「ほ、ほんとにキョンくんなんですか?」
「ぶご」
「……あ、あたしのこと、わかってるんですよね?」
「ぶごご」
「……噛んだり、しない?」
「ぶごる」
「う〜、どっちなのぉ〜?」











 トナカイ・ミーツ・ガールズ  / 4












 なんだか直立してるのも疲れて四足歩行に逆行進化し、今やすっかりそのまんまトナカイとなってしまった俺を、先ほど目をお覚ましになった高血圧の眠り姫こと制服姿の朝比奈さんが、お茶も淹れずにただただ少女漫画的な顔をしたコケシのように、じっと観察していた。
 その瞳には、目の前の野生生物に対する惧れと不安、そして琥珀の中に秘められたようなささやかな好奇心が浮かんでいる、ような気がする。
 俺に対する好奇心は今後とも大いに抱いていて欲しいのだが、せめて不安ぐらい取り去って差し上げたく思う所存であり、かといってこのままいつものように歯を光らせながら「やあ朝比奈さん。今日もお美しいですね」なんて言ったとしても、発情期のトナカイが息を撒き散らし嘶きながら牙をむき出しにしているようにしか見えまい。
 俺をトナカイにシャランラさせた長門なら、異生物間の言語エンコーダとしても八面六臂の活躍を見せてくれそうではあったが、目を覚ました朝比奈さんに原稿用紙が十分の一も埋まらない規模の言葉で事情を説明したあと、「助けを呼んで来る」と言ったっきり部屋を出て行ってしまっていた。
 今できることといったら、その助けとやらが、目もあてられないメタモルフォーゼを遂げた俺に一寸の同情を惜しまぬ程度の心優しい人物であることを願うばかりである。
 狭い室内では動く事すらままならず、ただ四つ股の角を壁にこすりつけるしかできない俺に、
「……ね、キョンくん」
 沈黙に耐えかねたのかそれとも好奇心マックスになってしまわれたのか、朝比奈さんが呼びかけてくる。
「ちょっとだけ、触ってみてもいい?」
「ぶもぶも」
 俺は鼻息も荒く頷いた。朝比奈さんが俺に触ることを許可しない奴がいたらたとえそれが異界の神でもぶっとばす。角で。
 朝比奈さんは椅子から立ち上がると、今や毛で満ち満ちる状態となってしまった俺の首筋を、恐る恐るといった様子で撫でて、
「わ、ふさふさだ」
 びっくりまなこで感想を述べた。俺はいくらでもふさふさになりたい気分だった。次回の万博ではマスコットキャラに採用されてもいいぐらいだった。
 朝比奈さんの手は次第に首筋から離れ、俺の身体中にぺたぺたと手跡を残していく。まさに無邪気な愛撫。
 とにかくそんなんだから、俺はといえばもう嬉し恥ずかしドキドキお医者さんごっこの患者役になったような気分である。さっきまで長門と共に興じていた命がけドキドキお医者さんごっこの患者役よりこっちの方が全然良かった。比べるべくもなしだ。
 すっかり桃色吐息の俺を見て、朝比奈さんは全ての生物の母のような慈愛の笑みを浮かべると、
「ふふ、可愛いですねー」
 俺を飼って下さい。
 背徳的な愛の告白をしようとした俺を制するように、部室のドアが音も立てずに開かれた。
「ぶごご!(長門!)」 
 やはり音も立てずに部室に入ってきたのは、出戻り宇宙人長門有希と、
「ぶごごごご!(喜緑さん!)」
 生徒会書記兼長門の同僚である喜緑さんだった。
 ぺこりと頭を下げる喜緑さんに、反射的に会釈を返した朝比奈さんは、しかし長門が彼女を連れてきた事情が飲み込めていないのか、「え? あれ?」と目を瞬かせている。
 長門はそれに構わず、
「その被り物の構成情報に私の全処理能力をぶつける。その間、彼女が私をバックアップする」
 喜緑さんが頷くのを確認すると、黒目の奥でひそやかな自信を輝かせると、
「鉄壁」 
 こいつは頼もしいね。全パラメーターぶっちぎりの長門に加え、その実力は未知数ながら油断ならないものを感じさせる喜緑さんの共同作戦だ。国一つ落とすのも不可能ではないだろうし、いわんやトナカイをや。
 俺は、隣でわからないなりにお茶を出した方がいいのかと思案顔の朝比奈さんに、心の中で別れを告げた。言ってもどうせ伝わらないから。
 色んな所を触ってくれて、どうもありがとうございました。この思い出は、俺の心にきっと死ぬまで刻み込まれていることでしょう。そして最後の瞬間、あなたの指先の感触を走馬灯に見ながら、俺はあの世へと旅立つのです。あと元に戻ってからも全然触ってくれて構いません。
 俺は神風部隊のように朝比奈さんに向かって敬礼できなかったので代わりに鼻を鳴らすと、接木のように首を伸ばして、長門の目先に顔を近づけた。
 さあ、長門! カモン!
「では開始する」
 長門はそう言うと、そのまま口を高速回転させはじめた。扇風機みたいだ。
 その背後では、喜緑さんが微笑んだまま突っ立っている。いつもどおりに見えるけど、あれでバックアップできてるのか?
 一抹の不安を覚えた俺に気付いたのか、喜緑さんはとりあえずやっとくか、みたいな感じで手を前に突き出した。何となくバックアップしてるっぽい格好だった。
 いや、ポーズの問題じゃないんですけどね、と突っ込みたくなった俺だったのだが、辺りが再び光に包まれていき、二人の姿は最早視界から失われていた。
「ふ、ふええぇっ!? 何なんですかこれ! いったい何なんですかぁ!?」
 朝比奈さんのいきなり目の前に閃光弾を放り投げられたような悲鳴が聞こえる。ガチャガチャと何かが落ちる音も聞こえた。よっぽど慌てていらっしゃるのだろう。
 やがて光はその輝度を、徐々に下げていった。
 この光が収まれば俺が人の形を取り戻し、感動の再開を迎えたあとで二人一緒に床の掃除をするのだ。ふとした瞬間触れ合う指先。そして二人の唇もまたゆっくりと近づきそこには俺たちの白いマイホームと犬小屋にはゴールデンレトリバーがいたりいなかったり…………あれ?
「ふご?」
 俺、戻ってなくね?
 光が完全に収まり、目の前に長門の無表情が現れても、やっぱり俺はトナカイのままだった。
「ふご、ぶごごっご。ぶごるる(おい、長門よ。まるで戻ってないぞ)」
 長門はどうしてか頷くと、ついっと横に指を走らせた。
 俺はその先を見る。トナカイがいた。
 ……あれ? こんなところに鏡なんてあったっけ?
 いやいやまさか。こんなスリーディちっくに姿を映す鏡なんて、それこそSF小説の中でしか見たことないし、いくらハルヒでもそんなもんは拾ってきてないはずであり、それよりも朝比奈さんがいなくなってるような気がするんだけど、これはつまり何を意味しているのかというと、
「無理だったので、いっそ増やしてみた」
「「ぶごぉーー!!」」
 俺たちは泣いた。というか鳴いた。ひょっとして長門ってば、さっきの貧乳発言を根に持ってそこからさらに豊乳な朝比奈さんをも巻き込む形で憎しみの連鎖なのだろうか。心はもはや氷点なのだろうか。
 俺に比べて体も小さく角もミニサイズな朝比奈さんトナカイは、前脚を折り畳んでふこふこと涙に暮れている。トナカイ心がキュンと音を立てた。さすが朝比奈さんだ。どんなお姿でも可愛いぜチクショウ。
「トナカイの分裂」
 長門がポツリと零すと、喜緑さんは上げっ放しだった手をぽんと打ち鳴らし、
「まあ、さすが長門さん。お上手ですね」
 あー、てかマジ何なら朝倉でもいいから早く誰か助けてくれないかな。