後で聞いたところによると、あの煙は持続的に吸飲を続けた場合に限って幻覚作用が顕れるらしく、煙が収まった時点で皆が迷妄状態から回復するのは時間の問題だったという。
 正気を取り戻した人びとは皆一様に夢でも見ていたかのような表情を浮かべて混乱し、毒ガスだの集団トランス状態だのと騒いでいたのだが、直後にスピーカーから犬笛に似た超高周波が鳴り響くと、混乱はすぐに終息し、何事も無かったかのように文化祭は再開されたそうだ。異変にようやく気付いた長門が、皆の意識の方向を逸らすための効果を有した特殊音波を作り出して全校に放送した、という事らしい。
 かく言う俺が正気に戻ったのは、魔界の番犬のように追いすがってくるハルヒから逃れるため、グラウンドに置かれた体育倉庫の屋根によじ登っている最中だった。
 消火器を探そうと校舎内に踏み入ったところまでは記憶がはっきりとしているのだが、その後の記憶には所々ぼんやりとした膜がかかってしまっており、辛うじて燃え上がる謎の植物を鎮火したような記憶は残っていたものの、どういう経緯から俺とハルヒが追いかけっこなんぞやっていたのかさっぱり理解できず、一足先に正気に戻って俺たちの姿を目視していたという古泉に聞いてみると、
「本当に聞きたいですか?」
 憐憫と哀切がたっぷり含まれた気遣わしげな視線を返してきたので 大人しく首を横に振った。俺の体中についた無数の痣と欠けた奥歯に関係があるのかもしれないが、世の中知らない方がいい事だってある。
 少し遅れて正気に戻ったハルヒも、傷一つ無い白い顔をおよそ十五度ほど傾けて、
「あんたとみくるちゃんを探してたら体育館の裏で何かが燃えてるのを見つけて、そんで消火器を取りに行ったところまでは覚えてるんだけど……」
 俺と似たようなものだったらしい。ハルヒの頭上にもハテナマークが飛び交っていた。そうして三人で鳥頭を突き合わせている最中、件の音波放送が流れ出し、俺たちもまたそれ以上疑問を持つことなく文化祭の後片付けに向かったのである。
 音波によって歪曲されていた意識が戻ってくる頃には、後夜祭も既に終わっており、ただでさえ霞掛かっていた記憶は時間を置く事でいよいよ現実感を欠如させ、昼間の乱痴気騒ぎはまるで遠い過去の御伽噺でも語るような口ぶりで校内の各所で囁かれてはいたものの、結局はうやむやになってしまった。
 俺としては、大事に至らずに済んだと胸を撫で下ろすばかりだ。
 ともかくこうして、死ぬほどしんどかった全二日間に渡る北高文化祭は終了と相成ったわけである。


  


 さて、その後変わったことと言えば、谷口が毎夜中年男性に迫られる悪夢を見るようになったと真剣に悩んでいたり、国木田と阪中が喋っている場面を以前より頻繁に見かけるようになったり、土いじりにはまった朝比奈さんがガーデニング道具を取り揃えて体育館裏の花壇再生にチャレンジしていたり、長門の家の買い置きレパートリーにハヤシライスが加わったり、家に帰るとなぜか膨れっ面の妹が「うそつき」とか言いながら変な色のカレーを作っていたり、その日の夕飯はすき焼きなのに俺の前にだけ変な色のカレーがあったりと、細々したのは大体そんなところだ。
 今後文化祭を行なう上での最重要注意事項として、「カレーの類その一切を禁止する」という条文が追加されたのは、まあやり過ぎだとは思うけれど、額と拳を割って二週間ほどの入院を余儀なくされた会長からすれば当然の処置だったのだろう。どうでもいいと言えばどうでもいい話には違いない。
 喜緑さんだけは、たまにすれ違って会釈を交わし合ったりするのだが、その微笑みと佇まいは以前と比べて一オングストロームの変化も見られなかった。ひょっとしたら、長門同様にハヤシライスを買い集めたりしているのかもしれないが、無意味な勘繰りはやめておこう。
 問題は、今現在俺の前方を大股で歩いているこいつである。
「何でついて来んのよ」
「目的地が同じだからに決まってるだろ」
「部室へのルートは無数にあるじゃない。あんたは下から回り込みなさいよ」
「ただの遠回りじゃねえか……わかったよ。俺はちょっと時間潰してから行くから」
「……あのね、冗談に決まってるでしょうが冗談に。立ち止まってないでさっさと来なさい。みんな待ってるかもしんないでしょ」
 ハルヒは文化祭以来、どことなく様子がおかしかった。
 いや、もちろん様子がおかしいのはこいつのデフォルト状態であり、今更真人間になられても病院に担ぎ込んでMRIにかけてもらうぐらいしか取るべき手段が無かったりするのだが、最近は更にネジを一回転半ばかし回して軋みを立てそうなぐらいおかしい。
 具体的には、今みたいに俺と二人っきりになったりすると居心地悪そうにそわそわし出して、こっちが気を使って出て行こうとすると、怒気混じりに引き止めるような言葉を吐く。どうしろっていうんだ。
 用が有って電話する時もそうだった。話すことが無くなったので切ろうとすると、
『キョン、ひょっとしたらあたしに言いたいことがあるんじゃない?』
 とか訊ねてきて、そういや集合時間を聞いてなかったかなと思い、
「そうだった。明日のしゅ」
『ストップ! その先は明日直接会ってから聞くから、今日は早めに寝ときなさいよ!』
「いやだから、その明日の集合時間ってのが……もしもし? もしもーし?」
 みたいな調子で、翌日遅刻しながらも皆と合流し、昨日の早合点はどういう事なんだとハルヒに問い質した俺が思いっきり逆ギレされたのも記憶に新しい。
 さっさと元に戻ってくれないと、こっちまでペースが狂わされちまいそうだ。
「なあ、もう来年の文化祭どうするとか、考えてたりするのか」
 ハルヒを一刻も早くノーマルモードに戻そうと、俺はこいつが好みそうな話題を振る。猛獣の前に餌を投げ込むようなものだ。
 しかしハルヒは、まるで食物連鎖ピラミッドの下でペンペン草ばっかり食っている小動物のような気の抜けっぷりで、
「まだ別に。今年の文化祭自体、この前終わったばっかりだし。今は燃え尽き症候群真っ最中ってやつで、あんまりいいアイディアが浮かびそうにないわね」
「去年の今頃、俺を引っ張って軽音部に乗り込んだのはどこの誰だ」
「ここにいるあたしよ。あんたこそ、去年はさんざんブーたれてた癖に。今日はまるであたしに引っ張られないのが不服みたいじゃない。一体どういう風の吹き回し?」
「さあな。ただ、お前の口から燃え尽き症候群なんて言葉が出る方が、よっぽどおかしいと思うよ、俺は」
 まるで言い訳みたいに聞こえるぜ。お前の柄でも無い、情けない響きだ。
 ハルヒは挑発的な物言いを聞いてさすがに発奮したようで、足を止めないまま振り返り、後ろ向きで廊下をまっすぐ歩くという器用な真似をしながら、
「へえ、いいの? そんなこと言っちゃって。なんせ今のあたしは真っ白に燃え尽きてて下地が無いからね、やりたい放題やっちゃうかもよ」
「お前はいつもやりたい放題やってるじゃないか」
「ふん、まだまだ全然よ。ちっとも本気なんて出してないわ。今年の比じゃないぐらい、あんたがついてこれないぐらいハードな計画立てちゃうってもいいのかしら?」
 まだ少しぎこちない表情をしているハルヒの、向こう側の廊下に目を向けたまま、俺は答えた。
「いいぜ」
 口が滑るという表現はこういう時にも使うのだろうか。
「何でもやるよ。去年や今年みたいに、楽しければな」
 ハルヒは馬が空を飛んでいるのを発見した農夫のように、混じり気の無い戸惑いを浮かべると、
「あんた、熱でもあるんじゃない?」
「んなもんは無い。いたって健康で気分も上々だ。まあ、乙女心と秋の空じゃないが、こんな気分が明日まで続くとは自分でも思えないけどな。だからお前も、今のうち俺に色々と約束を取り付けといた方がいいんじゃないか」
 こんな親切すぎるサービスも、これが最初で最後だ。サンタクロースじゃあるまいし、年に一度とはいかないぜ。せいぜい必死に考えてみたらどうだ。
 嫌味に笑いかけてやると、ウサギの夏毛が生え変わるように次第にぎこちなさを振るい落としていったハルヒの顔に残っていたのは、正真正銘、いつもの溌剌とした悪巧み面だった。
「……二言は無いわね?」
「ああ、多分な」
 顎に手をやってきちんと前を向いたハルヒは、授業中でも滅多に見せないぐらいの真摯さで悩んでいるようだ。こいつの脳内で俺はどんな醜態を晒しているのやら。想像するだに怖気がつく思いだ。
 だけど、つい安請け合いしてしまっただの、いらん事を言ったり聞いたりしてしまっただの、どうして都合の悪い所ばかり記憶に残っているのかなどと、後出しの文句を吐いたところで、過ぎてしまった事実は今更変えられない。TPDDなんていうごく一部の例外はあるが、それはそれ。
 宇宙人でも未来人でも超能力者でも無く裏技めいた能力にも縁の無い俺は、せいぜい騙し騙しやっていくとしよう。
 開き直りを決め込みながら、俺は早足でハルヒのすぐ隣に移動する。ハルヒは俺の横顔をちらりと見上げたが、またすぐに己の考えに没入していった。
 砕いた氷を混ぜたような冷たい風が吹き始める、肌寒い秋の入り口には、これぐらいの距離が丁度いい。
 誰だってそう思うんじゃないか?
 だから俺たちも、これぐらいで丁度いいのさ。
 せめて秋が終わるまではな。


  






















 考えに考え抜いたという人死にが出そうなほど惨憺たる計画を生き生きと披露するハルヒに、後悔と自省を多分に混ぜた苦笑を返しつつ部室の扉を開くと、
「…………古泉。どうなってるんだこの状況は」
 俺は真っ先に古泉に訊ねた。
 いつもの位置で、いつものパイプ椅子に深く腰掛け、一種の諦観のようなものを漂わせている古泉は、
「どうなっていると言われましても、見ての通りお客様が来ていらっしゃいますとしか表現しようがありませんね。僕のボキャブラリーが貧困すぎるせいかもしれませんが」
 お客様というのは、壁際で腕を組んで立つ佐々木と、その隣で椅子に座り朝比奈さんお手製のお茶を啜っている橘京子のことだろう。
 それはいい。佐々木は「やあ」と落ち着いた挨拶をくれたし、橘京子は橘京子で「お邪魔してます」と神妙に頭を下げたのでまあ深くは問わないでおこう。
 問題はもう一人、というかもう二人のことで、
「一番はシーフードです。魚介類が含まれているため、味覚的な可能性を累増する複雑な奥行きがある上、栄養価も豊富ですから。カロリーも他と比較すると低めで、最も理に適った種類であるといえます」
「最も優れているのはしょうゆ。スタンダードとはつまり、有機生命体から最も支持されているということである。我々のいう合理性とは別のところにある有機生命的な誘引要素こそ、解析し新たなる系統を演繹するに値する」
――――彼が…………規定した概念……―――カレーは……―――――美味しいわ」
 そいつらプラス長門がカップ麺を片手に窓際で睨みあっているのはどういうわけなのかと訊ねたつもりだったのだが、
「僕の解説がいりますでしょうか?」
「……いや、やっぱいらない」
 俺は久々にため息をついて、筆の達者な画家が描いたような笑みを浮かべている佐々木に視線を投じた。それに気付いた佐々木は、組んでいた腕を解き、やたら難解な言葉を用いて論争を続ける三人の方に手の平を向けると、
「昨晩僕と橘さん、それに九曜さんで買い物に出かけていたんだ。すると、出先で偶然にもそちらのお二方と鉢合わせして、どちらも夕飯の買い物だったみたいだから、せっかくだし一緒に回ろうかと提案したまでは良かったのだが、僕と橘さんがちょっと目を離した隙に、もうこんな調子になってしまっていてね。三竦みという奴さ。昨晩は夜も遅いということでどうにか解散させたのだが、今日になって九曜さんがふらふらと逍遥をはじめたので、心配になって後を追ってみると、ここにたどり着いたというわけだ」
 手品の種を明かすマジシャンのように、道化めいた飄々たる笑顔で一礼する。
 なるほど。わかってはいたが、しお味派の俺にはどうしようもない問題だな。
 窓際の三人は、今なお議論を紛糾させており、
「お茶のお代わり、いかがですか?」
「あ、そんなそんな。お気遣いなくです」
 自分を誘拐した犯人だと知る由もなくお茶を勧める朝比奈さんに、橘京子はひたすら恐縮していた。
 古泉はどうしようもないとばかりに薄氷のような笑顔を浮かべつつ、部室全体を俯瞰している。
 そして、古い日本人形のように今にも動き出しそうな不気味な静けさを保っていたハルヒは、ここに来てようやく口を開いたかと思うと、
「そこの三人! さっきから聞いてたけど、お互いにまるで譲るつもりがないんなら、議論なんて時間の無駄よ!」
 怖気づく気配すらなく宇宙的トライアングルの真ん中に割って入り、
「だからここはね、正々堂々たる対決でもって白黒つけるべきだと、あたしは提案するわ」
 よく言うね。自分が一番楽しいところを持っていこうと舌なめずりしているくせに。
「そう、つまり!」
 ハルヒはわざわざ団長席に戻り、机を平手で思いっきり叩く。支配者のパフォーマンス。
 佐々木と橘京子は興味深そうにハルヒの一挙一動を見守っているが、俺は古泉と朝比奈さん同様、続く言葉に予想がついたので、慌てず騒がずパイプ椅子に腰を下ろして、
「ラーメン戦争で決着をつければいいのよ!!」
 今年の秋は長くなりそうだな、と、他人事のように考えていた。