俺がまっとうでない人生を過ごしている現在時間をさかのぼる事、三年前。七夕が少し前に過ぎ去った日のこと。
 朝日もまだ昇っていないうちから、東中の下駄箱に怪しく蠢く二つの影があった。
 まあ、俺と朝比奈さんなんだけどな。
「す、す、す、数奇屋、鈴木、涼宮、……朝比奈さん! こっちにありましたよー!」
「はーい!」
 可愛らしいサンダルを履いた朝比奈さんが、森の小動物のように軽い足音を響かせながら駆け寄ってくる。
「あ、こっち側だったんですね」
 丸めて結い上げた髪の毛と、ブラウスの下のタンクトップが夜気にまぎれてもなお眩しい。夏っていいな。
「ごめんねキョンくん、ちゃんと下調べできてなくて」
 全然かまいませんよ。朝比奈さんと一緒なら、懐中電灯で下駄箱の名前を確認するような陰険な真似をしてても、俺の胸は爽やかな春風で満たされっぱなしです。
 俺の言葉を聞いた朝比奈さんは、暗闇の中でも衰える事のない輝く宝石じみた笑顔で頭を下げると、一転して緊張した面持ちになりながら、ポケットから小さな箱を取り出して、ゆっくりと開く。
「じゃあ、今のうちにやってしまいましょう…………あいたっ!」
「だ、大丈夫ですか?」
「ううー、刺さっちゃいましたぁー」
 朝比奈さんの手元に懐中電灯を当てると、白く柔らかそうな指先の一点に、ドット欠けのような暗い染みができてしまっていた。ああ、痛ましいお姿。
「俺がやっときますから、朝比奈さんは手元照らしといてください」
 指を自分の口の中に入れて消毒する朝比奈さんに、栄えあるルネサンス期の絵画にも劣らぬ芸術的価値を見出しながら、箱を受け取って中身を二つ摘まみ出す。
 明かりの下で鈍く輝く、尖った金色。
 要するに画鋲だ。
「すまんな、ハルヒ。これも、えーっと、何か知らんが、多分未来のためだ」
 適当な事を言って罪悪感を誤魔化しながら、でかいフォントのゴシック体で『涼宮』と書かれたシューズの中に、針を下にして画鋲を入れる。
 あいつは鋭いからすぐ気付くだろうが、万が一刺さったりしたらさすがに可哀相だしな。
「よし、完了です」
「うぅ、何から何まですいません……」
 いえいえ。指を口に咥えた可憐な姿、こちらこそごちそうさまです。
「じゃあ、取りあえずここを出て時間を潰しましょう。腹も減りましたし、ファミレスなんかどうですか?」
「うん、そうしましょう。手伝ってくれたお礼に、私が奢ってあげますね」
 昇り始めた朝日に照らされて、ぼかした様な灰色を取り戻しつつある下駄箱の間で、俺たちは笑い合う。
 人のシューズに画鋲を入れるという、無視するには微妙に大きすぎる後ろめたさをかき消すための笑いだった。
 なんか、みじめだな。





 さて、たしかに俺はハルヒに対して、自然災害によって家を滅茶苦茶に荒らされるお年寄りのような感情を抱くことも多々あるのだが、いくらなんでも時空を超えてまで、いじめらっれ子の小学生がするような仕返しをしたいと思ったことは一度もない、と思う。
 そんな俺がどうして三年もの気の遠くなるような時を越えて、ハルヒのシューズに画鋲を仕込んでいたのかと言えば、
「本当にごめんね、キョンくん。未来からの指示だからって、こんな事に付き合わせちゃって」
 ま、こういうことだ。
 俺に朝比奈さんのお願いを聞いて頭を横に振る機能なんて備わっている筈が無く、二つ返事でお誘いを承諾した結果、もう何度目か分からない三年前の時空に足をつけてるってわけさ。
「にしても、中学時代のハルヒのシューズに画鋲を入れとけって、さっぱり意味がわからない指令ですね」
 いつもの事っちゃいつもの事だけど。
「ええ。でも、大切なことらしいですから。……涼宮さんには、やっぱりちょっと申し訳ないですけど……」
 ガムシロップたっぷりのアイスコーヒーを啜っていた朝比奈さんは、義務感と罪悪感が複雑に混じりあったような顔で小さく息を吐く。
 いかん。せっかく朝比奈さんと二人っきりという夢のような時間だってのに、こんな雰囲気のままじゃ近所の霊園とかで無縁仏の供養をしてしまいそうだ。
「ハルヒには悪いけど、これも規定事項ってやつなんでしょう。それに、あいつのシューズに画鋲が入ることが、皆にとってすごくいい結果に繋がるかもしれないじゃないですか」
 風が吹いても桶屋がもうかるぐらいだしな。世界の食料危機とかが改善されるきっかけになるかもしれん。
「だから、悩んでてもしょうがないと思います。それより、夕方までの時間を何に使うか決めませんか? そっちの方が、きっと楽しいですよ」
 実は未来からの指令はもう一つあって、それは『夕方の六時まで同時空に留まっておけ』というものだ。
 ハルヒには本気で申し訳ないという気持ちもありつつ、合法的に朝比奈さんとデートできるチャンスを見逃すことができないアンビバレンツな男子高校生の気持ちを、どうか理解して欲しい。
 朝比奈さんは少しの間、考え込むように俯いていたが、すぐに顔をあげると、
「そうですよね。うん、折角だし、夕方まで楽しんじゃおっか」
 春の陽射しみたいに暖かな笑顔を見せてくれた。氷河期の恐竜たちに見せてやりたいね。


 その後、俺と朝比奈さんは駅前で三年前の流行を眺めてみたり、電車に乗って普段行かないような観光名所なんかを回ったりした。
 俺の感想はただ一言で足りる。生きててよかった。
 しかし、世の中ってのは複雑に見えて単純にできている。子供の頃やったシーソーとブランコを思い出してみればいい。高い所の次に待ってるのは、地面すれすれの最低だ。
 それに昔から言うだろ、ほら、因果応報、勧善懲悪。
 とにかく、人の靴に画鋲を入れるような悪い事なんて、するもんじゃないってことさ。





「……やっぱりダメ。時間移動どころか、通信すらできなくなってる……」
 北高にある狭いトイレの個室の中。朝比奈さんの綺麗な顔は窒息寸前のように青ざめている。
「落ち着いて、朝比奈さん。もう一回、もう一回試してみてください」
 朝比奈さんは首を横に振る。頭の上で丸められた長い髪の毛も、それに倣って不安そうに揺れていた
「何度やっても同じ。強烈なジャミングがかかってるみたいなの。それが無くならない限り、TPDDが正常に作動するとは思えない……」
 簡略化すると、帰れない、ってわけだ。
 三年前の時空に取り残される二人。冬の雪山よりはまだマシかもしれないが、ロマンスには程遠いな。
 脳漿でベストドラマー決定戦でもやってるんじゃないかと思うぐらい痛む頭を抱えながら、俺は情けない声をあげる。
「原因とかってのは、わからないもんなんですか」
 朝比奈さんは壁の方を向きながら、独り言のようなトーンで、
「……正確にはわからない。でも、涼宮さんの作り出した時間震動に似てるかも……そういえば、ここは震源時空からも近いし……けど、さっきまでは問題なく……」
 バラけた思考を整理するように、壁に向かって呟き続けている。
 俺も閉じたままの便器に腰を下ろして、役に立たないなりに善後策を講じようとしたが、自分が一般人だということを思い出して、すぐに止めた。閃くはずの電球がそもそも無いからな。
 しかし、ほとほと三年前ってのは俺と縁が深いらしいな。この時空の長門の部屋では、数ヶ月前の俺が暢気に爆睡してるだろうし、家では中一の俺が晩飯でも食ってるはずだ。
 普通に考えたら気が狂いそうな話だが、まあ俺にとっちゃ今更だ。宇宙人だの未来人だの超能力者だのと付き合ってたら、いつの間にか免疫ができて……
「……そうだ!」
 突然の大声にピクリと震える朝比奈さんに構わず、俺は続ける。
「朝比奈さん、長門の家に行ってみましょう。あいつなら原因を知ってるかもしれないし、何か上手い手を教えてくれるかもしれません」
 最悪、また三年ばかり寝かしてもらえばいい。
 長門には迷惑をかけちまうかもしれないが、身を隠したまま三年も過ごすってのは、さすがにぞっとしないからな。
「……そうですね。どちらにしろ、私たちだけではどうにもなりません。長門さんを頼らせてもらうのが、一番の近道かも」
 俺と朝比奈さんは頷き合うと、トイレの個室から足を踏み出した。
 ちなみに、今までいたのは女子便所である。
 俺は城主の寝首をかけ、失敗すれば一族の命はないぞという命令を受けた凄腕忍者のように、人の気配を窺いながら慎重に歩を進めた。
 ニンニン。





 もうお馴染みとなった三年前の長門は、いつもどおりの無愛想さで、快く俺たちを迎えてくれた。
 無言で勧められるままテーブルの横に腰を下ろすと、薄い色のお茶まで用意されている。至れり尽くせりって感じだな。
 俺の横で正座している朝比奈さんは、友達に無理矢理誘われてやった悪戯がばれてしまった気弱な少女のように恐縮していた。
 対面に座った長門は、一口も飲んでいないお茶を両手で覆ったまま、
「涼宮ハルヒが、この時空を他の時空から切り離すために、大規模な時空震を発生させている」
 やっぱりハルヒか。ナマズと勝負できるぐらいの地震娘だな。違うのは髭の有無ぐらいだ。
「しかし、彼女がその様な行動を起こすに至った原因は、あなた達にある」
「ひぇ?」
 朝比奈さんが小鳥みたいに不器用な声で疑問符を浮かべている。もちろん俺も同じ気持ちだ。
「俺たちって……俺と朝比奈さんのことか?」
「そう」
「……今お前と喋ってる俺たちのことか?」
「そう」
 はは、そんな馬鹿な。俺たちが今日やったことといえば、シューズの中に画鋲を仕込んだり、朝比奈さんと楽しいひと時を過ごしたぐらいで、悪い事は何にも……あれ?
「ひょっとして……」
 長門は、まだ外していない眼鏡の下から、射抜くような目で俺を見つめながら、
「今朝早く上履きの中に画鋲が入れられているのを発見した彼女は、誰かが自分に危害を加えようとしていると判断し、非常に大きなストレスを発生させている」
 嫌な予感が、タービンで蒸気を発生させるぐらいのフルスロットルで加速し始める。
「加えて、放課後まで同級生を締め上げ続けても誰がやったか分からなかった彼女は、絶対に犯人を逃がしたくないと強く願い、この時空に閉鎖的な属性をもたらしている」
 朝比奈さんの、湯飲みを持つ手が震えている。
 それもそのはず。今回起こった大規模な時空震は、完全に俺たちのせいだった。
 というか、仕返しのためだけに時空を切り離すって、無茶にも程があるぞ。
 朝比奈さんが堪らずに声をあげる。
「で、でも、未来からそういう指示が来てて……」
 対する長門は冷静に、
「おそらく、この事態を見越した上での指示だと思われる。時空震が起きたのは、午後五時五十三分。学校が閉まり、犯人探しができなくなった時間。それ以前から飛べば、時空のブレに巻き込まれる可能性がある」
 夕方六時までこの時空に留まれってやつか。それまで朝比奈さんと楽しく遊んでいた俺としては、なんか美人局の詐欺に遭った気分だな。
 かなり失礼なことを考えつつ、三年後より微妙にとっつき難い長門に尋ねてみる。
「それじゃあ、これから俺たちはどうすりゃいいんだ?」
「そこまではわからない。しかし、これは絶対的な時空断層ではない。時間を置けば解決する可能性が高い」
 時間って、どのぐらいだ?
「それも不明。一日かもしれないし、一年かかるかもしれない」
「い、一年ですか!?」
 朝比奈さんがうろたえたている。心配しないでも、あなたは何年経ったって美しいままです。だが、俺は薄汚いおっさんになる可能性もある。それは勘弁願いたいな。
「他の手はないのか、長門?」
 長門は頷いて、ずれた眼鏡を戻しながら、
「簡単な手がある。私達で、涼宮ハルヒの心を安定させればいい」
 なるほど。あいつが自分でストレスを処理するのを待たず、こちらが打ち消してやればいいわけだ。自分でやったことの尻拭いを自分でやるって感じ。
 しかし、こっちだって未来からの指示で仕方なくやったんだぜ。そう考えると、何となく納得いかない話だな。
 それとも、また三年寝太郎ごっこをやれってことなのか?
「それは推奨できない」
 冷蔵庫の稼動音より小さく、長門が呟いた。
「この部屋は、もう既にあなた達が眠っているので使えない。もう一つ部屋を用意することになれば、どちらかに私の目の届かない部分が出てくる危険性がある」
 眠ったままどうにかされるってのは、御免被りたいな。それに、戻れる可能性があるのなら、これ以上長門の手間を増やす道理はない。
「わかった。要するに、あいつの傾ききったご機嫌を直してやりゃいいんだな?」
 長門は三年後と同じ角度で、小さく頷いた。
 そうと決まれば話は簡単だ。ここ一年そればっかりやってきたんだからな。餅は餅屋って奴さ。
「あの……本当にごめんなさい」
 湿ったような言葉が、横から聞こえてきた。朝比奈さんの方をみると、大きな目一杯に涙を溜めながら、ぺこぺこと頭を下げている。
「ごめんなさいキョンくん。変なことに巻き込んじゃって……私、こんな事になるって知らなかったから……長門さんも、また迷惑かけちゃいました」
 下手糞な泣き笑いの顔で、自分の頭を小突く。
 朝比奈さんは自分の頭を叩くときの仕草も、泣きそうな顔も壮絶に可愛らしいが、笑顔でいらっしゃる時はその二億倍可愛い。
「そんなの、全然ですよ。むしろ楽しいぐらいです。なんせしばらく学校に行かないでよさそうですし。気を張らないで、休暇気分で頑張りましょう」
 朝比奈さんと旅行に来たと思えば、迷惑どころか、金を払いたくなってくる気分だ。
「それに長門だって、そんなの気にしちゃいないですよ。な?」
 長門は朝比奈さんの方を真っ直ぐに見つめながら、 
「できる限りのことは、する」
 小さいが、温度のある声だ。
 朝比奈さんはそれを聞いて、ますます涙を流し始めた。
 結局、泣きつかれた朝比奈さんがころりと眠ってしまったこともあり、俺たちは元の時間に帰れるまで、長門の部屋で世話になることになった。
 頭が上がらないね、まったく。