「……ぅぇっぷ」
「ゲップなら他所でやれ。こっちまで気分が悪くなる」
 あんたこそ、タバコ吸うんなら職員室にでも行って吸ってくりゃいいだろ。どうしてわざわざ体育館の裏にまで来て喫煙してんだ。
「お前ひょっとして死ぬほど馬鹿なのか? そんな事したら退学に決まってるだろうが。せっかく内申のためにお堅い生徒会長を一年近く続けてきたんだ。こんな中途半端なところでポカやらかしてたまるか。ここなら人が滅多に来ないから、俺はここでタバコをふかしてるんだ。むしろお前がこんな場所で土いじりなんぞやらかしてる方が、俺には疑問だが」
「俺だって疑問だ」
 後片付けの途中で抜け出してきた俺は、用務員のおっさんから軍手を借りて、ドラッグスパイスの原料である謎の植物を土まみれになりながら引っこ抜いてゴミ袋の中へと詰め込んでいく作業を、先ほどから続けている。
 佐々木達が屋台を訪れる少し前、空いた時間を使って長門にこの植物の事を尋ねたのだが、俺の予想通り地球に自生しないはずの植物(という括りにしていいのかはわからないが)であり、環境のバランス等々を崩さないため可及的速やかに根絶する必要があるという事実が判明した。
 もっとも、そのぐらい喜緑さんも理解しているから彼女の方で処理するだろうし、そうでなければ屋台を畳んでからでもこちらの方で処理すればいいというのが長門の意見だったのだが、今や長門も喜緑さんも手に手を取り合って昼食の真っ最中なのである。俺が処理しとくしかないだろう。
 まあ、あの長門が本当に危険なものを放置しやしないだろうし、気を回しすぎかとも思ったのだが、こういうのを後回しにすると因果が巡り巡って最後には俺の元に災難として降りかかってくるような気がして仕方ない。若干被害妄想も入っているが、少なくとも物事を先延ばしにしないというのは悪い習慣ではあるまい。災厄の芽は早いうちに摘むのがベスト。
 俺だって日々学習しているのさ。
「それで、今日のアレは何だったんだ。古泉は自分の仕込みじゃないとか言っていたが、あの無口で影の薄い女、あいつが黒幕か。それともうちの喜緑江美里、あいつの仕業なのか?」
 タバコ臭い先客がいるのは想定外だったわけだが。未来予測ばっかりは学習だけじゃどうにもならない。
 俺は土を掘り返しつつ、
「知らん。俺はただの下っ端なもんでね。もう終わったんだし、どうでもいいだろ」
 詳しい事情を会長に教えてやる道理は無い。相手の言を借りるなら、旨味が無いってやつだ。
「どうでもいい、か。確かにどうでもいい。お前らがどこの何者だろうが、うちの書記が総合格闘技に通じていようがな。やりたいように好きにやればいい。俺の知った事じゃない」
 背後でタバコをふかしているであろう会長は、煙を吐き出す間を置いて、
「ただし、それも俺にデメリットが生じない範囲に限っての話だ。本当なら、今日の今頃は生徒会室に籠もって高いびきの予定だったのに、カレーだの何だのと下らん騒ぎのせいで全部おじゃんだ。普段の会長職ならそう悪くは無いと思えるがな、今日みたいなのは金輪際無しにしろ。少なくとも事前に連絡ぐらい寄越せ」
「そういう注文なら、それこそ古泉にしてやってくれ」
 最後の一本を抜き終えると、花壇はただの寂れた土くれと化してしまった。どうしてだろう、野菜泥棒にでもなったような気分だ。今度柿の種でも植えてみようかね。
 軍手を外しながら、会長に向き直る。体育館の壁を見つめながら、短くなったタバコを手の中で遊ばせていた。
 最後に一服すると、
「それもそうか。お前じゃどうにも話が通らなさそうだ。自己申告通り、役立たずの下っ端だとしたらな」
 古泉が選別しただけあって、腹に一物抱えていそうな青年実業家面で口元を歪ませると、タバコを地面に押し付けて火を消し、植物がいっぱいに詰まったゴミ袋の中に吸殻を放り込んだ。
「どうせゴミに出すんなら、ついでにそれも頼む。タバコは吸うよりも、吸った後の始末の方が困るんだ」
 途中で先生にでも見つかったら、俺が疑われちまいそうだ。
「息を吐きかけてやればいい。カレーの匂いかしないだろ、ってな」
 俺の周りには身勝手な奴が多いような気がする。
 今更だな、と思いつつゴミ袋の口を結ぼうとしたとき、プリントが擦れ合うような、ちりちりという音に気付いた。
「……?」
 この音、どっから鳴ってるんだ?
 周りを見渡そうとした、次の瞬間、
「あっつ!!」
 下から凄まじい熱気が立ち上り、尻餅をついてあとずさる。
 信じられないことに、ゴミ袋が、というかゴミ袋の中の植物が、ありえない勢いで炎上していた。普通よりずっと透明度の高い煙が、風に乗って散るように飛んでいく。
 尻餅をついたまま、必死に考える。どうなってる。どうして燃えてる。燃えるにしてもこの燃え方は異常だ。まるで巨大な炎の球だ。意味がわからん。
 ……まさか、火気厳禁の植物だったのか?
「おい! あんたちゃんとタバコ消したんだろうな!?」
 振り返ると、だるそうに着崩していたブレザーのボタンを留め、ポケットから取り出したメガネをかけて名実共に生徒会長となったやさぐれ男は、
「不審火だ」
 冷静沈着に明白な嘘をついた。
「保護者の中の誰かが、放置してあったゴミ袋に火のついたままのタバコを投げ込んだ。何たる愚慮。不注意極まりない。雑草が詰められていたゴミ袋は一瞬にして炎上し、犯人であるところの保護者は色を失って逃走。いち早く煙に気付き、火元を発見した我々は急いで助けを呼びに職員室へ。これが全ての真相だ」
 足早すぎる解決である。
「では、私は助けを呼んで来る。キミはここでこれ以上被害が広がらないよう火の番をしていてくれ」
「こら、自分だけ逃げようとしてんじゃねえ!」
 社交場から一足先に失礼するよとばかりに片手を上げる後ろ姿に追いすがり、襟の裏を掴む。
「ぐっ……ごほっ」
「あ、わ、悪い。大丈夫か?」
 しまった、力を入れすぎて喉を絞めてしまった。
 しばらく咳き込んでいた会長は、メガネを外して上背から俺を見下し、
「貴様、タメ口叩くぐらいなら見逃してやるが、喧嘩まで売ってくるとなると話は別だぞ」
「悪かったよ。でも今はそれどころじゃねえだろ」
 ちっ、と聞こえよがしな舌打ちをすると、
「いいか、どうせここらには消火できるようなものが一つも無い。昨日と今日の午前中で全てのイベントを終えてしまった体育館には、鍵がかけられている。どっちみち校舎へ戻らなければならない。それに、お前は俺が逃げ出すとでも思ってるみたいだが、後々の事を考えれば、ここはむしろ初期火災の発見者としての手柄を取る方が賢明だと俺は判断する。教師と消火器を連れて戻ってきてやるから安心しろ。その代わり口裏は合わせろよ」
「……わかったよ。早めに頼む」
「当然だ。信用しろ」
 メガネを掛けなおし、威風堂々と校舎へ向かっていく会長。ただでさえホラ吹きなのだから信用するのは無理だが、タッパがある分、頼りになりそうには見える。
 が、何故か会長は途中で九十度近く方向転換すると、目立たない位置に植えられて気の毒なイチョウの木の元へと向かう。
「てめえさっきから何見てんだコラ!」
 大自然の一部に喧嘩を売っていた。
「俺は生徒会長だぞコラ。 わかったらさっさとジャンプしろやこの木偶の坊が! 百円玉残してたらトイレの水飲ませんぞ!」
「ちょ、会長!」
 俺は慌てて走りより、
「あんた何やってんだよ! つまらん冗談やってる場合じゃないってわかってるだろ?」
 しかし会長は聞く耳を持たない。
「肩パンだったら誰にも負けないだと? いいぜ全然やってやんよ。先に脱臼したら負けだかんな。 …………てめえ肩どこだよコラァ!」
 行動は冗談そのものだが、会長本人は真剣そのものの様子でイチョウに因縁をつけている。一体どうしちまったんだこの人は。普段の仮面生活でフラストレーションを溜め込みすぎたのか?
 まるで幻覚でもみているような朧な瞳は、焦点が定まっていないように見えた。
 幻覚。
 ……幻覚?
『幻覚作用はあるが、無視できるレベル』
 それはあくまでスパイス状にすり潰した時の話。
 じゃああの煙は、どうなんだ?
 自覚した瞬間、世界が揺れるような感覚に襲われた。孤島で酒を飲んだ時、記憶をなくす寸前の感覚に近い。あれだけの勢いで燃えているのに、ハリウッド映画の特殊効果かと疑わんばかりの派手な炎は少しも枯れることなく、今も飽きずに軽そうな煙を飛ばし続けている。胸に刺さるような灰の匂いの他に、バニラにも似た甘い香りが薄く漂っていた。
 これは、本気で火気厳禁の植物だったのかもしれないな。
 会長は、さっき咳き込んだ時に思いっきり吸い込んだんだな。
 俺は這いつくばるように顔を地面に近づけ、煙の届かない層の空気を吸い込み、意識がはっきりするのを待つ。
 悪いことに、昼を回ってからだんだんと風が勢いを増している。煙は透明すぎるせいで途中で途切れてしまい正確な行き先を追えないが、大体の方向はわかる。風下は、ハルヒ達がいるであろう正門通りの方角だ。
「携帯は……くそ、ブレザーの中か」
 上着は一旦教室に戻った際、椅子の上に掛けたっきりだ。
 連絡を取って避難させるのも無理。なら直接向かうしかない。もう会長には期待できないだろう。どうせ校舎の中から消火器を取ってこなくちゃならないし。よくすれば長門と合流できるかもしれない。
 俺は一度深呼吸したあと、木の肌に右ストレートを打ち込みはじめた会長を置いて、正門へと向かった。
 拳を壊す前に戻ってこれるかな。


  


「……遅かった」
 正門の通りは、既にお祭り騒ぎだった。
 今日は文化祭なのだし、字義に則れば正しい振る舞いなのかもしれないが、形容する言葉も飾り立てる比喩も見つからないほどアヴァンギャルドなダンスを輪になって踊る集団や、問答無用で殴り倒したくなるほど熱烈に抱きしめあう筋肉質な男子二人組みや、聞き取れない呪文を唱えながら五体倒地を繰り返す中年のおっさんとハンカチを噛みながらそれを見守る奥さんらしき人や、イケメンパラダイスと叫びながら汗を撒き散らしひたすら相撲を取っている見目麗しい光陽園の女子たちに囲まれていると、神を祀るというより閻魔を地獄から引き摺りだす儀式に参加しているような気分になる。
 いや、立ち止まっている場合じゃない。とにかく今は消火器だ。
 煙を吸わないよう蜘蛛の真似をして地面すれすれを進んでいると、
「おーい、キョン! お前も泳がねえか?」
 ジュースを冷やすために張った水の中で泳いでいる谷口が、俺に声をかけてきた。ちなみに全裸だ。他人のフリをしたい。
「谷口。いいか、今は秋で、そこは飲み物を売ってる屋台だ。迷惑だから外に出て服を着ろ。風邪引いても知らんぞ」
 無駄だとは思いつつも、一応正気に戻そうと試みたのだが、
「は? お前何言ってんだよ。百年に一度のビッグウェーブが今まさに……ヘイ、そこのスリムなビーチガール! 俺と一緒に人生の荒波を潜り抜けていかない?」
 谷口、その人はお世辞にもスリムではないし、しかもガールではなくどちらかと言うとアンクルって感じだ。
 俺の心配を他所に、頬を染めて頷いたおっさんとカップルが成立したようなので、それ以上はもう関わらない事にした。スイスにでも行けばいい。
 濃くなってきた視界の内側の靄を振り払いつつ俺は進んでいく。
 途中、よく見知った人影を見つけた。俺と同じように、上空の空気を吸わないようにしゃがみこんでいる。俺は百年も人に会わなかったような心地で声をかけた。 
「古泉、無事なのか?」
 こちらを向いた古泉の目は正気のそれだ。
「ええ。涼宮さんが、妙な匂いがする、といち早く気付いてくださいまして、グラウンドの近くまで避難していたんですよ」
 あいつの鋭さもたまには役に立つ。
「で、そのハルヒはどうしたんだ。朝比奈さんもいないじゃないか」 
「朝比奈さんは、残念なのですが、涼宮さんが異変に気付く前にダンボールを捨てに行ったっきりです。僕と涼宮さん、二手に分かれてあなたと朝比奈さんを探しに行こうとしていたんですよ。ですから涼宮さんもここにはいません」
「そうか。なら古泉、お前は引き続き朝比奈さんを探してくれ。俺は別行動を取らせてもらうから」
「朝比奈さんの探索は元から続けるつもりでしたが……ひょっとして、この匂いの原因をご存知なのですか?」
 ご存知というか、俺の先走った行動が原因の一端を担っている節もあるんだが、今は説明している時間は無い。別に正直に話してこの場にいる全員から責められるのが嫌なわけじゃないんだぜ。勘違いしないでくれよ。
「まあ、そんなとこだ。とにかく頼んだぞ古泉」
 古泉は目を逸らしつつ口笛を吹きそうになってしまう素直な俺を注意深く窺っていたが、すぐにいつもの破顔状態に立ち戻ると、
「今は朝比奈さんを保護することが優先ですね。この状況では、何が起こるかまるで予想がつきませんし」
 理解が早くて助かるぜ。
 互いに示し合わせ、俺たちは別方向へ向かおうとする。
「ルソー! どこいっちゃったのー?」
 その俺たちのすぐ傍を、阪中が通りがかった。ちょうど休憩時間が回ってきていたのか。なんてタイミングの悪い。
「ルソー! ルソー! ねえ、返事してよー!」
 ペットは入場禁止だからルソーがここにいるはずはない。おそらく阪中も煙にやられてるんだ。
「うぅ、ルソー……ぐすっ」
 悲しそうな声だった。ルソーが迷子になったと思っているのだろうか。何とかしてやりたいが、幻に立ち入る手立てなんて俺には無い。やはり消火を急ぐべきだ。
 でも放っておくにはちょっとな、とたたらを踏んでいると、愛犬を求め徘徊していた阪中の視線が、俺たちを発見し、
「あ、ルソー!」
 生き別れの家族に会えたような感嘆極まる声をあげた阪中は、俺を見ていない。
 俺の後ろの古泉を溶かしそうなほど熱烈な視線で見つめていた。
「……お前、誰かからルソーって呼ばれてたっけ?」
「……その類のハイソなあだ名はつけられた覚えが無いですね」
「ルソー! 会いたかったの!」
 がばっと古泉に抱きつく阪中。中腰だったせいで受け止めきれず、古泉は押し倒される格好となった。
「落ち着いてください阪中さん。僕は古泉です。SOS団所属の古泉一樹ですよ。犬ではなく人間です。ほら、依然お宅にお邪魔させていただいた」
 珍しく狼狽して早口になっている古泉に、しかし阪中は容赦無い。
「もう、すぐ走っていっちゃうんだから。いつもはしゃぎすぎちゃだめっていってるのね」
 泡立てたチョコクリームのように柔い声で古泉の喉元をくすぐり倒す。片方の手は、ワイシャツの胸元をまさぐっていた。阪中にはふさふさの毛が見えているんだろうが、こっちからしたら扇情的な情景にしか見えん。
 羨ましいんだか同情すればいいんだかわからない状態の古泉は、ただ必死に、
「あの、阪中さん、とりあえず手をどけましょう。何でしたら僕が犬でも構いません。フリスビーでもドッグフードでも噛んでみせますので、今はとりあえず手を」
「どうしたのルソー、そんな嬉しそうな声出しちゃって。首が気持ち良いの? ならもっとくすぐってあげるからね、もう勝手にどっかいっちゃだめなのよ」
 完全に逆効果だ。阪中の指は多足類のごとく古泉の首から胸にかけて動き回っている。女郎百足。
「……後生ですから助けていただけませんでしょうか」
 最早されるがままの古泉は、とうとう俺に助けを求めてきた。こんな状況はそう滅多にない。せっかくだし条件をつけてやろう。
「今度俺がハルヒに何かされそうになったら、ちゃんと助けると誓え」
「わかりました、涼宮さんにかけて誓います。誓いますから彼女をどうか」
 ちょっとは上から圧し掛かられる方の気持ちがわかったか。想像力は大切だぜ。
「ほら阪中、ルソーが苦しそうだからちょっと離れような」
 阪中の両脇に腕をさしこんで、古泉から引き離す。木にしがみつくカブトムシの足を傷つけないように引き剥がす感じだ。
 自由になった古泉はふらつきながらも立ち上がり、
「今のは参りましたね。数年前に神人に掴みかかられたとき以来、最も危険な……」
 人心地ついた古泉には申し訳ないのだが、阪中の抵抗が予想以上で、台詞が終わるまで抑えていられそうにない。
「やだー! ルソーがまたどっかいっちゃう!」
 束縛を脱した阪中の両腕が古泉の顔の下、ちょうど首の部分に巻き付いて、
「行かないで! 行っちゃダメなのね!!」
 二匹の蛇のように締め上げている。まるでサスペンス劇場だ。こちらからは古泉の顔色を確認できないが、阪中の腕を必死にタップしている様から見て青白くなっているであろうという類推は間違えようも無く真であり、俺は友人同士の殺し合いを見過ごすわけにもいかず必死で叫ぶ。
「ストップ阪中! ルソーがっていうか古泉が死んじまう!」
「え……うそ。る、ルソー死んじゃやだーっ!」
「うそうそ死なないルソー死なないから! 安心しろ手を離せ! それ以上力を込めたらマジやばいから!」
 阪中が腕を解いたのは、俺の説得が成功したからではなく、自分の頬に流れる涙を拭うためだった。その隙に阪中を古泉から遠ざける。
 古泉は難破船から命からがら脱出した水夫のように上体を折り曲げてごほごほと咳き込んでいた。
 嫌なデジャヴが脳裏を走り抜ける。
「はぁ、はぁ、こ、これは、数年前に神人に掴みかかられたとき以上に危険な状況でした。まさか阪中さんに息の根を止められそうになるとは、人生何が起こるかわからないというのは本当らしいですね。身を持って思い知らされました。あなたがいなかったらと思うだけで、背筋が凍ってしまいそうです」
「それはいいんだが……古泉、何ともないのか」
 お前、今思いっきり煙を吸い込んでたぞ。
 古泉は言われてから気付いたらしく、背後から矢で射抜かれたかの如く目を見開き、そして楽しい思い出ばかりの走馬灯を夢見るような穏やかさで空を見上げると、
「……駄目なようですね。さっきまでちらついていた幻が現実と入れ替わっています」
 真昼を過ぎたばかりの空は、南中しそうな太陽と群雲しか見当たらない。
「神人の頂点に立つ神王が現れました。大きさは神人のおよそ十倍。わかりやすく角が生えています」
 新設定が出てきてしまった。インフレするキャラクター。僕が考えた超人みたいに安易なのが気に掛かる。
 残念ながら手遅れらしき古泉は、俺に向かって敬礼すると、
「平和のため地球のため涼宮さんのために、僕は奴と戦わなければなりません。今度こそ、生きて帰ってはこれないかも……、いえ、帰ってきます。SOS団副団長である僕は、必ず帰ってきます。そう、皆さんに伝えておいてください」
 敬礼を解いた古泉は、止める暇も無く、真っ直ぐに走り出し、
「あ、おい古泉! どこに行って…………おい、階段だぞ。そこ階段だからな、ちゃんと足元を見」
「神王め! この攻撃を受け止められるものならああああぁぁぁぁ…………」
「ろよって古泉? 古泉ぃ!?」
 グラウンドへ続く斜面に消えていくというかあいつ落ちてるじゃねえか!
 俺もまた阪中を離し、悠長な事はしていられないので息を止めたまま階段へとひた走る。大怪我した古泉の姿を見つける覚悟で、下を覗き込んだ。
「ふ、やりますね。さすがはボスキャラです。格が違う、というわけですか。しかし! 僕の勇気はこれしきのことでは折れません!」
 ピンピンしていた。
 階段ではなく草の茂った斜面そのものを転がったのが幸いしたらしい。白いワイシャツは田んぼにでも落っこちたような有様だが、跳ね回っている姿は怪我なんて負っているようにも見えない。
「仲間達の願いが、僕に無限の力を与えてくれる!!」
 どっと疲れた俺にこそ無限の力を分けて欲しい。
 本人にしか見えない巨人を追いかけてグラウンド脇から山道の奥へと消えて行った古泉は放っておいて、心なしか秒単位で重くなっていく体を引き摺りつつ阪中の下へ戻る。
「ルソーは? ルソーどこいっちゃったの?」
「悪の親玉と戦ってるんだ。そっとしておいてやろう」
 キョトンと指を唇にそえていた阪中は、俺の顔を造形の隅々まで観察し、
「じゃあ、あなたがルソー?」
 どうしてそうなるのだろう。
「ふふ、なぁんだ、ここにもいたんだねルソー。可愛いルソー、あたしのルソー」
 蠢く指が俺の首元に迫る。まずい。古泉みたいに襲われるのはごめんだ。俺の上に乗っかる奴なんざハルヒだけでも持て余すってのに。ちなみに変な暗喩ではなく文字通り俺の上に圧し掛かって暴力を働いてくる奴のことだ。
 ともかく今は時間が無いんだ。身代わり、身代わりを探さなくては。俺の代わりにルソー役を引き受けてくれるできれば犬面でくすぐりに強く懐の広いナイスガイ。
「わおーーん」
 丁度良すぎる奴が、目の前を通り過ぎていった。
「阪中、あれだ! あれがルソーだ! 俺より全然犬っぽいだろ、な? あいつだよあいつ!」
 犬の着ぐるみを着て、四つんばいで歩いている国木田を指差した。
 あいつ、煙を吸って自分が犬だと思い込んでいるらしく、たまにわうわうと吠えている。神の巡り合わせといって差し支えない。さすが国木田、こんな時にでも頼りになるぜ。
「え? でもルソーって、あんな色じゃない……」
 それを言うなら俺も古泉もあそこまで真っ白じゃねえよ。
「そうか? 本当にそうかな? ほら、ぼやぼやしてると行っちまうぞ。ルソーが行っちまうぞ。早く追いかけないといなくなっちまうぞー」
 変なところで現実との接点を保っている阪中の耳元で囁き思考を誘導してやると、次第に不安になってきたのか、俺と国木田を交互に見はじめ、
「……待つのねルソー!」
 ようやく国木田の元へ向かってくれた。
「ルソー!」
「きゃうんっ」
 阪中に飛びつかれて裏返る国木田。阪中は自分の腰よりも太い首を早速撫で回している。
「可愛い可愛いの」
「くぅーん」
 犬になりきっている国木田にとって、触られるのは嬉しいらしく、心地良さそうな鳴き声をあげていた。これがウィン・ウィンの関係ってやつだな。
 よし、これにて一件落着、と。
 思った途端に、視界が闇に覆われた。
 昼なのに暗い。自分がどこにいるのかわからなくなった。
 いや、ここがどこなのかはわかる。
 でも暗いのは去年の春に過ぎた過去で、俺は今ハルヒと二人っきりじゃない。一人で何かを。消火器を。
 探さなくては。
「……このっ!」
 声を出して意識をクリアにしてから、さらに自分の頭をどついた。遠ざかっていた風景の明度が戻ってくる。
 さっき走った時、大分煙を吸ってしまったらしい。俺にもあんまり時間が残されていないようだ。
 せめてあの火の玉だけは消しとかないと、万が一どこかに燃え移ったりしたら大惨事になってしまうかもしれない。
 俺しかいない。俺が何とかしないと。
 ちっとも楽しくない想像に励まされ、俺は校舎に向かう歩みを再開した。


  


 校舎の中に入る寸前、俺たちの屋台の裏で朝比奈さんが座り込んでいるのを発見した。
「朝比奈さん!」
 まさか具合が悪いのでは、と心配になって声を掛けたのだが、
「…………」
 無視されてしまった。
 朝比奈さんに無視されるというのは紛れも無く初めての経験であり、精神的な衝撃はこれまでハルヒに浴びせられてきたどのような罵詈雑言を合わせたよりも強く、さながら戦車砲と同等の威力を持っていたと評して些かの過分もないぐらいで、自分でも驚くほど脈拍が不規則になっているのを自覚するにつけ、ああ俺って結構ナイーブなんだなと自己を客観視する事で朝比奈さんに無視されたのは第三者であると恣意的に誤認するという遠回りな逃避行動を取ってしまうぐらいとにかく俺は傷ついていた。
 だがしかし、無視されたまま引き下がるわけにはいかない。間違いだと信じたい。めげずにもう一度、
「朝比奈さん、大丈夫ですか?」
「…………」
 またしても無視。
 端的に言うと俺は甚だしく傷ついていた。
 本当に泣いてしまいそうになりつつ、後ろから声をかけたのがいけないんだという一縷の希望に縋り、朝比奈さんの正面に移動すると、地面に野球の球がすっぽりと入りそうな穴が作られているのを見つけた。
 朝比奈さんの手にはプラスチックのスプーンが握られており、ほじられたばかりの土がこじんまりとした山を作っている。
「……あの、何やってるんですか?」
「穴を掘っています」
 答えてくれた!
 それだけで飛び上がってしまいそうなほど嬉しい。これがギャップの良さってやつか。違う気もするけど。
 調子付いて、俺はさらに質問を重ねる。
「どうして穴を掘ってるんですか?」
「落とします」
 朝比奈さんは真剣な顔で穴を広げつつ答える。落とすというのはつまり、この穴は落とし穴だということだろう。
 残念だが、朝比奈さんも煙にやられてしまっているなと断じた上で、一応聞いてみる。
「へぇー。何を落とすんですか?」
「キョンくん」
 ……え、俺?
「三年後ぐらいのキョンくんが、ここを通ったときに落ちる用の穴です。未来のあたしの元に落ちてくるんですよ」
 それ落とし穴っていうかワームホールですよね。
 俺の声を今度はまた黙殺して、穴を掘り進めていく朝比奈さん。しかし、この辺の土は元々柔らかい土ではないため、ついにスプーンの方が持たずに折れてしまった。
 しばらく折れたスプーンを凝視していた朝比奈さんは、いきなり両手で顔を覆うと、
「恐ろしい、あたしは自分が恐ろしいです。こんな穴に落ちたら、キョンくん途中で摩擦係数の関係で燃え尽きてしまいます」
 いや、燃えないですよ。
「燃えます! あなたにキョンくんの何がわかるんでしゅか!! キョンくんはすぐ燃えちゃうタイプです! 常に湿らせておかないといけないんです!」
「ご、ごめんなさい」
 俺の顔を可愛らしく怒ったままで見上げていた朝比奈さんは、スカートの中から新しいスプーンを取り出すと、また地面をほじくりはじめ、
「でもいいです。落とします。灰になったキョンくんを、未来で撒くんです。そしたらキョンくん一杯できます。毎月十五日が収穫の日なんです。一人頭一万円で売れば、あたし夢の印税生活です」
 それ印税って言いませんよ。あと俺すごいリーズナブル。
「千個に一個は金のキョンくんが取れて、それは好事家の間で時価二億円で取引されます。将来的には国連のシンボルにもなります」
 金色の俺すげえ。
 しかし未来の俺の価値が大高騰したところで現在の俺の小遣いが増えるわけもなく、生前は貧乏暮らしだったというゴッホもこんな心境だったのかもしれないと勝手な共感を抱いていると、またしても目眩が襲ってきた。
 夜と昼が渾然一体となって網膜に投射され、錯覚の海を泳いでいるような気分が俺を襲う。こんな、フィルムを重ねたように二つにぶれた景色をいつまでも見てたら、それこそおかしくなっちまいそうだ。
 あえて目を瞑り、視覚以外の感覚を頼りに、俺は立ち上がって、
「すいません朝比奈さん。俺、もう行かないと。後で迎えに来ますから、ここから動かないでくださいね」
「はい。目標深度まであと百九十九メートルとちょっとです。予断を許さない状況ですが、あたしは最後まで頑張りますです。どうぞ、ボブは早くこの星から脱出してください」
 落とし穴にしては殺意の感じられる深さだし、場面設定が最早よくわからないのだが、ともあれここで穴を掘り続けているだけなら朝比奈さんは安全だろう。
 今は出来るだけ早く、早く、
 ……何をするんだっけ。
 …………野球?
「いやいや、何で野球なんだよ。消火だろ消火」
 野球はもう去年やった。しっかりしろ俺。この年で老人ホームに入りたいのか。
 頬を叩いて意識を現実に戻し、目を開くとちゃんと昼になっているのを確認して、朝比奈さんの元を離れた俺は、校舎の中に潜り込んだ。


  


 校舎の中に入っても、お祭り騒ぎが止む気配は無かった。
 そりゃそうか。玄関も窓も開きっぱなしにしてあるんだから、ここにだって煙が入って来るのは当たり前のことだ。階上の様子はわからないが、少なくとも一階はアウトだな。
 しかし、ろくすっぽ喧騒に耳を傾ける余裕すらないぐらい、俺の頭もまたかなりのカーニバル状態になってしまっているらしい。
 まばたきをする度、電灯のスイッチを一定間隔で点けたり消したりしているように、騒音の昼と無音の夜とが交互に切り替わる。昼の方は現実で、夜の方は正確に言うと夜ではなくハルヒが去年の春に作り出した閉鎖空間で、つまりは過去の幻影なのだろう。だが今や現実も過去もすっかり混ざってモノクロの渦巻きが引き起こす錯視のように境界がぼやけ、どっちがどっちだと聞かれては正直答えられる自信が無い。
 さっき古泉が、幻と現実が入れ替わるとか言っていたが、なるほどこういう事か。
 壁に手をつきながら、消火器の在り処を探っていく。長門に助けを求めるという選択肢もあったのだが、よく考えたら俺は調理部が出店している教室がどこなのかまるで知らなかった。自分たちの事でいっぱいいっぱいだったからな。他の模擬店の場所なんてチェックする暇があるはずもなく。
 誰かとぶつかったり誰かにつまずいたりしながら、俺は歩き回るしかなかった。
「おにいちゃん」
 気付けば、壁を伝っていたはずの手に、誰かの手が握られていた。
 お兄ちゃんというからには、俺の妹なのだろう。手の感触にも覚えがある。しかし俺の妹は俺をお兄ちゃんとは呼ばないので、この妹は多分過去の妹なのだ。
「もう帰ろうよー。あたしつかれたよー」
 さっきまで昼と夜しか無かったってのに、急に夕方がやってきた。歩いているのはどこかの土の上だ。母親の実家を訪ねている。勝手について来た妹を連れてそこいらを探検して回っていたんだった。こいつはまだバッタの子供のように小さくてスタミナがすぐにガス欠を起こすから、まだまだこれからって感じの俺は少し鼻白んだ。
「おなかすいたよー。眠いよー。ねえ帰ろうよー」
「うるさいな。帰りたきゃ一人で帰ればいいだろ」
「やー! 一緒に帰る!」
 その場に座り込んで足をバタバタと揺らしてぐずりはじめる。こうなったらテコでも集積用のクレーンでもこいつは動かせない。俺はため息をついて、
「ったく、わかったよ。行くぞほら」
「うんっ」
 調子のいい返事だ。俺は逆に引っ張られながら、けもの道を降りていく。
 やがて舗装された道路に出ると、まとわりついていた草の匂いが無くなって、遊びの時間は終わったんだなと実感する。田舎には自分の家にはない山だの森だの川だの海だのが昭和の世の中かと疑ってしまうぐらいてんこ盛りだが、この家路につこうとする瞬間だけは、いつの時代のどこだろうと、同じ匂いがするのではないだろうか。
 そんな感傷的な話を妹にしてもわからないだろうし、俺は黙って歩き続ける。
 大きな階段の前まで来て、立ち止まった。上は神社だったような気がする。かくれんぼするには絶好の場所だった。
「おにいちゃんどうしたの? はやく帰ろうよ」
「いや」
 眠そうに目を擦りながら帰宅を促す妹に、俺はかぶりをふった。
「俺はやっぱり、もう少し遊んでからにする」
 今日は年に一度の文化祭だ。帰るにはまだ早すぎるだろう。
 屈みこんだ俺は、妹が肩から提げたポーチを開き、プログラム冊子を取り出して模擬店の場所が記された地図のページを開く。
「長門のこと、覚えてるか?」
 妹は昨日食べた朝食のメニューを思い出そうとするかのように数秒悩んだあと、
「……有希?」
「そうだ。長門有希」
 俺は自分でも読み取れない地図の一点を指差し、
「お前はここ、長門のところに行って留守番だ。腹が減ったって言ってただろ? ここならちゃんと飯も食わせてもらえるぞ」
 確か、そんな話を聞いた気がする。ハヤシライスが美味いらしいぜ。
「んー……」
 ぼんやりとしつつ不安げな妹の背中を押して、階段を一段上らせる。
「ほら、行った行った。俺も後で迎えにいくから」
 家に帰るのはそれからでも遅くはないさ。
 妹は俺の顔と階段の先、どちらを取るか逡巡していたが、やがておずおずと、
「……うん。でも、はやく来てね」
「ああ。すぐだよ」
 二階へ続く階段を駆け上がっていった。
 俺は水道の近くで倒れていた消火器を担ぎ上げ、元来た道を戻っていく。
 時たま現れる顔色の悪い巨人に見つめられながら、土のような草のようなリノリウムのようなアスファルトのような砂漠のような海岸のような道を、俺は歩く。


  

 
 体育館裏に戻ると、少しだけ収縮した炎の塊は、それでもなお性懲りも無く燃え盛っていた。
 イチョウの木にヘッドバットでもかましたかのような鏡餅そっくりのたんこぶを額に作って伸びている男を跨いでから、俺は炎と対峙する。
 辺りはすっかり灰色なのに、炎の周りだけが目に痛いほどやけに明るい。映画館でたまたま隣に座った奴が落涙すべき場面でこれでもかというぐらい爆笑しているような、ちぐはぐ極まる状況だった。
 以前の閉鎖空間にはこんなもの無かったはずだから、俺はこいつを消さなくてはならないのだ。巨人から逃げるのは、その後でいい。
 おぼつかない指先で黄色い栓を引き抜いて、いつか避難訓練で習ったのを思い出しながら、ホースをはずし炎に向ける。固いレバーを握りんだ。派手な音を立てながら消化剤の瀑布が撒き散らされ、濃霧のように視界を覆っていく。
 思っていた以上の勢いに面食らいながらも、ゆっくりと後退しつつ激しくうねるホースを炎に向け続けることきっかり十五秒。空になった消火器を捨てて、白い煙の先を見据える。
 赤い色がちらついていた。
 確実に小さくなっているが、手持ち花火をありったけ集めて燃やしたような炎は執拗に地面を舐めあげ続けている。もう一本消火器を持ってくればよかったな、と後悔しても遅い。俺はその場に腰を下ろした。
 巨人が校舎を壊しているが、そう言えば一緒に逃げるはずのハルヒもいないし、炎だって消えないなんて、ひどく中途半端な気持ちだ。
 次にどう行動すればいいのかわからず、途方に暮れていると、
「邪魔。どきなさい」
 座り込んだ俺の背後に、消火器を持ったハルヒが立っていた。
 獲物を追い詰めるマタギのように鋭い双眸で睨まれ、俺がその場から離れると、再び消化剤が炎を白く埋めていく。いよいよ小さくなった火を、ハルヒはとどめに消火器の底で叩きまくって、完全に鎮火してみせた。
 ハルヒが放った消火器がころころと転がって、俺がさっき捨てた方の消火器とぶつかり、一度だけ高い金属音を奏でた。ソロかアンサンブルか。
 音が消えるまで消火器の行く末を見届けていたハルヒは、興味が失せたように視線を外すと、粉まみれになった燃えカスすらも即座に思慮の外に置き、体育館越しに校舎を仰ぎ見ながら、
「キョン、何かでかいのがいる」
 期待と不安と恐怖と歓喜のミックスジュースを飲み下した直後の声色で、俺に言った。
 もう昼になる様子は無い。やっとはっきりした。去年ハルヒが作り出した閉鎖空間に、俺たちはいるのだ。
 ならば。
 火が消えたんなら、次にやることはもう決まっている。
 俺は立ち尽くしているハルヒの手を取って、走りだす。


  


 鬱蒼とした青い森にすら見えかねない数の神人が校舎を解体していくのを、俺とハルヒはグラウンド、二百メートルトラックの真ん中から眺めていた。それが現実でないとどこかでわかっているのかもしれない。夏に咲く花火でも観賞しているかのように、俺たちは暢気だ。
「あたし、前もこんな夢を見た気がする」
「俺もそんな気がする」
 口かさが無くなっていた。こいつに何を言っていいのか悪いのか、判断がつかない。
「ホントに? あんたもこの夢見たの?」
 手を繋いだまま、顔だけこちらに向けて聞いてくるハルヒ。
「すまん。嘘だ」
「……そう」
 ハルヒはさしたる感情のうねりも見せなかった。これでよかったのだろうか。でも誤魔化さなきゃいけないんだよな。
 だったよな? 長門、古泉、朝比奈さん。
「そろそろ飽きてきたわね」
 校舎解体ショーを目に映しながら、ハルヒは心底つまらなさそうに言った。
「味気ないわ。壊すだけなんて、全然つまんない。色も気に食わないわね。灰色なんて雲の中にいるみたいで趣味が悪いし、大体ね、あたしは昔からこういう色の雨雲が好きじゃないのよ。外で遊べなくなる前兆だったから」
「遊ぶ約束してる時とかに降られると、腹が立つよな」
「でしょ? やり場の無いあの感情がたまんなく嫌なのよね」
 繋いでいた手を離すと、ハルヒは自分の髪を泡立てるようにかき回し、
「ああもう! 考えれば考えるほど我慢できなくなってきたじゃない! キョン、さっさと出るわよ、こんなとこ」
 俺は、この一年と半分の積み重ねがこいつにとって無駄では無かったのだと、改めて思い知った。
 違うのだ。去年とは違う。何もかもが違っていた。こいつはきっとあんな傍迷惑の塊のような巨人を望んじゃいないだろうし、だからこそ俺が何もしなくたって、この世界はすぐに破綻するだろう。さっきまでと同じ、いつもの普通じゃない日常が戻ってくる。それがこいつの望みであり、俺たちの望みでもあった。
 なら今すぐにでも帰るとしようか。反対票を入れる奴なんて誰一人としていやしないぜ。
 だけど。
 今はここに俺とハルヒだけがいて、せっかく世界は閉じているのだから。
 もしもこの幻に意味があるとしたら。
「その前に少しだけ」
 口火を切ったのはハルヒだ。乾いた泥のような灰色の幻の中で俺たちは向かい合う。
「キョン。あたし、あんたに前々からどうしても言いたいことがあったのよ」
「俺も、お前には普段から色々と言いたいことがある」
 腐れ縁の共鳴か、はたまた綺麗にシンクロニシティとでも表現しようか、きっと俺とこいつは同じようなことを考えている。確信があった。
「でも、今言うべきことは、多分一つだけだ」
 曇りもせず晴れてもいないハルヒの顔は、ただただ俺に挑みかかるような色に満ちていた。
 自分の顔がどうなっているのか、ハルヒの瞳越しに確認しようとしたが、ダメだ、さすがに暗すぎる。だけどきっと、二人とも似たような顔をしているに違いない。間違いない。
 なぜなら俺は、俺とハルヒには、
「ハルヒ……」
「キョン……」
 目が覚めれば消えてしまう夢の中だからこそ、言わなくてはならない言葉があるのだから。
 すなわち、





「「いい加減お前(あんた)から告って来いよ(来なさいよ)このツンデレがっ!!」」





 どこまでも他力本願な言葉と同時に繰り出された俺とハルヒの拳は光速に少し届かないぐらいの速さで火花を散し交錯し、かくして新たなる戦いの幕が今ここに















  


「んぅ……キョンくんおそいー…………すぅ」
「なぁーんか外が騒がしいなぁ。もう、妹ちゃんが起きちゃうじゃないかっ」
「皆さん羽目を外していらっしゃるんじゃないでしょうか。折角のお祭りですし……あ、すみません、おかわり下さい。領収証は生徒会名義で」
「私も、おかわり」