三年前、六日目。
 夏祭りの日だ。
 普段はハトぐらいしかいない神社の境内に、多くの人々がひしめきあっている。
 信心深いんだか現金なんだかよくわからない群集の中で、俺は一際目立つ格好をしていた。
 燃え上がるような、というにはいささか蛍光色すぎる赤色に全身を包み、子供たちに風船を配るニューヒーロー。えーっと、何とかレッドだ。たしか。
「すいません。この子にも風船下さい」
 俺の膝ぐらいまでしかない子供に、赤い風船をプレゼント。最近のヒーローは、地道なPR活動が重要なんだぜ。
 しかし、澄ました仮面の表情とは違い、昨日よりピッタリとした着ぐるみの中は、暑いと言うよりもはや熱いレベルにまで達していて、気をぬいたら失神してしまいそうだった。
〈聞こえる?〉
 胡乱になりつつある意識の中でも、耳元にはめたイヤホンから聞こえてくる長門の声は、蠢く熱量に突き刺さったアイスピックみたいに鋭い。 
「ああ、ばっちりだ」
〈涼宮ハルヒは自宅を出て、神社の方に向かっている〉
「一人か?」
〈そう〉
 やっぱりな。三年前とはいえ、あいつがこんなイベント見逃すはずがない。つまらなそうに道行く人々を睨みつけながら、女王のような居丈高さで道を歩いている姿が目に浮かぶようだ。
〈私もすぐそっちへ向かう〉
「ああ、頼んだぜ」
 できれば、俺が気を失う前にな。
「あの、」
 おっと、お客さんだ。俺は営業スマイルをマスクにまかせて、風船を一つ差し出した。
「いや、俺じゃなくてこの子に欲しいんですけど」
 顔を下に向けると、俺の足元に小さな少女がまとわりついている。
 ん? 何か見たことのある顔だな、こいつら。
 ……いや、見たことあるというか、毎日見てるというか、
「うわぁー、レッドだー。キョンくん、レッドだよ!」
「ほらやめろ。中の人に迷惑だろ」
 聞いたかよ、この可愛げのない台詞。こんなこと言う奴なんて、間違いなく俺か俺ぐらいのもんだぜ。
 ヒーローの俺は昆虫みたいに小さな妹に、二つ風船を握らせてやる。身内だけの特別サービスだ。
「いや、一つでいいんですけど」
 お前は黙ってろこの野郎。というかなんだその可愛げの無い顔は。喧嘩売ってんのか。
 かつてない類の憎しみを自分に対して抱きながら、妹の頭を撫でつけてやる。
「ありがとー!」
 生えたばかりの紅葉みたいに小さな手を振りながら、妹とその付き添いは人ごみの中に消えていった。 
 それを見送った俺は、何とも言えず息をつく。
 まさか、あの着ぐるみが自分だったとはな。
 ということは、あの時も俺はここにいたわけで、今もここにいる俺は、ぐるぐると時間を……
「風船くださーい」
 はいはい、とマスクの中で呟きながら、それ以上は考えず、順調に風船を捌いていった。


 俺が原案を出し、長門が練った『ハルヒのご機嫌矯正ミッション・ファイナル』はこうだ。
 まず、俺が祭りの運営委員に連絡を取り、あまりの辛さに超不人気と言われる、入り口での風船配りに参加し、着ぐるみをゲットする。
 そして祭りの当日、いつものように長門はハルヒの監視役。朝比奈さんは長門宅で待機してもらい、時空震を計測してもらう。
 ハルヒが祭りに来たところで、俺がヒーローからストーカーに、長門は一歩はなれた場所から色々な小細工をしてもらう役にチェンジ。
 あいつが射的や輪投げなどのゲームをはじめたら、俺が横から颯爽と登場。
 同じゲームで見事パーフェクトを取る俺〈を操る長門〉。
 するとどうだ。あいつの一ミリぐらいしかない導火線にはたちまち火が点り、対抗意識をむき出しにして俺と競い合おうとするちがいない。
 そうすればもうこっちのもんだ。あとはハルヒの気が済むまで遊びまくり、いい感じで勝ったり負けたりしながら、あいつの憂さを綺麗さっぱり晴らしてやればいい。
 要するに、ハルヒは今一人で悶々とストレスを抱えているのが問題なわけで、あいつと正面から向き合える奴がいれば、簡単に事は運ぶはずだ。
 ちなみに、「キョンくん、なんだかんだ言ってやっぱり涼宮さんのことよく見てますよね」なんていう意見もあったが、それは木を見て森を見ずって感じの、酷い誤解なのであしからず。  


 夕暮れ前の紫に映える、薄い朱色に彩られた浴衣姿のハルヒが境内に続く階段の下に現れたのは、九十二個目の風船を配り終えた時だった。
「来た! 来たぞ長門!」
〈私はもう高台に移動している。全ての屋台を補足可能〉
 長門の言葉を聞いた俺は、九十二人目の子供に残りの風船を全て渡すと、ハルヒと並んで人ごみの中に入っていく。
 ハルヒはちらりとこちらに目をくれたが、それも一瞬の事。人ごみに怖気づくこともなく、威風堂々と歩いていく。海が割れなくてもモーゼはモーゼだ。
 最初に向かったのは、意外にもたこ焼き屋だった。
「おっちゃん、それちゃんとタコ入ってんのよね」
 早くもケンカを売る勢いだ。思わずなだめてしまいそうになる自分が恐ろしい。これも生活習慣病の一種なんじゃないだろうか。
 でかい口を開けてたこ焼きをほおばりながら、次に向かったのはアメリカンドッグ。
 また食うのかよ、と突っ込んでしまいそうになった自分が恐ろしい。末期症状なんじゃないだろうか。
 そして、次の屋台。
「長門、ストラックアウトだ」
〈任せて〉
 頼もしいね。
 ハルヒはいかにもって感じのおっさんに百円玉を渡すと、真剣な表情で九つに分かれた的に向き合う。
 教科書に載りそうな綺麗なフォームと、細腕に似合わぬ剛速球で、次々と的を沈めていく。しかし、
「あー、惜しい。あと一個でパーフェクトだったのにね」
 おっさんの酒に焼けた声が響く。
 くやしそうに顔をしかめるハルヒの肩に、俺はそっと手を置いた。
「……何よ、あんた」
 俺は手で、「よく見てろよ、お嬢ちゃん」といったジェスチャーをして、おっさんに百円を渡した。
 軽めの球を、ぐっと握り締める。
 頼むぞ、長門。 


「パーーフェクトぉー!!」
 巻き起こる拍手。憧れの視線。何ともいえない快感と後ろめたさが、俺の背筋を震わせる。やばい、病み付きになりそうだ。
〈主旨を忘れないで〉
 冷水を浴びせられるような長門の一言で目を醒ました俺は、一人面白くなさそうにしているハルヒの目の前に人差し指を持って行き、くいっと手前に引いてやる。
 安い挑発だが、こいつに火をつけるには十分だろう。
 予想通り、ハルヒの顔に歪んだ笑みが広がる。顔が整ってるだけに、中一とは思えん迫力だ。
「ついて来なさい」
 それだけ言うと、ハルヒは人ごみの中にまぎれていく。
 俺はその後ろを歩きながら、まるで久しぶりの我が家に帰ってきたような気分になっていた。
 これ病気だろ、絶対。 


 その後の俺とハルヒは、ただ勝負を楽しむばかりだった。
 最初は掘りこまれたように仏頂面ばかりだったハルヒも、激戦の末勝利を得た射的を境に、いつものぎらついた笑顔をみせてくれるようになり、対する俺も、途中でインチキだということは忘れ、夢中でハルヒと競いあっていた。
 こいつは天災みたいに迷惑な奴ではあるが 台風と一緒に外で踊れるようなテンションの時には、悪くない相手だ。
 だから、朝比奈さんから〈時空震が晴れました! 元の時間に戻れます!〉という通信が入ったときも、少しばかりがっかりしてしまったぐらいだった。
「次は早食いで勝負よ!」
 浴衣を泥だらけにしながら、楽しそうに笑うハルヒを、俺はそっと片手で制す。
「……? 何よ、どうしたの?」
 ジェスチャーでなんとか、と思ったが、さすがに無理そうだったし、三年前のこいつと喋るのは久しぶりだしな、と言い訳しながら、ハルヒの耳に口の部分を近づける。 
「残念だが、俺はもう行かなきゃならない」
 ハルヒは目をぱちくりさせながら、やがていつものアヒル口になると、
「ダメよ。まだ花火も上がってないじゃない」
「いや、子供たちの助けを呼ぶ声が聞こえるんだ」
「……今まで散々迷子の放送シカトしてたくせに」
 さすが、よく見てるな。俺はマスクの下で笑いながら、
「君と遊ぶのは楽しかった。また来年……というわけにはいかんが、そうだな、四年後ぐらいにまた遊ぼう」
 間の三年はシーズンオフなんだ。
 ハルヒはしばらく不服そうな顔でマスクに開いた穴を凝視していたが、やがてわざとらしいため息をつくと、
「わかったわ。あんた嘘つかなそうだから、四年後まで我慢してあげる。その代わり、四年後勝負できなかったら、見つけ出してギロチンの刑だからね」
「ああ、もちろん」
 死刑はいやだからな。
 俺はハルヒの若草みたいに柔らかな髪を撫でると、最後の忠告を口にした。これだけは言っとかないとな。
「君こそ、学校で誰かをいじめたりしてはいけないぞ。もしそんな事をしたら、拳骨の刑だからな」
 頭に置いた手を、拳骨の形に変える。
 しかしハルヒは、心外そうに目をしばたかせるばかりだ。
「は? 私がそんなくだらないことするわけないじゃない。あんた意外と見る目無いのね」
 ……嘘をついているようには、見えないな。
「君は、竜巻みたいに大暴れして、クラスメイトをいじめてるんじゃないのか?」
「だから、なんで私がそんなことすんのよ! たしかに、こないだ腹の立つことされて、その時何人か軽く締め上げたりしたけど、いじめなんて真似するわけないじゃない!」
「……君のクラスに、なよっとした感じで、男か女か分からんような顔の、小さい男子生徒はいないか」
 細かい特徴も付け加える。
「全然いないわ、そんな奴。ていうか、何で私がよりにもよってそんな弱そうな子をいじめないといけないのよ! そこまでみじめったらしっくないっての!」
 ハルヒの機嫌が目に見えて下がっていく。しかし俺の頭は、別のことでぐるぐると回っていた。
「もう! せっかくおもしろい奴に会えたと思ったのに!」
「……すまん、ハルヒ。でも、約束は絶対守るからな」
 俺はそれだけ言うと、人ごみを掻き分けて走り始める。
 後ろからハルヒが何かを叫ぶ声が聞こえたが、喧騒に紛れてすぐに消えた。





 剥ぎ取ったマスクを片手に走る道すがら、耳元で悲鳴じみた声がサイレンみたいに鳴り響く。
〈キョンくん! また時空震が出てる! 何かあった〈今度は涼宮ハルヒが原因ではない。彼女か作った閉……〉
「わかってる!!」
 俺はそれだけ言うと、イヤホンを外してポケットにしまいこんだ。
 立ちはだかるオートロックの扉。
 俺は鍵の差込台によじ登ると、天井の角に作られたスイッチを押し込んだ。強制解除。
 扉は間抜けなブザー音をあげながら、あっさりと開く。
 やっぱりアナログが最強だな。   
 エレベーターに目をやることもなく、そのまま階段をかけのぼる。
 もうすっかり頭に入っていた番号の部屋。ノブを引いても、硬い手ごたえしか返って来ない。
「おい! 開けろ!」
 反応は無い。
 俺は少しもためらわずにガスメーターの扉を力任せに引き倒すと、ガス管の裏を探る。パイプとは明らかに違う、金属の手触り。
 セロテープでとめられていた合鍵を使うと、錠はすぐに外れた。チェーンは……かかってないな。
「おい! いるんだろ!」
 暗くて狭くて、物が全く無い部屋だ。テーブルの上に、食べかけのコンビニ弁当が投げ出されている。
 布団も一つ。コップも一つ。
 何が親の転勤だよ、ホラ吹きめ。
 部屋を全てまわっても、誰もいやしない。
 あいつ、どこに行ったんだ。
 フェンスの上で、俺の事をじっと待っていた少年の姿が頭をよぎる。
 ……考えるまでもなかった。
 俺たちが会うのは、冷たくて硬いコンクリートと、ぼろいフェンスがある場所だ。


 そいつは屋上のフェンスの隅っこで、星の出てきた空に潰されるようにして膝を抱えていた。
「探したぞ」
 少年は答えず、ただ下を向いて震えている。
 俺はゆっくりと近づきながら、ここ数日のことを思い出していた。
 画鋲。機嫌の悪くなるハルヒ。逃げられない俺たち。年下の友達。いつも膝を抱えていた手のひら。失敗する作戦。ふられる谷口。楽しかった祭り。笑うハルヒ。
 そしてこの段になって、俺は自分の役割って奴にようやく気付いた。
 にしてもだ。
 まったく、画鋲の一つ二つでこんな大事になるなんてな。今度大きな朝比奈さんに会ったら、絶対文句言ってやる。
 気付けば少年は目の前だ。俺は膝を折り、目線を同じ高さにした。
「近くにいるんだな?」 
 少年は答えない。
 俺は肩に手を置こうとして、
「近寄っちゃダメだって!」
 跳ね上げられた手を掴んだ。


 星が消え、コントラストは狂い、灰色に染まる。
 愕然とした様子の少年を尻目に、俺は立ち上がると、フェンス越しにあたりの景色を俯瞰する。
 この建物より高いものなんて、もう何も残っちゃいなかったからな。 
「これはまた、随分と平らになったもんだな」
 見渡す限り瓦礫の海だ。震度十の地震が起きたって、こんな有様にはならないだろう。
 地平線まで続く灰色を眺めていると、激しい振動が辺りを襲った。地鳴りのような音が、遮蔽物のなくなった街に響き渡る、
 俺は給水塔の裏に回りみ、音の震源地を見やる。
 祭りで賑わっていたはずの高台で踊る、闇をくりぬいて作られた巨大な人影。
 少女の鬱憤の塊だったものだ。
 野郎、祭りの会場を無茶苦茶にしやがって。まだ花火も上がって無いんだぞ。
「行くぞ」
 俺はまだ口を開けたままの少年を無理矢理抱えあげると、今上ってきたばかりの階段を下りはじめる。
 もうすぐ一階に着く、という頃になって、ようやく少年が声を出した。
「……い、行くって、どこに……」
 俺はわかりやすいように、指で示してやる。
「あいつのところ」
 黒い巨人は、ちょうど神社の本殿を叩き潰しているところだった。
「何言ってるの! あんなとこに行ってどうすんだよ!」
「そんなの、あれをやっつけるに決まってるだろ」
 なんせ俺はレッドだからな。巨悪を放っては置けないんだ。
「やめろ! 下ろせ! 下ろしてよ!」
 こっちだって下ろしたいよ。重いし怖いしで泣きそうだ。
 それでも俺は、ぐずる少年を無視して、マンションの外に踏み出した。
 瓦礫の世界。ぞっとしないね、まったく。
 転ばないように気をつけていても、そこら中に散らばった瓦礫のせいで、身体はあっというまに傷だらけになった。マキロン必携だ。
 俺が傷口の数を数えるのを止めた頃、少年も抵抗するのを止めていた。


 途中で何度も休憩をいれつつ、たっぷりと一時間かけて、神社の階段だったものが見えるところまでたどり着いた。
 息はすっかり上がってしまい、膝も爪弾いたメトロノームみたいにせわしなく揺れている。
 俺は肩に担いだ少年を下ろすと、砂埃にまみれたどっかのビルの外壁に腰を下ろした。
「さあ、へっぴり腰のお前をここまで連れて来てやったぞ」
 神人が足を踏み鳴らすたび、少年は肩を震わせている。
「だけど、俺はここまで。さすがにこれ以上いくと、踏み潰されて求人情報誌ぐらいの薄さになってしまうからな」
 本当にすぐ近く。あのデカぶつにしてみりゃ、あと五歩も無いだろう。俺としてはあと二千マイルぐらいは離れていたいんだがね。
「ここからはお前の仕事だ」
 少年は俺の隣で、ただじっと蹲っているだけだ。
「お前、もともとあいつを倒すためにここに来たんだろ?」
 居心地が悪そうに動く肩。
「それが見ろよ。お前が仕事をサボってたせいで、一面瓦礫だらけだ」
 俺たちが帰れないわけだ。こんなのを放っておいたままじゃ、近いうちに現実に影響がでるぐらい壊しきってしまうだろう。
「まあ、ハルヒの機嫌は直ったし、神人の数も大分減ったはずだ。もうちょっとしたら、ここにもお前の仲間が来てくれるだろうな」
 神人が歩くたび、そこら中の石ころがポップコーンみたいに跳ね回る。 
「でも、それまではまだ時間がある。お前はこのまま、黙って見てるのか?」
 こんな時に子供に説教してる俺は、一体なんなんだろうな。 
「今やらなくても、きっといつかやらないといけない日が来るんだぞ」
 少年は変わり果てた世界の陰に隠れるようにして、目と耳をじっと閉じていた。
 やれやれ。
 ここまで近づけば、自衛のために頑張ってくれるかとも思ったんだが、甘かったみたいだな。
 俺は盛大にため息をつくと、立ち上がってズポンについた埃を払う。
「よし、わかった。お前がやらないんだったら、俺がやってやる」
「え……?」
「いいから、お前は黙って見てろ」
 走る膝が震える。疲れてるだけってわけでもないさ。でも、こいつがやらないんだったら俺がやるしか無いだろ。
 どっちみち、こいつを倒さないと元の時間に戻れないみたいだからな。
 頬を叩いて気合を入れ、ただの坂になってしまっている階段を一気に駆け上がる。
「やめろって! 本当に死んじゃうよ!」
 悲鳴が聞こえる。不吉なことを言うな、ちびっ子め。  
 坂を上りきった先には、見上げれば首がへし折れそうなほどでかい巨人が、破壊の限りを尽くしていた。
 様々なものが一瞬で壊れる濃密な音が耳元で弾け、しなる竹みたいに鼓膜を揺する。
 目の前で花火の四尺玉が連発されてるみたいだ。そういや、そろそろ花火が上がる時間だな。
「おい! ハルヒ! ……とはもう違うのか。とにかく、そこのでかいの! いいかげん大人しくしろ!」
 神人は、まるで俺のことなど眼中に無いかのように、というか実際に眼中に無いんだろうが、壊しきった屋台を、また掬い上げて壊している。
 木のクズだのボンベだのが雨みたいに降り注ぎ、一秒だって同じ場所にはいれない有様だ。
 グラウンド・ゼロで必死に走り回る俺。谷口あたりがみたら、爆笑すること間違い無しだろう。
 くだらない想像で気を紛らわしながら、下手糞なステップを踏み続ける俺の傍の地面を、巨大な足が踏み抜いた。
 砂利道が粘土みたいにひしゃげて、足元の地面が捲れ上がる。
 上半分を無くしたストラックアウトの屋台が、岩の中に沈んでいくのが見えた。
 巨人は、それすら顧みない。
「ムカつく奴だな、この野郎!」
 俺はそのまま神人の足元に突っ走る。
 むき出しの岩盤を蹴り、青いシートを飛び越え、猫のキャラクターのお面を踏み潰して、鉄板の欠片に躓きながら、でかい柱みたいな足の真下に。
 しかし、鯨の背中みたいにのっぺりとした足首にローキックを食らわせてやろうとした矢先、もう一本の足が空から降ってきて、今度こそ俺はそこら中の破片と一緒くたに吹き飛ばされた。
 目玉を洗濯機に放り込まれたみたいに視界がぐるぐると回り、体中のあちこちを何かわからないものに打たれまくり、とどめに頭を硬い何かに思いっきり打ちつけた。
 一瞬辺りがストロボを焚いたように真っ白になり、激しい耳鳴りが襲ってくる。
 肺が石になったみたいに重くなり、脳までミキサーにかけられて、感覚の一つも上手く手繰り寄せることができない。
 ずっと握り締めていた赤色のマスクも、いつの間にか消えてしまった。
 レッド、敗れる。


「……! ………ぇ! 起きてよ!」
 始めに戻ってきたのは、聴覚だった。
 一つ掴めばあとは簡単だ。
 全ての神経を耳の先から引っ張り出して、身体に思い出させてやる。
 忘れていた呼吸が戻ると同時に、俺は咳き込んで胃液を漏らした。
 体を震わせてえずく度に、神経に電極を直接差し込まれて電流を流されるような痛みが全身をかけめぐる。
「い……っっってえ」
 とにかく全部痛い。痛くない所は感覚が無い。
 歯を食いしばって痛みに耐えていると、視界を覆っていた白い靄が消え、灰色の代わりに、鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔が見える。折角のいい男が台無しだな。
「何で、こんな……」
 泣き声を払うように、痛む肩を無理矢理動かして腕をあげ、多分北の方向を指差す。 
「ほら、あっち見ろよ。あのカップアイスみたいに抉られてる所な、俺の高校があった場所だ」
 そこからちょっとばかり動かして、
「で、あのちり取りの中に入ったゴミみたいにぐしゃぐしゃな一帯に、俺の実家があった。多分」
 あーあ、あれじゃせっかくの一戸建てが台無しだ。 
「お前も知ってるとは思うけど、あいつをずっと放っとけば、この世界が現実になるかもしれないんだ。ずっとだぞ。はっきりしてないんだ。明日かもしれないし、一年先かもしれない」
 喋るたびに、喉からヒューヒューと音がした。草笛みたいで懐かしい。
「だから、俺はあいつを今すぐぶっ飛ばしたいわけだ。それが見ろよこの有様。半死半生もいいとこだ」
できるのにやらない誰かさんのせいでな。
「……っ! 僕のせいじゃないよ! 涼宮ハルヒのせいだろ!」
 それはその通り。あいつの我侭はいつだって行き過ぎてる。だけどな、
「そのハルヒに、あいつ自身を諌めるための力を与えられたのが、お前らだろ」
「あいつが勝手に僕を選んだんだ! 何が機関だよ。勝手にそんなのの一員にされて、言われたままに飛び回って、そんなこと、したくないんだ!」
 だろうな。俺だってそんなこと頼まれても、途中の川にでも捨てちまうさ。
「まあ、何したってお前の自由だと俺も思うよ。でも、屋上から飛び降りるのも、あいつに潰されるのも、大して変わらないだろ。だったら……」
「うるさい! どいつもこいつも、勝手なことばっか言うな!」 
 子犬みたいに吠える少年。裏切られたといわんばかりの暗い瞳。
「そうだな。勝手な言い草だ。いきなりクラスメイトに死んでとか言われるようなもんだ」
 世の中ってのは理不尽にできてるもんさ。なんたって、ちょっとベランダに出ただけで、子供が死のうとしてるんだぜ。
 俺は一度咳き込んで、喉の奥に絡まったものを吐き出すと、また口を動かし始める。
「実は俺な、自分から何かできるタイプじゃないんだ。他人の勝手な言い草にでも乗らないと、エンジンさえ掛かっちゃくれない」
 今回も、未来の誰かの口車に乗せられたようなもんだからな。
「でもさ、ずっとそうして流されてたら、最近はそんなのも面白いかなって思ったりして、そしたらいつの間にか自分の意志で走ってたりして……」
 少年は目を閉じて涙を流した。だけどきっと、耳は閉じていない。
「だからお前だって、できる事を頑張ってやってみればいい。そんな凄い力を持ってるんだ。俺なんかより、よっぽど色んなことを選び放題遊びたい放題の人生が待ってるぞ」
 いい加減、自分で何を言ってるのかわからなくなってきた。やっぱり俺は説明とか説得とか向いてないんだよ。
「とにかく、あー、もう、何ていうかな、俺は今もたまにさ、空を飛んで怪獣を倒したり秘密組織の一員になったりして、世界を救ったりしてみたいって思う時があるんだよ! お前みたいな奴に憧れるんだ!」
 くそ、恥ずかしくて死にそうだ。ハルヒなんかには、死んでも聞かせられん言葉だな。
「だから、お前も七階から落っこちる前に、少しばかり俺の口車に乗せられてみろよ! 小難しい理屈はいいから、お前に憧れてる友達と、そいつが住んでる街のために、あのデカイ化け物をぶっ倒してみせてくれ!」
 我ながら反吐がでるぐらい身勝手で、残酷な言葉。
 少年はそれに鞭打たれ、歯を食いしばって巨人を見上げる。
 でも、きっとこれが俺の役割なんだ。色々な思惑の上に乗って、朝比奈さんと共にここに来た、俺の役目だ。
 だけど、それだけじゃないさ。
 お前ともう一度会うために必要な言葉だから、俺は自分の意志で言うんだ。
 別にお前に会いたくてしょうがないってわけじゃないが、まあ、SOS団は今のところ五人いるわけで、俺は結構、それが楽しい。
 だから。
 痛む肺と、軋む骨を無視して、大きく息を吸った。
 灰色の煙が立ち込める中、神人が星の無い空を仰ぐ。声無き咆哮。
 よくわかってるじゃないか。お前の命運も、そろそろおしまいだぜ。 
「立って戦え!! 古泉一樹!!」

 へっぴり腰のままで立ち上がった少年の顔は、涙と鼻水でキラキラと輝いていた。