自らの妹の手で致命傷とも言える精神的打撃を被り窓から飛び降りようとしたヒステリックカエルを巡っての悶着が一段落した後、一緒に来たという友達の元へと舞い戻る妹を見送って、俺たちもまたすごすごと屋台に戻った。もちろんカエルは脱皮済みだ。あれを着る事は金輪際ないだろう。俺にとっての禁則事項がまた一つ増えた形になる。
「あ、お帰りなさい二人とも。どうでしたか?」
 長門とコミュニケーションを交わしあぐねていたらしい朝比奈さんが、どことなく安堵の色を浮かべつつ尋ねてくる。
「ダメね。校内戦略に関しては、向こうに一日の長があることを認めないといけないみたい」
 ハルヒは答え、向かいの生徒会側に目を走らせた。俺もそれに倣う。屋台の前には子供連れの女性と、大学生風の男二人組み。国木田がぶら下げたキャッチーな地図を見てやってきたのだろう。この分じゃ、あちらさんの客足はまだまだ順調だな。
「あたし達が出てた間、お客の入りは?」
「えっと、朝とは違って、お客さんは来てくれるようになりましたけど、その、生徒会の方には、もっと沢山来てたみたいです」
「となると、みくるちゃんで稼いだ分はすでに相殺されたと考えるべき、か。ふん、あまり良い状況とは言えないわね」
 赤信号を目にした闘牛のように鼻息を一吹きしたハルヒは、思案顔で腕を組み、
「やっぱり今回もバニーで攻めるべき……いや、いっそ水着とか、もっとインパクトのあるコスチュームでもいいかしら。ヒモ的な感じの」
「やめとけよ。また説教されたいのかお前は」
 大体、お前はともかくとしても、けったいな格好を強制される朝比奈さんが可哀想だろ。下手したら風邪引いちまいそうだし。今年の秋風邪は性質が悪いって話だ。肌ぐらいきちんと隠そうぜ。
 諌める俺に対し、ハルヒは目の形を突き刺すような三角にして、
「何よ。あんたそこまで言うからには、その年中干ばつ頭に良い代案の一つや二つぐらい浮かんでるんでしょうね?」
 悪いけどさっぱり。あと干ばつ頭ってどういう意味だよ。
「干上がった魚たち同様、あんたの脳みそも可哀想ってこと…………あ、古泉くん! おーーい! こっちよこっち!」
 すごい罵詈雑言を吐いてる途中で俺から視線を外したハルヒが、数年ぶりに集まった同窓会の幹事のように呼びかけると、背後から昨日ぶりの懐かしさもクソも感じない声が聞こえてきた。 
「遅れてしまって申し訳ありません。思っていた以上に忙しかったものですから、なかなか抜けられなくて」
 着替える暇も無かったのか、黒いベストに白の前掛けというギャルソン的出で立ちの古泉は、例によって毒にも薬にもならない笑顔を浮かべつつ、
「いかがです? 売り上げのほうは」
「生徒会に押され気味ね。今のところは」
「……押され気味、ですか。興味深い表現ですね」
 頷きながら、今度は苦笑する古泉。ハルヒが本気で生徒会と張り合っている事に気付いたのだろう。察しが早くて助かるね。
「それで、古泉くん。来て早々悪いんだけど、すぐお客の呼び込みに行ってくれない? 男共はこのさい無視していいから、女性を中心に声を掛けてきて欲しいの」
 さっきはあぶれた男をターゲットにするとか言ってたくせに、調子のいい戦略家だ。もっとも、古泉に声を掛けられて喜ぶ男なんていやしないだろうし、上策には違いないのだが。
 古泉は紡錘で結われたように目を細めると、
「ええ、もちろん構いません。遅れた分もありますからね、どうぞ好きに使ってやってください」
 きっかり四十五度の角度で一礼を返し、何故か俺にまで目礼を向けてから、人通りの中へと潜り込んでいく。
 夜の森に明かりが投げ込まれたような勢いで薮蚊の如く飛びついてきたケバったい姉ちゃん達に笑顔で対応する古泉を眺めながら、俺はハルヒに尋ねた。
「なあ、あいつには着ぐるみ着せないでいいのか」
「古泉くんはあれで十分イケてるからいいの」
 人は見た目が九割。
 カエルとセット売りにされても、一割の隙に入り込めない奴だっているんだケロ。


  


 俺たちの屋台は再び隆盛の時を迎えようとしていた。 
 理由は、そうだな。時計を見てもらえればすぐにわかるだろう。十一時も半分を切った時間。つまり、単に昼が近づいてきたため、食に対する需要が増加しただけの話なのだ。歩きながら軽くつまめる程度の菓子類では満足できなくなった人々が校舎内の軽食店に大勢が詰めかけ、そこに入れなかった一部の人が、俺たちが出すような場末の屋台に流れてくるって寸法さ。加えて古泉のプロモーション活動も存分に効果を発揮しており、基本男しかいなかった客層が一気にその幅を広めたのも確かだ。
 もちろん、対する生徒会側も状況は似たり寄ったりで、うちと同様に十分繁盛していた。詳しくはわからないが、見た感じ販売状況は五分五分ってとこか。
 この分だと両者の販売競争は一進一退の様相を呈し、泥仕合にもつれ込む…………んじゃなかろうか、と俺は個人的に思っていたのだが。
 最初に異変に気付いたのは、やはりハルヒだった。
「キョン」
「ん、どうした?」
 客も途切れはじめ、一休みしていた俺の袖を引っ張ってきたハルヒは、何故だか奥歯に物が挟まったようなスッキリしない表情を浮かべていた。
「ちょっと向こうのお客を見てよ。何かに気付かない?」
 示されるがまま、対岸の生徒会プロデュースの屋台に視線を伸ばす。
「別に、おかしい所は見当たらないな」
 屋台には会長はじめ店員が詰めており、今現在の客足はうちと同様に小康状態、と思ったんだが、あっちの客足は途絶える様子を見せていない。かと言って、特別不自然な点を発見することはできなかった。ハルヒがわざわざこんな物言いをするぐらいだから何かあるのかもしれないが、俺にはどの辺がダウトなのかまるでわからない。
「もう、あんたはほんと節穴ね。むしろナナフシと言っても過言ではないわ。デコピンで足とかポロポロ取れちゃうの」
 いや、その揶揄は全然意味がわからん。
「あ、ほら、ちょうどいいのが来た。今注文してるあの二人組み。あんた見覚えない?」
 急かす様に背中を叩かれ、会長に向かってカレーを注文していると思しき他校の女子二人組みに注目する。つっても、やはり妙な所なんて見当たらないんだが。会長の面に釣られて来る女子生徒なんて、今までそれこそ掃いて捨てるほどいたわけで……
「……? あの二人、さっきもカレー買いに来てなかったか?」
「そう、それよ!」
 どうやら正解を引き当てたらしい。ハルヒは指を景気良く鳴らす。
 確信を得てからよくよく二人を観察してみると、やはり間違いない。朝、俺がカレーを湯煎してた時に見かけた二人組みだ。あれは多分九時をちょっと過ぎたぐらいだったから、まだ二時間しか経っていない計算になる。いくら成長期だからと言って、そんな短時間で腹が減るものか? よしんば稀に見る大食いペアだったとしても、振る舞いから察するに年相応の恥じらいはあって然るべきだ。間違っても会長がいる屋台で二度も食い物を買ったりはしないだろう。
「あの二人だけじゃないわ。今さっきまで並んでた男子も、あっちのベンチで食べてる子も。前に一度買って行ったはずのお客が、なぜかまた買いに来てるのよ。これって変じゃない?」
「ああ、言われてみれば」
 しかし、ということは、何だ? あいつら全員サクラなのか?
「かもしれない。でも、あれでサクラだとしたら、よっぽど演技力のある連中が揃ってるわ。だってあの二人組みなんか、最初に買って行った時はどう見てもただの通りすがりにしか見えなかったし、妙な様子も無かった。他の人たちも同じ。多分だけど、他に秘密があるって考える方が自然よね」
「秘密か……確かに、偶然と言われても腑に落ちないな。味だってうちと同じレトルトだ。一日に二回も食いたくなるほど上等なものじゃない」
「でしょう? これは調べてみないといけないわね」
 夜光虫のように妖しげな光を瞳に宿したハルヒは、止める間もなく何処かへと走り去っていく。
 ぼちぼち訪れる客の対応をしながら待つこと数分。戻ってきたハルヒの手には、生徒会製と思しきカレーがしっかりと握られていた。
「相手方のカレーをゲットしてきたわ」
 買ってきたのか? にしては姿が見えなかったけど。
「んなわけないでしょ。なんでわざわざこのあたしが敵の売り上げに貢献しなきゃなんないの。さっきの二人組みからありがたく頂いてきたのよ」
「今すぐ返して来い!」
 さっきの朝比奈さんの衣装も結果的にかっぱらってきていたわけだし、釈迦に説法とは正にこれを言うのかもしれないが。手遅れという意味で。
「ちゃんと代金は払ったわよ。定価以上にね。でも、その割にはえらい渋られたわ。二回も買いに行った理由を聞いてもみたんだけどね、あの子たち何て答えたと思う?」
「わからん。変なところで気を持たせてないで、さくっと教えてくれ」
 ちょっとは考えたりしなさいよ興醒めね、なんて聞こえてきそうなため息を吐いたハルヒは、
「お腹すいてたからでも美味しかったからでもなく、何となく、だってさ。わけわかんないでしょ。やっぱり嘘をついてる風でもなかったし。何となく、ね。世の中にこれほど厄介な言葉があったなんて、あたしは今日はじめて知ったわよ。晩御飯何にするって聞いて、何でもいいって答えられた時とどっちが厄介なのかしら」
 言いながら、うちと同じ形の容器を開くと、水草を探るヘラジカのように鼻を動かす。
「匂いは普通。味の方はどうかしら」
 備え付けのプラスチック製スプーンを手に、カレーを口に運ぼうとする。
「私に」
 その腕を、長門の声が押し止めた。
「私に、食べさせてほしい」
 ただでさえ狭い屋台だ。広報として店の前に出ている朝比奈さんと古泉はともかく、すぐ傍にいた長門は話を聞いていたのだろう。ハルヒはさして驚きもせず、
「別にいいけど。有希、そんなにお腹すいてたの?」
 あーん、と長門に向けてスプーンを差し出す。
 食べさせてという意味を履き違えているのは間違いないのだが、長門は一々そんな誤謬を指摘したりしない。親切すぎる電子辞書とはわけが違うのだ。素直に慎ましやかに口を開き、舌に乗せたカレーを嚥下する。
「どう、有希? 何となくお代わりしたくなる感じ?」
 ハルヒの問いかけに、長門は肯定も否定も返さず、代わりに、
「麻薬が混入されている」
 数百ページに渡って語られてきた伏線を一語の元に結びつける名探偵のように断定した。
「ま……?」
 予想外の一言に絶句する俺と、表情を引き締めたハルヒを他所に、
「正確に言うと、精神に作用する成分を宿した植物を多数用いて一定の割合で調合する事により作り出したと思われる依存性に特化したスパイスが混入されている」
「ふぅん。なるほどね、粋な手管を使ってくれるじゃない」
 ハルヒはさすが好敵手と言わんばかりに悪魔的に笑う。麻薬の使用が粋だというのなら、中東あたりのマフィア連中は大抵江戸っ子になってしまうだろう。お祭り好きという点では合っているのかも知れないが、射的限定なので同一とは言い難い。
「……いやいや、つうかだ長門。麻薬っていくらなんでもやばいだろ。あっちもそれなりの数は客入ってるし、その人たちが皆ラリっちまうとか、粋でもないし洒落にすらなっとらん」
 相当な数の患者群だ。関係者としてはどうすりゃいいんだよ。救急車が先かあっちのカレーを販売停止させるのが先か。それこそ酩酊に陥ったかのごとく混乱する俺に、いつも通りのトーンで長門は、
「幻覚作用はあるが、無視できるレベル。依存作用もそれほど持続性の強いものではなく、半日もすれば体内で自然に浄化される。害は無いに等しい」
「そうそう、あんたビビリすぎよ。正確に言うとスパイスって、物知り有希がちゃんと言ったじゃない。辛味とか香味成分とかって、普段食べてるものにも多かれ少なかれ依存性のあるものが含まれてるんだから、神経質になるこたないわ」
 余裕綽々で尻馬に乗るハルヒ。そういう問題なのか? というか一口カレーを食っただけで麻薬成分の有無を判断できる長門を物知りという言葉だけで片付けていいのか? これが噂の鈍感力とかいうやつなのだろうか。こっちとしてはその方が助かるんだけどさ。
「むしろ今問題にすべきはね、やっぱりいかにして敵との売り上げ差を縮めるかってことだけなのよ。麻薬成分自体、依存性に特化しているとは言え、効果のほどや実際に効果が現れるスパンは人によりまちまちだろうし、さしたる脅威では無いと思うんだけどね。かと言って、この拮抗状態では小さな差が分水嶺となるのも確かだし、理想としては、向こうのスパイスとやらをこっちが奪ってより強力に改良し利用するってとこかしら。有希は知識がありそうだし、ふ、自分たちが開発してしまった薬物で自らの首を絞める羽目になれば、生徒会の士気はがた落ち間違いなしじゃない」
 うわ、こいつ顔が完全に悪役だよ。
 腕組みしながら舌なめずりでもはじめそうなハルヒに、仮にも女子高生としてはそれはどうよ、と親切心から注意してやりつつ、長門の耳元でこっそりと、
「やっぱりそのスパイスって、喜緑さんが作ったものなのか?」
 長門は天秤に最小の重石を乗せたようにゆっくりと頷く。
「おそらくは」
 だよなぁ。薬物の精製技術を持ってる奴なんて、普通はいないだろうし。しかし喜緑さん、いくらなんでも大人げなさすぎるというか、何というか。
「情報制御能力を使用不可となっているが、それ以外の禁止事項は設けていない。こちらも生化学を用いて相応の準備をしておくべきだった」
「いや、そういうことじゃなくてな」
 もっとこう、一般常識に則って争って欲しいんだが。
 普段に比べて今ひとつ冷静さに欠けてしまっている長門に、紳士的な争いとはどのようなものであるか教示していたのだが、
「やっぱり、あたしが直々に敵地に乗り込んで華麗に奪い取って……」
 こちらも紳士的とは程遠いスパイス奪取計画を練っていたハルヒが、唐突に言葉を切って、あさっての方向を見やる。 
 どうしたのかと思っていると、植物っぽいものを山盛りにしたすり鉢を片手に、体育館の方から谷口が歩いてくるのが見えた。
「ススススパイスぅ〜、特製スパイスぅ〜、ごりごり混ぜて作っちゃうぜぃ〜〜っと」
 死ぬほどわかりやすい鼻歌である。
 俺とハルヒと長門は、それぞれ顔を見合わせ頷き合うと、
「確保ーーー!!」
 叫びながらも、自ら真っ先に谷口めがけて飛び掛っていくハルヒ。
 現場に慕われるタイプの上司だった。


  


 三人に迫られてあっさりスパイスの秘密をゲロった谷口に案内され、レジ係のためその場を長くは離れられない長門を残し、俺とハルヒが向かったのは人気のまったく無い体育館の裏手の一角だ。塀の傍に、小さな花壇が作られていた。以前からあったのかと問われても、こんな場所に来る事は滅多にないので記憶にないとしか言えないのだが、むしろ驚くべきはスパイスの原料が自家栽培だった点であろう。何やってんだよ喜緑さん。
「あたし、未確認生物を見たらすぐにそれとわかるように植物図鑑と動物図鑑を丸暗記してるから、大抵のものなら判別がつくんだけど……おっかしいわねー。こんな植物、図鑑に載ってたかしら」
 とは、丸っこい実を成している植物を観察しながらのハルヒの弁であるが、ひょっとしたら本当に地球上には存在し得ない植物の可能性もあるのではなかろうか。あとで長門に聞いてみようと思い、俺は一粒実をもいでポケットに忍ばせた。
 正体不明の植物に関してはあっさり自分の覚え違いだと断じ、これまた顔パスで異端審問にかけられそうな悪者面で谷口からすり鉢を奪い取ったハルヒは、ドラッグスパイス作りを自分の手で続行しようとしたのだが、俺がうっかりしたフリをしてすり鉢を叩き割ったのを機にようやっと諦めてくれたらしく、襟首をつかまれ散々シェイクされたせいでふらつく俺と、取り押さえる際には既にボロボロになっていた谷口を伴い、喧騒の中へと戻ってきた。
 時刻は既に十二時目前。店番を交代してもらっていた朝比奈さんと古泉は慌しく動き回っており、客足はそこそこに盛り返したと見えるが、まだ生徒会側に並んでいる人数の方が多い。正確な差は不明だが、このままでは確実に逃げ切られてしまうだろう。あわやSOS団、敗北の危機。
 ……なんて、本当のところどっちでもいいんじゃないかと思うんだがね、そんなもん。
「キョン、盛り付け急いで! 古泉くんもそっちに回って頂戴。こうなったらスピード勝負よスピード勝負! スリップストリームをフル活用しなさい!」
「か、カレー! 美味しいカレーはいかがですかぁー! すごく、すごく……えっと、お、美味しいですよー!」
「……まいどあり」
 賑やかな屋台は動物園の檻のようにやかましくもあり、眠る前に聞こえる静謐が籠もった夜の音のようでもある。俺も何だかんだで騒がしいのに慣れすぎたみたいだ。まったくもって嘆かわしい。
「涼宮さんが生き生きとしていらっしゃるようで、何よりです。実を言えば少し心配していたんですが、杞憂で済みそうですね。これなら勝ち負けどちらに転んでも結果はそう変わらないでしょう。次回へ続くか新シリーズ突入かといった程度で、どちらにせよ僕たちが時間外労働を迫られる事態は発生しないのではないでしょうか」
 向かいの古泉が、手を休めずに同意を求めてくる。俺は頷いてやった。
「だろうな」
「お墨付きをいただけて重畳です。ところで僕は最近、涼宮さんの機嫌についてある規則性を発見したのですが」
 息継ぎもほどほどに、古泉は頼んでもいないピザを宅配してくる幼稚な嫌がらせのように言葉を募らせ、
「規則性とはつまり、あなたが穏やかにせよそうでないにせよ、その場の状況を楽しんでいられるのなら、涼宮さんもまた同様に安定した精神状態を保っていられるのではないか、少なくとも悪し様な感情を抱く事はありえないのではないかと、そういった類のものでして。もっとも、逆もまた真なりとまでは言い難いのかもしれませんが、どうでしょう。そこそこ的を射ているのではないかと思うんですがね」
「かもしれないな」
 話が長すぎたので適当に聞き流した末に頷くと、古泉は満足したらしい。見慣れすぎて癪にも触らなくなった笑顔を浮かべている。マクドナルドでバイトすりゃいいのに。巨人相手に戦うよりはよほど楽に稼げるだろう。
「やめておきましょう。今のバイト先が、僕の天職だと思っていますので。あれほど持って生まれた才能を活かせる職場が他に見つかるとも思えません。惜しむらくは、定時が存在しないことぐらいですか」
 才は人を縛るという、良い見本がここにいる。


  


「やあ、涼宮さん。キョン、皆さんも、なかなかに忙しそうだね」
「お、佐々木か。来てたのかよ」
 屋台の横側から声をかけてきた佐々木に向かって、背後で出目金のフンのごとく連なっている焦点の合わない黒ずくめとニヤけた顔のツインテールはきっぱりとシカトして、俺は手をあげる。
「佐々木さん、丁度いいわ! お一つ買っていってよ!」
 長門と共にレジ係をやっていたハルヒが足早に駆け寄ってきて声をかけると、佐々木は勿論とばかりに微笑みかけ、
「ええ、そのつもり。実は少し前から校内を見て回っていてね、お腹も減ってきたところだったの。三人分、お願いするわ」
「おっけー。知り合い枠ってことで、特別に百円にまけたげる」
 三百円を受け取ったハルヒは、俺の手からカレーをふんだくって佐々木に渡すと、残り二人分も次々と盛り付けていく。言ってくれれば俺が勝手に渡しとくのに。
「いや、キョン。キミの手から渡されるのと涼宮さんの手から渡されるのとでは、文字通り大違いという奴さ。少しばかり触れ合うにしても、汗が滲んだ骨ばった指と、滑らかで白魚のような指と、キミならどちらを選ぶんだい? 僕なら無論後者だ。清潔そうに見えるからね。実際のばい菌の数なんて顕微鏡を使わないと確認できないが、視覚的にどちらが快か不快かという判断はつく。イメージとはかくも重大だ。もし将来キミが飲食業に携わるつもりがあるのなら、これは覚えておくといい」
 指先が不快と言われたこちらの方が不快な気分になりそうだが、佐々木は元からこういう奴だ。あと汗じゃなくて蒸気だからなこれ。湯煎してるとどうしてもこうなるんだよ。
「だからそれをイメージと言うのだよ。本質とは異なるのだ。ねえ、涼宮さん?」
「ん、まあね」
 ハルヒはもっともとばかりに頷く。お前がそんな繊細な事を考えているはずないし、どうせ適当な思いつきだってのはバレバレなんだけどな。
「それも少し、違うと思いますがね」
 人の小声にいちいちわけのわからん突っ込みを入れてくる暇な超能力者はさて置いて、これまで居ないものとして扱ってきたもう一人の超能力者が唐突に、
「佐々木さん、積もる話もあるだろうし、どうせならここで食べさせてもらいましょうよ。ちょうど使ってないパイプ椅子も転がってますし。ね、どうかしら」
 誘拐犯猛々しいこと言いやがる。佐々木はいいがお前らはそこらで体育座りでもしてろ、と言いたいところなのだが、そこまで悪辣な物言いをするとハルヒに怪訝に思われてしまいかねない。
 まごついている間に当のハルヒが、
「いいわよそれぐらい。座るとこなんてどうせ今はどこも空いてないだろうし、そこらで体育座りしてろなんて性格の悪いことはとてもじゃないけど言えないわ。どうぞ」
 何だかとても後ろめたかった。
「ふふ、どうもです」
 見透かした顔を俺に向けて笑っていた橘京子は、椅子に腰掛けて早速とばかりにカレーを食べ始める。本当に腹が減っていたらしい。佐々木も時折俺やハルヒに話題を振りながら食事を続け、そして残り一名の宇宙人と言えば、握ったスプーンをカレーに挿し入れた段階で電池が尽きたかのように中空に視線を固定させたまま微動だにしていない。
 長門がまったく平静にレジ係を続けているので、特別何をしようってわけじゃないんだろうが、こうも動かないと逆に恐ろしいな。
 座りが悪くちらちらと窺っていると、何の前触れもなく、無機質で作り物めいた瞳が、俺のそれを捉えた。
 九曜は口を開く。
「……――――エス、オー……エス――
 なつかしの歌謡曲でも口ずさんでんのかと思ったが、どうやら俺のエプロンに書かれた文字を読んだだけらしい。次いで道端の光りものを見つけたカラスのように下を向き、
「……これは――何……?」
 またしても、俺を見る。両脇のどちらかが答えるだろうとしばらく放っておいたのだが、
「もぐ、聞かれてますよ?」
 橘京子がスプーンを噛みつつ催促してくる。どうしてこいつはこう余計なことばっか言うんだ。助けを求めようにも、佐々木はただ微笑んでいるばかり。長門以外のこっちの面子は、どうやら九曜を意識していないらしい。と言うより、できないのか。
 ……しょうがないな。
「それはカレー。食い物だ」
 投げやりに教えてやると、
「…………――対応する……属性―――概念…………美味しい……もの? ……もしくは――――美味しくないもの?」
「人それぞれだろうよ」
―――――それぞれの――――――あなたは…………美味しいの? ……―――――美味しくないの?」
 さっぱり意味がわからん。まるでシャミセンあいてにニャーニャー喋ってるみたいだ。暴投だらけのキャッチボール。それでも無視するわけにはいかない空気だったので、わからないなりに考えた末、
「俺はまあ、割と美味いと思う」
 九曜はそれを聞くと、覗き込むような目をやめて、再び曖昧に視線を戻す。
 異星人とのコンタクトはこれにて終了らしい。やれやれ、ちょっとした登山にでも挑戦したような気疲れが背骨の内に溜まっちまった。
 一呼吸置いた俺は、口直しがてら、佐々木にあの性格の悪い未来人はどうしたのかという話題を振ろうとして、
「…………―――――カレー……――――全部、買うわ…………」
 しかし俺より先に、九曜がまたもすっとんきょうな発言をぶちかましていた。
「ちょ、ちょっと九曜さん、何言い出すのよ!」
 さすがに黙っていられなかったらしい橘京子が、九曜の肩に手を置いた。だが視線すら定まっていない九曜に完璧に無視され、さっきの俺のように佐々木に宛ててヘルプの視線を送る。
 佐々木は、俺の方を一瞥してから、おかしそうにくつくつと笑うと、
「いいじゃない。九曜さんが欲しいといっているんだし、橘さん、たしかお仲間が結構な数いらっしゃるんだろう? 彼らにおすそ分けすればいいさ。じゃあキョン、全部となるとさすがに悪いから、残りのカレーをほとんど僕らにくれないか。うん、そうだな、三十個ばかりでいいだろう」
 ちなみに今いる客の分を差っ引くと残りのカレーは四十六食分だ。
「さ、佐々木さんっ!」
「お代は橘さんが払ってくれるとさ」
「ええ!! しかもあたし持ちなの!?」
「資金なら潤沢にあると、以前話してくれたじゃないか。デリバリーだと思えば損でもないだろう。レトルトであることを加味しても、二百円とは割合良心的だよ」
 そうでも無いんじゃないかと思ったが、橘京子が困ってるのを見ると溜飲が下がる思いなので茶々を入れずに頷いておいた。
「う……まあ、それはそうだけど……」
 おろおろと周りを見渡しても、二重スパイがばれた間者のごとく敵地の真っ只中にありさらに数少ない味方からも四面楚歌であると状況を察したのか、渋々と財布から一万円札を取り出した。
「お釣りは全部十円玉でいいんだったよな」
「そうそう小銭が多い方がお財布が重くなってお金持ち気分に浸れるからね……ってよくないです! あたしそこまで貧乏人じゃないわ!」
 朝比奈さんの分の仕返しに軽くイジってやった。まさか自虐的なノリ突込みで返されるとは思わなかったのだが。
 やりましたよ、と屋台の前の朝比奈さんに向かって親指を立てても、
「……?」
 事情がわからないのか子ウサギのように無垢な表情で首を傾げ、それでもおずおずと親指を立て返してくださる。天女である。
 九曜の人払い能力で今までの会話が意識外であったらしきハルヒに、カレーが三十食分売れた旨を報告すると、
「え、何、うそ? マジ?」
 と目をぱちくりさせた後、佐々木が首肯するのを確認してから、わざわざ屋台の前に出るや、ゴート族を蹴散らし尽くしたクラウディウスのように踏ん反り返って、向かいの生徒会長の沈着フェイスを指差し、
「この勝負、貰ったわ!!」
 早々と勝利宣言を謳いあげた。そんなんだから歴史上の偉そうな奴は早死にするんだ。
「これはこれは。驚きの大逆転ですね」
 古泉は暢気に状況の分析結果なんぞ述べていたが、俺としては屋台の前で仁王立ちしている馬鹿娘のせいで集まる衆目の視線にとてもじゃないが耐えられず、大仰なマスコットとして地に根を張り続けようとするハルヒの肩を掴んで無理矢理引っ込ませる。
 その後、不沈艦隊を率いる海軍大佐のように喜色満面で残りのカレーパウチをすべて鍋のなかに沈めたハルヒは、不本意な散財のせいで若干肩を落とし気味の橘京子に向かって「あなたなかなか見所があるわね! うちの入団試験受けてみない?」と事情を知っている俺や古泉からしたら諧謔ここに極まれりといった誘い文句を投げかけ、カレーが温まったところで朝比奈さんも加えて盛り付け作業に入ると、用意していたゴミ袋を三つ抜き出し、途中でひっくり返らないようカレーを丁寧に詰め込んで、三人それぞれに手渡ししていった。
「ありがとう涼宮さん。いい手土産ができてよかった。今度是非、うちの学校の文化祭にも来て欲しいわ。こんなに盛大ではなく、慎ましやかで堅苦しいものだし、幾分かは退屈だろうから、それでもよければ、だけどね」
「ううん。勿論伺わせてもらうわよ。楽しみにしてるから」
 佐々木はカレー満載の袋をぶら下げたまま、空いた方の手でハルヒと握手を交わす。次いで俺の傍に立つと、
「キョン、よければキミも来てくれないか。遠いからって億劫に思わずにさ。こんな機会でもないと、キミの方から会いに来てくれることなんてないだろう。無理にとは言わないが、一方通行な友情ではいつか冷めてしまってもおかしくはあるまい。それはとても寂しい事だと、僕は思うんだがね。それともこのような危惧はキミにとって既に懐古と成り果ててしまっているのかな?」
「わかったよ。んな嫌味に近いこと言われるまでもなく、喜んでお邪魔させてもらうさ」
 そん時はせいぜいまけてくれよ。俺はどこぞの誰かみたいに資金潤沢とはいかないんでね。
「ああ、待っているよ」
 佐々木は表情を緩めて行儀の良い笑顔を見せる。そのまま他のメンツとも挨拶を交わしたあと、かくしゃくとした姿勢で校門に向かって歩いていった。
 後に続く橘京子は猫背のまま、
「はぁ、これ経費で落ちるかな……」
 愚痴ったあとで思い直したかのように顔を上げると、
「まあ、今日は楽しかったので別にいいのです。息抜きと思えばこれぐらいはね」
 古泉を一度だけ見やり、それから俺と視線を真っ向から合わせて、唇をへらで引いたように伸ばし悪戯っぽく笑う。
「ふふ、ではまたお会いしましょう。あなたとはまだ色々と、話し合いたいことがあるから」
 お前と話し合うべき議題なんて、俺には一切思い当たらないんだが。
 そして最後尾の九曜。結局こいつはカレーを一口も食おうとしなかった。そのくせ二十食も買っていくとは、どんだけセレブリティなんだ。健啖極まる長門をもうちょっとばかし見習うべきだろう。まあ、どっちみち俺の知ったこっちゃないんだが。
「スプーンつけた分ぐらいは、ちゃんと食えよ」
 すれ違いざまに一応忠告したのだが、何処かを見るとも見ていないとも言えない梅雨の日の窓ガラスみたく薄らぼんやりとした瞳のまま、反応を返すこともなく、九曜は二人の後をふらふらと追いかけていった。


  


「さて」
 ぱちん、と別れの寂寞を晴らすかのようにハルヒが手を打ち合わせる。
「これを見なさい」
 全員が集合し、ハルヒに従って鍋の中に浮いたたった一つのカレーパウチを覗き込む。
 当然、佐々木達と別れを交わしている間も客はぼちぼちやって来るわけで、今や残ったのは、たった一食分のレトルトカレーである。
「今まで来た客を全て捌き切った結果、現在残ったのはわずか一食。最後の最後まで諦めなかった我々の勝利は間近よ」
 ハルヒのシリアスな声のせいでさも重大な事柄を発表しているような雰囲気だが、実際は客がいなくなってしまったので単に時間つぶしをしているだけなのである。
 どうせあと一つなんだから、さっさと売って後片付けして一休みしたいもんなんだがね。
「わあ、凄いです。皆で努力した甲斐がありましたね!」
 とか思っていたのだが、朝比奈さんがあっけなく雰囲気に呑まれて達成感を感じていらっしゃるので、俺も追従する事にした。朝比奈さんを喜ばせるためなら、個人的な主義主張などいつでも投げ打つ覚悟が俺にはある。千変万化に粉骨砕身。
「朝比奈さん、一番頑張ってましたからね。胸を張っていいと思いますよ」
 これはお世辞ではなくマジな話。朝のコスプレもそうだが、今まで屋台の前に出て積極的に声を出していたのも朝比奈さんだ。顔もスタイルもミシュランが三ツ星の判定を躊躇無く下せそうなほど素晴らしいが、何だかんだで真面目な所が、この人の一番の魅力だと俺は思っている。
「そうかなぁ? ……うん、でも、そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとう、キョンくん」
 滅相も無い。事実ですからね。
 えへへと照れ笑いする朝比奈さんを見て、今こそが今日一番のシャッターチャンスだな、などと考えつつほっこりとした気分に浸っていたのだが、
「コラそこ!」
「ひぅっ」
 何故かハルヒに怒られた。理由はわからんがでかい声出すなよ。朝比奈さんが怯えてるだろうが。
「そういう、既に決着は着いた的な油断が命取りになるのよって話を今しようとしていたあたしの目の前で、既に決着は着いた的な会話を交わすなんて、何て無神経なの! バカキョンは馬鹿だからともかく、みくるちゃんまで一緒になって!」
 いや、お前さっき誰よりも早く勝利宣言してたじゃないか。
「あれは油断してなかったからいいのよ。まるで放たれる寸前の弓のように張り詰めてたでしょ? 容易く論破される程度の粗末な揚げ足取りはやめなさい。かえってみっともないわよ」
 掃除した直後に見つけた埃のように出所不明かつこっちをやるせなくさせる自信は相変わらずだ。あと論破もされてないし。
 俺は肩を竦めただけで、今更反抗しようとも思わなかったのだが、万が一剣呑な様相を呈する場合を考えたのか、古泉が機先を制するようにハルヒに向けて注進する。
「しかし涼宮さん、こうも固まっていては買いに来て下さった最後の一人が考えを改めてしまうかもしれませんよ。後片付けの最中なのでは、と勘違いされそうですからね」
「それもそうね。うん、あたしが言いたかったのは、二度目になっちゃうけど、つまり油断せず最後まで突っ走るわよって事。じゃ、皆肩を組んで」
 口を出す暇も無く、ハルヒの腕が俺の肩と朝比奈さんの肩をがしっと掴んだ。
「円陣ですか。いいですね、様式美に則っていて、いかにもクライマックスという感じがします」
 本気で悪くないとか思っていそうな声色で残った俺の肩に古泉が腕を乗せ、どうせなら朝比奈さんの隣に陣取っとけばよかったと思う間もなく、力がまるで入っていない長門の冷えた指先と古泉の背中ごしに触れ合う。長門だって、もう勝ち負けなんてどうでもいいと思ってるんじゃないのかね。本当はさ。
 にしても鍋の上で円陣を組むなんて、世界でもあまり類をみない集団だろうぜ。
 湯気を顔中に浴びながら、ハルヒがやたらめったら頼もしい笑顔で号令をかける。
「昨日と同じで、おー! って言うのよ。いい? 行くわよ? せーの、」
 目一杯熱い空気を吸い込んで、
「SOS団! ファイトー!」
「「「「おーー!!」」」」
「……おー」
 掛け声は、昨日よりも揃っていた。
 肩を解くと、ハルヒは子の旅立ちを見届けた皇帝ペンギンのように満足げな顔でしきりに頷いている。そのままぐるりと俺たちを見回し、
「ん、宜しい! では全員持ち場に戻りなさい! いざ勝利の王道へ!」
 突き進め、とばかりに腕を振り下ろした。
 途端。
「…………えっと、有希?」
 途中まで振り下ろされたハルヒの手の平を、長門が真剣白刃取りの要領で自らの両手のうちに招き入れていた。目を白黒させるハルヒ。
 誰もがリアクションを決めかねている中、邪魔な枝を取り払われた一本の木立のように何者にもはばかることなく、長門は言った。
「最後の一つ」
 解放されたハルヒの手の平には、真昼の太陽を浴びて輝く百円玉が二つ。
「私が買う」
 長門の視線は、ハルヒの肩を素通りして、屋台の向こうはるか彼方へと向けられている。
 果たしてその先には、俺たちと同じく口を開きっぱなしにした生徒会屋台の面々と、そしてカレーとスプーンを携え、敷かれた石畳の中央へ歩み出ようとする喜緑さんの姿が。 


  


 かくして真の決戦の幕は、勝ち負けなんてまるでどうでもよくないTFEI二人の手で、俺を含む他の全員を置き去りにしたまま、その火蓋が切って落とされたのである。
 ここは各自、脳内で勇壮なBGMを鳴らして欲しい。