例年に無く騒がしかった冬も、気づけばいつの間にやら過ぎ去っており、季節は春に移り変わろうとしていた。
 春眠暁を覚えずとか言う言葉があるが、それはまったくそのとおりで、俺は最近、授業中もSOS団の活動中もあくびばかりしている。
 一方、ハルヒといえばこれがいつものテンションで日々走り回っており、あちこちで騒動を巻き起こしては、いちいち俺の眠気を吹き飛ばしてくれやがる。
 長門はいつもどおり本の虫だ。いつもと違うところといえば、風が強くなってきたので、ページを片手で抑える姿をよく目にするぐらいのもんさ。
 古泉は別にどうでもいい。どうせいつもどおりニヤニヤしてるだけだろうしな。
 そして、去年も美しかったが、今年に入って尚一層の美しさで俺たちの明日を照らしてくれている朝比奈さんは、SOS団の部室に少々不満があるようだった。


「はなぁー?」
 ハルヒは、団長席で偉そうにふんぞり返りながら、初めて聞いた日本語をリピートする外人のような声をあげている。
「は、はい。丁度春ですし、この部屋にも花を飾ってみたらどうかなーって思ったりしてるんですけど……」
 その前で、お盆を抱いたまま少し恐縮したように佇んでいるのは、常に美しさの最先端を行く朝比奈さんだ。
 ハルヒはしばらく考え込むように天井の木目に目を這わせていたが、やがて朝比奈さんの目を見つめ、「却下」と言い放った。
 それを聞いた朝比奈さんは、「ひえぇーっ?」と悲しそうな声をあげている。
 この野郎、朝比奈さんの幼子のごとくいたいけな頼みごとを無碍に断るなんて、たとえ最高裁判官が許してもこの俺が許しはせんぞ。
「おいハルヒ、いいじゃないかそのぐらい。朝比奈さんはわざわざこの薄汚れた部室に彩りを加えようとしてくれてるんだぞ」
 この湧き水のような優しさが、年中蛇口が外れっぱなしのお前には理解できんのか!
 そんなことを考えている俺に対し、ハルヒは虫を見るような目を向けてきた。
「うるさいわよ馬鹿キョン。第一、花ならもう大きいのが一つあるじゃない」
 と言ってハルヒは部室の隅を指差す。そりゃ笹だ。ていうかもう取ってきたのかよ。いくらんでも早すぎだろ。
「うっさいわね。笹も菊も大して変わんないわよ」
 いや、大分違うだろ。あと菊ってお前。
 しばらく不機嫌そうに目を瞑っていたハルヒは、何故かいきなり目を開くと、うって変わって今度は上機嫌そうに話し始めた。
「でもなかなかいいアイディアかもしれないわね……。探してみれば、ひょっとしたら喋る花とか、犬を食べる花とかが生えてる場所があるかもしれないわ」
 ねえよ。
「でかしたわよ、みくるちゃん。よし、来週はそれで行きましょう! 不思議な出来事改め、不思議な植物を探し出すわ!」
 ハルヒは勢いよく椅子から立ち上がると、仁王立ちになって、窓の方を向きながらそう宣言した。
 こいつのアホさは、春になっても衰える事を知らない。
「それに……」
 ハルヒは、窓の向こうを見ながら続けた。
「花を飾っても、きっとすぐに枯れちゃうわ」
 やれやれ。





 朝比奈さんが着替えている間、俺は部室の前で薬局のカエルみたいに突っ立っていた。
「あれ?キョン君、どうしたの?」
 あなたを待っていたんですよ、朝比奈さん。
「花、買いに行きましょう」
「……え?でも、涼宮さんが、ダメだって……」
「大丈夫ですよ。明日にでもしれっと部室に置いておけば、あいつも文句は言ってこないでしょう」
 あいつはかなり馬鹿だけど、そういう事はしないタイプの馬鹿ですから。
 俺がそう言うと、朝比奈さんはにっこりと笑ってくれた。
「そうですよね。じゃあ、二人で買いに行きましょうか」
 ああ、眩し過ぎて直視できない。





 そんなわけで、俺と朝比奈さんは一緒に放課後のショッピングに出かけることになった。
 言い換えれば放課後デートである。俺の一生をグラフにすると、今日が一つのピークになっているのはもはや間違いようが無い。
 俺は心の中で叫び声をあげる。やっほう!
「あ、キョン君! 花屋さんありましたよ!」
 この日ばかりは、俺は下り坂の短さを呪った。
 

 花屋に入ったのなんて、何年ぶりだろうな。
 小さな店舗の中には、色とりどりの花が綺麗に並べられており、軒先にも多くの花が飾られている。
 それぞれの花には、名前と値段の他に、軽い紹介も描いてあるポップが添えられていた。
 しかし、当然と言うか何と言うか、俺は花の種類なんて、それこそ菊かチューリップぐらいしかわからない。あと小学校の時育てたアサガオだ。15日目に妹が食った。
 そんな俺には、朝比奈さんが唯でさえ輝いている顔を更に輝かせながら花を選ぶのを、初孫に「好きなおもちゃを選びなさい」と言う老人のような心境で見守ることしかできないのであった。
「ねえ、キョン君。この花と、この花、どっちの方がいいと思う?」
 そう言いながら朝比奈さんが俺に差し出してきたのは、薄い桜色の可愛らしい花と、清らかな印象を受ける白い花だ。
「いや、俺にはよくわかりませんし、朝比奈さんが好きな方でいいと思いますよ」
 朝比奈さんが好きと言えば、俺は人面魚でも好きになれる自信がある。
 しかし、朝比奈さんはそんな俺の答えにご不満のようで、少しだけ頬を膨らませている。リスのようでかわいい。
「キョン君、こういう時は、どっちかビシッと選んだ方がかっこいいと思いますよ」
「えー、と、じゃあ、両方買えばいいんじゃないですか?」
 俺がそう言った後も、朝比奈さんは少しだけ不満そうにしていたが、結局両方とも購入する事にしたようだ。
 代金は俺が持つと言ったのだが、朝比奈さんは頑として聞き入れようとはせず、部室に飾られる花は朝比奈さんから寄付される形となってしまった。


 小さな花束を持って先に店先に出ていた俺に、少し遅れて出て来た朝比奈さんは、照れ笑いのような顔をしながらこう言った。
「さっき店員さんに聞いたんだけど、ちょっと遠くの公園に、小さくて綺麗なお花畑があるんだって。少し遅い時間だけど、キョン君、良かったらこれから一緒に行ってみない?」
 ここで「ノー」と言える奴、前に出ろ。全員ケツを三つに叩き割ってやる。




 
「ふふ、可愛いお花畑ですね」
 俺の目にはどう見ても朝比奈さんのほうが可愛く見えるのだが、公園の一角にある小さな花畑、と言うには小さすぎる大き目の花壇も、たしかに可愛らしかった。
 歩道を間にはさみ、いくつかのブロックに分かれている花壇には、規則的なのか不規則的なのかはわからないが、結構な種類の色を持つ花が植えられている。
 案外高い場所から見たら、綺麗なグラデーションになっているのかもしれないな。
 朝比奈さんは、どこかいたわるような目で、そんな花々を見つめている。
 その中に少しの寂しさを感じ取った俺は、思わず口を開いていた。
「未来にも、花ってあるんですよね」
 朝比奈さんはそんな俺を見て、おかしそうに笑っている。いつもより少しだけ大人っぽい仕草で。
「さあ、どうだったでしょう? ……でも、」
 朝比奈さんは花壇に目を戻す。
「ここはきっと、無くなっちゃってるんだろうね」
 周りを見渡すと、もう空は薄暗く、公園の中は閑散としていた。
「そうかもしれませんね。この公園自体も、いつかは無くなるのかもしれません」
 考えてみれば、この辺もずいぶん変わったもんな。昔は駅前も、あんなに立派じゃなかった。
「さっき涼宮さんの言っていた事、すごく分かる気がするの。花を飾っても、いつかは枯れちゃうもんね。そしたら、少し寂しいもの」
 朝比奈さんは花壇の方を向いたまま、俺の一歩先へ足を進めた。
「でも、それは仕方の無いことですよ」
「そうですね。仕方の無いことです。きっと、私も、そして私たちも」
 同じです、と朝比奈さんは呟いた。





 俺だって、考えなかったわけじゃない。
 目の前のこの見目麗しい人や、ハルヒ、長門、古泉と出会ってもう一年になる。
 俺達はもうすぐ二年生になるし、朝比奈さんは三年生だ。
 そして、もう一度春が来れば、朝比奈さんは卒業してしまう。
 朝比奈さんは卒業したらどうするのだろう。未来に帰ってしまうのだろうか。
 どうなるにせよ、今のように過ごすのは、難しくなるのかもしれない。
 それに俺には、予感があった。
 きっと、そう遠く無い未来で、俺達はバラバラになってしまうのかもしれないという予感が。


 もしもハルヒの力が消えたら、朝比奈さんも長門も古泉も、ここに留まる理由が無くなってしまう。
 その時、皆はそれぞれの選択をするのだろう。ハルヒが消えた三日間の時の、俺のように。
 その時。SOS団が無くなる時、一体俺はどうするのだろうか。この非日常的な日常を選んだ俺は、一体どうすればいい?
 ハルヒは、あいつはまさに台風のような奴だからな。俺の事なんか忘れて、どこかに飛び出していくのかもしれない。
 長門はどうだろう? やっぱりあいつも、宇宙なんとか体の元へ帰ってしまうのだろうか?
 古泉は? 三年前の、俺達とは関わりの無い、普通の生活に戻るのか?
 そして、今。寂しそうな後姿で俺の前に立っている朝比奈さん。
 この人は、きっと未来に帰るだろう。
 いや、帰らなければならないんだ。本来この時代に生きている人ではないのだから。
 きっと、いつの日か。





 どうしてなのかは、俺自身にもわからないが、急に俺は堪らなくなって、口を開いていた。
「いつか」
 いつか、あなたも、いなくなってしまうんですか?


 いつの間にか、俺の目の前に朝比奈さんが立っていた。
 そして俺の手から、ゆっくりと花束を抜き取る。白い花束だけを。
 俺の手には、桜色の花束が残されていた。
「それは、キョン君にあげる。お家で飾ってあげてね」
 朝比奈さんの手には、白い花束が。
「これは、私が明日部室に持っていくから」
 そして、俺の後を継ぐように言った。
「いつか」
 いつもより、優しい声で、
「いつか、また二人で、お花を見にこようね」
 涼宮さんには内緒でね、と言うと、不恰好だけど、世界一可愛らしいウィンクを俺に見せてくれた。


 そうだな。いつかもし別れる時が来たら、また会おうとか何とか、そんな約束を取り付けてやればいい。
 人を見る目だけは確かなハルヒが集めたメンバーだ。大事な約束を破ったりする奴はいないだろう。
 それに、もし約束を破るような奴がいたら、ハルヒが黙っているわけないしな。喧嘩を売られた蛇もびっくりのしつこさで、例え誰がどこにいても、必ず皆を見つけ出すに違いない。何の力も無くったって、俺のネクタイを引っ張るぐらいの事は平気でやるような奴だ。
 そしたら俺も、いつもみたいに文句を垂れながら、あいつの後ろについて行ってやるさ。
「ええ。いつか、必ず」
 風に舞う髪を空いた方の手で押さえながら、朝比奈さんは、本当に楽しそうな顔で笑っていた。





 次の日、俺があくびを噛み殺しながら部室に行くと、隅の丸テーブルに小さくてシンプルなデザインの花瓶が置かれていた。朝比奈さんの物だろう。
 そこからは、綺麗に揃えられた白い花弁が顔を出している。
 ハルヒは、一度それに目を向けただけで、何も言ってくる事は無かった。
 長門は最初珍しそうに花を見つめていたが、いつの間にか本を読みだしたようだ。
 古泉は「綺麗な花ですね」とか何とか言いながら、近くで観察している。
 朝比奈さんは、お茶の葉の具合を、我が子を見守る様に真剣な目で確かめていた。
 外は今日もいい天気だな。窓を叩く風の音が、少し強いぐらいか。
 こんないい陽気じゃ、まったく、眠くて堪らん。
 俺はハルヒにばれないように横を向いて大きなあくびをすると、椅子に深くもたれかかる。
 目を閉じる直前、ハルヒが窓際に近づいていくのが見えた気がした。
「ねえ、有希。聞きたいんだけど、枯れた花で押し花って……」
 どこからか入ってきた風が、笹の葉をゆっくりと鳴らしている。