翌日から、俺と朝比奈さんと長門によるハルヒのご機嫌矯正ミッションがスタートした。
 といっても、直接あいつに会うことは避けなくてはならない。
 今の俺はあいつにとって、キョンではなくジョンである。見つかったら絡まれることは間違いないだろう。
 もしそんな事になって、俺の顔をあいつがはっきりと覚えてしまえば、未来が変わってしまう危険性がある……とは長門の弁だ。
 それは朝比奈さんにも言えることで、俺と違って非凡な顔立ちをしていらっしゃる朝比奈さんを間近で見てしまえば、ハルヒの頭はハイエンドのデジカメばりに高解像度で記録してしまいかねない。
 加えて、中学生なんてほとんど学校と自宅の往復だ。まさか学校に侵入したり自宅に押し入ったりするわけにもいかないだろう。
 というわけで、俺たちは限られた時間の中、限りなく婉曲的な方法でハルヒの機嫌を直さなくてはならず、予想以上の苦戦を強いられていた。 

 作戦その一 『お菓子の家のハルヒ』
 登校する途中、道端に点々と落ちているパンくずを想像して欲しい。
 ほら、非日常の匂いがぷんぷんするだろ。
 グレーテルのようにパンくずを追いかけていった先には、何と古びた宝の地図(長門作)が!
 ちなみに、さすがに宝を用意する時間は無かったので、長門の家にあったレトルトカレーを埋めといた。
 冒険ってのは結果じゃない。大事なのは、過程でいかに大切な仲間達との出会いを、
「ふぇ、キョンくん! パンくず、カラスに食べられちゃいましたぁ!」
 よし、撤収。


 作戦その二 『行け! 東中卓球部』
 下校する途中、道端にそっと置かれた卓球大会のチラシを想像して欲しい。
 ほら、胡散臭い匂いがぷんぷんするだろ。
 ちなみにこれは、以前ハルヒが野球大会に申し込んだ時の事を思い出して作られた作戦だ。
 といっても、いまのあいつにはSOS団なんてありはしないから、一人でもできる競技ということで、タイミングよく掲示板に張られていた卓球大会のお知らせを使わせてもらった。
「涼宮さん、まだ来ませんね」
 俺たち三人は、東中の真横にある軽食屋の二階で、ハルヒが通るのを待っていた。
 揃って窓から身を乗り出している姿は死ぬほど怪しいが、長門のミラクルパワーが発動しているのか、いまだ職質は受けていない。
「あ、来ましたよ!」
 朝比奈さんの声を聞いた俺は、校門から出てくるハルヒの前に、丸めたチラシを投げつける。
 急に飛んできた紙くずに、ピクリと反応するハルヒ。
 これは釣れたな! と思った瞬間、
「あ、何だこれ?」
 横からやってきたアホそうな顔の男子中学生が、チラシを拾い上げてしまった。
 ていうか、谷口じゃねえか……。 
「卓球大会? お、賞品は旅行券だってよ。どうだ涼宮、一緒にダブルスでも……」
 アホをスルーするハルヒ。賢明だ。
 俺はアホに向けてフォークを投げつけてやりたい気分だったが、相手は中学一年生だ。大人の俺が、我慢しなくてはならない。
 野郎、三年後に戻ったら鼻の穴を三つにしてやる。





 俺は盛大にため息をつきながら、フローリングの床に寝転がった。頬に当たる冷たい感触は、何となく長門を髣髴とさせる。部屋は主に似るってわけか。
 当の長門は、朝比奈さんと揃って買い物にでかけてしまっている。
「俺が行きますよ」と言ったのだが、朝比奈さんはまだ責任を感じている様子で、頑として聞き入れようとしなかった。
 長門は長門で、「途中で過去の知人と遭遇してしまう可能性がある。目を離すわけにはいかない」と言いながら、こっそり後をつけていってしまった。
 男女の役割逆だろ、とは言わないでくれ。わかってるから。
 そんなわけで、俺は今日の反省会を一人寂しく行なっているというわけだ。
 しかし、あいつの機嫌を直すのがこれほど難しいとは思わんかった。
 やっぱり直接接触できないってのが最大のネックだよな。作戦の幅がかなり限られてる。長門もこういうのは苦手分野みたいだし。
 ……もういっそ、俺が出て行って説明した方が早い気がしてきた。お面でもつけときゃ、顔もわかんないだろ。  
 いや、でもお面なんてつけて中学生に話しかけるなんて、明らかに変質者だ。しかもあいつのことだから、絶対お面を引っぺがそうとするに違いない。
 というかそもそも、あいつのロールシャッハテストで見せられる絵のような思考体系をトレースするのは、俺みたいな凡人じゃ不可能なわけだから……
「くそ、わからん」 
 頭をかきながら立ち上がり、ベランダに続くガラス戸を開く。
 外に出ればいい考えが浮かぶかもしれない、なんて追い詰められた芸術家みたいなことを考えたからだ。
 実際はそう都合よく天啓が下りてくるはずも無く、隣のビルの窓を数えるのにも飽きた俺は、何となく空を見上げてみた。
 七階だけあって、暗い藍色をぶちまけたような空がすぐ近くに感じられる。クーラーの室外機が無粋な音を立てているが、気になるほどじゃないな。
「……いつ、帰れるかな」
 記憶ってのは、人の弱気につけ入るもの。高校生のハルヒの顔や、妹の小六とは思えないガキっぽい顔や、おまけに白い歯が嫌味に輝く古泉の顔まで思い浮かべてしまう。
 まだ二日目だってのに、俺は随分とホームシックになりやすい体質みたいだ。
 自分に対して皮肉めいた笑いを投げかけながら、視線を元の位置に戻すと、
「……おい、ちょっと……」
 すぐ隣のマンションの屋上。七階より少し低い位置だ。いや、それはどうでもよくて、フェンスの上に、何か黒いものが……。
「……人じゃないか?」
 思わず身を乗り出した。目を細めて視野をぎりぎりまで絞る。間違いない、誰かが屋上のフェンスによじ登ってやがる。
 頭の中が、錆びたエンジンみたいに軋んだ音をたてながら回転を始める。 
 あんな所に登るのは、どんな時だ。
 決まってるさ、壁の補修かなんかだろ。
 あんな小さい奴がか? 
 おいおい、差別はよくないぞ。小柄な修理工だっているかもしれない。
 いや、それは無いな。Tシャツに短パンの修理工なんて聞いた事が無い。
 じゃああれだ、フェンスの向こう側に財布でも落としちまったんだろ。
 冗談だろ、縁まで何センチも無いんだぜ。
 そうか。じゃあ次で決まりだ。ほら、シーソーとかブランコを思い出せよ。
 ああ、なるほどな。
 高い所の次は、低い所だ。


 冷静になって考えてみれば、警察にでも電話すりゃ良かったんだろうが、生憎とそう都合よく回るタイプの頭を持っていないんだ。
「長門!!」
 叫んでから気付く。あいつは今いないんだった。
「おい! そこの奴! ちょっとそのまま待ってろ!」
 びっくりしたように、こちらに顔を動かす人影。小柄な顔だ。
「子供かよ、くそ……いいか! 絶対落ちるなよ!」
 俺は部屋を飛び出すと、一階で停止しているエレベーターを横目に、転がりながら階段を下りて、隣のマンションに飛び込んだ。
 オートロックを開けて出てきた若い男と入れ違いに中に入ると、一階から上昇していったエレベーターに見切りをつけ、階段を駆け上る。
 機械ってのは、なんでこう肝心な時に役に立たないんだ、などと現代文明の功罪について感慨を抱きながら舌打ちしつつ、最上階から開きっぱなしの非常階段を抜けて屋上へ。まるでピンボールになった気分。
 邪魔臭い給水塔を迂回して、長門の部屋が見える位置に走りこむと、徐々に見えてくる小さな人影。 
 フェンスの上の一番高い所で、子供はまだ俺の事を待っていた。
「……な、何だよ!」
 何だよじゃねえよ、チクショウ。
 俺は完全に腰の引けている声を聞いて胸を撫で下ろしながら、真夏日の犬みたいに舌を出してへたり込む。 
 ゲーセンに行ってる奴は、もうちょっとピンボールのことを労わるべきだと思うね。
 そのままの姿勢で息を整えた後、フェンスの上に足だけでまたがっている子供を見上げる。
 小学校高学年ぐらいか。ちょうど俺の妹と同じような雰囲気だ。身体は小さいし、変声期前で男か女か分からんが、さっきの口調からして男だろう。
 俺は少年(多分)に一応聞いてみた。
「お前、何やってんだ」
「……見ればわかるだろ! 飛び降りだよ! 自殺だよ!」
 やっぱりな。これで「財布落としたんです」なんて言われたら、こっちが飛び降りたい気分になるところだ。
 少年は乳歯みたいな牙を剥きながら、俺にむかって吠え立てる。
「何だよ! 止めたって無駄だからな! 絶対落ちるからな!」
 絶対落ちる度胸ないなこいつ。でも、こんな所にいたら本当に何かの拍子に落ちてしまうかもしれん。
 目の前でそんなスプラッタなシーンを見たくなかった俺は、説得を試みることにした。
「危ないからとりあえず下りろ。なんか世間に不満があるなら、俺が聞いてやるから」
 凡百の言葉しか出てこない俺の口。今度広辞苑でも読んでみた方がいいかもしれん。
「お前まだ小学生だろ。自分の人生を諦めるには早すぎるんじゃ……」
「中学生だ!」
「……失礼。あー、まだ中学生だろ。せめてお前、高校生になるぐらいまで頑張ってみろよ。そしたらあれだ、ほら、人生を変えるような出会いがあるかもしれないぞ」
 どっち方角に変わるのかは知らんが。
「うるさい! 別にそんなの無くていい!」
 駄々をこねるようにぐずる少年。
 やっぱり俺は説得とか苦手分野だな。ハルヒか古泉なら、上手くやるんだろうけど……。
 あ、そうだ。長門に連絡を取って、力ずくでも引っぺがしてもらおう。
 すっかり存在を忘れていた携帯を取り出すと、頭上から怯えたような声が降りかかる。
「あ、け、警察に電話するのか?」
 警察沙汰になるのは嫌みたいだ。俺としては、下にマットでも敷いてもらえりゃ、安心できるんだけどな。
「いや、お前を助けてくれる知り合いに電話するだけだ。それにお前、いつまでもそんな所にいたら、すぐに誰かが警察呼ぶと思うぞ」
「……ふん、誰を呼ばれたって下りないからな!」
「いや、下りるね。なんたって、俺が呼ぶのは宇宙人だ」
 少しでも興味を引こうと思って、そんなことを言ってみる。すまん長門。本当のことだから、勘弁してくれよ。
「宇宙人?」
 しかし、少年の反応は俺の予想していたものよりはるかに大きかった。
 こちらを大げさに指差すようにして、
「お前、涼宮ハルヒの仲間か!」 
「あ、ハルヒ? って、おい、馬鹿! 危ないっての!」
「え……、うあ、うわぁ!」
 無理な体勢でバランスを崩した少年が、顔を真っ青にしながらフェンスの上に両手でしがみつく。小便でも漏らしそうな雰囲気だ。
「あー、もう!」
 見てるこっちが先に心臓麻痺で死んでしまう。
 俺は携帯を放り投げ、走り高跳びの要領でフェンスにしがみつくと、田舎で親戚の子と遊びまわった経験をいかして蜘蛛のように上りまくり、まだ目をキョトンとさせている少年の首根っこを片手で掴んで、自分の体ごと屋上の床に放り出した。
「いっつぅ……」
 華麗に着地しようとしたが、さすがに足を捻ったらしい。カッコよくは決まらないもんだな。
 足首を押さえて蹲る俺を動物園のでかいイグアナを見るような目でみていた少年は、腰を抜かしたように座り込むと、わんわんと泣き出した。
 泣き虫ってのは、どこにでもいるもんだ。


 フェンスの下で肩を並べながら、俺は少年の話を聞いていた。
 なんでも彼の親は頻繁に転勤を繰り返しているらしく、それに連れられてあちこちを転々とする少年は、まったく友人を作ることができず、一人でずっと悩んでいたらしい。
 それに加えて、
「お前をいじめてる奴の名前は、本当に涼宮ハルヒっていうのか?」
 少年は目を擦りながら頷いた。
「宇宙人とか、未来人とか、超能力者とかは、みんなあいつの仲間なんだ」
 あいつ、中学校でもそんなこと言ってんのか。しかもいじめっ子。
 俺はただただ身内の愚行に恥じ入るばかりだった。さすがに情けなさすぎるぞ、ハルヒ。
 拳骨の一発でもくれてやりたいところだが、今の俺にはできんことだ。三年後に戻ったら、絶対たんこぶ作ってやる。
「もう、死んだ方が楽かもって思ったんだ。……今だって、そう思ってるよ」
 にしては腰が引けてたな、なんてことは口が裂けても言わない。あんな高い所、誰だって怖いに決まってるだろ。本人は涙を流すぐらい真剣だったんだ。
「よっしゃ、わかった」
 子の罪は親の罪。ハルヒも原因の一端を担ってるようだし、俺がなんとかするしかないだろ。
「今は無理だが、その涼宮ハルヒとかいう奴には、俺が責任を持ってお仕置きをしといてやる。必ずだ。友達の方は、そうだな、今は俺だけで我慢しとけ」
 まあ、すぐいなくなっちまうんだけどさ。
「別にいいよ。そこまでしてくれなくても」
 冷たい反応。思春期ってやりづらいな。
「実は、俺も今実家から出てきて、親戚の家に居候してるんだ。でもそこは女性しかいなくてさ、どうにも話が合わなくてな。話し相手になってくれる奴が欲しいなって思ってたんだよ」
「……うそっぽいよ」
 まあ嘘だけどな。でも、女しかいないってのは本当だ。
「いや、本当だって。学校にも行ってないし、暇で暇でしょうがない。な、どうだ。俺がこっちにいる間だけ、話し相手になってくれよ」
 俺の言葉を聞いた少年は、両手で膝を抱えたまま、戸惑うようにコンクリートのつなぎ目を見つめていたが、その内ゆっくりと頷いた。


 それから俺たちは中身の無い馬鹿みたいな話をしたあと、明日もここで会う約束をして、それぞれの部屋に戻った。
 新しい友達ができた、と思っていいんだろう。
 時間旅行ってのも、そう悪いもんじゃないな。





 三年前、三日目。妙な響きだが、事実なんだからしょうがない。
 昨日の少年の話を聞いた後では、正直ハルヒのご機嫌窺いなんて蚊の血を吸う部位の正式名称ぐらいどうでもよくなっていたんだが、俺たちが帰るためには、どうしてもあいつをご機嫌にしてやらねばならん。
 キムを人質に捕られたジャック・バウアーみたいなもんさ。
「昨日の涼宮ハルヒは、私達の用意した作戦の端緒にさえかかっていなかった。方法を根本的に変える必要がある」
 とは言え、俺達が積極的に介入するわけにはいかないしな。せいぜい道端に何か仕掛けるぐらいしか……
「そこで、動かしやすい第三者を使う」
「動かしやすい?」
 ……長門、まさか、お前。
 驚愕する俺に、長門は目だけで頷く。
 朝比奈さんはそんな俺たちを、子犬が飼い主を見るような目で交互に見つめていた。


 作戦その三 『小さな恋のメロディー 映画編』

 朝の早い時間。俺は長門がどこからか調達してきた易者変装セットを身に着け、裏道の影で息を潜めていた。
 やがて、欠伸をしながら表を通りかかる、アホそうな中学生。
「おい、そこの賢そうな中学生」
「え? 俺?」
 お前賢くはないだろ、と叫びだしそうになる自分を抑えて、俺は鷹揚に頷いた。
「そう。お主だ。お主は他の人にはないオーラを持っている。だからついつい呼び止めてしまったのだ」
「ふーん、おっさん、見る目ありそうだな」
 のこのことやってくる谷口。将来が心配だ。
 俺はできるだけ潰したような声を作ると、
「その体から溢れ出しているオーラに免じて、特別にただで占ってしんぜよう」
「え、マジで! らっきー」
 そこまで素直に喜ばれると、さすがに良心の呵責を感じるな。しかし、これも元の時間に帰るためだ。
 俺はおみくじみたいな奴を適当にしゃこしゃこ振り回し、それっぽいのを一本取り出して、
「お主は今、恋をしているな?」
「え? あ、うん。してるかも……」
「相手の苗字は、す、から始まってる。名前は……は、から始まる。違うか」
 谷口はビックリしたような顔でカクカクと頷く。インチキマジシャンと純真な少年。
「そうだろう。しかし、お主と彼女の相性は、あまり良いとはいえん」
 正直、最悪だ。
「ほ、ホントかよ?」
「ああ。だが、私の目には、それを何とかする手立てが見えておる。聞いてみるか?」
「もちろんだ! 聞かせてくれ!」
 ああ、何て思い通りのリアクションをしてくれる奴だ。お前が魚なら、五秒で釣れる自信があるぞ。
「彼女は、今自分が置かれた状況に、かなりの不満を感じておる。というか退屈しておる。そこで、」
 俺は服の下に忍ばせた映画のチケットを取り出し、
「このペアチケットを使って、お主がその退屈を紛らわせてやるのだ」
 谷口は目を輝かせながら、
「そ、それ、くれるのか?」
「うむ」
 料金は三年ローンにまけといてやろう。
「ありがとう、おっさん! おれ、頑張るからな! 友達にもあんたのこと宣伝しといてやるよ!」
「頑張るのだぞー」
 俺はひらひらと手をふって、スキップするような足取りで去っていく谷口を見送った。
 しばらくして、偵察役の長門から連絡が入る。
『涼宮ハルヒは、彼の誘いを承諾した。今日の放課後、さっそく駅前に向かう模様』
 よし、これであとは、谷口が上手くやらないまでも、少しでもハルヒの気を紛らわすことができれば、何とかなるかもしれん。
 ……無理だろうな、絶対。





 その日の夕方。
 またも買出しと尾行に出かけた女性陣二人を待つ間、隣のマンションの屋上で、少年と二人でお喋りをする。
 実際、女性二人に対して男一人、しかも一つ屋根の下ってのは何となく気を張ってしまうため、年下の同性と話をするのは結構楽しかった。
「そのハルヒってのは、ガキ大将みたいな奴なのか?」
「うん。もうすごいよ。いっつも怒ってばっかりで、竜巻みたいに大暴れしてるんだ」
 俺は前に聞いた古泉の言葉を思い出していた。あいつの精神状態、一時期ひどかったらしいもんな。
「クラスの中に、そいつを止められるような男気溢れる奴とかいないのか?」
「……うん。いることはいるけど、それでも、いつもってわけにはいかないしさ」
 じゃあ、そいつらにくっついてればいいんじゃないか?
「それもちょっと、かっこ悪いし……」
 そんなもんかね。 
「ま、お前も男だしな。もうちょっとでかくなれば、そんな奴なんてすぐに……」
 ……しまった。ハルヒに現在進行形で振り回されている俺には、あんまり偉そうなことは言えない。
 俺が別の言葉を言おうとすると、少年は自嘲気味に、
「いいよ、僕は。そんなに強くならなくても、やりすごせれば、それでいい」
「……そうだな。人には向き不向きってものがあるしな」
 たしかに、あのエイリアンに寄生されたじゃじゃ馬より性質の悪い娘を相手にできるのなんて、限られた一部の人間だけだろう。
「それよりさ、何で実家を出てきたのか、聞いていい?」
 ええっと、
「あれだ、ちょっと悪いことしちまってな。親からは、その始末をつけるまで帰ってくるなって言われてる」
「悪い事って?」
 悪い事、悪い事……どうしよう。なかなか思いつかないな。
 しかたない。無理矢理話題を変えるか、と思い顔を横にやると、少年の様子がおかしい事に気付いた。 
「どうした?」
 少年は答えない。俯いたままで、じっと肩を抱いている。
 なんだ? ひょっとして寒いのか? 馬鹿な。今は夏だぞ。いや、夏風邪かもしれないよな。
心配になって、少年の額に手を当てようとすると、
「ひっ……」
 手のひらに怯えるようにしながら、俺から遠ざかっていく。少年の背中に当たったフェンスが、海鳴りのような音をたてた。
 俺は慌てて差し出した手のひらを見てみたが、何がついているわけでもない。
「……おい、どうしたんだよ。大丈夫か」
 少年はそわそわと周りを見渡すと、 
「み、みず……水、買ってきてくれないかな……」
 焦ったように言葉を紡ぐ。
「水?」
 病気か何かなのか?
「あそこに、コンビニがあるから」
 指差した先には、見慣れたコンビニの看板。
「でも、俺は鍵持ってないから、一回出たら入って来れなくなるかもしれない」
 昨日入れたのはラッキーだったし、今日は少年の部屋に連絡して開けてもらった。
「そうだ、俺がお前の部屋に行って、水持ってきてや……」
「水道水じゃダメなんだ! 鍵なら僕のを貸すから!」
 投げられた銀色の鍵を、慌ててキャッチする
「わ、わかったよ。ちょっと待っててくれ」
 何か知らんが、よっぽどのことらしい。
 俺はまたしても転がり落ちるように階段を下りると、コンビニに向けて走りだした。
 たまにはエレベーターを使わせて欲しいもんだな。愚痴っぽい事を考えながらも、大急ぎでミネラルウォーターを買ってエントランスに戻ると、鍵を差し込んで扉を開く。
 すぐに閉まろうとする扉を潜る直前、天井のライトの陰に、赤色の突起があることに気付いた。
 何かのスイッチだろうが、まあ、今は気にしてる場合じゃないか。
 急いで階段を駆け上り、屋上に行ってみると、
「あれ?」
 そこに少年の影は無く、代わりにぺらぺらの紙が一枚、置石にされたタイルの下で、申し訳無さそうに揺れていた。


調子が戻ったので、部屋で眠ることにしました
鍵の方は、そのまま持ってて 
明日返してくれればいいです
それと、心配かけてごめんなさい
全然大丈夫なので、どうか気にしないで下さい
じゃあ、また明日
水は飲んでもらって構いません 』

 俺はしばらく呆然としたまま、コンビニの袋を握りしめていた。