える。
「そりゃ、たまたま席が後ろだったからに決まってる。あいつの苗字が涼宮だったせいだ。明治維新が悪い」
「嘘だね。そんな理由じゃなくて、もっと色々考えた上でだろ? ああしたいとか、こうなればいいなとか、色々と」
 雨にも負けずに断定口調で返されてしまった。俺は半ば反射的に、痛くも無いはずの腹の辺りを掻いてしまう。
 言ってくれるじゃないか。しかし、ギブアンドテイクなのはどこも一緒だ。聞くには聞かせなくてはならないのだろう。例えそれが身体の内側の話でもな。
 俺はいらん事を聞いてしまった自分の気まぐれを呪いながらも、実際に耳にしたことなんてないが、いわゆる蚊の鳴くような声で言った。
「わかんねえ。色々と言われれば、色々かもな。説明できるようなものでもないし、もう大して覚えてない」
 それからしばらく何のリアクションも返ってこず、雨音に被って聞こえなかったのだろうか言い損だなチクショウなんて思っていると、やおら隣の傘が喋りはじめた。揺れる藍色は紫陽花のようだ。
「僕もそんな感じ。僕らは生きて動いてるんだから、言葉だけじゃ伝えきれないものも、やっぱりあるんだよ」
 どうやら、恋は人を詩人にするってのは本当らしい。何言ってるのかさっぱりわからない。随分スピリチュアルだが、魂の在り処とかその辺の難しいことを言いたいのか?
 見栄を気にする年頃の俺は、それらしく詩的な表現で答えようと、おがくず頭をクランクで捻ってみる。

 母は言う 洗濯物が 乾かない 俺の恋人 濡れたTシャツ

 マーヴェラス。どこかの賞とか狙えるかもしれない。
「キョンってさ、照れ隠しは結構下手だよね」
 去り際に国木田がそんな言葉を残したのは、俺の才能に嫉妬したためだろう。