蝉がジージーと鳴らす高いんだか低いんだかわからないビブラート気味なメスへの呼びかけも、カーテンの間から射す、窓を飴みたいに溶かしそうなほど強い日差しも、眠ってさえいれば気付かない。
 だからってわけでもないだろうが、何の予定も無いにも関わらずやたらと早起きな妹に揺すられても、くるみのように頑なに閉じた俺の瞼は開くのを渋ったらしく、とうとう母親まで駆り出された末に文字通り叩き起こされると、時刻は八時半を回っていた。
 外から響き渡る近所のジャリ共のニホンザルみたいな喚き声が語っているとおり、世は正に夏休みであり、俺も去年までならこのぐらいの時間にあんな感じで外を飛び回ってやしなかったものの、ガンガンにクーラーをかけた部屋で二度寝に勤しむぐらいの余裕はあったのだが、それも今春から母親によって放り込まれた学習塾で連日朝も早くから催される特別夏期講習とか何とか、少なくとも学生は誰も幸せにならなそうな企画のせいでスッカラカンのパーになって久しい。
 しかし、いくら口を尖らせて誰かに文句をぶちまけようにも、相手は憎むべき学歴社会。何だかんだで、俺たち受験生は車輪の下でもがくしかないのである。
 火事場のスピードで身支度を整え、朝飯は食いたくも無かったし食う時間も無かったのでライン際に追い込まれる寸前のミッドフィルダーのように慌しくパスした俺は、玄関から家の中に向かって無気力な行って来ますの挨拶を投げかけ、妹が山彦のように返してきた「いってらっしゃもぐもぐ」という目玉焼きっぽい返事も最後まで聞かず、太陽熱が渦巻く外に出てマイ自転車を道路に引きずり出した。
 そうして、反射熱を足元に返してくる鏡面みたいなアスファルトに辟易しながら、さて行きたくないけど行くしかないか、と後ろ向きな感じで走りだそうとしていたのだが、
「やあ」
 聞き覚えのある声に、旬の秋刀魚の如くあっさりと釣り上げられ、咄嗟に背後を振り返ると、
「ようやく出てきたね。良かったよ。そろそろこの炎天下で突っ立ているのが辛くなってきた所だったんだ。まさかキミが早めに家を出るなんて真似はしないだろうし、失礼を承知の上でも、家に上がらせてもらって麦茶の一杯でもせびってしまいそうなぐらいだった」
 そこには私服姿のクラスメイト、というか佐々木が、それこそ当たり前のような顔で、暢気に片手を上げながらも慇懃に凛と立っていた。
「……お前、何やってんの?」
「キョン、それはひどく今更な質問だ。僕がキミの自転車の後ろに乗ってあの塾に行くのは、もう習慣化されて久しいだろう」
「いや、それはそうだけど」
 確かにここ最近、塾に向かう道のりを佐々木と共にするようになっていて、何度か反復を繰り返しているのだから、習慣といっても別に間違いじゃないだろう。
 しかしそれはあくまで中学校と俺の家と塾が一直線上に位置しているためであり、その他交通網の都合も相まって、一応友人であるこいつが無駄なバス代を払わないでいいように、全くの善意からやむなく取っている手段に他ならず、これまた当然ながら、学校の無い休日はお互い自宅から別々の道を辿って塾に向かうのが常だった。
 そして今日は前述したとおり、学校がつい先日から夏休みと言う名のパライソ期間に突入したばかりの平日であり、つまり俺たちにとっちゃ休日だ。例えカレンダーの上で赤い数字が踊っていなくてもな。
 にも拘らず、こいつが目の前にいる。その事実に、俺は驚きを隠せないでいた。
 凝視する俺に対し、どんな勘違いを脳内で働かせたのか、佐々木はミュールに乗ったつま先を揃え、膝の上までしかないデニムのハーフパンツを指先でひらひらと動かすと、
「いつもは公衆の迷惑も省みて横座りなんだがね、あれは少し体勢的にきついものがあるんだ。キミにべったり寄りかかれるならそれはそれで楽なのかもしれないけど、生憎と僕たちはただの友達だし、何よりも本来的な意味での自転車と言えば、それは間違いなく跨るものだからね。スカートよりもパンツスタイルの方が適している。今日は結構な暑さだから、その中でも割合涼しそうなものを選んでみたんだ」
 合理的だろう? と言うは早いが、佐々木は俺の許可を取る素振りすらみせず荷台に跨ると、Tシャツから伸びる、日に欠片も焼けていないノコギリギクのように白い手でサドルをぽんと叩き、
「ほら、キョン。あんまりゆっくりしている時間は無いんじゃないかな。いくら主観的な時間に差があるとは言え、時計の針が止まる事は無いし、戻る事も有り得ない。勿論、未来永劫そうであるとは言えないが、それは少なくとも塾の予鈴が鳴ってからずっと先か、もしくはずっと前のことだろう」
 お前な、議論のすり替えもいいとこだぞ。んなデタラメSF話と塾の開始時間をごっちゃにするなんて、流石の俺も騙されない。成績が悪いのと騙しやすいのとは、まるで無関係だ。アミダじゃ易々と繋がらないぜ。多分。きっと。
 舐めるなとばかりに目を尖らせる俺に対し、佐々木は、見知らぬ男なら軽く騙せそうなぐらい上品に笑いかけると、
「議論のすり替えだというのは否定しないよ。けどそれがどうであれ、今キミがやるべきことは、果たして何なのだろうか。考えなくともすぐにわかるはずさ。それぐらいなら、キミはね」
 腕時計に目を走らせた俺には、非常に遺憾ながら、確かに自分のやるべきことが見えていた。
 佐々木の言う通り、何でお前がここにいるのか等という民事的な議題を家の前で展開するには時間が無さ過ぎる。ああいうのは手続きばかりが膨大だからな。
 俺は言いくるめられていると自覚しながらも自転車に跨ると、自分の荷物と、ついでのように差し出された佐々木の分のハンドバッグを自転車のカゴに突っ込み、仮眠中に火災警報で叩き起こされた消防士よろしく振り返る間も惜しんで地面を蹴り上げた。
 真っ赤な回転灯よりも、9を過ぎた長針の方が危ない時もある。 

 



 春からすっかり目に馴染んでしまった景色が氾濫した川のように流れる中、無言のまま車輪を回すことだけに勤しんでいると、肩に乗せられていた手の一方が離れ、俺の腹の辺りに回されてきた。
 急な感触のせいで少し慌てて視線を落とすと、赤い革のバンドで手首に巻かれた、細い腕に似合いの小さな時計は、僅かな余裕を示してくれている。
 これなら、スピード落としても大丈夫か。
 俺が足の動きを緩めると、佐々木の左手は役目を終えた伝書鳩の如く肩の上に戻っていった。青い鳥は家の中。そう青く無い奴は肩の上。どっちにしろ鳥なんて飼う予定は無いけどな。
「おいおいキョン、えらく息切れしてるじゃないか。運動不足じゃないのかい?」
 俺は、もみあげのあたりでナイアガラの瀑布を訪れたんじゃないかと思うほど付着していた汗をシャツの肩口で拭うと、
「お前が乗っかってるせいに決まってるだろ」
「いや、しかしそれにしてもさ、この前まではもう少しスタミナがあったような気がするんだけど」
「じゃあお前が太ったんだ」
「先週からならむしろ痩せているよ、残念ながらね。となると、冷房症かもしれない。いけないな。キミはちょっとした部分でとてもストイックだと感じさせるが、そういった類の自制を効かすのは苦手だろう」
 それは当たりだ。電気代を気にしないことにかけちゃ日本で五指に入る。誰も見ていないのに夜を塗りつぶそうとギラギラに光るネオンの次の次の次ぐらい。
「やっぱりね。それは病気にもなろうというものさ。何を扱う店でも、これから向かう塾だってそうだけど、今は大抵どこでだって空調が機能している。よく考えてみたら、街中で本当に暑い場所を探すのが難しいぐらいだよ。僕だって現代っ子だし、それが悪いとは言わないが、キミはもう少しわきまえた方がいいね。常春のように快適なキミの部屋に、誰を招くわけでもないんだろう?」
 母親みたいなこと言いやがる。俺はいつだってそうするように適当に頷くと、
「肝に銘じよう。でも今は、何だって今日に限って俺ん家に来たのか聞かせて欲しいんだけど」
「ああ、そうか。何か引っかかっていたんだけど、そうだ、それを話していなかった。なに、理由は簡単だ。今日はたまたま早く起きたからさ」
 佐々木は素麺を啜るようにあっさりと答えた。お前の早起きと俺の足の負担に、どんな因果関係があるんだ?
「枕に恋をしていそうなキミは多分知らないだろうが、早く起きた朝に散歩をするのは健康にいいんだ。身体と心の両方の意味でね。少なくとも学説ではそういう話がメジャーさ。生理学的な理論が信頼できる臨床結果に基づいて構築されている。医学の発展のため数世紀に渡って二元的に分かたれていたものが日常的な行動の元で一括りにされるなんて、何となく皮肉めいてもいるがね。お年寄りで趣味が散歩だという人も多くいるそうだが、ひょっとしたらそれは本能的な希求なのかもしれないし、だとしたら僕達にはもともとそういった……」
 信号から次の信号の間まで調子良く喋っていた佐々木は、途中で流石に本題と離れていると感じたのか、
「とにかく、早く起きたから、散歩がてらにね」
 ごくごく簡潔に締めくくった。質素清貧は美徳なり。言葉もまた然りだ。俺もまた簡潔に尋ねた。
「うちまで歩いてきたのか?」
「そうだよ。今日は、歩くにはそう悪くない天気だろう? 雨も雪も雹も降ってないし、雲だってそこそこにあって、日陰が無いってわけでもない。とてもいい日和だよ。贅沢を言うなら、明け方まで雨が降っていた方が良かったかもしれないけどね。その方が涼しいし、虹だって見えるかもしれない」
 虹だってさ。お前にしては随分乙女チックじゃないか。
「乙女チックという言葉にどのような定義がなされているのか僕にはとんと不明だが、そのような系とは多分関係ない。綺麗なものは綺麗だし、いいものはいいのだ。強いて言えば、それこそ個人の主観さ。さっきの時間の話では無いがね」
 人通りが少ない朝の歩道は、空っぽの腹を満たすような佐々木の講釈で埋め尽くされていく。
「もっとも、個人の主観、ことさら環境に左右されがちな価値観というものは独我論的には成立させ難いものだし、僕自身のそれも一般に対し平均的な感想だと言える。しかしキミは、僕にしてはと言うが、僕はまごうことなき乙女だよ。これについてキミが既知でないのは当然だろうけど、それでも女性だということぐらいは分かるだろう」
 はいはい、そりゃ悪かったな。お前のその独特な喋り方のせいで、時々忘れちまうんだよ。それこそ、お前が女だってこともな。
 どこぞの身分制度における最下層の人々みたく無益な労働を課された事に対する皮肉の言だったのだが、それを聞いた佐々木は俺の肩をしきりに叩きながら、喉を鳴らすことなく声をあげて、心底嬉しそうに、ついでのつまを付け加えるなら、まあまあ可愛らしく笑うと、
「それを聞いて安心したよ。枠を作った甲斐があったというものさ。虚と実は密接に関係しあっている。たまに同じものに見えてしまうぐらいね。時々ではなく、しょっちゅう忘れてもらった方が、ひょっとしたらいいのかもしれない」
 何がそんなにツボなのか知らんが、やっぱり俺にこいつを言い負かすことはできそうにない。暖簾に腕押しとまでは言わないが、戦車に中学生ぐらい歯ごたえがありすぎる相手だ。迷わず白旗を揚げるに限る。
「ほら、わけのわからん事を言ってないで、さっさと降りろ。もう着いたぞ」
 俺は負け惜しみ気味に言ったのだが、塾の目の前に辿り着いたのは本当だった。
 佐々木が素直に従ったのを確認し、建物と併設された駐輪場に自転車を入れる。
 塾の前に戻ると、佐々木はばったり出会ったのであろう、同じ教室の女子四人組と普通にきゃあきゃあとくっちゃべっていた。
 俺はじめ、男子に対している時とはえらい違いだ。話している内容は大して変わらないんだろうが、印象度では有機物と無機物ぐらい違う。
 やはり人間、口調に負う部分は大きいのか。俺も今度からできるだけ難しい言葉を使うようにしてみようかな。そうすりゃ成績だって上がるかもしれない。イグザムのリザルトがアップするかもしれない。
 無理矢理英語にしてみても逆に馬鹿を晒すな、と俺がまた一つ賢くなった所で、五人のうちで一番ぽっちゃりとした女子が、
「あたしさ、大丈夫だと思って何も食べないで来たら、やっぱりお腹空いちゃったっぽい。まだちょっとだけ時間あるし、コンビニ付き合わない?」
 なんてお誘いを食欲のみに働く指向性燐粉のようにグループ内に振りまき、それに誘われたのかどうかは知る由も無いが、
「うん、いいよ。急いで行きましょうか」
 そうやって快く頷いた佐々木は、俺の方を振り向くと、
「じゃあキョン、僕はここで一旦お別れだ。といっても、何分もしないうちにまた顔を合わせるんだけどね」
 この辺の切り替えの早さが、女らしいと言えば女らしいのか。大して知識も無いくせに偏見じみたことを考えてみる。
 俺は手を羽虫みたくひらひらさせて返し、出先でガスの元栓を閉めたかどうか気になって仕方のない主婦を想起させる素振りでちらちらとこちらを窺ってくる女子連中の含みのある視線を無視して、ガラス張りのドアをくぐり、氷に漬けすぎたスイカのように空調の整い過ぎた室内に入ると、まっすぐに受付へと向かった。
 冷房病患者の俺にだって言い分がある。
 つまる所、暑苦しく纏わり付いてくる視線より、不健康なクーラーの方がずっとマシってことだ。





 学習塾というものは、その名の通り学習や勉強といった類の概念を基礎理念に据えて建立された施設であり、わざわざ金を払ってまで通っているのだから当然っちゃ当然なのだが、俺も佐々木も周囲の学生もその理念に逆らうことなく、上流から下流へひたすらに下る産卵期のアユのように、学校で使う教材より幾分詰め込まれた感のあるテキストにシャーペンを走らせ続けていた。
 昼を迎えようとする外では、朝より一層眩しい陽射しが天板から注がれているというのに、俺たちはこんなマッチ箱みたいなとこに詰めこまれて、何やってんだろうな。比較的夏男の俺からしてみれば、甲子園に出場した野球選手がドラフト指名されてのこのこと出向いた先がゲートボール球団だったようなもんである。憂うべき不適所不適材。
 夏色の虚しさを抱えながらも数珠繋ぎの講義をこなしていき、そうして日もすっかり暮れる時間帯になると、追い討ちをかけるように本日中最も憂うべきイベントがやってきた。
 それは何を隠そう、先週から予告されていた数学のテストであり、今更言うまでも無いとは思うが、文系一直線の俺にとって鬼門中の鬼門だ。
 本来ならば塾のテストは学校の成績と何ら関係性を持ち得ないので、単に自分の実力を確認するための言わば定規のようなものとして気楽に受けた方がいいのだろうが、最近の母親はその定規でさえも国産のメーカー品でないと許してくれない勢いがある。そんなに息子をいい学校にやりたいのだろうか。無償の愛ほど恐ろしいものは無いのかもしれない。
 前門の数式、後門の母。
 畢竟、悪い点を取ったりしたら大ピンチに陥るわけである。主に俺の小遣いが。
 そして案の定、試験中の俺の頭は回転率が終始ローギアに固定されており、六割方の手ごたえにめげそうになりつつも何とか解答欄を埋めていったのだが、最後の大問、ヒルベルトが遺した二十四番目じゃないのかと我が目を疑うほど複雑な証明に至り、その機能を完全に停止した。
 これは無理だ。公式の丸覚えでどうにかなるレベルじゃない。手も足も出ないというか、出すべき手足が無い。達磨の気持ちがよくわかる。
 丸々一問分余った時間で、出来た所までの見直しを終え、西部劇のラストで小屋を騎馬隊に囲まれたガンマンより幾分かっこ悪い諦観を漂わせつつ、窓の外を見ようにも暗くて全然面白くないので、ゲシュタルト崩壊を起こすまで数字を眺めてみるかと思っていると、どうしようもなく偶然だったのだが、さっきから机に突っ伏している男子の肩越しで、二つ隣の佐々木と目が合った。
 如才なく全問解き終えて暇なのだろう佐々木は、そのくりっとした瞳を、俺の骨格でもスキャンするように円を描いて動かしたと思いきや、いきなり自分の計算用紙に何事か書き付けると、薄笑いを浮かべたままこっちに突きつけてくる。
『早いね』
 濃い字体で、そう書かれていた。
 俺も同じように計算用紙にカリカリとやると、
『最後のが解けない。もういい』
 と大きく書いて、妙に若い大学生風の男性講師が尻を見せているのを確認し、横向きに突き出した。
 素早く読み取った佐々木は、呆れたように笑いながら、
『諦めるにはまだ早いね』
 ちなみに末尾の『早いね』はさっきの流用である。
 俺は素直に消しゴムを使って一旦白紙に戻すと、
『ゼッタイむり』
 首を傾げた佐々木は、それっきり自分の机と向かいあっていたので、ペラペラな応酬はもう終了なのかと思って大人しく再三の解答欄チェックをしていると、点描画かよと突っ込みたくなるほどびっしりと文字の書かれた用紙を視界の隅から寄越してきた。
 はじめ答えを教えてくれているのかと思ったが、どうやらそうじゃない。こいつはそんな不正じみた事は絶対にしないし、何よりうっすらと確認できそうな部分を読み取っても、数字らしきものが一切記載されていなかった。
 やれやれ。また随分な長文じゃないか。こっちから見たら、まるで米粒に写経してるみたいだぜ。国語の講義は朝のうちに終わったんだけどな。
 俺はわざとらしく眉間を揉み解しながら、
『長すぎて読みたくない。てか読めない』
 佐々木は微かに眉をしかめ、シャーペンで自分の頭をコンコンとノックすると、今度は用紙の裏側に、
『根気が足りない。ついでに言うと、君はいつもヤマに頼りすぎる。勉強はギャンブルでは無いよ』
 失敬な奴め。今回はきちんと勉強したんだぞ。得意な部分に偏重していたような気がしないでもないけど。
『おれにとっては似たようなもの』
 どうせお見通しだろうし、正直に書いた文面を見せた。
 途端、佐々木は挑むような速さでペン先を躍らせ、
『では、君にとって勉強とは何なのか』
 知るか、と書こうと思ったのだが、俺がそうするだろうと見越したような佐々木の浅い笑みは、少々腹に据えかねた。
 いいさ、思わずギャフンと叫んでしまうぐらい上手い返しを考えてやる。俺は今朝方挙げたはずの白旗も省みず、そう決意して思索を開始した。
 だって、たまにはこいつの感心する顔が見てみたいんだ。それを機として日頃のディベートにおけるヒエラルキーを逆転させられればなお結構。少なくとも解けない問題を無理に解くよりは有意義な時間だ。俺にとってはな。
 俺は思考の内に漕ぎ出し、絶えず描かれる意識の曲線を見つめ、それの停止点上で勉強という観念を解体しようと試みつつも、自分で言うのもなんだが言語学者でも解読できそうにない文章をつらつらと連ねていった。
 その結果、
「なあ、君」
 いつの間にか目の前に立っていた推定大学生講師が、
「それ、何書いてるの」
 心の底から我知らず溢れ出した混じり気の無い純粋な疑問を口にするような小声で俺に問いかけ、当の俺は精神を病んだカエルの内面についての考察と同等の意味不明な文章が書き表されていた計算用紙を、片手でくしゃりと握り潰すと、
「……日本語の練習を、ちょっと」
 オーケストラのように重なる雄大なシャーペンの音に紛れて、噴出すような息を吐いたのは一人だけ。
 引き続き講師に訝しげな視線を浴びせられながら、去年の合唱コンクールで盛大に歌い出しを間違えた元クラスメイトの顔を、俺は何故だか思い出していた。





「いやあ、さっきのはなかなかに傑作だった。数学のテスト中に日本語の練習っていうのが、また最高だね。テスト自体はそう難しくなかったけど、笑いを抑えるのには苦労したよ」
「やかましい。全てはお前の甘言に乗せられたせいだ」
 後ろから追いかけてくる小柄な笑い声を遠ざけようとハンドルを押す力を強めれば、自転車は石につまづいてバウンドし、その様を背後で目にしたであろう佐々木は、益々くつくつと喉を鳴らした。
 陽射しの残滓が星に散ったような夜空の下、電球が古くなっているのか知らないが、ちらつく街灯さえ俺を笑っているように思える。このチカチカ野郎。
 臍がカーブしすぎて半回転捻りしてしまいそうな俺の気配を察したのか、悔しいかなパンストのCMに起用されないのがスカウトマンの怠慢としか思えない健康的な脚線を大股で動かしながら隣に並び出た佐々木は、さも心外といった調子で、
「それは誤解だ。僕だってまさか、あれほど没入して答えを探ってくれるとは思わなかったんだよ。やはりキミはストイックだね。それか、よっぽどの大物なのかもしれない。やるべき事の外を意に介さないほどの」
 わかり易いおべっか。剥きだしの小判だ。せめて菓子包みにくるめ。お前に大物なんて言われても、嫌味にしか聞こえない。
「とんでもない。キョン、僕はキミが羨ましくもあるよ。本当だ。僕の生き方は、否が応にも縮こまってしまいがちだから。周りを省みずに進めるような勇気は持てない。それが必要な時でも、僕はできないかもしれないよ。その点、キミなら間違えずにやれそうだ。だから、本当に羨ましい」
「いや、もう遅い。二学期からはバスで塾に行け。こいつの荷台は乗車禁止だ」
 俺はできるだけ意地悪く聞こえるように言い捨てると、さくさくと前へ歩き続ける。
 しかし、数歩進んだ辺りで、ミュールの立てる乾いた音が消えているのに気付き、反射的に首だけで背後を仰ぐ。
 佐々木は、ちかちかと目に痛い街灯のすぐ近くで、縫われたように立ち止まったままだった。
 俺は思いがけず焦りながら、ハンドルを引きつけて前向きのまま後ろに下がると、
「おい。わかってるとは思うけど、今の冗談だからな」
 だから、何かリアクションぐらいしろよ。
 槍で突付かれているような早口でそう言うと、
「ああ、わかっている。でも、キミにそう言う権利ぐらいはあるのも、また事実だろう。あの場でキミだけに注意を向けられるのは不平等だった。僕も少しぐらい傷ついておくべきだ」
 例えフリだけでもね、と、本当に申し訳無さそうに佐々木は言った。
 どうしてだか一瞬息が詰まってしまった俺は、咄嗟の言葉を探す努力もできず、深いため息をつく。
 おいおい。頼むぜ、まったく。あんな風に言えば今度はどんな議論を展開するかと身構えてたのに、とんだ肩透かしだ。それどころか、まるで俺が悪鬼羅漢みたいになってる。
 取り繕うように自分の顔を手で扇いだ俺は、
「そのぐらいの不平等は必要悪だ。消費税みたいなもんさ。いいからほら、さっさと行こう。あんまりゆっくりしすぎると、バス乗り過ごしちまうぞ」
 そう促して、遠のいた街灯の代わりに、自転車のライトが頼りなく照らす夜道を歩き始める。
 後ろからいつもの歩調が聞こえてきた時、正直言って、俺は少し安心していた。友達と妙なすれ違いを起こさずに済んだのだから、当然と言えば当然なんだけど。





 それから俺たちがいつものような会話を遊ばせていると、バス停にはすぐに着いた。引き寄せられるように短く感じる。やっぱりこいつとは話が合うのかもしれない。
「キョン。キミはいい奴だな」
 屋根のついた停留所の陰に身を入れると、青く塗られたベンチには座ろうともせず、俺の方を向いて佐々木は言った。やっぱりこいつとは話が合わない部分もある。
「……そういうことをいきなり言い出すお前は相当な変人だ。よく言われないか」
 どう切り返せばいいのかわからずに、幾分か失礼な物言いをすると、佐々木はむしろ歓迎するかのように、平均的らしい胸にバッグで塞がれていない左手を当てて、
「変人か。ああ、そう言われるのも望む所さ。多少なら。僕は何事もあけっぴろげにできるような性格をしていないから、あんまり周りに寄ってこられても困ってしまうんだ。自分が人の中心に位置するのは、大の苦手だからね。そう、我ながらひどく嫌味で倣岸不遜なんだが、僕はそうやって周囲をふるいにかけているのかもしれない」
 そりゃえらく目の粗いふるいだ。俺みたいなのでも引っかかるんだからな。
「なに、そのぐらいで丁度いいよ。他人との関係なんてものは、自分が楽しめる範囲でごくささやかに、それでも無理しない限りはそこそこに広げていけたらと、僕は思っている。都合の良すぎる話だとも思ってはいるが」
 佐々木は視線をベンチの木目に落とし、自身に向けているのか唇を皮肉っぽく歪ませていたが、
「それに、キミが引っかかる程度にしておいて良かったよ。本当に正解だったな。バス代だって浮いて助かるし」
 次の瞬間には、いつもより少しばかり素直に見える微笑を浮かべて俺を見つめながら、
「だから、これからも仲良くしてくれ」
 バッグを持ち替えて、空いた右手を音も無く差し出してきた。
 何の儀式なんだよ、まったく。恥ずかしい奴。
「……まあ、一度なっちまったもんはな」
 俺は熱に冒されていない冷えた手を一秒の半分ぐらい握って、離した。プールの水面をなぞったような感触が残った。
 離れた手を合図にしたかのように、駅の方からやって来たバスが目の前で停車する。
「じゃあ、キョン。また塾で」
「じゃあな。今度朝から来る時は、電話か何かするようにしろよ」
「ああ、肝に銘じるよ」
 俺の真似をして適当に言いながら、他に客のいないバスに乗り込んだ佐々木は、一番後ろの窓際に座ると、珍しくも女子同士でいる時そうするように、胸元で小さく手を振って見せた。
 いつだって、そうしていればいいんじゃないのか。
 友人のためを思ってそんな忠告をしてやりたかったが、もう声は届かないだろう。窓を開く素振りも無いし。
 だから俺も、ぞんざいに片手を挙げるだけで答えると、それまで押していた自転車に跨って、早々と発車したバスから遠ざかるように家を目指す。
 タールのように暗いかわりに、昼より断然涼しい夜道をひた走る道中、俺はずっと考えていた。
 やっぱり佐々木に口では敵わないこと。数学のテスト中に余所見をしてはならないこと。それから、一人で乗る自転車は驚くほど軽いってこと。
 俺が今日学んだこと全部。何と一日で三つだ。驚異的な数字。縁起もそう悪くない。このまま行けば、夏期講習が終わる頃には俺は学年一の秀才になっていることだろう。
 そうやって一人夢見る俺を、右手に残った冷たさが、さっきまでのように笑うのだった。
 




 ああ、それとついでに。
 俺にはその夏休みの間だけ、朝早くに起きて家を出たあとぼんやりと道端で立ち尽くす癖がついたのだが、それは予鈴間近の散歩を好む変わった友人のための、全くの善意から出た行動であったことを、ここに付け加えておく。