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 いつかのどこか。
 何も見えないが、誰かの声だけは聞こえていた。
「あの宇宙人め、僕を送迎車か何かと勘違いしているんじゃないだろうな。攻性情報ウィルスの借りがあるとはいえ、まったく、今回はあんたらにいいように使われて、どれほど業腹だったか。想像できるか?」
 知るか。そもそもお前に同情なんかできるほど、感情移入しちゃいないよ。
「にしても、土壇場で二重化が解けるとは。しつこい男だな、あんたも。それともこれも涼宮ハルヒの…………いや、まさか、あの少女か? 彼女が涼宮ハルヒと同種の能力を持ち合わせていたとすれば、或いは……」
 ハルヒと同じ力だって? そりゃ物騒な話だな。あんなデタラメな奴が何人もいるなんて、考えただけで寒気がしそうだ。
「なるほど、そう考えれば色々と説明がつくな。妙な機能を有した情報生命体が発生したことも、あんたが別の時空に無事なままで落ちたことも、そしてこの安っぽい結末も。全て彼女の能力によるものか」
 安っぽい結末、ね。それは一体誰の結末なんだ?
「ふ、まるで子供のサイコロ遊びだな。放逸で無自覚で乱数的なくせに利己的。定義もできず他人の操作も受けつけない力など、厄介なだけだ。あんな力に頼って何が……」
 そいつは途中で、詮無いことだ、と言いたげにため息をつくと、
「まあどちらにせよ、あんたにとって最もいい目が出たことに変わりはない。あんたの一年間は全て消えるが、結果だけはその手に残る。これがどれほど幸運なことか、あんたは永遠に知ることはないがな」
 そうか。そりゃもったいない事をしたのかもしれないな。
「……それにしても、彼女らの好みはよくわからないな。あんたみたいな奴なんて、その辺を探せば似たようなのが幾らでもいるだろうに。時代の変遷による嗜好の差異なのか?」
 すさまじく大きなお世話だ。
 そいつはそれっきり黙っていたかと思うと、
「おっと、あんたにお迎えだ。これで借りは返した、というところか。ふん、情報生命体もそろそろ崩壊する頃だし、僕はそろそろお暇させてもらおう」
 声の位置が変わる。そいつはどうやら立ち上がったらしい。
「あんたとはまた会う予定だが、あんたとはもう二度と会うことも無い。せいせいするよ、とても」
 こちらこそ、せいせいするさ。 
「ああ、それと、」
 何だ。まだ何かあんのかよ。
「あんたはもう少し男性としての役割を果たした方がいいな。あれではただの腰抜けだ。生理学的に不自然極まりない。もっとも、未来の操り人形を演じ続けるより、よほど自然で正しい道だとは思うがね」
 最後まで余計な事を言ってそいつはいなくなり、代わりに俺の手は、暖かいものに包まれた。





























「やあやあキョンくんっ、遅くなって悪かったね!」
 人もまばらな下駄箱の前で用務員に植えられた観葉植物のように佇んでいた俺の目の前に、待ち人が片手を振り上げながら騒々しくやってきた。
「いやー、うちの担任新しくなったってのに、相変わらず話が長くて困っちゃうよ。自分の放談が恋人達の放課後を奪ってるって自覚がまるで無いんだもんなっ」
 靴を履き替えながら、ちっとも不愉快では無さそうに文句を言う鶴屋さんを尻目に、俺はわたわたと周囲を見渡すと、
「あの、鶴屋さん。人前で恋人がどうとか言うのは……」
「あり、恥ずかしい? キョンくん、相変わらずシャイだねぇ」
 いや、至って普通の反応だと思いますけど。
 自身のノーマルさを必死でアピールしようとする俺の話も聞かず、つま先で地面をタップしていた鶴屋さんは、
「まぁまぁ、そういうところもお姉さんは好きだからさっ」
 白い犬歯を丸く光らせ、空いた方の手で俺の手を握り締めるや否や、スキップでもするかのように歩き始めた。周囲の視線に媚びないアレグロなリズムがこっちにも伝わってくる。
 しかし、足に合わせて揺れる髪の間から覗く耳は微妙に赤かった。あれだけ人に言っておきながら、自分でもちょっと恥ずかしいのだ、この人は。
「で、どうだいっ? 学校には慣れたかい?」
 最近の日課となっているこの質問。俺は心配の必要は無いとばかりに軽く笑いながら、
「ええ、何とか。未だに知らない人に話しかけられるのは、ちょっと変な気分ですけどね」
 これまで凡庸な人生を送っていた俺は、高校に入学した途端、とんでもない目に遭ってしまった、らしい。
 らしいというのは、それが俺の関知しえぬ所で起こったということであり、まあ要するに、記憶喪失とかいうアレである。漫画でしか見たことの無いような現象が、自分の身に降りかかってきたのだ。明日は我が身どころの騒ぎじゃない。昨日の二次元は今日の三次元だ。
 俺にとって、去年の最後の記憶は入学式の前日。そこそこの不安と期待を抱きながら結局いつもの時間にすかすかと眠くなったため布団に入ったところで途切れている。そして次に目覚めた時、俺がいたのは、およそ一年後の病院のベッドの上だったのだ。
 そんな中で唯一の救いは、空白の一年の俺がまともに生活してくれていたことであり、少しばかり不真面目だったらしいが、成績もそこそこで部活もきっちりやっていたらしく、復学する上でさしたる問題は見当たらなかったことだ。さらに、これなら勉強にもすぐ追いつけるだろうし、何よりいつ記憶が戻るともしれないということで、進級も認めてもらった。二年生からのインチキスタートである。
 まあ、実際は周りが言うほど俺の成績は芳しくなく、一年分の勉強が肩に重く圧し掛かっているのだが、そこはひたすら努力しかない。ようやくクラスに慣れてきたってのに、今更留年は勘弁願いたい。
 折角新しい友達、では無いらしいが、俺にとっては新しい友達もできたことだしな。いきなり国木田を伴って寺に連れて行かれたのは驚いたが、お陰で変な遠慮が無くなった。
 しかし、いつの間にやら高校二年生になっていたことも十分驚きだったのだが、そんな事より何より驚きなのは、
『あたし達、恋人同士だかんねっ!』
 それまで縁のエの字も無かったような美人が俺の彼女になっていたことだ。
 一体俺は何をしたのか。
 俺みたいに凡人を絵に描いたような男がこんな人と付き合えるなんて、かなりえげつない手段を使ったとしか思えない。
 だから最初鶴屋さんが病院に現れたとき、これは新手の詐欺か何かに違いない、と初めて降りてきた人里に怯える狸のような心境だったのをよく覚えている。口座番号だけは口にしてはいけない。
 話を聞いたり写真を見せられたりする度、その類の不安は解消されていったのだが、後に残ったのもやっぱり不安だった。
 一年間の記憶が無い俺は、言ってみれば去年の俺とは別人なわけで、鶴屋さんと付き合うなんてのは、どこか他人の彼女を奪っているような気がして、嫌だったのだ。
 毎日病室に通ってくれる鶴屋さんに向かって、俺と別れた方がいいんじゃないですか、と言った事がある
 しかし、その時の鶴屋さんは、さっぱりとした顔で明るく笑うと、
『じゃあ、お付き合いを前提とした親密な友達からってことでどうだいっ?』
 何だかんだで譲ろうとはしなかった。
 勿論そんな風に思ってくれるのは嬉しかったのだが、それでも俺は、いつ別れると言われてもいいように、低い壁を作って付き合う事に決めた。仲良くなりすぎてはいけない。鶴屋さんの好意は、一年前の俺に向けられたものなのだから。
 だけど最近、俺は自分の決心が傾いていく、木の枝が揺れるような音を、耳元で常に聞いている。
「あーあ、もう桜も散っちゃったよ。早いなー」
 考え事をしている間に、校門までたどり着いていたようだ。
 校門の傍に立つ、白いピンクが散って見所の無くなった桜の木を、鶴屋さんは見上げていた。
 普段の騒がしさが抜け落ちて、それこそ春の花のように可憐な姿だけを残している。
 密かに見惚れていた俺に、鶴屋さんは向き直る。
「ね、キョンくんは覚えてないかもしれないけど、もうすぐあたしらが出会って一周年記念だよっ」
 こんなに緊張した鶴屋さんの顔を見るのは、出会ってから初めてだった。カチカチ。
「だから、いいきっかけだよね。うん、あたし、決めたっ! 本格的に夏になる前に、キョンくんをあたしに惚れ直させてやるんだっ!」
 春の傍若無人な風が髪を浮かせて流し、青い葉が撒かれているようにも見える。
「今のキョンくんは、あたしのことがあんまり好きじゃないかもしれないけど、それでもあたし諦めないからっ! ずっと一緒にいたいって、思ってるからさっ!」
 顔を紅潮させながら言い切った鶴屋さんは俺の手を一度ぎゅっと、安っぽい指輪をつけた方の手で握り締めて、照れを隠すように坂道をハイテンポで下り始める。
 引き摺られる俺は、前方で生き生きと揺れる長い髪を見つめながら、呆れてため息をついた。 
 そう長くない付き合いの中でも、よく解ったことがある。
 鶴屋さんは普段フェンシングに使う突剣ぐらい鋭いくせに、肝心なところはカタツムリのように鈍いのだ。
 このまま行くと、その内我慢できなくなった俺は、そうだな、夏になる前に、この人を公園に呼び出して告白するだろう。
 何を告白するのかって?
 そんなの決まってるだろ。


 思い出す度に舌を噛み切りたくなるような、そんな言葉を、俺は伝えたいのさ。