読んでいたマンガを閉じると、時計の針はもう真夜中を指していた。
 もし明日が休みなら、一日の本番はこれからだぜ! とばかりに深夜番組にでも齧り付きたいところなのだが、残念ながら明日も朝から学校に向かう坂道を登らなければならない。
 大人の判断で夜更かしを放棄した俺は、零れ出るあくびを噛み殺すこともせず、電気を消してベッドに横になる。目を閉じると、眠気はすぐにやってきた。固体だった意識はしだいに気体へと霧散していく。
 明日は何のトラブルも無い一日でありますように。

 こん。

 こん。

「……何だ?」
 半ば夢見心地だった俺の耳に、変な音が届いたような気がして、目を擦りながら体を起こす。

 こん。

 やっぱり。何か音が聞こえる。俺はベッドから床に足を落とした。
 視神経はまだ夜に慣れず、盲いたような暗闇の中、締め切ったカーテンの奥に何とか妙な音を寝ぼけ眼で探り当て、おかしいな窓ならきちんと閉めた筈なのに、と首をかしげながら風呂に入れるのを怠ったシャミセンのように毛羽立ったカーペットをぺたぺたと踏み越え、地味な柄のカーテンを開くと、
「…………」
 そこには結露の代わりに目を見開いた女の顔が窓ガラスにべったりと張り付いて、
「……ひ」
 そいつは必死の形相で、息を飲むことしかできない俺と目を合わせるなり、
『開けてくださぁ〜い、開けてくださぁ〜い』
「ひいいいいいいぃぃっ!?」






 ざ・三名様 /









「お前な……こんな時間にっ! 人の家の屋根の上でっ! ……一体何やってたんだ」
「いやぁ、ははは。えっとね、登場のタイミングを逃してしまったというか何と言うか……あの、驚かすつもりはなかったんです。ほんと、謝ります。ごめんなさい」
 座布団の上で正座している女……古泉と同種の超能力者であり、俺から言わせれば憎むべき誘拐犯である橘京子は、先ほどからぺこぺこと大会指定のバレーボールみたいに形のいい頭を下げ続けている。
「謝罪の気持ちがあるのは分かったから、きちんと理由を言え、理由を」
「あ、はい。それがですね……」
 超能力者兼誘拐犯兼家宅侵入犯があくせくと語るところによると、次のようになる。
 ハルヒの能力を佐々木に移し変えるという先の喫茶店で聞いた件に関して、再度俺に協力を申し込むために自宅への訪問を決意したものの、いざ行ってみると一階の明かりはすでに消えてしまっており、インターホンを鳴らして他の家族を起こしてしまうのも心苦しかったので何とか二階にある部屋の窓の下までよじのぼってみたのだが、そうこうする間に俺も既に消灯してしまっており、声をかけるにかけられなくなってしまった上に、断腸の思いで今日のところは出直す決心をつけたは良いがなんと高すぎて降りるに降りられなくなっていたからさあ大変って感じで、寒空の下で少しだけ悩んだ後、結局部屋の中の俺に助けを求めることにしましたとさ。
 総括。ふざけんな。
「突っ込みどころが夢の島に詰まれた粗大ゴミの山のようにあるんだけど、とりあえず今何時かお前ちゃんとわかってんのか」
「真夜中ですけど……で、でも! 出発したときはまだ夕方だったの!」
 じゃあどうして夕方のうちに来なかったんだよ。
「途中で迷いました」
「……あ、そう」
 鼻腔の奥めがけて氷を詰め込まれたように痛み出した頭を抱えながら、さらに問い詰める。
「それで、何だっていきなり俺の家に来ようなんて思ったんだ。前みたいに呼び出しじゃなかったのはどうしてだ」
 お前とは互いの家を行き来するほど馴れなれしい関係じゃないし、今後もその類の親交を結ぶつもりは全然無いんだけど。
「話をきちんと聞いてもらうためよ。いつも佐々木さん達に同席してもらうのは悪いから。いくらあたしとは言え、さすがに自宅まで訪ねて来た女の子をそのまま帰すわけにはいかないでしょう? 家族の目もあればなおさらです。あなたはきっと部屋に上げてくれて、とりあえず話だけは聞いてくれる」
 なぜか言い切って胸を張る。確かにそうかもしれんが、どうして自信満々にわかったような口を聞けるんだ、こいつ。 
「って、佐々木さんが言ってたわ」
「なるほど。佐々木がね。さすが、俺の思考パターンはお見通しってわけだ」
「ふふ、そうです。佐々木さんは凄いのです」
「ああ、凄い凄い。じゃ、話は聞いたからお前もう帰れ」
「ええっ!?」
 正座したまま器用かつ大げさに飛び上がると、スポイトで水をくべたかのように瞳を潤ませ、
「帰れって、まだ全然話聞いてないじゃない!?」 
「お前がここまで来た一部始終を聞いただろうが。それで十分だよ。前も言ったとおり、そっちに協力する気はないし、第一、当の佐々木だって乗り気じゃないだろ? そもそも出る幕ですらねえんだよ、俺なんて」
「だから、あなたさえ頷いてくれれば、佐々木さんだってきっと」
「いいから、この話はこれでお終いだ。これ以上居座るってんなら警察に連絡するぞ」
「そんな……」
 呟いたっきり目を伏せる橘京子。家宅侵入はいくらか食らうはずだ。こいつの所属する組織にどの程度の法的権力があるのか知らんが、面倒になることに変わりはあるまい。大人しく帰るのが賢い選択だと理解できるだろう。もちろん本気で通報するつもりもないが、この手合いははっきり言わんと諦めそうにないからな。俺だって時には厳しくやるぜ。
「……わかった。今日のところは、これで帰ります」
 今日のところはって、いつ来ても答えは同じだ。無駄足にしかならないぞ。
「別にいいわ。あたし、諦めないから。これは使命なのです。あなたと佐々木さんの協力を取り付けることが、あたしの。そしてそれは世界のためでもあります」
 何とも生真面目なことを言いながら、立ち上がって窓に歩み寄り、そのまま外に飛び出そうとする。ひょっとしたら、赤い球にでもなって文字通り飛んで行ったりするんだろうか。
「あの……」
「なんだ」
「玄関から出てもいい?」
「……ほら、ついて来い。階段の電気点けてやるから」
 玄関先で、気をつけて帰れよ、と言うと、恥ずかしそうな顔で礼を述べつつ普通に歩き去っていく。何とはなしに最後まで見送った俺は、欠伸をかましながら再び部屋に戻って眠りについた。


 で、その日は結局それで終わったのだが、極めてはた迷惑なことにどうやら橘京子は有言実行の徒であったらしく、後日から幾度となく俺の目の前に姿を表しては新興宗教も真っ青の熱烈な勧誘を仕掛けてくるようになった。




「さ、風呂風呂ーっと………………おい」
「ふふふ、あたし達を甘く見てはいけません。よその家の浴槽に潜伏するぐらい朝飯前なのです。あら不思議、あたしがここで大声をあげれば、あなたはたちどころに変態に。さあ、これで話を聞かざるをえないでしょう?」
「……ところで、どうしてスクール水着なんだ」
「あ、ぐっと来た? 何だかあなたマニアックなのが好きそうな顔だし、この格好でいったほうが落としやすいかなって思って」
「ふーん」
「ちょ、どうでもよさそうに風呂蓋をしめないで! あなたが思っている以上に熱くて暗くて息苦しいんだからー!」




「さ、掃除当番掃除当番っと………………うげ」
「ふふふ、あたし達を甘く見てはいけません。いくらあの人たちの息が掛かっている学校とはいえ、本気を出せば隠密潜入ぐらいちょちょいのちょいなんだから。さあ、クラスメイトから変な目で見られたくなければあたしの話を聞いてもらいます。あと人の顔を見るなりうげとか言っちゃダメ」
「……なあ、うちの制服とかどこで手に入れてくるんだ」
「さすが、いいとこに気がつくのね。私服姿しか知らないあの子のいつもと違う制服姿。『あれ、どうしたんだろう? 昨日まではただの顔見知りだったはずなのに、どうしてこんなに胸がトキメクんだ?』。そう、それは甘酸っぱいピンクの魔法があなたの胸にかかった証拠なのです」
「今日は掃除サボろう」
「あ、待って! また閉め……うわ、雑巾落っこちてきた! すごく臭い! 牛乳臭い! しかも出れない! 箒が突っかかって出れない!」




「さ、ジュースジュースっと………………うわ、牛乳しかねえよ」
「ふふふ、そろそろスルーされる頃だとは思っていたのですがいざ実際にされてみると予想以上にショックです。さて今回のプランは家族に黙って冷蔵庫にいたいけな少女を監禁していた男子高校生。これは警察沙汰になる前にこちらの申し出を受け入れた方がいいんじゃないかな」
「……寒くないのか?」 
「なんの、対策は万全ですよ。見てこの服の裏に縫い付けられたホッカイロの数を。おかげで体は必要以上にぽかぽか。熱くて熱くてもうそこにあったオレンジジュースを全部がぶ飲みしちゃうぐらいよ。ま、もちろんとっくに効き目は無くなってるんですけどね。正直言って水分取ったせいで余計に寒いですよええ。あ、あとここにあった牛肉や野菜の類が軒並みダメになっちゃったみたいで、あなたのご家族には若干申し訳ないなと思う気持ちも」
「考えてみたら別に喉渇いてないや」
「あ、ちょ、ちょっとタンマ! 閉めないで! これ本当にこっち側から開かなくちゅんっ!」
「……風呂、沸かすか?」
「お願いしまくちゅんっ!」






「さ、寝よ寝よっと………………ぐー」
「ふふふ、そのスルーを逆にスルーしてやる事にしました。寝たふりをしたければすればいいのです。ところが状況は安眠を許さないの。同じ布団で体を寄せ合う男女。これはもう言い訳のしようがないわよね。妹さんにでも見つかる前にあたしと神様について語り合わない?」
「……お前な、いくら何でも男の布団に潜り込むってのはどうなんだ。貞操観念とか、そういう情操教育を受けてこなかったのか?」
「お互い寝巻きを着用しているんだし、問題ないと思うけど。あ、それともあたしが魅力的すぎた? ふふ、なんて」
「ああ」
「ね、冗談。自分で言ってて虚しくなってきたわ。不愉快に思ったらごめんなさい。でも話を聞いて欲しいっていうのは本当な………………あれーーっ!! い、今、『ああ』とか言いましたか!?」
「そうだな。言っとくけど本気だぞ」
「え、ちょ、何で? あなたってあたしのこと嫌いだったんじゃ」
「最初はそうだった。だけど、お前の一生懸命な姿勢を傍で見ていたら、いつの間にか惹かれている自分に気付いたんだ。とは言えお互い別の道を行く者同士。許されない想いだと諦めて、今まで我慢してきたけど……」
「あ、そ、そんな、いけませんっ。あなたには涼宮さんや佐々木さんが」
「あいつらとは友達以外の何でもない。俺が好きなのは、橘京子、お前なんだ」
「え、えっと、そんないきなり言われても、ああ、あたしどうすればいいのやら」
「もうダメだ。我慢できない。ぞっこんなんだ。お前しか見えないんだ。愛してる。結婚して欲しい」
「うわわ、き、急展開すぎてついていけない! …………でも、なんだろうこの気持ち。不思議と嫌じゃないような……むしろどんと来いみたいな……ひょっとして、これは恋? 知らない間にフォーリンラブ?」
「ストーカーから始まる愛もある。さあ、京子。俺の気持ちを受け取ってくれないか」
「……ああ、そうね。全てはあたしが魅力的過ぎたのがいけなかったのです。いいわ、もうあたししか見えないというのなら、せめて結婚してあげる。今日からあなたを夫と書いてあなたと読ませるわ」
「俺も妻と書いて京子と読ませるよ、マイハニー」
「ああ、あなたっ! アトミックラブ!!」
「オーケーマイプレイシャス京子ーーっ!!」
 そして二人の初めての夜は、数え切れない街のイルミネーションのように百万通りのラブストーリーの一つとなって、きらきらとした輝きを放ちながら、ゆっくりと更けて行くのであった……















「あー、もうっ、あなたったらダメですよぅ。そんなことまで……ううん、でもでも、結婚したんだし別にこれぐらいなら……むにゅ」
「――――起こす……の―――……?」
「いや、もう少し寝かせておいてあげましょう。最近色々と忙しくて疲れている様子だったからね、彼女。それに、どうやら楽しい夢を見ているみたい。次々と継起する諸々の意識状態、現在の彼女の場合はネガティブな部分がいささか多いようだけど、そこに一時的なコンマを打っているようなものね。思うようにいかない現実から避難するのは悪いことじゃないの。たとえ無意味だとしても、それが安穏としたものであるならなおのこと。幸いここは二十四時間営業だし、わざわざ起こすこともないわ。……さて、九曜さん。夕刻まではまだ少し時間があるけど、その冷え切ったコーヒーのお代りでもどうかな?」
「―――深い―――黒い―――――」
「わかった、ブラックね。少し待ってて。持ってくるから」
「むに、そんなー、二人で遅く起きた朝に飲むコーヒーはブラックがいいだなんて……アダルトすぎるのですー」
「……―――あなたは――――退屈では…………ないのね――――」













「ふぇっくしょっ!!」
「うわっ、きったねえなキョン。唾飛ばすなよ」
「鳥肌もすごいや。風邪でも引いたの?」
「いや、さっきから原因不明の寒気が…………ふ、ふわっくしょーーいっ!!」