「あの、涼宮さん。あの、あのね、さっきの問題でわからない所があるの。良ければまた教えてくれないかな?」
「ああ、別にいいわよ。黒板に書いてあるやつでいいの?」
「うん。その、ごめんね。いつもいつも」
「阪中さんが謝ること無いわ。あいつの教え方が下手なだけなんだから」
 後ろの席で交わされている学生らしいやり取りを聞くともなしに耳に入れながら、俺は忌々しい数UBの教科書を机の中に放り込んだ。
 ベクトルだかスペクトルだか知らんが、こんな勉強をして一体何の役に立つんだ。俺は数理学者になりたいわけでもなければ、物理学者になりたいわけでもないんだぞ。普通に生きていく上で必要なのは四則演算ぐらいのもんだろ。こんな事で頭を悩ませるなんて、ニューロンの無駄使いもいいとこだ。いや、そもそも資源枯渇が叫ばれて久しい昨今、無駄使いなんて言葉は前時代の遺物に他ならないわけで、つまり今しがたの授業内容がまるで頭に入ってこなかったとしても、俺が馬鹿なわけでは決して無いのだ。
 ……いや、いかんいかん。逃避めいた考えは心地良いが、ほどほどにしとかないまずい。現実は無情にもノンストップだからな。あんまり長距離に渡って逃げすぎると、定期考査の点数のツケが大きくなるんだ。
 容赦の無い現実を思い、一人背筋を震わせていると、
「最近さ、雰囲気変わったよね」
 いつの間にやら目の前に立っていた国木田が、俺の机に手をつきながらひっそりと呟いた。
「雰囲気? 何の雰囲気だよ」
「涼宮さんだよ、涼宮さん」
 ハルヒ?
 国木田の視線に倣って後ろを振り返ると、少し困った様子の阪中に、不敵な笑みのまま向かい合うハルヒの姿が目に入ってくる。
 俺と喋ってる時より幾分かまともな顔つきではあるが、原色をかき混ぜたような強い色の瞳は普段どおりの大きさで自己主張しており、仕草その他に違和感を感じる所も特に無い。こいつは精神と身体がシンプルな直列電池のように何の抵抗も無く繋がっている奴だから、外見がいつも通りなら中身も即ちいつも通りの筈である。 
「……別に、いつもと変わらんだろ」
 大人しいと言えば大人しいが、いくらこいつでも一日二十四時間ずっと大騒ぎしてるってわけじゃない。せいぜい十四時間ぐらいだ。
 しかし、国木田は顔の割に大人びた所作で首を横に振ると、
「違うってキョン。もっとほら、物事を巨視的に捉えないと」
 巨視的ねぇ。そう言われても、ハルヒとはSOS団やら何やらでしょっちゅう顔をつき合わせているわけで、久しぶりに会った孫の劇的な成長に感動するご隠居みたいな視点で見るには、些か無理がある。 
 だけどまぁ、国木田の言葉に心当たりが無いわけでもなかった。  
「ひょっとして、あいつが最近女子連中と喋るようになったことを言ってんのか」
「そう、その通り」
 これまたいつの間に発生したのか、隣の机に尻を引っ掛けた谷口が、紙パックのジュースを啜りつつ目線を俺の後ろに向けた。
「見ろよあの姿。あれじゃまるで、お勉強ができてスポーツ万能かつ顔も良くて面倒見も良いという、お姉さんタイプ最上級の、ただの女子高生だぜ」
 ただの女子高生と断じるのは早計に過ぎると思うぞ。しかし、あいつが少しでもそんな風に見られるのは喜ばしい事なのかもしれん。正方向のベクトル変化ってやつだな。
「どこが喜ばしいんだよアホキョン。変人っぷりが鳴りを潜めちまってるじゃねぇか。あんな涼宮、却って気味が悪いっての。その内溜め込んだ変人パワーが大爆発して本当に宇宙人でも呼んじまうような羽目になるんじゃないかと、俺はもう心配で心配で」
 心配せんでも、宇宙人なら今もそこら中で大絶賛暗躍中だ。
「そんなオーバーに考えることないだろ。あいつにだって、前からまともな部分ぐらいあったさ」
 紙幣のマイクロ文字並にわかりにくかったその部分が、阪中のおかげで表立ってきただけの話だ。
 俺がそう言うと、谷口は呆れたように首を振りつつ、 
「キョンの言うマトモは全然当てにならないからな」
 お前の脳みそほどじゃないと思うぜ。
 成績の悪い者同士でいがみ合っていると、成績優秀な裏切り者でおなじみの国木田が口を開いた。
「いや本当、去年に比べたら大分とっつき易くなったと思うよ。最近は他の女子と喋ってるとこもたまに見かけたりするし」
 そこまで言って、国木田は一旦言葉を区切り、
「でもさ、キョンはちょっと寂しいんじゃないの?」
 は? 寂しい?
「何でそんな話になるんだよ」
 今度は横から谷口が、
「そりゃお前、あれに決まってんだろ」
 何なんだお前らは。交互に喋るのがマイブームなのか。 
「涼宮の奴、ちょっと前まではお前としか口を利いて無かったもんな。気分はさながら娘を嫁にやる父親か、それとも浮気を許した甲斐性無しのダメ男かってとこだろ」
 違うか? と口をクレーンゲームで人気が無く最後まで残っている人形みたいに不細工な笑みの形に変える谷口。俺がそんなたわ言に反論しようとして口を開くと同時に、間抜けなチャイムが窓を揺らした。
「ま、本格的に愛想尽かされないよう、せいぜい励むこった」
 谷口はわざとらしい声で笑いながらゴミ箱に向かい、国木田はさっさと自分の席に移動してしまった。
 くそ、逃げ足の速い奴らめ。
 俺は振り上げた拳を引っ込めながら、窓に映るハルヒの横顔をこっそりと盗み見た。 
 以前に比べて丸くなったとは言っても、まだまだ周囲に馴染んでいるとは言い難かったハルヒにとって、阪中と仲良くなれたのはいいきっかけだったのかもしれない。
 谷口も言っていたように、阪中と喋っているハルヒを見れば、俺と対している時みたいな毒々しさも無いし、割とおっとりしている阪中に気を使っているのか、誰彼かまわず巻き込む傍若無人さも鳴りを潜めている。周囲の警戒が薄れるのも当然だろう。そうすりゃ、もともとカリスマ的要素を余す所無く持っていた奴だし、クラスメイトとしての距離を縮めようとする連中も出てくるわけで、最近はそんな連中とも言葉を交わしている様子だった。 
 しかし俺はと言えば、そんな変化をまるで寂しいと思っていないどころか、割と本気で喜ばしく思っている。あいつの性格は、周りが思ってるほど酷いもんじゃないってことを知っていたからだ。周囲に正当な評価を求める事ぐらい、別に悪い事じゃないだろ? 俺の事なんて気にかける暇も無くなるぐらい多くの友人を作って普通の色に染まってくれれば、なおさら結構だね。
 てなわけで、間抜けな二人組みが言ったような寂しさなんてものは本当にこれっぽちも感じちゃいない俺は、教師の話も聞かず、二人の背中に向かってせっせと消しゴムを投げつけるのだった。




 で、次の休み時間。
 黒板に書かれた古文の訳を写し終えた俺が、さてトイレにでも行くかと思い席を立つと、
「ちょっとキョン、あんたどこ行くのよ」
 同じく立ち上がったハルヒが、そんなことを聞いてきた。
 俺は、一々答えるのもどうかとは思いつつ、
「どこって、トイレだよトイレ。何か用が有るのか?」
 休み時間の校舎探索にでも付き合わされるのだろうか。別に構わんが、その前に用を足す時間ぐらいは欲しい所だ。
 しかしハルヒは滑舌良く、
「そ。奇遇ね、あたしもトイレなの。一緒に行くわよ」
 なんて、わけのわからんことをのたまった。
「……はぁ?」
 一緒に行くってお前、目的地はトイレだぞ。帰り道が同じ方角だから、みたいな話じゃないんだぞ。
「いいじゃない別に、女子便所も男子便所も場所は変わらないんだから。催すタイミングが丁度同じだったってだけでしょ」
 こいつはひょっとしてジェンダーの意味を履き違えているのかもしれない。
「いや、それはそうだが、わざわざ言い合わせてまで一緒に行かんでも」
 偶然ならまだしも、教室から二人並んで便所に向かう男女なんて、ちょっと嫌だ。
「そんなの一々気にするほうが馬鹿らしいわよ。ほら、さっさと歩く!」
 妙に男らしいことを言いながら背中をばしばしと叩いてくるハルヒに対して力一杯反駁したかったのだが、尿意ばかりは我慢するわけにもいかず、俺は形容しがたい気恥ずかしさを感じながらも廊下に足を踏み出すことしかできなかった。
 



 さらに次の昼休み。 
 朝から待ち焦がれていた弁当を広げ、さて今日のおかずは何だろうと思い蓋を開けようとすると、
「さあキョン、食堂に行くわよ」
 飼い犬を散歩にでも誘うような調子で、後ろから俺をせっついてくるハルヒ。
「……いや、俺弁当だし」
 それにお前、飯食いに行く時はいつも一人じゃないか。
「それとも何か、やっぱり俺に用でもあるのか」
 そう言いながら振り返ると、財布片手に腕組をしたハルヒが、講演台に立つどこぞの名誉教授のように真面目くさった顔で、 
「いい、キョン。毎日毎日同じ場所、同じメンツで昼食を食べてたら、脳年齢は右肩上がりのうなぎのぼりよ。たまには別の場所で食事を取るぐらいの冒険心を持ってないと、これから先の時代は生き残っていくことができないわ」
 いやいや、むしろ反復行為から徐々に発展させ、よりエスプリの利いた会話を心がけることで右脳に刺激を与え続ける事こそが重要なのではなかろうか。 
「というかだな、食堂は人が多くて、落ち着いて食えやしないんだ……っておい、勝手に俺の弁当持っていくんじゃねえ!」
 それとできれば、俺の話を最後まで聞くぐらいの堪え性を身につけてくれ!
 まあそんなこんなで、俺のランチタイムは、豚に親を殺された経験でも有るのかと邪推してしまいそうになる形相でカツ丼を睨みつけながら切り崩していくハルヒと向かい合いつつ、人ごみの中で過ぎ去っていった。 
 



 さらにさらに掃除時間。
 煎餅と同じぐらいペラペラの鞄を引っつかみ、さて部室にでも向かおうかと思い席を立つと、
「はい、これ」
 さして面白くもなさそうな顔でちり取りを差し出してくるハルヒ。
 俺はそれを押しのけつつ、
「生憎だが、俺の掃除当番は先週で終わりだ」
 だからちり取りなんて差し出されても受け取る道理はまるで無いし、たとえそのちり取りがサンタさんからのクリスマスプレゼントだったとしても俺の靴下は受け取りを拒否するだろう。
「そんなことはどうでもいいの。あたしがほうき使ってんだから、ちり取り係が必要なのは当然でしょ」
 ハルヒは面白く無さそうな顔をさらに面白くなさそうに沈ませると、ことさら静かな口調で言った。
 その理論でいくと、ステーキなんかを食べる際にはフォーク係とナイフ係が必要だな。
「屁理屈こねてないで早く受け取りなさい。さもないと、この鋭角的な部分であんたの眉毛に剃り込みを入れて、生活指導のハゲに注意されること間違い無しのヤンキーフェイスにしてやるわ」
 恐るべしプラスチック。
 助けを求めるために辺りを見回しても、同じく掃除当番なのであろう女子が、苦笑いして首を横に振るだけ。
 観念した俺は渋々ながらちり取りを受け取ると、ハルヒの目前にしゃがみこんだ。スカートから覗く膝小僧が眩し……くなんてないぞ。
「そうそう、わかればいいのよわかれば……ほら、もうちょっと角度をつけなさい! ゴミが下に逃げてるじゃないの!」
 どことなく満足そうな声に追い立てられながら、安っぽいちり取りをずりずりと後退させていく。
 掃除の道は奥が深い。


 
  
 そしてようやく放課後だ。
 カラスの鳴き声ならぬ長門が本を閉じる音でSOS団の活動も比較的つつがなく終了し、お互い軽い挨拶を交わしながら三々五々に散っていく仲間達を見送りつつ、すっかり歩き慣れた自宅への道のりをゆっくりと辿っていた俺だったのだが、
「ちょっと待ちなさい」
 聞きなれた声に足を止める。
 振り返ると、戸締りをするとか何とか言いながら部室に残っていた筈のハルヒが、肩で息をしながら偉そうに仁王立ちしていた。
「何だよ。どうかしたのか?」
 そう声をかけながら、部室に忘れ物でもしたのだろうかと思い自分の体をまさぐっていると、
「一緒に来なさい」
 ハルヒは俺の手首をペンチのような握力で掴み取り、颯爽と歩き出す。 
「あ、ちょっと、おいこら、どこに行こうってんだよ!」
「どこって……あそこよ、ほらあれ」
 すぐ目の前を指差すハルヒ。
 あそこってお前、バス停じゃねえか。
「どこまで行きたいのか知らんが、もう夕方だぞ夕方。悪い事は言わないから、せめて明日にしたらどうなんだ」
 しかしハルヒは俺の言う事なんていつものように聞かず、住宅街のど真ん中に作られた無人のベンチにどっしりと腰を下ろした。細長い玉座。そのまま鞄をまさぐると、つられて座り込んだ俺の手に何やら冷たい物を放ってくる。
 猫のキャラクターがプリントされた、350mlのスチール缶だ。
「……何だこりゃ」
「何って、ジュースに決まってんじゃない」
 いや、そういう事じゃ無くてだな。
「最近ハマってるのよね、このジュース。ここの近くの自販機にしか置いてないのよ。凄いレアなんだから。で、今日も買いに来たんだけど、たまたまあんたの姿が見えたもんだから、ついでにもう一本買って飲ませたげようと思ったわけ。あんたも一応団員だしね。偉大な発見は共有しないといけないわ」
 長台詞を一息に言うと、プルタブを開けてジュースをゴクリと飲み込むハルヒ。
 俺は白い蛇のように動く喉から視線を逸らつつ尋ねた。
「じゃあ何か。別にどこかに行きたいわけじゃなくて、ただ座る所が欲しかっただけなのか」
 ハルヒは時刻表を美術館のオブジェでも見るような目で観察しながら、
「そうよ」
 だからって人を無理矢理引っ張ってくるか、普通。
「あたし、普通って言葉嫌いなのよね」
「……だろうな」
 俺はそれ以上の言葉を諦め、冷えたジュースを口に含んだ。喉にしつこく残る甘さと、わざとらしいりんごの香り。少なくとも、こいつが好きそうな味ではない。
 缶から口を離した俺は、相も変わらず時刻表と睨めっこしているハルヒを横目に見つつ、小さくため息をついた。
 今日のこいつは一体何なんだ。トイレやら昼飯やら掃除やら、終いには帰り道にまでついて来やがる。ストーキングにでも目覚めたのか?
 ……何てな。こんな常識外れの思考回路を持った奴でも、長い間付き合っていれば何考えてるかなんて大体わかっちまうもんなんだ。自分の適応能力の高さを恨まずにはいられないぜ。
「なぁ、ハルヒ」
 明々後日の方向を向きながら同じジュースを飲む二人組み。他人が見たらどう思うんだろうか。聞きたいようで聞きたくない。
「そんなに心配せんでも、本当に寂しいなんて思ってないからな」
「……何の話よ」
 ピアノを足で弾いたみたいに調子外れの声をあげるハルヒに対し、独り言さ、とだけ返した俺は、もう一度まずいジュースに口をつけた。
 まったく、ほとほと見当はずれな方向にばっかり気を使う奴だ。それはそれで悪い気はしないんだが、もうちょっと分かりやすい方向で使って欲しいもんだね。そうすりゃ、普通人宇宙人未来人超能力者問わず、友達なんてねずみ算的に増えるだろうよ。
 でも本当にそうなったら、俺みたいに目立たない奴はその他大勢の箱の中に詰められて、すぐに忘れられちまうのかもしれない。それはそれで、寂しい話だな。
 みっともない事を考えつつもベンチから立ち上がった俺は、時刻表とハルヒの間に立ちふさがる。そして、中身が少ししか減っていないスチール缶を、文句ありげなハルヒの目の前にぐいっと突き出し、
「すげぇまずいぞ、これ」
 こんなもんにハマるなんて、正気の沙汰とは思えないね。
 猫のキャラクターを眼前に突きつけられたハルヒは、一瞬だけ何かを探すように視線を彷徨わせた後、馬鹿にしたような笑顔を俺に向けながら、聞こえよがしに呟いた。
「馬鹿ね、そこがいいんじゃない」