目を覚ませば、自分のベッドの上ならいい。
また妹に起こされ、悪い夢を見たとぶつくさ言いながら坂を上り、谷口や国木田と面白くも無い会話をして、鶴屋さんと部室で笑う。いつもの一日だ。
ろくな食べ物も無い国で、当たり前に食事する事を羨むように、俺はずっとそんな夢を見ていた気がする。
「キョンくん、起きて。起きて下さい」
現実が耳に迫り、とうとう俺は目を開けた。
自分の部屋の質素な天井ではなく、花粉症でも患ったかのように霞がかって茫洋とした春の空が視界一杯に広がっている。
頭の裏には、またしても小石が食い込んでいる。しかし草の濡れた感触はなく、そびえ立つ校舎を見れば、ここが北高の校庭であることが知れた。
「朝比奈さん?」
「はい」
声の主を探そうと起き上がると、そっと背中を支えられる。どうやら後ろにいたらしい。
振り返ると、そこには瞼を伏せた朝比奈さんだけじゃなく、
「……長門」
記憶の中でも錆びないまま硬質な存在感を放っていた宇宙人製ヒューマノイドインターフェイスが、そのままの姿でそこに立っていた。
本当に、戻ってきちまったんだな。
長門はささやかに頷くと、
「あなたが意識を失っている間に、攻性情報ウィルスを送信した。じきに情報生命体は消去される」
消去。
「俺が今までいたあっちの世界は、どうなるんだ」
「不明。観測が不可能になるとしか言いようが無い。ただ、あなたが消える心配は無くなった。先ほどから構成情報は維持されている。涼宮ハルヒにより存在の固定化が施されていると推測される」
「……そうか」
俺は消えないのか。
他のみんなは消えちまうかもしれないってのに、俺だけここで、のうのうと生きるのか。
かかる重力が増した気がして、俺は膝をついた。まだ少し、体に痺れが残っていたのかもしれない。
追い討ちをかけるように、朝比奈さんの雨のように温度の低い声が、背中に降り注ぐ。
「キョンくん。あなたが持つあちらでの記憶は、ここで生きる上では有害なものとなります。あたしは、あなたの記憶を改竄しなくてはなりません」
「かい、ざん……?」
俺は顔を上げて、枯れ木のように頑なに、そして頼りなく立つ朝比奈さんを見上げた。
「正確に言うと消去です。幸いにして、こちらではあなたが消えてからまだ数日しか経っていません。その間のあなたに関する情報操作は古泉くんが便宜をはかってくれています。あなたの記憶さえなくなれば、あとは全て元通りになる」
無くなる? 記憶がか?
あっちの世界だけじゃなく、俺の記憶まで消えたら、どうすんだよ。鶴屋さんは、どうなるんだ。あの部室に、一人っきりじゃないか。
パニックで目を回しそうな俺に、朝比奈さんは玩具のように小さな銃を向けた。
記憶にあいた小さな穴から、印象が零れる。あれは、確か長門の、
「長門さんに作ってもらいました。今回の件はあたしのミスです。だからあたしが、全てやり遂げなくてはなりません。あなたを連れ戻すのも、あなたの一年間を奪うのも」
朝比奈さんは、唇を噛み締めた。よほど強く噛んだのだろう。熟れた桃のような色が、鬱血してしまっていた。
「憎まれるのも、あたし一人。どうぞ、気の済むまで罵ってもらって構いません。あなたを起こしたのはそのためなの。あなたは全て忘れてしまうけど、あたしはそれをずっと覚えておくから」
そうか。そんなことのために、わざわざ。
「じゃあ、一発殴らせてください」
朝比奈さんは欠片も動揺せずに頷くと銃を下ろして、
「どうぞ。いくらでも」
俺は立ち上がり、朝比奈さんに手が届く距離まで詰め寄る。
そして、手を振り上げた。
朝比奈さんは目を瞑らず、背けもしない。柔らかく見えて、本当は硬い。
俺はそれを見て、だからこの人は過去に来る資格があったんだ、と誇らしさすら感じながら、振り上げたのと逆の手を素早く動かして、小さな銃を奪い取った。
朝比奈さんは俺の行動に気づいても、さして驚きも見せず、
「そんな事をしても無駄です。あたしが撃たなくても、長門さんがあなたの記憶を奪うでしょう……でも、あたしに撃たせない事が罰だというのなら、それでも構いません」
どっかの未来人野郎じゃあるまいし、そんな嫌らしいことをする気は毛細血管ほども無い。
「長門。朝比奈さんが持ってる今回の件に関する記憶を、全部消してくれ」
朝比奈さんは一瞬意味が理解できなかったのか、目を元のアーモンドの形に戻したが、すぐに眉を引き上げ、
「な、何を言ってるんですか!? そんなことしたって、なんの意味もありませんっ!」
銃を奪い返そうと手を伸ばしてくるが、そこはやはり朝比奈さん。俺はあっさりと身をかわして、逆にそのまま肩を抑える。
「別に俺は、朝比奈さんを憎んだりしません。あなたは何も悪くない」
純度100パーセントの本音だった。あの無茶苦茶になった時間航行で、必死に俺を助けようとしてくれた声は、今も耳に焼き付いている。
「第一、朝比奈さんに罵詈雑言を投げかけようものなら、俺の体が拒否反応を示してガン細胞を生成してしまいかねませんから」
暗い顔の朝比奈さんなんて、できれば一生見たくないね。芸術に墨を被せるような愚挙を誰が犯すもんか。
俺は、もがく朝比奈さんの動きを封じたまま、
「頼む、長門。お願いだ」
お前だって、涙の入った塩辛いお茶なんて飲みたくないだろ?
朝比奈さんは、それこそ涙を流しながら髪を振り乱す。
「やめて、お願い! あたしが忘れちゃったら、二人の事を誰も、」
「長門! やってくれ!」
俺の声を聞きいれてくれたのか、一瞬で朝比奈さんの隣に移動した長門は、すっかり血色の悪くなってしまっている腕に、素早く噛み付いた。
「うぅっ」
朝比奈さんの手が、空を掻くように揺れて、
「ごめん、ごめんなさい。ごめんね、二人とも、ごめん……」
俺の頬を一瞬撫でて崩れ落ちながら、幼子のような泣き声を口ずさみ続ける。
「心配しないで下さい。あなたは誰も傷つけてないですから」
じき眠ってしまった朝比奈さんの頬には、乾いた涙の跡が幾つも残っていた。
ブレザーの上に朝比奈さんを寝かせ、俺は長門と対峙する。
当たり前と言えば当たり前なんだが、記憶と寸分違わないな。きっと何億年経って親を見間違うことはあっても、こいつを見間違えることはないだろう。
俺は一人で抱え込むには壮大すぎる感慨を抱きながら、
「なあ、俺がここで逃げ出したら、お前はどうする?」
「追いかけてあなたの記憶を奪う」
「やけになってお前に殴りかかっていったら?」
「あなたの気の済むようにさせたあと、記憶を奪う」
お前ら、揃いも揃って俺を暴漢に仕立て上げるつもりなのか。
俺は苦笑しようとして失敗し、ともすれば嗚咽をもらしてしまいそうになる喉を絞って、
「なあ、本当にどうしようもないのか。俺は何かできないのか。何も残らずに、終わっちまうのか」
長門は瞬き一つせず、
「あなたには何もできないし、させるつもりもない。何も残らないかどうか、私には判別をつけることもできない」
「……そうか。そうだな」
お前がそう言うんなら、きっとそうなんだろうな。
俺は黙って校舎を見上げる。さっきまでいたのと同じ校舎に見えるのに、中身はまるで違うんだ。文芸部室には二人じゃなく五人いて、機関誌作りなんて真面目なことはせず、ただ遊んでばっかりいる。
どっちがどうだの言うつもりは、これっぽっちもない。
ただ、その二つは違うって、それだけの話。
俺は長門の乾いた目を見た。
「長門、俺に対して済まないと思っているんなら、一つだけ約束してくれないか」
長門は軽率に頷いたりせず、
「内容による」
安心してくれ。世界がどうのとかいう、そんな大したもんじゃないから。
「覚えておいて欲しいんだ。俺が鶴屋さんの事を本気で好きだったってこと。絶対忘れないでいて欲しい」
お前の記憶力は人一倍いいだろ? しかも、外付けHDDとかありそうだしな。イメージ的に。
「どうだ?」
俺が改めて尋ねると、長門は、驚くべき事に、顎が首につくほど深く頷き、
「わかった」
言葉を形にするように、はっきりと答える。
「最期まで、決して」
お前らの最期って、きっと太陽とかが無くなってからだいぶ経った後なんだろうな。
人類が終わっても宇宙に残る想い、なんて大げさ過ぎる。誇大広告の見本みたいな表現だ。中学生のポエムレベル。この歳で愛なんてものを語る気なんか、更々無いんだけどな。
それでも、ちっぽけなラブロマンスの結末としては、そう悪いもんじゃないだろうさ。
俺は、震える手で冷たい銃をこめかみに押し当て、
「頼んだぜ、長門」
微睡むように鶴屋さんと二人っきりの部室を思い浮かべながら、俺は笑って引き金を引いた。
目を開くと、白い天井が無機質に俺を見下ろしていた。ブラインドの影に沿った明るい天然光が、電灯の隙間を縫って自己主張している。
……どこだここ。家じゃねえな。俺の部屋はこんなに清潔じゃないし、消毒液っぽい匂いもしない。完全に知らん場所だ。
ん? 消毒液?
待てよ。何だか微妙に見覚えが、
「おや、目を覚ましましたね」
起き抜けに聞くのは逆に辛いぐらい爽やかな声を耳にするにあたって、俺の意識は瞼にマッチ棒を挟んだかの如く完全に覚醒し、この場所が何処だか光の速さで思い至った。
「おい、古泉。何がどうなってる。どうして気づいたら病院にいるんだ、俺は」
ここは古泉の仲間が経営してる胡散臭い病院だ。間違いない。このベッドにはしばらく前にも一度お世話になったことがある。
首を捻ると、目を線のようにして微笑む私服姿の古泉が、
「起き抜けで口寂しいでしょうし、リンゴでもいかがです……と言いたい所なんですが、まだ剥いていませんでした。僕も今着いたばかりですので。もう少し眠っていていただければ、ウサギの形にでも切って差し上げたんですがね」
いいよ別に。男の、それもお前の手で剥かれたリンゴなんぞ、五年に一度食えれば十分だ。
脇に置かれた茶色の紙袋からリンゴを取り出そうとする古泉を止め、とりあえず現状の説明をさせる。
「あなたは数日前、朝比奈さんと時間航行を行なおうとして失敗し、どこか別の世界へ入り込んでしまっていた、らしいです。僕も伝聞でしか知りませんので、詳しい事は話せませんが」
「数日前だって?」
古泉が告げた今日の日付は、俺の記憶にある数字より一週間ほど進んだ休日のものだった。
「ちょっと待てよ。確か俺は、ホワイトデーの計画が組み終わったことに安堵して、部室にいたら朝比奈さんに声をかけられて、それから、それから……」
それから、数日間なにやってたんだ?
「長門さんの仰るとおりでしたね。別の世界にいた時の記憶は、欠落しているはずだ、と。無理な時間航行の副作用だそうです」
本当かよ。俺は数日間を意識の彼方に捨ててしまったのか。何となく、損した気がするんだが。
「まあ、無くなってしまったものはどうしようもありませんし、神隠しにでもあったんだと思っておいた方が、精神衛生上よろしいかと」
古泉の下手な慰めを横に聞き流しつつ、
「で、存在しなかった数日分の俺の扱いは、一体どうなってるんだ?」
まさか未来から俺が来て、俺の振りをしていた、なんてこと無いだろうな。もしそうなら、俺にはまたやらなくてはならん事が増えてしまう。
しかし古泉は、生憎と、と首を振り、
「未来からあなたが来てくださる様子も無かったので、一応僕の方で特殊な感染症に罹患して面会謝絶状態、という事にしておいたのですが、いや、参りましたよ。涼宮さんの反応が予想以上でしてね。連日閉鎖空間のオンパレードです」
……そうか。
まあ俺もあいつが面会謝絶なんてことになったら、流石に焦ってしまいそうだが。
「それだけならまだしも、病院の理事を締め上げようとしたり、窓から忍び込もうと、ちなみにここは九階なんですがね、屋上からロープを垂らしたり、冗談ではなく本当に寝る暇がありませんでした」
確かに、古泉の完璧なはずの笑顔は、いつもの精彩を欠いている気がする。スマイル二十パーセントオフだ。どっちにしろ0円だし、頼むつもりも0なんだが。
「そう言えば、何で見舞いがお前しかいないんだよ。長門と朝比奈さんはどうした」
野郎二人の病室なんて寂しすぎるだろうが。サナトリウム文学の匂いがするじゃねえか。
俺の女性を求める本能を古泉は笑顔でいなし、
「昨日あなたが運ばれて来た時には、長門さんもついていましたよ。今日は少しやることがあるとかで、遅くなるそうです。夕方ぐらいには顔を見せて下さるんじゃないですかね」
夕方か。そう言えば、今はまだ昼みたいだな。前回ここで目覚めた時は、たしか夕日が見えていた筈だ。
「涼宮さんについては、入れ違いです。あなたが起きる少し前に朝比奈さんも目覚められたそうで、早速お見舞いに飛んでいってしまいましたよ」
残念でしたね、と何か含みを持たせる言い方をした古泉を無視して、
「待て。朝比奈さんも何かトラブルに巻き込まれたのか?」
そういえば、時間航行の失敗とか言ってたよな。だとすれば、朝比奈さんも俺と同じように?
飛び上がって目の色を変える俺に対し、古泉は落ち着き払って、
「彼女はあなたを探すためにしばらく学校を休んでいただけです。一応あなたと同じ感染症に罹ったことにして身動きを取りやすくしておいたのですが、ただ、昨日何かあったようでして。ここに運びこまれた時は、あなたと同じく昏睡していました」
「大丈夫だったんだろうな!?」
「ええ、ご心配なく。言ったでしょう? あなたより一足先に目覚めたと。長門さんによると、あなたと同じく数日分の記憶を失っているそうですが、それ以外の五体満足は保証する、だそうです」
「そうか……」
俺を助けるために、朝比奈さんは記憶を失ってしまったのだろうか。
だとしたらますます頭が上がらないな。なんせ朝比奈さんの一日は、俺の一年に匹敵するほどの輝きを秘めている。ヒエログラフを一頁燃やしてしまうのと同じぐらいの歴史的喪失だ。後で感謝と謝罪の念を平身低頭で伝えに行かなくてはならない。
「それにしても、これで一安心ですよ。あなたが見つからなかったらどうしようかと、正直気が気ではありませんでしたからね。最悪の場合を想定して幾つか会議も持たれたぐらいですが、いやはや、無駄になって何よりです」
古泉は、俺の懊悩にクッションを挟むように話題を変える。
その会議ではどんな議論が飛び交っていたのか聞いてみたい気もするが、それ以上に聞きたくないな。
「後は仕上げに、涼宮さんをこちらに呼んで不安を取り去って差し上げるだけですね。彼女が無事なあなたを見てどんな表情をするのか見物ではありますが、そこは好奇心を殺して、お邪魔にならない所に引き下がるとしましょうか。僕もまだまだ、馬に蹴られたくはありませんので」
古泉は立ち上がり、病室の入り口へ向かう。俺はリアクションを返すのも面倒なので、そのまま放っておく事にした。
「ああ、そうでした。あなたに長門さんからの伝言があります」
扉の前で振り返り、教育番組のお兄さんのように人差し指を上に向けると、
「『仮想STCデータのアウトラインをリンクが維持できる最低限のレベルで保存することが許可されたので、念のため私の管轄サーバーに保存しておく』だそうです」
「……何の呪文なんだ、それは」
「あなたがそう言った時の伝言も預かっていますよ。『約束は守る』とのことです」
いや、それでもさっぱりわからんのだが。
疑問符を浮かべる俺に対し、
「さて、一体なんの話なんでしょうね?」
古泉は訳知り顔で笑うと、さっさと部屋から出て行ってしまった。
しばらく寝転がったままで、長門が残した謎の伝言について思考を巡らせていると、
「こらぁ! アホキョン!」
ここが病室だという大事なことを忘れさせてくれそうながなり声と共に扉が開き、数日振りらしいハルヒが相も変わらず偉そうな姿を現した。
「あんたねぇ、何勝手に感染症とか偉そうなもんに罹っちゃってんの! ばっちいわね! お陰でここ何日かの予定がパーよパー! どう責任とってくれんの!」
枕元に立つや否や、文句の嵐である。これのどの辺が心配してるってんだ、古泉よ。
俺は少しばかりしおらしいハルヒを期待してしまった自分に対し心からの罵声を浴びせつつ、
「やかましい。ちょっとは声を落とすとかしろ。ここは一応病室だぞ。第一、俺だって好きで病気になったわけじゃないっての」
そもそもなってもいねえ。
俺が反論すると、ハルヒはより一層語気を荒げてくる、と、思ったのだが、何故か無言で古泉が座っていた丸椅子に座ると、
「…………」
いきなり俺の顔をぺたぺたと触り始めた。何なんだ一体。触診スキルでも獲得したのか。
そして、特に感想を言うでもなく手を離すと、紙袋からリンゴと果物ナイフを取り出し、
「このリンゴ、鶴屋さんがお見舞いにってわざわざ取り寄せて来てくれた超高級リンゴなんだからね。本当はあんたなんかに食べさせるのはもったいないんだけど、今日は面会記念で特別だから、あたしが剥いたげる」
おいこら、俺の顔面はスルーかよ。
ひょっとして、なんか変なでき物とかできてるのか? 古泉の奴、鏡ぐらい用意しとけよな。
不安になって自分の顔をまさぐっていると、
「ほら、口開けなさい」
信じられないスピードで綺麗に剥き、さらに一口大に小分けしたリンゴを持って、俺の鼻先に突きつけてくる。
「ちょ、ちょっと待て。そんぐらい自分で」
「いいから! 口開けなさいって言ってんの!」
昔話に出てくる鬼の如き形相に押され、ついつい口を開けてしまう。
そこに押し込まれるリンゴ、と、ハルヒの指。
……押し込みすぎなのではないだろうか。思いっきり指が入ってしまってるんだが。
ハルヒは固まる俺を面白がるように、スッと指を引き抜くと、
「どう? 美味しいでしょ?」
正直ハルヒの指のせいで味なんてわかりゃしないんだが、とりあえず頷いておく。
しかしこのリンゴ、凄い汁気だな、おい。さすが高級品。鶴屋さんはいつもこんなの食ってんのか。
水道管が破裂したかの如くびしょびしょになった口元を拭うためにティッシュを探していると、
「ほら、こっち向いて」
いつの間にやらポケットティッシュを取り出したハルヒが、俺の顔を拭おうとスタンバっていた。
「お前、いくらなんでもそこま、むご」
「病人は黙ってなさい」
そして、敢え無くなすがままになってしまう俺。朝比奈さんならまだしも、ハルヒにこんなことされてしまうとは、屈辱的だ。
一気に要介護者になった気分なり、情けなくて泣きそうになっている俺をよそに、ハルヒは鼻歌でも歌いだしそうな顔でティッシュを動かしている。
まったく、やれやれとしか言えないな。
俺は意外と繊細そうな指を見下ろしながら、意趣返しとして「まさかお前、触りたかっただけなのか」なんてことを聞いてやろうと思ったが、そうすると倍返しの拳を貰ってしまいそうだったので、代理の言葉として、
「なあ、ハルヒ」
「ん? 何よ」
「ホワイトデー、楽しみにしてろよ」
何と言っても、古泉と練りに練ったアイディア満載のアミューズメントデイになる予定なんだからな。
ハルヒは見る見る内に不敵というより必殺といった雰囲気の笑みを顔一杯に浮かべると、俺の口にもう一つリンゴを突っ込んで、
「そんなの当然。あんたはあたしを楽しませないとダメなんだからね」
理不尽な言葉とは裏腹に、齧ったリンゴはとても甘かった。