学校を出た俺たちは、女子Bの証言にあった細い路地に向かった。山道を散歩するには遅すぎる時間だし、こっちは鶴屋さんを送るついでに立ち寄れる場所だったからだ。
「昨日の夜から今日の朝にかけて三人も同じようなものを見てるってのは、こりゃ本当になんかあるかもねっ」
 隣を歩く鶴屋さんは犬でも連れてピクニックに来たような風情だが、ロケーションはそれに全く反比例していた。
 周りを見れば、生垣や囲いと、それに抱き合うように密着して建てられた家の壁がほぼ切れ目無く連なっており、閉所恐怖症の人はご遠慮した方が良さそうなほどの圧迫感を覚える。しかも日当たりが悪いせいか、窓もあまり見当たらず、そのため漏れる光も微々たる物で、夕方の今はまだマシだが、日が完全に落ちれば相当暗くなるだろう。元々道として作ったというよりは、自然とできた家と家の隙間と言った方が正しそうだ。近所の人しか知らない抜け道なのかもしれない。
 中途半端に漂う生活観と共に、緑と無機物の隙間が黒く覗いていて、要するに、結構それっぽい雰囲気なのだ。俺が道を間違って映画監督にでもなった暁には、是非ホラー映画の一幕としてロケ現場に指定させていただきたい。
「ほらほらキョンくん、キョロキョロしてないで写真撮らにゃっ。それともひょっとして、もう取っ憑かれちまったんかいっ?」
 俺は不甲斐なさを見せまいと即座に否定の言葉を返し、デジカメのシャッターをパシャパシャと切り始める。何枚か撮ったあとで画像を閲覧し、妙なものが写り込んでいないか確認する事も忘れない。
 そうして密かに胸を撫で下ろしていると、隣を歩いていた鶴屋さんが、いつの間にか俺の半身にひしっとしがみ付いているではないか。スープが冷めないどころか、コアラとユーカリのような距離感。
「鶴屋さん、それは流石に密着しすぎなんじゃ……」
 人目が無いからといって、客観性を欠いていいわけではない。常識ある一般人は、常に節度を持って行動しなくてはならないのだ。 
「だってだって、ここめがっさ狭いんさ。不可抗力って奴だねっ」
 しかし、二つの控えめと言えなくもない感触が肋骨に伝わるにあたり、頭頂部がやかんを空焚きしてしまいそうなほどヒートアップしてくる。
「わっ、キョンくん、何か体温上がってない? わははっ、顔もまっかっかだっ!」
 頬擦りされる感触が、制服越しに伝わってくる。これはヒートアップどころかショート発火まで行ってしまうかも……いや、ダメだ。理性の醒めた氷を絶やしてはならない。思うに、人間がここまで進化し発展する事ができたのは、本能と対を成す理性が枷のように自由すぎる精神を、
「えいさっ!」
「おわっ」
 考え事というか意識階層の深いところまで行ってしまいそうになっていた俺の肩口に、意外と力の強い細腕が巻きつき、二人分の体重を受けた膝は強制的に関節のボルトを緩める。
 そして鶴屋さんは、ボディにパンチを浴びせられたボクサーのように下がっていく俺の顎を捉えて、
「ちゅっ」
 唇の端に湿った感触がストロボじみた余韻を一瞬残し、皮膚の弾力性に弾かれて消える。
 あんぐりと口を開ける俺に対し、鶴屋さんは上気した頬を隠すように無邪気な笑顔を浴びせながら、
「昨日のお返しだっ」
 俺は綱の上から飛び降りそうになる理性を論理的思考で説得しつつ、ここをロケ場所にするならホラー映画じゃなくてラブロマンスだろう、と先ほどの自分の誤りを訂正するのだった。




 奇跡的に脳内サーカス団は綱渡りを成功させ、おかげで神経が彫刻刀で研ぎすぎた鉛筆と同程度の細さになったことはさておき、あらゆる意味で無事鶴屋さんを自宅に帰した俺は、一人駐車場の前に立っていた。
 男子Aの話に出た、あの駐車場である。丁度帰る途中の道なりにあるのだから、今日まとめて撮ってしまおうという魂胆だ。
 車が二台入っている寂れた駐車場の全景をデジカメに収めたあと、今日はどうも不在らしい高級外車が停められていたという隅っこを接写。数枚撮り終えてデジカメから顔を離し、人の気配がさらさら無い駐車場を見渡す。
 国道に面したこの辺は、さっきの路地と違って、いかにもな雰囲気は感じられない。それでもあんな話を聞いたあとじゃ、どことなく怖いように感じてしまうから不思議だよな。あまり長くいるのはやめておこう。見栄を張る相手ももういないし。
 足早にその場を後にしながら、撮り終えた画を確認してみたのだが、泣き顔の少女なんて写っていなかった。
 拍子抜けのような、一安心のような。
 複雑な感慨を覚えつつ家に戻った俺を出迎えたのは、二階からせわしない足取りで降りてきた妹だった。
 どうしたんだそんなに慌てて。ススワタリでも見つけたのか。
 妹は俺の目の前で急ブレーキをかけるなり、
「キョンくん、お客さん?」
 お客さん?
「何だよ、誰か来てるのか?」 
 足元を見ても、玄関の靴は家族の人数分しか無い。裸足で他人の家にお邪魔する類の知り合いなんていたか?
 俺が疑問をもてあましていると、妹は油揚げが目の前で消えた狐のように首を傾げ、
「今、家の前に女の人が立ってたでしょ? お客さんじゃないの?」
 女の、人?
「……何言ってんだ、お前」 
 妹は指揮者のように大げさな仕草で手を振り回し、
「だからぁ、女の人〜。キョンくんのうしろから来てたでしょ〜?」
 俺の後ろから、誰か。
「……そんな奴はおらん。あんまり変な嘘をついてると、舌を抜かれちまうぞ」
 胸に去来するざわめきを否定するために、妹に向かってそう告げると、
「嘘じゃないもん! だってあたし二階から見てたもん! キョンくんがおうちに入ったあと、すぐ後ろから女の人が来て、そこに立ってたもん!」
 妹が指差した先には、俺が閉めた時のまま沈黙を守る扉がある。
 壁より薄い一枚の境界線。 
 その向こうにいるのは、誰だ?
「中に入ってろ」
「ぶー、何でよぅ?」
「いいから、入ってなさい」
 俺は妹をリビングのドアの先に押しやると、靴下のまま玄関に下りる。
 僅かな隙間から漏れ出る夜気にまぎれた寒さが、タイル張の溝に溜まっていて、踝までが水に浸かったように冷えた。脳裏をよぎるのは、すすり泣く少女の話。想像の中で彼女は顔を上げ、俺の足跡を這って辿る。ひどい妄想だ。そういえばこないだも妙な視線を感じた時が有ったが、あれも妄想だったな。
 背筋まで這い登ろうとする悪寒を感じながらも、音を立てないように数歩進み、ドアの覗き穴に右目を近づける。
 球状に映し出される、家の前の風景。仄かに浮き出る川のような道路と、明かりが灯った向かいの家。
 誰もいない。
 俺は一度瞬きをしたあと、そのままドアノブに手を回して一息に開き、転がるように外に飛び出て、家々の明かりに照らされた周囲を見やる。
 そこには、誰も、
「あれ〜?」
 いつの間にか、言いつけを守らずに外に出てきた妹が、裸の足で俺の周りをぐるぐると回っている。
 俺は飛び上がりかけた心臓を押さえ、首筋の汗を拭いつつ、
「ほら、誰もいないだろ」
「えー!? でも、本当にいたんだよ? あたし嘘ついてないよ〜!」
「わかってる。嘘だなんて思っちゃいないよ。ほら、いいから中に入ろう」
 ぐずる妹を連れて家の中に入ると、鍵とチェーンを注意して掛け直す。
 部屋に戻って駐車場で撮ったデジカメのデータを見ても、ただ車の不在を示す白線の数字と、真新しい白いフェンスの向こうで背中を向ける灰色の雑居ビルが、液晶に表示されているだけだった。




 ひどく寝苦しかった昨晩を経て、いつもより一時間早く目を醒ました俺は、鶴屋さんと共に女子Aの話にあった山林地帯へ出向いていた。
「ふぁー、ねっむぅー」
 名称不明な鳥の鳴き声を縫って、鶴屋さんの眠そうな声がすぐ後ろから聞こえてくる。だから無理して来ないでもいいって言ったじゃないですか。 
「いやいや、あたしも文芸部だし、朝の空気は気持ちいいし、運動は美容に効くらしいからねっ。一石三鳥ってな具合だよっ」
 俺の横に並び、キリンと背丈を争うかのように背伸びした鶴屋さんは、そのまま普段のパッチリとしたまなこに戻ると、
「それにしてもキョンくん、今日はめっさ気合はいってんねー! 普段朝はぐーたらしてんのにさぁ、何かあったんかいっ?」
 鶴屋さんの言葉どおり、俺はさっきから気合を入れて写真を撮りまくっていた。とは言え別に前向きな理由じゃなく、正直、この調査を早く終わらせたかっただけなのだ。
 昨日の妹の話は、うわ言として片付けるにはインパクトが強すぎた。あれが嘘だとしたら、俺はあいつにアカデミー主演女優賞と脚本賞をダブル受賞させてやってもいい。うちは近所でも有名な演技派ファミリーとして認知されるだろう。
 無為に不安にさせたくないので鶴屋さんに話してはいないが、それでもこんな所に自分の彼女を長く置いておくべきじゃない。さっさと学校に戻らなければ。
 あー、やっぱ幽霊特集とかやめときゃよかったぜ。触らぬ神に祟りなしと言うが、触っちまったあとのことを諺にしてくれた奴はいないんだろうか。
 俺は諸々の思考を、
「急がないと遅刻しちゃいますから」
 の一言で済まし、シャッターを切りまくっていると、
「キョンくんっ、こっち来て!」
 数メートル離れた場所から、鶴屋さんが手招きをしている。俺が素直に近づくと、
「ほらこれ、足跡じゃないかなっ!」
 確かに、鶴屋さんが屈み込んでいる一帯は、枝なんかが踏みしめられた跡がある。風に散らされてない所を見ると、昨日今日できたものみたいだ。
「この辺はまだ浅いですからね。散歩しに来る人だっているんじゃないですか?」
「でもほら、この跡辿ってみてよ」
 鶴屋さんは針のように細い指をすっと動かし、俺の目線を誘導する。
 ここいらの山林は浅く、まだ木立もまばらで、すぐ傍から通学路が見渡せるぐらいだが、右手の方に行くほど木立が深まり、鬱蒼とした森になっていく。
 そして足跡は、右手の方に向かっていた。
「ね、ね、キョンくん! 行ってみ」
「ダメです」
 最後まで聞かずに却下する。
「写真は沢山撮れました。もう十分です」
 あんな所に鶴屋さんを連れて行けない。いくらなんでも遭難はありえないが、ちゃんとした道が無いんだ。怪我する可能性は大いに有りうる。
 それに、昨日のこともあるせいか、何だか不安だった。
 強硬な姿勢を取る俺に対し、
「でも、ひょ……」
 鶴屋さんは何事か言いかけて飲み込むと、またすぐに、
「あたしは最後まで確かめてみたいんさっ! 中途半端はいくないよっ」
 対峙する両目は真剣だ。
 ……まったく、基本強引なタイプだからな、この人も。
 俺は譲歩しようと、
「万が一、危ない人がいたりしたら大変です。俺が一人で見てきますから、鶴屋さんは学校に戻って……」
「大丈夫だよっ! 危なそうなら途中で引き返せばいいんだし。それに、ほらっ、じゃーん!」
 ネコ型ロボットのように鶴屋さんがスカートから取り出したのは、掌サイズの無骨な鉄の塊……スタンガンっていう、アレか? 何か思ってたのより大分小さいけど。
「お嬢様のたしなみってやつ? なんせ世間には不埒な連中も多いからねっ! この鶴屋家特製改造スタンガンでビリッとやれば、カンガルーでもノックアウト間違いなしっ!」
 迂闊なことをしないで良かった。もし辛抱堪らず鶴屋さんを襲っていたら、今頃俺の内臓はウェルダン気味になっていたことだろう。できるだけレアでいたいものだ。
 胸を撫で下ろす仕草をどう取ったのか、鶴屋さんははたはたと手旗信号のようにスタンガンを振り回すと、
「だいじょぶだいじょぶ。キョンくんにだけは何されたって使わないから……って何言わせんのさっ!」
「はぶぅっ!」
 一人で身悶えながら、俺の頼りない腹筋に左の掌底を叩き込んだ。えらく綺麗に入ったんだが、これもお嬢様のたしなみなんだろうか。
「わっ、わっ、ごめんよっ! キョンくんが野外でいやらしいこと言わせるプレイをはじめるから、恥ずかしくてついっ!」
 そんなプレイしてないです。人生で一度もしたことないです。特殊な性癖も今のところないです。
 腹を押さえていた俺の手を、鶴屋さんは一転して優しく握ると、
「ね、キョンくん。行ってみよ? 一緒に」
 ……どうして、そんなに、
「わかりました。でも、ちょっとだけですからね。あんまり遠くまで続いてるようなら、途中で引き上げます」
 俺はそれだけ言って、鶴屋さんの手を握り返した。 




 結局、足跡は緑深い場所の入り口辺りですっかり途切れてしまっていた。
 こんな所で誰が何をしていたのかと考えると疑問が残ってしまうのは否めないが、俺はもう少し調べようという鶴屋さんを、学校が始まるからと言い含めて連れ出した。
 もう十分記事を書く材料は揃った。これ以上調査するのは、百害あって一理無しだ。好奇心は猫以外だって殺す。
 あんまり深入りするとまずいことが起きそうな予感がするんだ。俺の予感は狙ったように悪い方ばかり当たるからな、昔から。この才能を生かせる職につきたいが、絶対ろくなものは無いだろう。
「なーんかありそうな気がするんだけどなぁ」
 昼休み。久々に鶴屋さんが弁当を作ってきてくれたというから部室に行くと、玩具をねだる子供のような顔をしたご本人に出迎えられた。
「何かあったら困りますよ。薮蛇どころか藪幽霊なんて、あんましシャレになってません」
 子供を諌めながら漆塗りっぽい一重の重箱を開けると、色とりどりのおかずが花火のような豪華さで視神経を突き抜けて味蕾を刺激する。こいつは、たまりません。
 俺は手を合わせてお辞儀をしたあと、これまた高級そうな桜模様の箸を掴み、F91並の速度で玉子焼きを接収しようと、
「あ、こらっ! 待った、タンマだよタンマ!」
 え? いただきますの挨拶は一応済ませたんですけど。
 隣に座っていた鶴屋さんは困惑する俺の手から目にも止まらぬ早業で箸を引き抜くと、狙っていた玉子焼きを器用に掴み取り、
「はい、口を開けるにょろ」
 ……また変な漫画読みましたね。
「影響されやすいお年頃なのさっ。というわけで、あーん」
 それはいくらなんでもプライドが、というか何と言うか、ぶっちゃけ恥ずかし過ぎる。この現場を写真に押さえられたとしたら、俺はあっさり脅迫に屈するだろう。テロリズムの脅威。
「いいから口開くっ。あんまわがままばっか言ってっと、あたしだけで全部食べちゃうんだからねっ!」
 そんな横暴な。こんな美味しそうなものを目の前にして食えないなんて、デジタル放送の料理番組じゃあるまいし。
 胸の内ではレジスタンス活動を展開していた俺は、視覚と嗅覚に同時に訴える玉子焼きに屈して、口を開いた。超マヌケ面。鏡を見なくてもそんぐらい自明だ。
「そうそう、素直なキョンくんが大好きさっ。はい、あ〜ん」
 ふっくらとした卵焼きが俺の口に突っ込まれると同時に絶妙な甘さが口の中に広がる様は、まさに味のエレクトリカルパレード。
 ニワトリになるとは思えない柔らかさの玉子焼きを飲み下したあと、もう何でもいいから全て食べてしまいたい、と堕落しかけていると、箸がやおら引っ込んで、
「もう、そんなにがっついたら口元よごれちゃうよっ」
 いや、がっつくも何もまだ一口しか食べてないんですがと言おうとした俺の口元を、鶴屋さんは自分の舌でちろりと舐める。
「んー、我ながらいい出来だっ!」
 ひょっとしたら俺たちはバカップルなのかもしれない。
 その後の俺は、まさに言いなりだ。一度堕ちれば人間際限なく堕ちるもので、すっかり完食してしまう頃には、自分の手を一切使用しない食事も悪くないかもしれない、とか思う境地に至っていた。ブッダ超えたね確実に。
 そのまま入滅に入ろうとしていると、重箱を片付けていた鶴屋さんは、後ろに立てかけてあったパイプ椅子を俺たちの間に一つ開き、
「じゃ、次は食休みっ。さぁキョンくん! あたしの膝を枕代わりにして一眠りだっ!」
「……いや、机で十分で」
「とうっ!」
 襟首を掴まれたかと思いきや、視界がくるりと半回転し、鶴屋さんの膝に強制的に顔を埋めさせられる。
 というかこれは決して膝枕とは言えず、体勢的に割とまずい部類に入るのではないだろうか。だって目の前真っ暗だし。スカートの海で溺死。ギネスに認定されそうな勢いだ。
 俺は鶴屋さんにこの状態がいかに危険かを進言しようと、
「ふふふぁふぁん、ふぉっふぉふぉふぇふぁふぁふふぃんふぁ」
「ぷははっ、ちょ、ちょっとキョンくん、く、くすぐったいよっ!」
「おいーっす。暇なんで遊びに来たんだけ…………」
 なんか余計な声が一つ多いような気がする。まさか、誰か来たのか? 
 やべえ、脅迫が現実のものとなりかねない。言い訳しようのない状況に見えるかもしれないが、何とか上手く取り繕わねば。
「お、谷口くんじゃん! おいっすっ!」
「う…………ぶはっ、て、なんだ谷口かよ」
 入り口で石膏のように固まっているのは、たしかに見慣れた顔だ。
 ほっとしたぜ。今の場面を教師なんかに見られてたら確実に冤罪退学させられるところだった。
 一息ついた俺が状況を正確に説明しようとする間際、谷口は素の表情で、
「すんません、部屋間違えました」
 いや、間違ってないだろ。
 どうも完全に誤解してしまっているらしい谷口は、新作人型ロボットのようにぎこちない動きで廊下へと消えたかと思えば、
「完全に淫行だーーー!!」
 耳に残るシャウトを振りまきながら、遠くどこかへ去ってしまった。あいつ、ぐれたりしなきゃいいけどな。夜中にトランペットを吹きはじめたりしたら末期だ。
「わははっ! 相変わらずおもろいなぁ、谷口くんってさっ」
 おもろないですよ。妙な噂立てられたらどうすんですか。
「いやぁ、黙っててくれるっしょ。キョンくんはもっと友達を信用した方がいいよっ。それに言われたら言われたで、開き直っちゃえばいいんじゃないかなっ!」 
 今でも割と開き直っているつもりなのだが、これ以上開いてしまうとパンドラの箱的なものまで開いてしまいそうで恐ろしい。
 思わず眉根を寄せてしまっていたのか、鶴屋さんは小さく笑いながら俺の額を伸ばすように撫でた。
 鶴屋さん、今日は妙にひっつきたがるな。まあ、それに対する不満なんて素粒子ほども無いわけだが。今までもこういう事たまにあったし。きっとそういう日なんだろうさ。 
 されるがままというのも癪ではないが、俺も手持ち無沙汰だったので、目の前に垂れ下がった長い髪の一房を指で掬う。相変わらずサラサラだった。本当にどうやって手入れしてんだ?
 しばらくそうしていると、視界がオブラートに包まれるように遠くなっていく。
「目がトロトロしてるねっ。眠い?」
 微かに目を動かせば、いつもより落ち着いた微笑を浮かべる鶴屋さん。俺にはもったいないお嬢様。柔らかくていい匂いがする。誰にもやらん。
 胡乱になっていく思考を押して、眠くないです、と言おうとしたが、あくびしか出なかった。食べた後で横になるのは、これだから良くない。
 囁く声が聞こえる。
「いいよ。ほら、寝ちゃいな。あたしは大丈夫だからね」
 じゃあ、少しだけ。きつくなったら、すぐ起こして下さい。
「わかってるから。だから、おやすみ、キョンくん」
 額に添えられた暖かい手の温もりを感じながら、意識はたゆたうように溶けていく。
 ずっとこうしていたいですね。眠りに落ちる間際、俺はぼんやりと本音を言った。
「……うん。あたしも、ずっと」


 だけど、そうはならなかった。
 鶴屋さんが予感していたように、やがて日々の終わりは幽霊騒ぎの真相という形を取って、俺の目の前に現れる。




 幽霊の話にまとわりついていた妙な感覚も、実際に書く作業段階に入ると、霞の向こうに消えていった。基本的に人間は目の前の物を第一に考えるようにできているんだろう。便利なもんさ。
 鶴屋さんもその後特に何を言ってくることもなく、自分のノートパソコンで冒険活劇の続きを書いている。たまに自分で爆笑しているから間違いない。
 元々あったデスクトップに加え、文芸部所有のノートパソコンとプリンターは鶴屋さんがコンピ研から持ってきたものだ。機関紙に勧誘の広告を載せる代わりに、型落ちして使わなくなった分を譲ってもらったらしい。
 手回しがいいというか何というか、末恐ろしいお人である。ただでさえ大きな鶴屋家をこれ以上どうするというのか。ある種見ものだ。
 機関誌の製作と、さらに卒業式を目前に控えているため、予行演習や各種引継ぎなどで学内の浮ついた空気がようやく自重を増してきたこともあり、せわしなく数日が過ぎていった。
 そして、機関誌のレイアウトも大体決定し、差し迫ったホワイトデーに鶴屋さんへ向けて贈るプレゼント案を練らなくてはならないな、と思い始めた、そんなある日。
 いつもどおりのギリギリさ加減で登校し、教室の扉を開くと、
「キョン!!」
 谷口がバネ仕掛けの人形のような勢いで飛びついてきた。
 朝一で男に抱きつかれるという拷問を受けた俺が遺憾の意を表明する前に、
「幽霊! 俺、幽霊見たんだ!」
 谷口は唾を飛ばしまくってくる。
 幽霊だって? もうそのネタは終わったんだ。この期に及んで原稿を差し替えなんて、したくないしする気も無い。時代遅れも甚だしいぜ。
「こないだ言っただろ、学校の下で美人を見かけたって! あれだ、あれが幽霊だった!」 
 海で溺れるような呼吸をしながら、
「今朝もそいつがいてさ、俺、声かけられたんだ。話があるからついてきて、ってすげえ可愛い声で言われたから、ついてったわけ。学校の近くに山道あるだろ、あそこだよあそこ」
 幽霊がどうとかはさて置き、そんな所について行くなよ。もう少し人生に対する危機感を持てっつーの。
「アホかお前、美人が人気の無い所に連れ出してくれるんだぞ! 何だかんだで不安ながら期待しちまうのはしょうがねえだろ! でもそいつ、お前にこれを渡してくれって」 
 俺の胸に押し付けてきたのは、白い便箋。
「お前宛のラブレターだと思ったから本当は受け取りたくなかったんだけど、咄嗟に貰っちまったんだ。そしたら、そいつ、いきなり体が透け初めて、見間違いかと思って目を擦ったら、もういなくなっててさ!」
「ちょ、ちょっと待て。何で幽霊が俺に手紙なんか……」
「知るか! とにかく渡したからな! 確かに渡したからな! 呪わないでくれよ!」
 谷口は土煙をあげる勢いで自分の席に座り込むと、全てに絶望したかのように顔を机に埋めた。
「谷口、来た時からあの調子なんだ。かなり参ってるみたい。本当に何か見たのかな?」
 入り口で立ち尽くす俺の前に現れた国木田は、今しがた押し付けられた便箋に目をやる。霊界発、俺の胸行きの手紙だ。
「開けてみないの? それ」
 気のせいかもしれないが、冷凍庫に保存されていたように冷たく感じる便箋を開けたいと思う奴なんて、それこそこの世にいるのだろうか。 
「国木田、お前開けてみてくれ」
「やだよ。キョン宛なんだから、キョンが開けないと」
「俺は幽霊と文通するほど人間関係に窮してない」
「僕だって迂闊なことして呪われたくない」
 小柄な体から確固たる主張を漲らせる国木田と、それ以上張り合っても事態が進展するとは思えず、手の中の細い長方形に折りたたまれた便箋を、ゴミ箱に放るべきか神社仏閣へ持っていくべきか逡巡していた俺は、
「……キョン?」
 待て。
 この便箋、どこかで見覚えが、いや、知ってる。これは。
 しかし。
 そんな、だって、ありえないだろ。もうそんなつもりなんて、俺には。
 俺は震える手を隠す事もできず、おぼつかない指使いで折りたたまれた便箋を開く。誰も傷つけないだろう少女キャラのイラストが、俺に微笑みかけてくる。
「何て書いてあったの?」
 声はもう聞こえない。耳は蓋をされたようにどの音も通さず、眼球は便箋に書かれた、たった一行の文章に釘付けにされていた。 

『今夜八時、いつかのベンチに。あなた一人で来てください』

 それから放課後まで俺はどう過ごしていたのか、あまり覚えていない。

 


 鶴屋さんに今日の部活を中止する旨を伝えた俺は、便箋の約束より三時間も早く、指定されたベンチに腰を下ろしていた。
 未だに頭の中はぐちゃぐちゃだったが、ただ、ここに来なきゃならないってことだけ、暗室に空いた穴のようにはっきりしている。
 三時間と言うと、気の遠くなるような時間だ。瑞々しい紫だった辺りはいつのまにやら黒ずんだ群青になり、定時に灯る街灯が一斉に灯り始める。
 以前もこんなことがあった。
 鶴屋さんに告白した時だ。緊張しまくっていた俺は真昼間と呼べるような時間からこのベンチに座って、寒さに首を縮めながら自分の心臓の音を聞いていた。
 それに、もっと前から。
 この公園には、色々な思い出が染み付いている。
 これから会うのは、そんな思い出だ。現実じゃなくて幻だ。俺の記憶から這い出してきた幽霊だ。
 生きている俺には、関係の無い世界の話だ。 
 時計は回り、八時になった。
「キョンくん」
 長針が頂点に達した瞬間、俺の目の前にまるで始めからそこにいたかのように現れたのは、泣きそうなほど懐かしい、一つ年上だった可愛らしい先輩。
 本人か? 
 顔が同じだけの別人。ありそうな話だ。俺のことなんてまるで知らない、通りすがりの可愛い人。期待は常に裏切られる。
 だけど、
「迎えにきました」
 ふらつく体を置きざりに、俺の意識は一年前の春に立ち戻る。
 フラッシュバック。