橙色感情線のアリア

 誰もいなくなった教室で窓の外を眺めるのが、最近の習慣だった。
 一月の寒さはただでさえ凶悪で、この時間ともなると日も無くなるため、頼りない体温を保つためにマフラーに首を埋めながら、昼の残り香のようなざわめきが聞こえる中、たった一人で窓から身を乗り出す。お陰でテニス部の連中に変な勘ぐりをされることもあったが、俺はそれでもここにいた。
 そうまでして何を見ているのか、実は自分でもよくわかっていない。ただ、毎日この時間帯になると、空は黒とも灰色ともつかない姿で稜線の上に覆いかぶさり、街の色を飲み込んで、笑うでもなく沈黙する。みんな当然のように受け入れているそんな風景が、俺は少しだけ怖かった。
 思い出まで飲み込まれていくようだ。
 迫る暗闇に抗うように(俺がここにいるのは、そのためなのかもしれない)目を瞑り、あの日の夕焼けを思い出す。外と瞼の暗闇を突き破り、血のように滲む優しいオレンジ。  
『ねえ』
 耳の中で、銀の鈴を放った様な高い声が響く。
 いくら再生しても色褪せない音の記憶。忘れられない大事な思い出。
『ねえ、何を見てるの?』
 振り向けば、誰もいない教室。
 俺は何も答えなかった。 





 人を好きになったのは初めてだったと思う。
中学の頃は、友人達が異性の話で盛り上がる中でも俺はずっと聞き役で、たまに話を振られた時には人気のある子の名前を出して、何だよお前もかと笑い合い、少し無理しながら皆と足並みを揃えていた。正直に答えると、余計つつかれることは十分わかっていたからだ。皆が盛り上がる度にへらへらと嘘臭く笑っていても、取り残されたと焦ることはなかったが、単純に羨ましいと思うことはあった。
 そんな俺が、高校に入った途端に恋に落ちてしまった。お笑いだ。
 きっかけなんてものは覚えていないが、一目惚れでは無かったと思う。最初は、好きだと言う気持ちを自分でも上手く理解できなかった。そういうことに今まで無縁だったから、当然と言えば当然だ。過去に遡っても照らし合わせるべき感情が見つからず、戸惑う日もあった。 
 ただ、気付いたら何気なく彼女の方を見ていたり、体育の後の少し乱れた髪が気になってトイレに駆け込んだり(お陰でワックスの減りが断然早くなった)、たまに言葉を交わす時にはいつもより気合を入れて笑わせようとしていたり、笑ってくれたら嬉しかったり。そんな事が重なる内に、ゆっくりと自分の気持ちを理解していった。
 俺はきっと、彼女のことが好きなんだ。
 特別な自分を失ったようで悔しくもあったが、同時に嬉しくもあった。ようやく皆の言葉が理解できるようになった安心感か、それとも純粋な高揚か。どちらにせよ、愛想笑いを浮かべる回数は減りそうだ。
 しかし、それが理解できたからといって、日々に変化は表れなかった。彼女の姿を目の端で捉えたり、たまに何気ない話をしたり。無理して関係を縮めようとはしなかったし、できなかった。自分が特別初心だったわけではないだろう。似たような話は、友人から幾つも聞いていた。
 ずっと昔、母親の前で欲しい玩具が載っている広告をじっと眺めていた時と同じだ。うちは片親だったから、そういう控えめな我侭しか許されていないような気がしていた。身勝手で幼い期待。結局、母親がそれに気付く事は無く、俺は成長して、欲しかった玩具のことなんてすっかり忘れてしまった。





 それでも、全てがそうであるように、思い出だけは残っていた。
 二人っきりの教室で言葉を交わした、あの日の思い出も。

 


 
 その日は、隣のクラスの友人とつい遅くまで話し込んでいて、鞄を取りに教室に戻った時には、すっかり日が沈んでしまっていた。だから誰もいないだろうと思って潜った扉の先に彼女がいて、ひどく驚いたのを覚えている。
「あれ?」
 雑巾で黒板の溝を拭いていた彼女も、少しびっくりした様子で顔を上げる。  
「君、帰宅部でしょう? こんな時間まで残ってるなんて、珍しいね」
 誰に対してもそうする様な笑顔を浮かべる彼女は、それでも特別だった。固まった俺の視線をどのように解釈したのか、彼女は慌てて制服の胸をはたき、照れくさそうにまた笑う。
「友達を待ってたんだけどね、ほら、私学級委員じゃない? だから、こういう汚れとかちょっと気になっちゃって。かなり神経質なのかも」
 本人も言うとおり彼女は学級委員で、その仕事振りは勤勉だった。だからと言って、堅物なわけでもない。ふざけすぎる連中を笑って叱ったり、時には見逃す寛容さも持ち合わせており、頭がいいためかユーモアもあった。
 それだけに人気者で、憧れる男子も多かったのだろう。俺もその中の一人だったので、たまに気が滅入りそうにもなった。多数派に飲まれている自分はどこかみっともない気もしたし、何より受験なんかよりよっぽど厳しい倍率が立ちふさがっているかと思うと、告白なんてする気が無くとも、やはりたじろいでしまう。
「そっちは、遅くまで何してたの?」
 好奇心を素直に浮かべ、彼女は聞いてくる。
 その言葉に対して何を答えたのか、そこからどんな会話を交わしたのかは、実はぼんやりとしか覚えていない。ただ、気付けば俺は白く汚れた雑巾を握り締め、黒板の汚れを丁寧に拭き取っていた。



「よし、綺麗になったね」
 その言葉を合図に、居残り掃除の時間は終わった。こんなに真剣に汚れを拭ったのは、久しぶりのような気がする。まだ暑くはなかったのに、首筋にはうっすらと汗が浮かんでいて、自分の健闘を称えているようだった。
 二人分の雑巾を絞って手洗い場から戻ってくると、彼女は自分の席で日誌を書いていた。エコマーク入りの細いシャーペンとリサイクル印のノートが奏でる、地球に優しい環境音。少なくとも耳障りではない。
 俺はできるだけ静かに立て付けの悪い掃除用具入れを開けて雑巾を掛けると、そのまま窓際の席に腰を下ろし、じっと窓の外を眺めていた。街並みを照らす夕焼けは、ともすれば昼の太陽より鮮やかで、柔い橙色に包まれた教室に明かりは必要なかった。
 まだ、春だったんだ。
「ねえ」
 すぐ近くから聞こえる声。俺は振り返って、真後ろに立つ彼女を見た。色の薄い手には書き終えたばかりの日誌をぶら下げている。少し鼓動が早くなった。
「ねえ、何を見てるの? テニス部に知り合いでもいた?」
 真下はテニスコートだ。言われるまで気付かなかった。知り合いはいたかもしれないが、目に入らなかったみたいだ。
 俺は、すぐ傍で身を乗り出す彼女を横目に答える。 
「ああ。好きな子がいた」 
 はっとした様子で首をこちらに向けた彼女は、丸い目をさらに丸くした後、やがて年頃の少女らしく相貌を崩しながら詰め寄ってくる。長い髪がゆるやかに流れていた。
「えー! だれだれ? 誰なの? ねえ、教えてよ! 誰にも言わないから、絶対!」
 俺はおどけながら追求をかわす。諦めない彼女。
 じゃれ合いの途中で偶然触れ合った手が熱くて、何故か涙が出そうだった。


 
 時刻が五時半になろうという頃、まだ友人を待つという彼女を置いて、俺は教室を後にした。後ろ髪引かれるようでもあったが、満足もしていた。去り際の彼女は笑顔だったし、お礼の言葉はひどく甘く聞こえて、これ以上の何かを望む事なんて考えられない。こんなに楽しい放課後は初めてだ。夜遊びなんかより全然ドキドキする。
 校門の前で教室を一度振り返り、明日から少し遅くまで学校に残っていることにしようと、ひそかに決めた。

 彼女が転校したことを知らされたのは、その翌日のことだった。

 
 

 
 あの時、俺が最後まで彼女と一緒に残っていたのなら、何かが変わったのだろうか。自分の想いを少しでも伝える事ができていたら、今も隣に彼女はいたのだろうか。ヒロイックな妄想だ。しかし、ありがちな後悔は、だからこそ重い。
「あれ?」
 そんな女々しい回想は、誰かの声により唐突に打ち切られた。
「珍しいな。お前、たしか帰宅部だろ? こんな時間まで何やってんだ。電気もつけないで」
 いつの間にか、教室の入り口に人が立っている。見慣れたシルエット。
「何だよ。何か面白いものでも見えんのか?」
 変なあだ名のクラスメイトは、窓際にある自分の席に移動すると、俺と同じように外に向かって身を乗り出した。こいつとは、毎日最低でも一度は会話する。つまりそれぐらいの関係だ。
「……何も無いな」
「ああ、何も無い」
 暗いだけで、もう何も見えない。
「じゃあお前、何やってたんだよ」
 呆れたような声だ。当たり前か。俺はそれに答えず、代わりに尋ねた。
「そっちこそ、こんな時間になにやってんだ。あの……何とかってクラブの活動してたんじゃないのか」
 そいつは寒そうに肩を竦めると、窓から身を離す。 
「パシリだよパシリ。あいつ、自分の忘れ物を俺に取りに行かせやがって」
 文句を呟きながら後ろの席に回ると、机の中を漁り始める。そういうお互いに対する遠慮の無さがからかわれる原因だということに気付いていないらしい。間の抜けた奴だ。 
 やがて顔を上げたそいつの手には、束ねられた写真が握られていた。
「何だ、それ?」
「何って、去年やったクリパの写真……あ、こら! 返せって!」
 横取りした写真を手早くめくると、面白い一枚を発見した。予想通りだ。
「これ、焼き増ししてクラスに配ろうぜ。いい話題の種になる」
 俺が抜き出して見せたのは、赤い帽子を被って嫌味なく笑う涼宮と、羽交い絞めにされている間抜けなトナカイのツーショット。
「お前な……」
 もちろん本気でこの写真をどうこうするつもりはないのだが、そんな冗談にも、こいつは本当に嫌な顔をするのが常だった。
 変わった男だと思う。涼宮は確かに変人だが、美人で頭がいい。そんな奴に懐かれれば、大抵の男なら、照れと自意識と自惚れがない交ぜになった表情をしそうなものだ。向けられる好意を自分自身のステータスだと思い込むバカは結構多い。もちろん俺も含めての話。しかし、こいつはどうも涼宮との関係を本気で認めたくないらしく、そういう所は普段の大人びた様子とアンバランスで、素直に好感が持てる。
「なあ」
 仏頂面を眺めながら、だれにも話したことの無い俺の初恋の話を、こいつになら教えてやってもいいのかもしれないと考えていた。
「これ返すからさ、たまには一緒に帰んねえか。そんで、どっかで馴れ馴れしく飯でも食おう。明日涼宮に報告して、あいつを妬かせてやりたい」
 そいつは一瞬驚いたような顔をしたが、やがて不機嫌そうに眉をしかめ、口を尖らせて言う。
「後半の部分を撤回するんなら、付き合ってやってもいい」
 捻くれた答えがおかしくて、俺は笑った。




 
 鞄を取るために部室へと戻って行った間抜けな友人を見送った俺は、蛍光灯のスイッチを入れた。人口の明かりが小さな教室を覆い、机の群れをはっきりと縁取っていく。心なしか、温度も少し暖かくなった気がする。 
 そしてまた、窓際に立った。さっきよりも黒が濃くなった空。もう日は沈んでしまって、あんな夕焼けは見れないが、すぐにまた春になるだろう。季節は薄情だ。すぐに忘れてぐるぐる回る。こないだ買った携帯はすぐに型落ち。俺もそろそろ、体が冷えるだけの無駄な習慣は断ち切らなければならない。風邪を引けば、母親に無駄な心配をかけてしまうだろう。それは少し嫌だ。
 冷え切った窓枠に手をかけると、鋭く冷えた風が一度吹いた。近いうちに雪が降るのかもしれない。暗い空から降る雪が、俺は嫌いじゃなかった。少しだけ楽しみが増えた。
 知らず、瞼が閉じられる。  
『ねえ』
 耳の中で、銀の鈴を放った様な高い声が響く。いくら再生しても色褪せない音の記憶。いつか忘れる初恋の思い出。
『ねえ、何を見てるの?』
 俺は目を開けて、誰もいない教室を振り返った。橙色には程遠い、味気なく白い明かりに照らされながら、少し気障な言葉で告白するためだ。
「ガラスに映ったあんたの横顔を、ずっと眺めてた」
 窓を閉める直前、彼女の驚く声を聞いた気がした。