フラッシュバック。
 やがて意識は現実と重なり、目の前に焦点を結ぶ。
「まず、現状を説明します」
 記憶と異なる、まるで大人になった彼女のように隙の無い厳しい顔のまま、朝比奈さんは口を開いた。
「あたしたちが時間航行をしている最中、STC間のネットワーク……我々のTPDDでアクセス可能な時空間領域に、情報生命体が寄生しました。コンピ研の部長さんや阪中さんの件を覚えていますか?」
 いまだ口を開く事ができない俺を待たず、朝比奈さんは続ける。
「あの時と同じです。規模が膨大になり、寄生対象が我々の概念装置に入れ替わっただけだと考えてください」
 情報生命体。像が自動的に結ばれる。馬鹿でかいカマドウマと、阪中家のルソー。
「情報生命体は、それがもともとの能力なのかそれとも寄生する事により何らかの変異を起こしたのか、おそらく後者でしょうが、ネットワークのあちこちに無数のリンクを貼り付けはじめました」
 この辺はさっぱり。他所に回して欲しい議論だ。 
「ここと同じような世界とのリンク。同位でありながら我々の歴史とは因果を共有しない、完全に独立した、ありえないはずの時空へのリンクです。平行世界の出現と考えてもらって構いません」
 ありえないだって? どうして。俺はここにいるのに。
「我々の世界に直結しうるリンクがこのまま増え続ければ、やがて可能性は限界に達し、急速的な収縮活動が行なわれると予想されます。そうなれば終わりです。全ては消え、宇宙は始まりの状態に戻るでしょう」
 世界の終わりに宇宙の始まりと来たもんだ。随分大仰な話じゃないか。
「幸い、寄生した生命体の位置は長門さんの協力で特定することができました。今ならまだ消去可能です。ネットワークが正常化されれば、リンクも有り得ないものとして消失するでしょう」
 そいつは良かった。何よりだ。
「次に、キョンくん。あなたのことです」
 俺のことはもういい。放っておいてください。
「あなたは、情報生命体が寄生した際に起きた時空震に巻き込まれ、存在が散り散りにされてしまいました。本来ならそこであなたは消えてしまう筈なのですが、何故かここ、元の時空と近似な時空で、あなたとして再生されています」
 どうやら俺は、よっぽど生き汚いらしい。
「おそらく、涼宮さんの力が何らかの影響を及ぼしているのだと思います。存在の上書きか、或いは二重化か。何にせよ、不幸中の幸いでした」
 涼宮。
 ハルヒの名前を他人の口から聞いたのは、一年ぶりだ。あいつは今、どこで何をやってるんだ? ちゃんと楽しくやっているんだろうか。
「情報生命体を消去すれば、この時空は実質的に消失します。涼宮さんの鍵であるあなたを、それに巻き込ませるわけにはいきません」
 ……待て。何だって? 
「朝比奈さん、この時空が消失って……」
「先に言っておきますが、あなたに拒否権はありません。無理矢理にでも連れて帰ります。これは、長門さんと古泉君を含めた、我々の総意です」
「な……!!」
 俺は立ち上がり、朝比奈さんにしがみつく。
「答えてください! この時空が消えるって、どういうことですか!」
 朝比奈さんは一瞬瞳を伏せたあと、すぐに毅然と俺の顔を見上げ、
「リンクが消失すれば、この時空は観測不能になるの。そうなれば存在しないも同然です。仮に情報生命体の能力でのみ定義されていた時空であった場合は本当に消える事も考えられます。どちらにせよ、結果は変わりません」
 そんな、消えるだって? 谷口も国木田も、家族も、鶴屋さんも?
「明日の夜、迎えにきます。その時までに、お別れを済ませておいて下さい」
「ま、待ってください! それ、その消えるとかって、何とかできないんですか!」
 俺が捲くし立てても、朝比奈さんはあくまで冷静に、
「不可能です。先ほど述べたとおり、情報生命体を捨て置くわけにはいきません」
「じゃ、じゃあ、こっちの人をあっちの世界に移すとか、とにかく、何か方法が」
「それも不可能です。ほら、見て」
 朝比奈さんは俺に向かって手を掲げる。街灯に照らされた腕は、指先から肩にかけて半透明で、体の向こう側の景色を透かしていた。
 絶句すると同時に納得した。だから、幽霊。
「膨大に増え続けるリンクのせいで時間航行は妨げられ、未来の時間の位置も不明瞭になり、通信も困難な状態です。加えて我々の時間移動プロセスは、このような事態を想定されて作られてはいません」
 朝比奈さんは腕を下ろすと、
「少しの間しか、異なる時空に留まることはできないの。未来過去現在全てにおいてこの時空に存在する事のない我々を、時空自身は排斥します。数式から求められる答えが間違っていたら、あなただって消しゴムで消してしまうでしょう? 私たちも長く留まりすぎれば、この時空から弾きだされて消えてしまう」
 公園の時計にちらりと目を向けて、
「それに、一定時間ごとに元の時空に戻ってポイントを更新しないと、増え続けるリンクに押し流されて、どちらの時空も位置を見失ってしまいかねません」
「……なら、俺が戻ったって、消えてしまうだけじゃないですか」
「そうかもしれません。ですが、そうならない可能性も高いです。あなたがここで無事に存在しているのと同じように」
 ゼロより少しでも大きい数字を、ってことか。
 そんな、いい加減なことで…………第一、どうして、
「どうして、今更そんなことを」
 すぐに来てくれれば、俺は何も、
「今更なんかじゃ、ないんですよ」
 朝比奈さんは冷えた表情を俯かせると、懺悔するような響きでぽつりと零す。
「さっきも言った通り、時間航行は妨げられています。今時間平面を移動するのは、濁流に身一つで飛び込むようなもの。それでも、同時間軸上に存在する近似の時空に移動する事だけは、辛うじて可能でした」
「同時間軸……?」
 二年生への進級を控えた、三月。
「そう。キョンくん、あなたにとっては一年後のことだったかもしれないけど、あたしはあの日のうちに、あなたの元に向かったんです」
 ……そうだ。
 俺が妙な気配を感じたあの夜が、朝比奈さんと共に時間移動を行なった日だった。
 じゃあ何か。俺が一年かけて、もとの世界と重なる時間軸に戻ってきてしまったから、今なのか。今更、こんな……
「本当はすぐに連れて帰るつもりだった。でも、あなたはここで、新しい関係を築いていたから……ごめんなさい、キョンくんの部屋のカレンダー、勝手に見てしまいました」
 妹じゃ、なかったんだな。
「あたしは、ずっと迷って……できるだけ、ギリギリまで待ってもらいました。でも、もう限界です」
 俯かせていた顔を上げた朝比奈さんは、厳しい表情に立ち戻ると、
「いいですか。明日の夜、あなたを連れて元の時空に戻ります。これは規定事項です。決して覆りません」
 朝比奈さんが目を閉じると、フィルムを炙ったように所々欠落していた輪郭は、次第に夜にぼやけて消えていく。
「待って、」
 こんな一方的な話だけしといて、行っちまう気かよ!
「待ってください朝比奈さん! 俺は、俺はもう帰るつもりは……」
 俺の言葉を待つことなく、朝比奈さんの体は風に吹かれるように一瞬で消えた。
 夜の公園で、俺はまた一人になった。




 春はうららかと言うが、うららかって一体どういう意味なんだよ。
 窓際でどうでもいいことを考えながら、紙パック入りのスポーツドリンクというアルミホイルに包まれた水羊羹のようにどことなく不自然さを感じさせる飲料で喉を潤わせていた俺に向かって、目の前でアップルジュースを嗜んでいた国木田は、
「で、昨日の手紙は結局何だったの?」
「ああ、ありゃ人違いだ。どうも送り先の宛名を間違えたらしいな」
 人間誰しも、間違いを起こすものさ。死後だってそれは変わらないみたいだぜ。
「ふーん。ま、言いたくないならいいけどさ。一応、お払いとかしてもらった方がいいんじゃないかな」
 嫌だね。俺は困ったとき神に祈りはすれども平常時は無宗教かつ無信仰なんだ。妙な説法に札束をつぎこむつもりはない。
「ダメだ。キョン、今度俺と一緒に寺に行くぞ。俺たち何か変なのに呪われてんだ。あんな山道、掘り返したら白骨死体の一つや二つ出てくるに決まってる。その内の一つが、俺たちの背中にくっついてんだよ」
 これまた紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいた谷口が、正気の面構えで夢遊病患者のような妄言を吐く。そんなもん妄想だ妄想。行くんならお前一人で行ってくれ。
「バカタレ。憑いてるのはお前であって、俺はとばっちりを受けた形なんだぞ。お前が傍にいる限り、俺たちに明日はねぇ!」
 失礼な奴だなおい。そういうのが発展していじめ問題に繋がるんだぞ。
 俺は最後の一滴まで逃すまいと紙パックを握りしめつつ、
「わぁったよ。行く行く」
 行くから、必死な顔を接近させるのは止めてくれ。
「うん。やっぱり二人とも行くべきだよね。こういうのは、何らかの対処を受けたっていう意識が一番の薬だっていうし」
 訳知り顔で頷く国木田に対し、谷口は至って真面目に、
「何他人事みたいに言ってやがんだ。お前も寺に行くんだよ」
「え? 何で僕まで」
「お前もあの手紙に目を合わせただろ。呪われてるぜ、間違いなく」
「……どんな感染経路なの」
 谷口の奴、よっぽど幽霊を見たのがショックだったらしい。何でもオカルトの方向に結び付け始めやがった。こりゃ、こいつが変な宗教に嵌るより先に寺へ行かないとな。
「じゃあ、春休みになったら三人で行くか」
 寺に遊びにいくなんて初めての経験だが、何事も行ってみないとわからないからな。意外と日々の煩悩を白紙に戻すいい機会になるかもしれん。
「おっし、絶対な。国木田、お前もだぞ」
 国木田はさも気が進まなそうに渋々と頷くと、
「はいはい。わかったよ」
 谷口は、一年間刺さりっぱなしだったささくれが何かの拍子に抜けたかのように満足気な様子で、
「あー、これで寝る前に盛塩しないで済むな。いや、呪いが解けて悪いものが消えれば、アドレスを交換してから三ヶ月音沙汰無しのあの子からもメールが来るかも」
 それはもう諦めろよ、とは取り立てて言わない。どうせ言っても聞かないことは火に触ったら火傷するぐらい明らかだ。
「なに、その悟ったような顔は」
 国木田が、空の紙パックを指でいじりながら問うてくる。
「あいつアホだなぁと思って」
 まあ、プラス思考は悪い事じゃないけどな。俺が言うと国木田は、それこそアホらしいと言わんばかりに、
「今更気づいたの?」
「いや、再確認だ」
 俺たちは視線を交わしたあと、揃って肩を竦めると、あの子とやらがどんな子なのか聞いて欲しそうな谷口のために口を開くのだった。




 放課後から少しばかり時計の針を進めた時間。
 息を切らして部室の扉を開けると、
「あ、キョンくん、遅かったじゃないかっ。今日も部活中止になんのかと思ったよ」
 口を尖らせながらも、目元を緩ませる鶴屋さん。うぬぼれてしまいそうになる瞬間だ。
「すいません。ちょっと野暮用がありまして」
 俺が閉じられたノートパソコンに目を向けると、鶴屋さんは餌を一人で獲ったインパラの如く誇らしげに胸を張り、
「あたしの分は終わったよ! あとは印刷するだけっ!」
 ひょっとして、昨日も一人で書いていたのかもしれない。悪い事をしてしまった。こんな寂しい部屋に一人でいるのは、それほど楽しい事じゃないだろう。
「じゃあ、今日はのんびりしましょうか」
 俺の分の小説は既に書き溜めてあるので、その内の一つを出せばいいだけだ。なんせ荒唐無稽なSF小説のネタに関してだけはストックが幾らでもあり、詰まるという事が無いからな。
 鶴屋さんの横に座り、憂いの欠片も見当たらないような笑顔を眺めながら、どうでもいい言葉を交わす。
 考えてみれば人生においてどうでもいい会話が占める割合はことのほか多く、それでもまだ政治の話とかできればまだ建設的なんだろうが、今のところそんなのは授業でやってれば十分だ。この点については他の多くの学生から賛同を得られると思うね。
「ね、ね、キョンくん。来年新入部員がはいったらどうするっ? 大所帯になるかもしんないよっ」
 で、気づいたらこんな話になっていたりする。
「誰も入れません。拒否します」
 先日密かに決定した事項だ。
「え、なんでさっ?」
 そんな普通に聞かれたら答えに窮してしまうんだが。そのぐらい察して欲しいと思うのは我がままなのだろうか。
 鶴屋さんは口篭る俺を見て、サディスティックな笑みを浮かべながら、 
「こゆことできなくなるからかい?」
 いきなり耳に生温い息を吹きかけてくる。わかってて聞いてきたな。たまにSスイッチが入るから、この人は油断できない。
 しばらく身もだえしていると、今度は俺の膝の上に乗っかってきて、脇をくすぐりはじめた。
「ちょ、ちょっと、鶴屋さん、くる、くるしいですって!」
「うひゃひゃひゃ! ここかいっ? ここがいいのかい?」
 傍から見たら何やってんだこいつらと思われるだろうが、俺たちは暇な時大抵こんな感じなのである。
 で、それにも飽きたらいそいそと本を読み始める。
 当初は空っぽだった本棚も、俺たちが少しづつ持ち寄る事で、本棚としての役割を次第に果たし始めていた。
 ただ、俺もそうなのだが、特に鶴屋さんは面白ければ何でもOKという人なので、様々なジャンルが無秩序にひしめきあって、凝り性の人が見たら思わず整理整頓したくなること請け合いだ。
「キョンくん、読むのめっさ早いなあ。もうちょっとゆっくり読んでおくれよう」
「じゃあ鶴屋さんが持って下さいよ」
「やだねっ」
 俺の膝に座ったままで、だだをこねて足をバタつかせる鶴屋さん。人間椅子になってしまったような気分だ。というかそのまんまなのだが。
 色々と我慢を強いられる姿勢なのだが、これはこれで顎を鶴屋さんの肩に乗せて楽できるため、密かに気に入っていたりする。
 水を打ったように静かな部室に、紙の摩擦音が聞こえている。遠くからはブラバンの練習音。低い音や高い音が重なり、頬には絹のような感触がさらさらと流れ、どこまでも眠気を誘う。そのためか、いつもは鶴屋さんが俺の腕にもたれかかって寝てしまうか、もしくは俺も後ろにのけぞったまま眠ってしまうことが多々あるのだが、今日は珍しく最後まで一緒に読んでいた。
 さすがスペクタクルアクション巨編。帯に偽りなし。
「あたしらってさ、結構バカップルだよねっ」
 鶴屋さんが漏らしたとおり、やはり俺たちはバカップルなのかもしれないが、自分で認めたら最後の牙城が崩れるので認めない。




 部室で本に読み嵌ってしまったせいもあり、鶴屋さんを家の前まで送る頃には、もう七時を大きく回ってしまっていた。人の声が少なくなったためか、虫の涼しげな鳴き声が、門の向こうの前庭からよく聞こえてくる。
 俺たちは自転車の傍で蹲ったまま、そんな音を聞いていた。はしゃぎすぎて疲れている体にはいい薬だ。総天然マイナスイオン。
「うっひゃー、お腹空いたなー。ねえ、キョンくん? あたしん家でご飯食べて行くかい?」
「つかぬことを聞きますが、今日お父様はご在宅ですか」
「うん。ばっちしいるっさっ」
「じゃあやめときます」
「うわ、ださいっ。キョンくんビビリにょろ〜」
 女性にはわからないんだ。父と言う鋼鉄装甲の如き壁が。しかも鶴屋さんのお父様と言えばこんな大きな家を建てるぐらいの傑物であり、俺なんて指先一つでダウン間違いなし。
 想像だけで敗走してしまいそうになる自らの小さな肝っ玉を恥じ入りつつも、モラトリアム的考えでこれから大きくなるだろ、とか暢気に考えていると、ブレザーの袖がそっと引かれた。
「もし、もしキョンくんがよければなんだけど。あたし本当にさ、おやっさんに紹介したいって思ってるんだけどなっ」
 恐る恐る、といった様子で、俺の顔を覗きこんでくる鶴屋さん。
 何も恐れることなんて、ありはしないのにな。
 答えのかわりに、俺は鶴屋さんを抱きしめ、
「へ?」
 そのまま持ち上げて、再度自転車の後ろに座らせる。
「ちょ、ちょっとキョンくん、どうしたの? あたしんち、ここなんだけどなっ?」
「旅行」
「りょこう?」
「二人で旅行に行きましょう」
「へ? ……い、いいけど、どこに?」
「どっかに」
「どっかにって、そんなやっつけな、あ、うわわっ!」
 ペダルに力を込め、地面を蹴って走り出す。慌てた鶴屋さんの腕が、俺の胸に巻きついた。 
「りょ、旅行って、ひょっとして、今からなのっ?」
「当然です」
 命短し走れよ男女。有り余る時間をわざわざ無駄に過ごすことはあるまい。
「ちょ、ちょっと待ってよキョンくんっ、そんな急に、いや、二人で旅行にはすごい行きたいけど、今日じゃなくったっていいんじゃないかなっ」
「今日行きたいんです」
「でもでも、ほら、家族が心配するんじゃ」
「あとで両家とも俺が責任持って連絡します」
「うっ……で、でもさ、着替えとかも、ほら、女の子には準備が色々……」
「全部現地調達で」
 何のためにこつこつ貯蓄していたかと言えば、それは正にこの日のためである。
「……う〜、だって、まだおやっさんに紹介もしてないのに、いきなりお泊りなんてさ、」
「旅行が終わったらその足でお伺いさせていただきます」
 何なら紋付袴だって用意しよう。
 それから車輪の音だけが続き、やがて、回された腕に力が籠もる。
「キョンくん、さっきまでビビリだったくせに、いきなり超強引だね」
 俺にだってそんな気分の時があるんですよ。彗星が接近してくるぐらいの頻度ですけど。
「昨日様子が変だったことと、関係あるのかなっ?」
 いえ、全然。以前から計画してたことです。意外と後先考えるタイプですからね、俺は。
「……ははっ、確かに結構そういうとこあるよね、キミはっ!」
 鶴屋さんはどうやら立ち上がったらしい。俺の肩をばしっとはたくと、
「おーっし! じゃあ温泉にでも行ってみるかいっ?」
 いいっすね、名湯巡り。戻ってくる頃には、お肌が生まれ変わってますよ。
「よぅっし! 目指せ美肌! さしあたっては、駅へゴーゴーだっ!」
「お任せあれ」
 歌でも歌いながら行けば、あっという間に着きますよ。
「ええっと、温泉だから……じゃあ、『She Came in Through the Bathroom Window』でいっとくかいっ?」
 それ温泉どころか風呂ともあんま関係ないです、と俺が教示する前に、鶴屋さんの歌は始まってしまっていた。近所迷惑なので良い子は真似しないようにしてほしい。
 まあ、三曲目から一緒に歌ってしまっていた俺が言えた義理じゃないんだけどな。つられてしまったんだからしかたない。流されるのは得意なんだ。
 それに恥の一線を越えてしまえば、あとは楽しいだけだった。たまに車や自転車なんかが大声で歌いながら走っているのを見るにつけ、丸聞こえなんだけど恥ずかしくないんだろうか、と斜に構えていたが、ここは俺が謝る所だろう。済まん。悪かった。なるほどラブアンドピースを叫びたくなるわけである。歌を歌いながら走る道のりは素晴らしい。
 鶴屋さんはともかく、俺の歌がはた迷惑であることは否めないが、それでも声を張り上げる。
 駅に向かう一本道の下り坂は一夜限りのステージと化し、そしてそのステージは、鶴屋さんの悲鳴で唐突に幕を閉じられた。
 


 
「キョンくん! 前!!」 
 今まで誰もいなかったはずの空間。自転車の鼻先に、手を広げた朝比奈さんの姿が現れる。
 くそ、なんて無茶を!
「っ!」
 反射的にハンドルを捻じ曲げ、車体を傾かせながらアスファルトに弧を描いて縁石に乗り上げたのを最後に、自転車は俺の体から離れる。
 一蹴の浮遊感の中、鶴屋さんの小さな悲鳴が聞こえる。抱きついてくる体温。俺は背中から落ちないことだけ考えながら、顔面を道路脇の草地に擦りつけた。
 頬に幾つもの熱い線が引かれ、ついた手の平に細かい小石が突き刺さる。背中に軽い体重が掛かっていることを考えると、どうやら鶴屋さんを放り出さずに済んだらしい。重さに感謝。
「キョンくんっ!?」
 鶴屋さんの二度目の悲鳴が耳元で響き、背中に乗っていた体重が消える。
「……大丈夫。ちょっと擦っただけです」
 立ち上がった俺の頬に、鶴屋さんは自分のポケットから取り出したハンカチを添えてくれる。少し血が出ているらしい。
「ホントに? ホントに大丈夫? どこも痛くない?」
「ええ、全然」
 本当はあちこち痛いのだが、小石が刺さった程度で、無視できるレベルだ。一度ナイフで刺された経験があるからな。おかげで随分我慢強くなった。
 視界にちらつくハンカチの向こうで、朝比奈さんは手を広げた姿勢のまま、じっとこちらを見つめていた。よかった、無事みたいだ。
 自転車に目をやる。こっちは前輪がひどく曲がってしまっていた。これじゃ走れそうにない。
 俺は放り出された鞄を回収し、親が撃たれた小熊のように心配そうにしている鶴屋さんの手を取る。
「少し歩いて、タクシー拾いましょう」
「ちょ、ちょっと待ってよっ。少し休まないと、まだあちこち……ううん、その前に、あの子に謝らないと」
 朝比奈さんに駆け寄ろうとする鶴屋さんを、手を引いて制す。
 鶴屋さんは少しよろめいて、俺に向かって何事か言おうと口を開いたが、
「あなた達を行かせるわけにはいきません。キョンくん、昨日言ったとおり、あたしと一緒に来てもらいます」
 先に声を発したのは朝比奈さんだった。普段のマシュマロボイスと違って、愛らしくも硬い、糖度抑え目の板チョコみたいな声だ。あんまり似合ってない。
 俺は聞こえないフリをして、鶴屋さんを連れて歩道に上がろうとする。
「キョンくん、あの人、今……」
「ほら、鶴屋さん。しっかり歩かないと」
 遅くなりすぎると、泊まるとこ探す時間が無くなってしまいます。それこそいかがわしいホテルぐらいしかね。
 それでも、鶴屋さんは足を止めたまま動こうとはしない。
 ただ優しく、
「ね、あの人、キョンくんを迎えに来たんでしょ?」
 俺は首を振る。
「いえ、知らない人です。もう春ですからね。変な事を言う人が出てきてもおかしくないでしょう」
 色々なものが花開いてしまう季節だ。開いてはいけないものも開いてしまうもんさ。
「自転車は壊れたけど、あの人は幸い怪我一つ無いみたいだし、ここは当初の計画を優先して……」
 しかし、俺の言葉を千切るように、握っていた手が振り解かれる。
「鶴屋さん?」
 笑顔を消した鶴屋さんは数歩後ずさると、腰に手を当てて、
「キョンくん、嘘ついたねっ。お姉さんは悲しいなっ」
「俺は何も嘘なんて、」
「あたし全部知ってんだからっ。キョンくん、もう帰らないといけないんだよね?」
 人並み外れて鋭いあなたにしては珍しいですが、生憎と外れです。
「鶴屋さん、いいですか? あの人は知らない人で、俺は今から帰るんじゃなく、旅行に行くんだ」
 二人で一緒に、温泉でも目指して。
「何を想像しているのか知りませんが、それはただの考え過ぎです。大丈夫、心配しないでも、俺はどこにも行きませんから」
 しかし鶴屋さんは、こんな表情を見たのは初めてだ、寂しそうに薄く笑うと、
「ダメだよ。旅行なんていつでも行けるけど、帰るチャンスはもう無いんだ。ね? 今戻らないと、二度と帰れなくなっちゃうんでしょ?」
 俺は伸ばしかけた手を止めた。
どうしてだ。鋭いなんてもんじゃない。まるで全部知っているみたいな話振りじゃないか。
 ……まさか、朝比奈さんが。
 ガードレールが白く浮かんだ歩道の上に、疑念の目を向ける。
 しかし、
「どうして、そんなことまで……」
 朝比奈さんは俺の疑問を肩代わりするかのように、一言零しただけだった。通りがかった軽自動車のライトが照らした表情は、深い戸惑いしか見当たらない。
 どうなってる。朝比奈さんは何もしていないのか?
 言いようの無い不安に駆られて、もう一度鶴屋さんの手を取ろうとした俺は、 
「僕が教えた。あんたが昨日、そいつと会っている間にね」
 草地の奥の木に寄りかかって、薄笑いを浮かべている男を見た。
 記憶の中にある嫌な部分をつつく顔。
「……てめぇ、なんでこんな所にいやがる」
「自分の時間に戻れないのは、僕としても困るんでね。この件はさっさと片付けておかなくちゃならない」
 かつて朝比奈さんを俺の目の前で攫った未来人野郎は、偉そうな足取りでこちらに近づきながら、
「それに何故か知らないが、あんたの名前は僕の今後の予定表にも記されている。僕としては、あんたがどこでどうなろうとさして興味は無いんだがな、ふん、任務は任務だ。迷子の坊やを、元の時空まで牽引してやらねばなるまい」
 そのまま俺を挟んで歩道と点対称になる位置まで歩くと、立ち止まって朝比奈さんに鋭い目を向ける。
「しかし、放っておいてもあんた達の方で上手く処理してくれると思っていたが。まったく、念のために監視しておいて正解だった」
 視線はそのままに、口元を嘲りの色に歪ませ、
「朝比奈みくる。彼女はあっちではあんたの友人だそうだが、そこにいる彼女は別人だ。二人を重ねて感傷的になるのは勝手だが、それでこの仕事をおざなりにされたんじゃ、僕としても非常に迷惑を被る。わかるか?」
 子供に言い聞かせるような口調。気に障る。朝比奈さんは俺の苛立ちが感染したかのように、
「そんな! おざなりになんてしてません! キョンくんが事故に巻き込まれたのは、あたしの責任なんだから、あたしが、あたしがきちんとやらないと」
「口ではなんとでも言える。だがあんたのやり方を見ていると、わざとそいつらに逃げ道を作っているとしか思えないな。最低限の努力で浅ましくも自らの責を果たしたように見せかけ、あとはご両人の選択に丸投げしようという魂胆が見え見えだ」
「逃げ道なんて……、あたしはただ、二人に時間を」
「なら、そいつが寝ている間にでも縛り付けて連れ出せばよかったんだ。あの宇宙人の手を借りたっていいさ。どうとでもできたはずだろう? なのにあんたはやらなかった。二人に時間を与えるふりをして、責任から逃げていたに過ぎない」
 朝比奈さんは鞭打たれたように顔を俯け、押し黙る。そいつは面白がる様を隠そうともせず、
「いくらここが僕らの時空とは関係無いからと言って、あんたの立ち位置が変わるわけじゃない。それともそっちの連中は、下世話なヒューマニズムを規定事項の上に位置づけているのか? ふっ、だとしたら僕には、何も言うべきことは無いんだがね」
「おい!!」
 俺は声を荒げた。いい加減ムカつくんだよ。
「朝比奈さんに嫌味を言うためにわざわざ来たのか? てめえも大した暇人じゃねえか」
 未来人野郎は、睨みつける俺をつまらなそうに一瞥すると、
「とにかく今までは見逃していたが、この期に及んでまで愚かな真似を続けられると、流石に手を出さないわけにはいかないということだ。もっとも、僕としても野蛮な行為は趣味じゃないんでね。楽な方法を取らせてもらった」
 朝比奈さんは弾かれたように顔を上げ、
「あなた、一体何を……」
 そいつは落ち着き払ってまた数歩下がると、
「さっきも言ったろう。そいつが元の時空に帰るという事を彼女に話したって。こんな下らん任務は、それだけで十分片付けられる」
 どういう意味だ、と追求しようとした俺の前に立ちはだかったのは、いつもみたいに明るく笑う、鶴屋さんの姿だった。
 そして、いつもみたいに良く動く口で、
「キョンくん、お別れだねっ」
 軽く軽く、別れの言葉を。




「本当はさ、幽霊の話聞いたときから……ううん、もっと前から、不思議な話とか、変な噂とかを聞くたびに、いつも覚悟してたんだ。だって不思議なことがあれば、それはキョンくんが話してくれた元の世界とどっかで繋がってるような気がするじゃんっ」
 覚悟なんてすることない。今だってそうだ。元の世界もくそもあるもんか。俺はずっとここにいるんだから。
 しかし、鶴屋さんの言葉は止まらない。
「あたし、ずっと面白いことないかなーって考えててさっ、いや、前から面白いこと沢山あったんだよっ? でももっと、どっかーんって感じの奴が来ないかなーってぼんやりと考えてたんだ」
 大げさなジェスチャーを交えながら、
「だから、キョンくんがうちの別荘に来た時、この人、何かあるんだって思って、凄くワクワクしたよっ。ひょっとしったらすげー面白いことを持ってきてくれるかもって。そんで凄く迷ったけど、文芸部室に行ってみることにしたんだっ」
 片手で拝むようにして、悪戯っぽく片目を瞑ると、
「今だから言うけど、あの時本当はちょっと怖かったんだ。あんまり先生達の評判も良くないみたいだったし、ただの変な人だったらどうしようってさっ。ごめんねっ」
 構いませんよ。実際ただの変人だ。
「でもさ、別の世界から来たって話を聞いたら、そんなんはどこかに吹っ飛んじゃったよ! わお、この人あたしのために来たようなもんじゃんっ、とか勝手に思ったりして!」
 そう思ってもらったって、俺は全然構わない。
「そんで、あたしも文芸部に入って、一緒に元の世界の手がかりを探し回った。いつかキョンくんが帰るとき、あたしもその場に居合わせれば、迎えに来たUFOみたいなのが目撃できるかもって、楽しみにしてた。キョンくんが話してくれた不思議なこと、あたしにも見ることができるかもっ、て」
 それはご期待に添えないな。俺だってまだUFOは見たこと無いし。
「でも、その内そんなのはどうでも良くなって。帰る手がかりが見つからなくてキョンくんが少し残念そうな顔をする度、あたしはほっとするようになって。口では慰めながら、本当はガッツポーズしてたり。まだ、もっと一緒にいられるんだなぁって」
 恥ずかしそうに、はにかむ。
 告白されてるみたいでドキドキするな。したことはあっても、されたのは初めてだ。
「それでも、いつかは帰っちゃうに決まってるんだからさ、あたしからは何かするつもりは無かったんだっ。嫌がられるに決まってるって思ってたからね」
 鶴屋さんを嫌がるなんて、コオロギ大の脳みそになっても有り得ないだろう。
「それだからさ、キョンくんが好きって言ってくれた時、すげー恥ずかしかったし、同じくらい困ったし、本当はいけないって解ってたんだけどさ、結局そんなの考えられなくなって、OKしちゃった」
 鶴屋さんは誤魔化すように笑いながら、自分の髪の先をいじくった。
「そっからは、周囲も羨まんばかりの形影相伴いっぷりだったねっ。あたしらは超仲良しだっ! よく考えたら、会ってまだ一年も経ってないのにさ。その、付き合ってからはたったの三ヶ月だし。何だか信じられないなっ」
 わたわたと言う。
 たったの三ヶ月。だけど、俺にとっては何十年にも匹敵するほど価値のあるものだ。ハルヒがたった一人で世界を塗り替えたように、そういうのは定規で測れるもんじゃない。
 一息ついた鶴屋さんは、笑顔の色を落とさないまま、俺を真っ直ぐに見た。
「でも、キミには元の世界があるんだからねっ。あたしは少しの間、貸してもらってただけなんだ。ずっと決めてたことなんだよ。誰かがキミを迎えに来たら、ちゃんと返してあげようって」
「……俺は返却不可ですよ。というかお買い上げ品です」
 ただ首を横に振る鶴屋さん。長い髪が夜の中でも僅かな光を反射させる。
「いいの、あたしに気を使わないで。キョンくんはただ、寂しかっただけなんだよ。元の世界の人たちの代わりに、あたしを選んだ。そしてあたしも刺激が欲しかっただけ。あたし達は、お互いたまたま傍にいて、本当はただ、」
 何か言おうと半開きになった唇を、俺は自分の唇で塞いだ。 




 口を離すと、潤んだ大きな瞳を一度目に映してから、鶴屋さんを胸元に掻き抱いた。
 柔らかくて暖かい。誰にもやらん。
「代わりだって? 勝手なこと言わないでください。何にでも代わりなんてありませんでしたよ。ハルヒにだって長門にだって朝比奈さんにだって古泉だって、元の世界もこっちの世界も、代わりなんかききやしないんだ!」
 俺は街頭演説車のようにやかましく叫ぶ。
「それでも俺は鶴屋さんが好きだから今まで一緒にいたし、これからも一緒にいる! それだけだ! 代わりだの気遣いだの面倒臭いことなんてな、一々考えてられるかっつーの!」
 そのまま、立ち尽くす朝比奈さんに顔を向ける。
「朝比奈さん、皆に伝えてくれ。俺はもう戻れない。約束したんだ。これから温泉に行かないといけないし、帰ってきたら機関誌を仕上げないと。春休みになったら、谷口と国木田と一緒に寺でお払いしてもらわなくちゃならない」
 予定はエベレストよりも山積みなんだ。全てを放り投げて帰るわけにはいかない。
 何も言えずに固まっている朝比奈さんを置いて、もう一人の未来人は馬鹿にしたように言う。
「愚かだな。元の時空にも同じだけのものがあるだろう。それを理解しているのか?」
「してるさ。そして決めた。三ヶ月前に」
 度し難い、と言わんばかりに眼光を鋭くしたそいつは、しかし、どうしてか全て受け入れるように目を閉じた。
 その意味を考える暇も無く、
「キョンくん」
 頬に手を添えられて、俺は導かれるまま、もう一度キスをした。馴染む他人の体温。ずっとこのままでいられればいいのに。いつかと同じことを考える。
 顔を離せば、どこぞのお嬢様みたいに柔く微笑む鶴屋さん。
「本当言うとね、きっと、キミはそんなふうに答えてくれるんだろうなって思ってたんだよ。ありがとう、キョンくん」
 俺の胸をそっと押して、
「ごめんね」
 何が、と口に出す前に。
 体中の神経が断絶し、俺は地面に突っ伏した。
 またしても顔に、ザラメのような小石がめりこむ。わけがわからん。
 何だこれは。何が起こった。
 潜水艦に詰め込まれたように狭まった視界の中で、朝比奈さんが駆け寄ってくるのが見えた。
「キョンくん!? なんて事を!…………あなた、鶴屋さんに何を吹きこんだんですか!」
「何度言わせる気だ。僕はただありのままを話しただけ。今の行動はすべて彼女の意志さ。あんたこそ、何を突っ立ったままでいるんだ。さっさとそいつを連れて行け。もうあまり時間は残されていない」
「……だって、だからって、こんなの無い、こんなの、無いよぅ」
 下手糞なレゴブロックのように歪に固められていた朝比奈さんの声が、悲愴なものに変わる。
 誰だよ、泣かせた奴は。さっさと出てきやがれ。公園の水洗便所に流してやるから。
 何とか慰めなければと思いつつ、どうしてか動かない体を持ち上げようとすると、 
「キミ、朝比奈みくるでしょっ。あたしの親友なんだよね? じゃあ、親友からのお願いだっ!」
 衣擦れの音が、聞こえる。
「この人を、キョンくんを、元の場所に帰してあげて」
 鶴屋さん。すぐ傍にいる。寝返りを打つように体をひっくり返すと、逆さまに制服のスカートが見えた。そして、手にぶら下げられたスタンガン。
 あれかよ、畜生。
 俺には使わないって言ったくせに、思いっきり使ってるじゃないか。
「どうして……どうしてだ……」
 電流で狂わされた舌を必死に回す。これじゃまるで、死ぬ間際のうわ言だ。
 逆さまになった鶴屋さんが、俺の傍に立った。
「キョンくん、あっちに残してきたものがあるんでしょう? いけないなぁ、何事も中途半端はよくないよっ。あたしの彼氏はかっちょいいからね、そんなことはしないんさっ!」
 鶴屋さんは顔が見える位置までしゃがみ込むと、にひひっと笑い、髪を俺の頬に落として、前にそうしてくれたように額をそっと撫でる。
「だから、ね? バイバイ、キョンくん」
 すぐに立ち上がって、どこかへ歩いていってしまう。
 胸にわけのわからないものがこみ上げてきた。
 まずい。この状況は、最悪じゃないか。
 このままじゃ本当に俺は、
「バイバイ……じゃ、ない……」
 頭も舌も回らない。
 涙が出てきた。ただでさえ狭まっていた視界が、どんどん歪んでいく。
 どうしてだよ。またいなくなっちまうのか。また一人ぼっちに、俺はなるのか。
 自分のものとは思えないほどみっともない呻き声が、喉から漏れた。
「キョンくん」
 誰かの手が、俺の握った拳を包んだ。懐かしい感触。でも今は違うんだ。鶴屋さんの手を握りたいんだ。
「あたしも決めました。あなたを連れて帰ります。鶴屋さんのお願いを……いえ、自分の責任を果たします」
 待って、待ってくれ。頼む。もうちょっとだけ、
「……おい、ちょっと待て」
 声が出た。いや、違う。俺の声じゃない。
 誰かの手が、俺の体をまさぐった。懐かしくもなんともない。何しやがるんだよ、この野郎。
「ふん、僕が知るか」
 不快感に身を任せていると、そいつは立ち上がり、鶴屋さんと同じ方向に歩き去った。
 しばらくして、小さくなった声が聞こえる。 
「あんたのものだ。中身は期待するなよ。どうせ安物だ」
 あいつ、まさか。
「え? これ、なに……」
 鶴屋さんの声も聞こえる。よかった。まだいるんだな。
「学校が終わってすぐ飛び出して行くものだから何事かと思えば、ただの買い物とはな。お陰でこっちは走り損だ。せめてあんたの手に渡さないと、僕の尾行が本当に無駄になってしまう」
 うるせえな。もうすぐホワイトデーなんだから、準備するのが当然だろうが。
「これで手を貸すのは最後だ。僕は戻る」
 そいつの声は、それっきり消えた。
「あたし達も、もう行きます。体が消えかかってる。時間がありません」
 嫌だ。行きたくない。行くもんか。
 何とか動く手首だけで、あがく。
 しかし、がっちりと握られた手は、解ける気配を見せなかった。
「……待って」
 鶴屋さん。
「行きます。キョンくん、目を瞑って」
「お願い! 待って! その人を、その人を連れていかないでよっ!!」
 駆け寄ってくる気配がする。地面に半分埋まった視界の中に、逆さまの足が見えた。
「キョンくん、目を瞑って。でないと危険です」
「嫌だよっ! 行かないで! 行かないでキョンくん!!」
 夜が深くなるように、見えるものはもう無くなった。それでも俺は、目を瞑らない。
 投げ出された手を伸ばした。
 ごめんなさい、と朝比奈さんが零す。
 伸ばした指先が何かに触れて、

「       」

 本名で呼んでくれたのは、初めてだった。