三月。
 一生分のシナプスを繋ぎ終えてしまうのではないかというほど悩んだホワイトデーの贈り物も無事決定し、進級するに当たっておよそ全てのイベントを消化したと思われた頃に、そのお誘いはやってきた。
「あのぅ、キョンくん。悪いんだけど、また少しだけ、付き合ってくれませんか……?」
 申し訳無さそうに言う朝比奈さんを見れば、未来的用件だということはすぐに察しがつこうというもの。
 これがハルヒの、繋げる回路を三キロメートルほど間違ったような誘いなら即刻唾棄する所だが、エンジェルの頼みとあらば話は別口だ。どこまでだって延長ケーブルを繋げよう。
 今みたいに二人っきりの部室でお茶を嗜むのもいいが、未来のために手を取り合って励むのもオツなもんさ。大事な部分は二人ってとこで、他は何しようとオマケみたいなものだ。
 俺は不埒な考えを尾も出さず、自分ではそこそこ決めているつもりの笑顔で頷いた。
 するとどうだろう。朝比奈さんはやんわりと毛布のように微笑むと、そっと俺の手を包み込む。これだけでも頷いた甲斐はあろうというものだ。
 一人で悦に入っている間に、例のきつい立ち眩みが襲ってきた。いい加減御馴染みになってもよさそうなもんだが、いつまで経っても慣れないこの感覚。
 頼りない上下左右がぐるぐると回り、NASAの訓練にでも使えるんじゃないかというほど脳内がシェイクされる。
 吐き気を催しながらも、滅多に触れることのできない朝比奈さんの肌の感触をしっかりと確かめながら耐える事しばし。 
 なんか移動がいつもと比べて長くないか、と俺が疑問を抱いた、その次の瞬間、それは起こった。
「…………ーーっ!!」
 今までとは段違いの、もう立ち眩みとは表現できないような激しく不安定な感覚。
 世界に何かが圧し掛かって海に転覆させようとしている。
 イカれたジェットコースターがスペースシャトルに接続されたような、猛烈な揺れだか上昇だか落下だか、とにかく何もかもが無茶苦茶だ。細胞一つ一つに乱方向でくっついた力場に、体をちぎれんばかりに引っ張られ、何かを考えることも不可能で、俺はただ、このままじゃ死んじまう、と本気で思っていた。
「誰…………が、異常な…………! ……ットワークに……生? …………どう……っ!!」
 傍にいるはずの朝比奈さんの声は、遥か遠くなったかと思えば、耳元に大音量で響くほど近くなったりして、何を言っているのかまるでわからない。
 握り締められた俺の手には爪が深く食い込んで、ひどく痛かった。
「そんなのは…………から早く引き……て!! この…………ョンくんが、キョンくんがどこ………って……!!」
 全てがブレて、一点に集中し始めた。閉じた瞼の奥で眼球がぐるぐると回り、そこを中心に体と体のまわりの全てが渦に飲み込まれていくような感覚だ。
 神経は鳥肌を立てた瞬間の掻痒感に囚われ、あべこべに繋ぎなおされていく。
「……せん……い…………………ら!」
 そして次第に、何もわからなくなっていった。
 ここはどこで、何だ? 
 自分が幾つも見つかって、誰がどれなのか、何がそうしていたいのか、脳の電流はどこを通してどいつに向かう?
「離し……ダメ! お願い! …………ないで!!」
 離す? 何を? 俺は何か握っているのか? 
 どれだ、どの俺がどれをどうしてどんな物を一体どこで、
「誰か! 早く誰か助けて!!」
 泣きそうな声がはっきりと聞こえたのを最後に、とうとう耐えられなくなった俺は、手を離してバラバラになった。 




 次に俺が目を醒ましたのは、自宅のベッドの上。
「キョンくーん、朝だよー!」
 いつもと同じような妹の声で起こされた俺は、べたつく目を半開きにしたまましばらくぼんやりしたあと、慌てて飛び起きるなり自分の体を確かめる。
 ……ちゃんとある、よな。
 さっきまでろ過された砂粒ぐらいに破砕されてたような気がするが、どうやら勘違いだったらしい。
 俺は胸を撫で下ろし、そのままベッドに倒れこんだ。
 変な夢を見たせいか、起きぬけとは思えないほど疲れきっていた。心身ともに御影石を丸呑みしたかのような重さだ。
「こらー、キョンくん! 二度寝しちゃだめ!」
 兄の心中を慮ることなく、妹は布団をめくりあげる。てか寒っ!
 俺は丸まった姿勢で寝転がったまま妹の手から布団を取り返すと、
「今日は具合悪いんだ。もうちょっと寝かせてくれ」
 いつもと違い、あながち嘘ってわけじゃない。
 妹も野生の勘でそれに気づいたのか、うー、と唸ったあと、控えめに尋ねてきた。
「でも、本当にいいの?」
 何だそのおずおずとした物の言い方は。俺を寝坊させないための新しい作戦か。
 小賢しいやつめ、と思いながらも、寝返りを打って妹の方を振り返り、
「……何でそんなこと聞くんだ」
 妹は、珍しく困ったような顔をしながら、
「だって今日、入学式だよ?」
 その言葉を聞いて、俺の眠気はすぐに消し飛んだ。
 今日は入学式。
 一体、誰の?




 結論から言うと、その日は俺の入学式だった。
 暗い気持ちで坂道を登り、そしてハルヒと出会った、あの入学式である。
 知らぬ間に一年前に戻っていた事を知り、あれがどうやら夢ではなかったようだと気づいても、他にどうすることもできず、坂の角度を憂う代わりに途方も無い不安を抱えながら学校に向かった俺は、不安が的中していた事を知った。
 一年五組の、見慣れたクラスメイト達。
 しかし、俺の後ろでトンチキな自己紹介をぶちまけるはずの変態娘は、どこにもいなかった。朝倉涼子さえ、そこにはいない。
 普通の自己紹介が披露されるたび、原因不明の焦りが俺の心に募っていく。
 オリエンテーションが終わり、同じ中学だった友人との挨拶もそこそこに、俺は谷口に詰め寄った。
「涼宮ハルヒを知らないか?」
 谷口は目を白黒させ、気押されたように口を開く。
「いや、知らないけど……」
 思わず膝を落としてしまいそうになった。
 それでも俺は、失礼を詫びる言葉を残して、二年生の教室へと向かった。途中には一年九組があって、そこに古泉はいなかったけど、少しだけ気分が楽になる。
 しかし、朝比奈さんがいる筈のクラスに行っても、愛らしい未来人はどこにもおらず、不躾な新入生へ向けられた奇異の視線の中に見知った長い髪の上級生も混じっていて、俺は逃げるように教室を出るしかなかった。
 念のために立ち寄った部室には、テーブルと椅子があるだけで、読書家の宇宙人の姿は見当たらない。そりゃそうだ。まだ入学初日だし、部活に入部できるのはもう少し先のことなんだから。
 パソコンを立ち上げてみても、旧式のOSがむき出しのデスクトップを表示するだけで、どこにも特別なプログラムは見当たらない。
 俺はなんとか胸中に燻る不安を消したくて、長門のマンションに向かって走り出した。
 ハルヒの使った手でまんまとマンションの中に押し入り、708のチャイムを鳴らし、硬いドアをノックする。
 誰も出てこなかった。
 しつこくドアを叩く音を聞いて出てきたのだろう、隣の部屋の若い男性は、その部屋が空き部屋だという旨だけ怒鳴りつけると、すぐに引っ込んでしまった。
 念のため訪れた505の部屋には、年配の女性が住んでいて、朝倉涼子なんて聞いたことも無いという老女にお茶をごちそうになってから、大きなマンションを後にした。
 希望の糸が一本一本耳障りな音を立てて切られていくなか、崩れる足場から逃れるために女子校のままの光陽園学院に赴き、出てくる生徒に片っぱしから涼宮ハルヒの名前を尋ねていく。
 誰も首を縦には振らなかった。
 やがて、不審な人物の話を聞きつけた教師が校舎から現れるのを見て、俺は慌てて逃げ出した。
見慣れた景色が、まるで違う世界のように追い立ててくる。
 俺は一人だった。




 それでも、最初はまだマシな方だった。
 個人的な事情なんて省みず時間は流れていくわけだし、学生らしく毎日学校に通っていれば、嫌でも健康的な生活を送らざるをえない。
 部活にも入らないまま、やった覚えのある授業を諾々と繰り返し、クラスメイトともそこそこの関係を結んで、日々平穏に過ごしていると、自分がどこにいるのか忘れそうになるぐらいだ。
 俺は記憶が鮮明なうちに、と思って、大きなスクールカレンダーを購入し、そこに覚えている限りの予定を書き込んでいった。どこに行った。何をした。
 席替えの時、くじ作りを手伝う振りをして窓際の一番後ろを抜き取って自分のものにしたりもした。ここにいれば、きっとそのうち朝比奈さんか長門か、ひょっとしたら古泉でも、俺を元の場所に連れ出してくれるに違いないと信じていたからだ。
 しかし、ゴールデンウィークを越え、古泉が転校してくるはずの日もあっけなく過ぎ去り、世界が瀕死の危機を迎えたあの夜も明けきってしまうにつれ、俺は段々と追い込まれていった。
 そして、夏を目前に控えたある日の放課後。 
 ブラバンの演奏が遠くに聞こえる中、俺は文芸部室へ向かっていた。
 未だに誰も訪れない文芸部室を、俺はそれまで定期的に掃除していた。SOS団抜きの放課後の長さは想像以上であり、それを埋め合わせる意味で始めた習慣だ。
 いつもどおり途中で拝借したバケツを片手にドアノブを握ると、部屋の中から誰かの話し声が聞こえてきた。
 ……まさか。
 一瞬期待して、でも期待しすぎないように、ゆっくりとドアを開く。
 果たしてそこにいたのは、見たこともない男子生徒三人組で、そいつらはあろうことか、部室に置かれていた本棚を運びだそうとしていた。
「お前ら、なにやってんだ!」
 俺はバケツを放り出して、倒した本棚を持ち上げようとする男に掴みかかった。
「な、何って、これを図書室に運ぶんだけど……」
 驚きの混じった声で、わけのわからないことを言う。
「それはこの部屋の備品だろ? 何で運び出したりするんだよ!」
 ああ、と一人離れた所に立っていた男がこちらに近づきながら、
「文芸部はもう廃部が決まったんだ。今年は新入部員も入らなかったしね。この部屋の備品は、図書室に持ってくことになってる」
 生徒会の役員らしいそいつは、面倒くさそうに顔をしかめると、
「新しいの買えばいいのに、とんだリサイクル精神だよ。一々手間のかかることをさせて」
 何でもないそんな物言いが、この時はどうしょうもなく気に食わなかった。
 リサイクルだ? ふざけたことを抜かすじゃねえか。
「あんたも私物を置いてるんなら、今の内に持っていった方が……」
 俺は何事か言おうとするそいつの胸倉をあらん限りの力で掴み上げ、脅しつけるように言った。
「文芸部には俺が入部してやる。今からここは俺の部室だ。だからお前ら、この部屋の物に触るんじゃねえ」 
 目を見開いて黙り込んだそいつを部屋の外に引きずり出したあと、残った二人も同じように叩き出して、倒された棚を必死で立て直す。 暗くなると、パイプ椅子に座って窓の外を眺めながら、俺は少しだけ泣いた。
 翌日、いつか長門に渡されたのと同じ入部届けに、今度は『文芸部』と書いて担任に提出した俺は、それからしばらく学校を休みがちになる。
 何をしていたのかと言えば、まず、電話帳を開いて団員と同じ苗字の人に片っぱしから電話をかけていた。特に涼宮と古泉。未来から来たわけでもなく宇宙人でもない二人なら、ここにいてもおかしくないはずだ。
 しかし、懐かしい声が携帯から聞こえてくることは無かった。
 電話の次は、皆で訪れた場所を一人で回ろうと決めた。ハルヒが消えた冬のパソコンみたいに、どこかに何かの手がかりが残されているかもしれない。
 先立つものを用意するために日雇いのバイトで金を貯め、さすがに孤島は無理だったが、鶴屋家の別荘までは行くことができた。生憎と、中に入ることはできなかったんだが。
 そんな風に過ごしている内に家族が本気で心配し始めたので、今度は毎日学校に行くことにした。しかし、ただ行くだけで、授業にも出ず部室でぼーっとしていることの方が多かった。
 出席簿には、バツ印が重なっていく。
 幸い、というか、どうでもいいことなのだが、単位を落とす事は無かった。テストなら勉強しないでもある程度できる。答えを事前に知ってるし、ハルヒに教えてもらったテスト攻略法は、俺の脳裏にいまだ消えぬままこびりついていた。 
 おかげで教師からの信頼は綺麗さっぱり失ったが、クラスメイトは成績優秀な怠け者だと受け取ってくれたらしく、特に扱いが変わるわけでもなかった。まあ当然だ。俺はどう見ても不良って感じじゃない。
 ただ、同じ中学の奴は何かと心配してくれたみたいで、特によく部室を訪れてくれる国木田には感謝しながらも、誤魔化すしか術が無かった。
 部室に鶴屋さんがやってきたのは、そんな夏の日のことだ。
 




 昼休み。部室で弁当を食べ終え、窓際で食後の読書に勤しんでいると、歴史の授業に便宜上使用される地図帳ぐらい滅多に開かない扉が、錆びた音を立てて開かれる。
 現れたのは、いつも元気で快活だった、きっとこっちでも同じように元気で快活なのだろう、そんな上級生だった。
 人形についたボタンみたいにぱっちりした目で俺を見つけるなり、肩まで捲し上げた夏服のしわを伸ばすように片手を挙げ、彼女は笑う。
 こんな距離で目を合わせるのは、実に数ヶ月ぶりだった。
「お! キミが例の……えーっと、キョ、キョ、……キョンくんだねっ」
 俺は呆然としつつも、鶴屋さんがここにいることを不思議に思っていた。
 教師に目をつけられないため、俺がここにいるってことは信用できる奴にしか教えていない。それが、どうして。
 俺の目に浮かんだ疑問を読み取ったのか、鶴屋さんは勝ち誇るように笑うと、
「谷口くんに聞いたら、しゅしゅっと教えてくれたよっ!」
 あの野郎、可愛い子の頼みだけはザルで聞きやがる。今度安物のコーヒーフィルターでもプレゼントしてやろう。
 俺はため息をついた。飼い慣らされた子猫みたいに無遠慮に近づいてくる鶴屋さんを改めて見るにつけ、気が重くなるのをひしひしと感じる。
 正直、鶴屋さんとはあまり顔を合わせたく無かったのだ。SOS団の近くにいたこの人から他人行儀な顔をされるのは、あまりにも辛い。
「……誰か知らないけど、俺に何か用でもあるんですか?」
 こんなことを言わなくちゃならないのも、結構きつかったりする。
 意識して無愛想に接する俺を、硬くて掘れない地面の上でもがくモグラを見下ろす鳥のような笑いを浮かべ、鶴屋さんは言う。
「おや、自己紹介せにゃなんないの? あたしのこと知ってるくせに?」
 思わず声をあげそうになった。
 この鶴屋さんは、自分のことが俺に知られているとは思わないはず。なんせ、会って話したことすらない。なら、ひょっとして……
「キミさぁ、こないだうっとこの別荘に来てたっしょ? 防犯カメラに、ばっちしくっきり写ってんだっ」
 俺はいい加減学習した方がいい。ここにいるのは、SOS団の名誉顧問じゃないんだ。
 こんな気分になってしまうから、会いたくなかったのに。
「さあ、覚えがないですけど。人違いじゃないんですかね?」
 ここはとぼけといた方が賢明だろう。妙な疑いを持たれるのはさすがにまずい。犯罪者になるのは、普遍的にごめんだ。
 しかし鶴屋さんは、甘いねっ、と言わんばかりに指を突きつけながら、
「いやいや、キミの顔は間違えないよっ。前からキミのこと、色々チェックしてたんさっ」
 チェック? どうして鶴屋さんが俺を気にするんだ? ここに来て接点を持ったことなんて、一度も無かったはずなのに。
「すげー興味あるんよねっ、キミのこと。入学式の日にうちのクラスに来たキミだっ。あん時もあたしの顔見て、すぐ出てっちゃったっしょ? あたしに言いたいことでもあるんかな、とか考えてたら、気になって寝れないのさっ!」
 ああ、あの時か。しかし、一瞬目を合わせただけなのに、相変わらず鋭い人だ。ひょっとしてカボチャの気持ちとかもわかってしまうんじゃないだろうか。
 内心感嘆の言葉を述べながらも、それ以上関わるつもりの無い俺が、誤魔化しを口にしようとすると、
「昨日も昨日でさ、途中で立ち止まっては、どっかをじっと見つめたり、ベンチをずっと触ってたり、ありゃ何のオリエンテーリングなのかなっ?」
 昨日?
 昨日は、確かに街に出て色々な場所を回っていた。たまに落ち着かない気分になると、一人で不思議探索の真似事をする時がある。しかし、そんなこと谷口にだって言った覚えは無く、したがって鶴屋さんが知っているはずが……
「あ、そうそう。ごめんだけどねっ、昨日尾けさせてもらってたからっ」
「……つ、尾けた?」
 万引きとかと同種の後ろめたさを秘めた言葉を、鶴屋さんはあくまでハキハキと、 
「たまたまぶらぶらしてた時、駅前で見かけたんさっ。じっと立ってたもんだから、ありゃ、誰か待ってるんかね、と思ってちょろっと眺めてたんだけど、いきなりふらりと歩き出すし、どうにも気になっちゃってねっ!」 
 ぺろっと長い舌を見せる鶴屋さん。でもそれって、犯罪に近い感じがしますけど。
「んにゃ、自白したから帳消しだっ!」
 いつの間に法律は力士のトランクス並に緩くなったのだろうか。
「ね、ね、キミっていっつもあんなんしてんの? 別荘んときもじっと建物を見てただけだったじゃん? ただの趣味ってわけじゃないよね?」
「いや、それはだから、つまりですね……」 
「隠したって無駄だかんねっ。キミからは、なんか面白そうな匂いがするんだっ! 独り占めしてないでさぁ、お姉さんにも教えておくれよ!」
 鶴屋さんは、画竜に点睛を入れる芸術家ぐらい真剣に、そして週末の子供のようにわくわくと輝く好奇心でもって、こちらの目を見つめてくる。
 耐え切れず外に目をやると、ここに来たばかりの頃咲いていた桜の木は、もうすっかり地味な緑色に覆われ、他の木と区別がつかなくなっていた。
 だから俺は、
「……本当に聞きたいですか?」
「うんっ!」
「ちゃんと最後まで、聞いてくれますか?」
「もちろん! あたしゃ中途半端が嫌いなんさっ! 地獄の果てまで初志貫徹だよっ」
 俺は、ゆっくりと口を開いた。
 別に鶴屋さんの好奇心に負けたってわけでもない。
 ただ、俺は誰かに知っておいてほしかった。自分がどこから来て、そこにはどれだけ楽しいことがあったのか。
 この頃になると、たまに考えることがあったんだ。ひょっとしたら、俺は頭がどうかしちまってるんじゃないかってな。
 宇宙人だの未来人だの超能力者なんてのは最初っからいなくて、ハルヒだって脳内劇場の登場人物に過ぎず、入学式の日に妄想に取り付かれた俺は、一人わけのわからない夢を見てるに過ぎなんじゃないか。
 笑い飛ばすには悲しすぎる現実。そんなもの、認めたくはない。
 だから、俺は話し続けた。自分の記憶が本物だと確信するために、脳のローランド溝をなぞる様に微に入り細に入り話しまくった。昼休みを経て、放課後も学校が閉まるまで話し続けた。 
 そして翌日。
 外が暗くなる頃、ようやく最後まで語り終えた俺に向かって、鶴屋さんは喝采の拍手を打ち鳴らす。
「すごいすごいっ! まるで違う世界の話みたいだっ! おもしれーっ!」
 飛び上がって喜ぶ姿を見ながら、俺は恐々と尋ねた。 
「……こんな話、信じてくれるんですか?」
 鶴屋さんは打つ手をぴたりと止めて、腕組しながら眉間に皺を寄せ、
「う〜ん、話は正直ちょっと眉唾っぽかったよ。あたしが出てんのも、何か変な感じだったし……でも、聞いてて楽しかったしねっ! そんなんが本当なら、サイコーだっ」
 そのまま頬を引き、ニッと見慣れた笑顔になって、
「それに、キミはずっと真剣だったっしょ。話してる時も、街を歩き回ってた時も、ずっと真剣だった。だから他はうっちゃっても、キミのことは信用することにしたんさっ!」
 ちょっと待ってな、と言って部室を飛び出し、またすぐに舞い戻ってきたかと思うと、
「これ!」
 俺の鼻先に引っ付けてきたのは、草書体で『文芸部』と書かれた入部届けだった。
「異世界探し、あたしも混ぜてっ!」
 
 一人っきりだった文芸部員は、こうして二人になった。




 夏休みに入るなり、俺はやたらと豪華なクルーザーに乗せられて、例の孤島に向かった。もちろん鶴屋さんの根回しによるものだ。
 そこまでしてもらう必要は無いと言ったのだが、あたしが行きたいの一点張りで、どうしようも無かった。
 建物も何もない無人島で、俺たち二人は一日だけ泳ぎまくった。
 一日限りの合宿から戻ると、今度はプールに向かった。やはりアメフラシのごとく大量発生していたガキどもと共に即席ルールの水中サッカーで遊んだ。筋を軽く痛めた。
 盆踊り大会では、俺も無理矢理浴衣を着せられた。蓄えを全放出する勢いで豪遊したあと、ちゃちな花火をした。浴衣姿の鶴屋さんがポニーテールだったせいで落ち着かない気分だったことは胸の奥に閉まっておく。
 鶴屋山で虫採りもした。セミを棒受け漁で捕獲されたサンマのように乱獲し、にも関わらず一向にボリュームが落ちないセミの合唱を聞いていると、いつの間にか夜だった。キャッチアンドリリースの精神は、もちろん忘れない。セミにしてみたら、何がしたかったんだこいつらと思ったことだろう。
 鶴屋家の蔵にあった望遠鏡で天体観測をした。無愛想な宇宙人のことを話すと、鶴屋さんは会ってみたいと言ってくれた。
 バッティングセンターでまた筋を痛めた。カッコつけようとすると良いことがあった験しが無い。
 花火大会の日は雨だった。代わりに図書館に行って、元の世界で読みかけだった本を借りてきた。同じ内容。なのに、どうしてあいつらはいないんだろう。
 ハゼ釣り大会で鶴屋さんが優勝した。商品は最新型のデジカメ。何かあれば写真を撮るようになった。
 肝試しはちっとも怖くなかった。暗かったからかどうか解らないが、いつの間にか俺たちは手を繋いでいた。
 宿題も自力で全部終わらせた。二年生とは内容が違うので、写しあうことができなかったからだ。
 カエルのバイトはしなかった。さすがに鶴屋さんをあんな灼熱地獄に放り込むわけにはいかない。
 とにかく、五人だった思い出を、二人でやりなおした。
 帰るための手がかりを得ることはできなかったが、それでも楽しかった。
 もし一人だったら、俺は何をしていたんだろうか。想像すると、少し恐ろしい。




 やがて秋になり、文化祭が近づくと、流石に映画を撮るわけにもいかなかったので、予定を早めて機関誌を作ることにした。
 鶴屋さんはやはり抱腹絶倒の冒険小説を書き、俺は短い恋愛小説の代わりに、自分の実体験に基づいたSF小説を長々と書いた。五人分の文章だ。なかなか面白いものができたと思う。
 俺たちの小説に加え、無理矢理手伝わせた谷口と国木田の渋々な尽力もあり、紙面はかなり充実した内容となった。
 評価もそれ相応に高かったらしく、そのせいで図書部の教師に目をつけられた俺たちは、半ば強制的に図書部が発行する新聞とやらのコラム欄を担当させられることになったりもした。
 ステージを欠場したバンドは、一つも無かったという。
 



 そして、冬を迎えようとする頃。 
 自分の中に、鶴屋さんに対するある種の感情が芽生えている事を認めないわけにはいかなくなった。
 ずっと一緒にいてくれた上級生。
 情が宿るのも当然といえば当然で、どうしようもないことかもしれない。
 しかし、それだけだと思い込むのは、ひどく難しい事だった。
 鶴屋さんといるとき、元の世界のことを考える時間はいつの間にか少なくなって、俺はただ二人でいられることを、純粋に楽しんでいた。
 手段と目的の逆転。よくある話だ。
 カレンダーには、元の世界のものとは違う、新しい予定がどんどん増えていった。
 戻るために思い出をなぞっていたわけでなく、新しい思い出を作るために進もうとしている自分がいる。
 以前一度は否定した、常識的で退屈な世界を、あいつらの影も形もない世界を、俺は受け入れようとしている。
 それに気づいたからには、決断しなくてはならなかった。
 どっちにしろ、ずっとこのままでいいわけがない。それだけは、初めからわかっていたことだ。
 つまりは二択。
 あいつらを探し続けるか、それともここで生きるか。
 真面目に出席するようになっていた学校を風邪と偽って丸一週間休み、ろくに眠る事もできずに考え続けた末、俺は決めた。
 冬独特の、すべてが薄ぼんやりとした空気の中で、一つだけ確かなものがある。




 十二月初旬。
 昼はそこそこの賑わいを見せていた学校の近くの公園には、夜を間近に迎えるにあたり、さすがに子供たちも夕食に勝る価値を見出せなかったのか、人っ子一人見当たらなくなっていた。
 さらに、アリもキリギリスも凍死しそうな寒さを伴った空気は手入れを怠った五十代の肌のように乾燥しており、もう少し暖かい日にすればよかったかもしれない、と俺に思わせるには十分な天気。
 告白の成功率と気温の相関関係は多分誰も調べたことが無いだろうが、一々北極海まで赴いた上で愛を語られても迷惑としか思えないだろう。財布の中身ぐらいなら賭けてもいいぜ。
 心中で微妙にテンパりながら公園の真ん中につっ立ったまま、少しでも寒さを防ぐためマフラーの中に顔を埋めていると、
「ちわっ! 遅くなってごめんよっ」
 何枚着ているのか、張り切りすぎた雪だるまのように膨らんだ鶴屋さんが、ケーブル編みの柔らかそうな手袋を拝むようにこすり合わせながら、柵をまたいで小走りにやってくる。
 俺の前で急停止すると、足だけはそのまま小刻みに動かしながら、
「いはー、めっさ寒ぃー。キョンく〜ん、スキー合宿の打ち合わせなら、こんなとこでしなくてもいいんじゃないかな? それともあれかいっ? 寒さ先取りってことかいっ?」
 さすがに直球で行く勇気は持てず、そんな理由にかこつけて呼び出していたことを、すっかり失念していた。
 豆鉄砲を乱射されるハトのように慌ててフォローの言葉を入れようとすると、鶴屋さんはぐりんとした目を半分閉じて、
「キョンくん、何か隠してることあるっしょ?」
 ぐ、と詰まる俺を見て、きしし、と悪党っぽく笑うと、 
「うちら長い付き合いだからね、そんなんはばればれさっ。で、なになに? ひょっとして、何かサプライズあんのかなっ?」
 ビックリ箱を解剖しようとするやんちゃ坊主のように、目を輝かせはじめる。
 俺はそれを見逃さなかった。
 ここだ。この話の流れに乗るしかない。波乗りの神様よ、カメハメハ大王とか、とにかくその辺の偉人よ、俺にご加護を!
「……じ、実は、鶴屋さんに伝えたいことがあるんでふぇ」
 噛んだ。やはり一銭も投じたことがない連中に頼ってもダメだ。瀬戸際の教訓。大体何だよカメハメハって。親ふざけてんのか。
「でふぇ? キョンくん、今更語尾を変えて無理矢理キャラ変えんのは難しいにょろ。そういうのはさ、入学した時から決めとかなきゃね」 
 いや、キャラ変更の話とかじゃなくてですね。というか、語尾がでふぇとか抗菌物質のデフェンシンぐらいしか思いつかない。抗菌物質キャラ。未踏の領域だ。学校に巣食う不良共を一掃してくれそうな勇ましさがある。
 ……でもなくて。
 いかん。目の前の大仕事にびびってしまい、さっきから思考が逃避しがちだ。
 俺は絵に描いたようにキョトンとしている鶴屋さんを見ながら、マフラーが盗まれたバイクみたいな心臓の音に乗せて、自分自身に暗示をかける。
 やれ。もう吹っ切れ。一回噛んだら、もう何回噛んでも一緒だろ。もともと、そんぐらいみっともない方が分相応なんだ。
 一度大きく深呼吸してから、俺は一息に言う。
「今まで色々、俺のわがままに付き合ってくれてありがとうございました」
 噛まなかった。一筆書きのように滑らか。
「なーにっ、そのことなら気にしないでいいっていつも……」
 毎度のことを、とでも言いたげに俺の肩を叩こうとした鶴屋さんは、糸止めに繰られたように動きを止め、
「……今までってことは、ひょっとして、やめちゃうの?」
 俺は頷いた。鶴屋さんは一瞬顔を俯かせたが、すぐにまた顔を上げ、目の奥にいつに無く真剣な色を浮かべると、
「そか……じゃあ、文芸部も解散なのかなっ。今日はそれを知らせに?」
 静かに尋ねてきた。少しぐらい、寂しいと思ってくれているのだろうか。もしそうだとしたら嬉しいけど、同時に心苦しくもある。
 俺は、ちぎれんばかりに首を横に振った。
「帰ることを考えるのは、もうやめます。でも、文芸部はやめません」
 鶴屋さんは、英語のリスニングを聞かされるチェシャ猫のように何が言いたいのかわからないといった様子で、困惑と笑顔の間を彷徨っていた。
 もう、引き返す事はできない。
「帰るための手がかりとか、そういうの抜きで、鶴屋さんと二人でいたいんです」
 唾を飲み込み、乾いた喉を一度濡らして、
「俺、あなたのこと好きですから」
 それ以上目を合わせていられず、深々と頭を下げる。
「だから俺と、……その、こ、これからも一緒にいてください」
 俺の言葉が途切れるや、公園の中に忘れられていた静けさが、隅に追いやられた報復とばかりに殺到してきた。沈黙の針が冷えた耳を撫で回している。
 閉じようとしても言う事を聞かない瞼を諦め、自分のつま先を見つめながら、頭の中は熱暴走していた。
 ついに、言ってしまったのだ。
 ほとんど前フリなしの告白。こんなんでいいのか。いや、ダメだろ。雑誌の特集とかでダメな告白の仕方ベスト5とかにランクインされる感じかもしれない。
 まぁいいさ。断られる確率の方が高そうだってことは、事前に見当ついてたからな。二人っきりでもペースを崩す様子が無かったし、まず男として見られてないのは間違いなさそうだ。
 だからって、こっちで生きるという決意を変えるつもりはない。それはもう決めた事で、この告白は、決意表明みたいなものでもある。
 手がかり探しはもう止める。そうだな、文芸部としてもっと積極的に活動するのもいいかもしれない。コラムだって、始めてみれば楽しいもんだったし。その時、もう鶴屋さんは隣にいてくれないかもしれないけど、そんときゃ暇そうな谷口辺りを引き込んで、アホらしいことやるってのもいいかもしれない。
 でも、しばらくは何をする気も起きないだろうな。振られたくねえ。ショックで拒食症とかになったらどうしよう。まあ、そこまで繊細じゃないけどな。
 一呼吸の間に、幾つもの思考が並列処理で加速していく。
 そして、その内の一つでも何らかの結論を出す前に、
「こちらこそよろしく!」
 柔くて軽くて丸っこいものが、俺の腹の辺りにタックルをしかけてきた。
 一瞬わけがわからなかった。コチラコソヨロシク。何だそれ。南米の方の新しい王様の名前か何かか。コチラコソ王。どっちだ。
 いや、そんなことより見ろよ。鶴屋さんが俺に抱きついてるぜ。どうして? ホワイ? 映画の撮影?
 やがて、忙しく駆け巡っていた血液が深い場所に落ち着いていき、混乱の魔法をかけられたような頭にも、一献の冷静さが戻ってくる。
 ……成功。
 俺はそっと深く、コートの奥に隠された熱を確かめるように抱きしめると、口の中を思いっきり噛んだ。すげえ痛い。夢じゃない。
 脳からわけのわからない麻薬が飛び出して、ただひたすらにハッピーな気分だった。もし死ぬなら今がいい。何一つ悔いは残らないだろう。
 涅槃の境地へいざ旅立たんとしていると、抱きしめた背中が小刻みに揺れているのに気づいた。
「つつつ、鶴屋さん? どうなさりなさったんですか?」
 言葉がまったく覚束いていないが、それは置いといて、慌てて顔を下に向けても、卵みたいな形の頭頂部しか確認できない。
 ひょっとして、俺の体臭かったか? あんだけ風呂入ったのに。それとも、念のためと思って使った制汗スプレーがまずかったか? 一吹きもしなかったのに。
 完全にパニクっていると、ずずっと鼻を啜る音が聞こえ、途切れ途切れに吐き出される湿った声が、俺の腹部を暖めていく。
「だって、キョンくんいつも帰るために一生懸命で、そういうとこ好きで、でも、だから、あたしのことなんて、見てないんだろうなって思ってたから……」
 どうやら体臭は正常なようで安堵すると共に、こんな時どうすればいいかわからない自分の経験値の少なさに慙愧の念を抱きつつ、鶴屋さんの背中にまわした手を撫でるように叩く。
「機関誌、毎月発行しましょう。放課後は毎日打ち合わせですね。どっか取材に行くのもいいかもしれない。あと、旅行にも行きましょう。今度は俺の行った事無い所がいいです。でもなるべく、リーズナブルな所で」
 こうやって楽しいことを話してやれば、誰だってすぐ泣き止むさ。うちの妹から導き出された法則だから、互換性には乏しいかもしれんが。
 公園は相変わらず気圧に難癖をつけたいぐらい寒かったが、二人で一緒にいれば、実はそうでもないことに気づいた。




 それから、日々は目まぐるしく過ぎていった。
 放課後は部室で過ごして、夕方になれば一緒に下校し、休みになれば一緒に遊んで、暇なときにはメールする。
 クリスマスには調理室に忍び込んで手料理を振舞ってもらい、正月は初詣に行って、バレンタインには味のしないチョコをもらった。
 不思議なことなんて何一つ無い、十人並みの生活。手を握るだけで幸せになれる安易な人生。
 それでも俺は、ずっとここにいたいと願っている。