やたらと体格のいいゴスペル歌手の歌声みたいに厚く覆われた熱気がアスファルトを燻り出す正午。
 久々の制服に身を包んだ俺は、いつまで経っても歩き慣れない北高へ続く坂道をナメクジのようなスピードでぐずぐずと登っていた。
 どうして折角の夏休みにわざわざこんな真似をしているのかと言えば、理由は簡単、忘れ物を取りに行くためだ。
 今朝十時ごろ、大変珍しい事に目覚ましを頼ることなく起床した俺は、大変珍しい事に携帯からやかましい声が一切聞こえてこないことに安堵しながら朝食を食べ、満足して部屋に戻ると大変珍しい事に宿題でもやってみようかという気分になった。
 が、しかし。いざ宿題をやろうする段になって、肝心の問題集が見当たらない事に気付いたのである。
 はて。眠っている間に仕事をしてくれる小人の話は聞いたことがあっても、問題集を盗み出すような悪戯好きの妖精の話なんて知らないんだけど。もしあったとしても、ろくな教訓を得られなさそうな話だよな。
 暢気な事を考えつつも割と焦りながら机の上を漁っていた俺は、唐突に思い出した。
 先日の登校日。あの日持っていった鞄の中には、休みの始めから入れっぱなしだった問題集がびっしりと詰まっていた。そして俺は登校するなり、いつもの習慣でそいつを机の中にぶちこんでしまっていたのだ。もちろん帰りは、いつもの習慣でばっちり置き勉。
 習うより慣れろというが、慣れすぎて習えない時もある。妖精の教訓は結構厳しい。
 まぁそんなこんなで、俺は問題集の眠る学校に向かうべく家を後にしたわけだ。いつもならハルヒ辺りに責任の出所を求めるところだが、今回は完全に俺のミステイクだしな。言い訳する暇があれば足を動かした方がマシってもんさ。
 ……それにしても暑いな。
 勝手に上向いてしまう顎に従って見上げた空は、家で氷をがりがり貪っている妹の頭の中と同じぐらい晴れ渡っており、紫外線のレーザービームはこれでもかというぐらい筒抜けだ。お役所仕事もいいとこである。地球はもう少し自分の身を労わった方がいいんじゃないか。
 眩しい陽射しに辟易しながらグラウンドに目をやると、各々のユニフォームに身を包んだ部活生たちが、炎天下に負けじと声を張り上げて運動に勤しんでいる。何とも健気なこった。俺はどうもああいうのは性に合わないね。
 もしそんな俺の心の声が聞こえていたとすれば、彼らは口を揃えてこう言うだろう。
 俺たちだって、でかいカマドウマと戦うのが性に合っているとは思わない。





 天然我慢大会みたいな外よりはいくらかマシな校舎内に入り、お馴染みの教室で目的の問題集を奪取する。
 だけど代償は大きかった。ずっしりと重い鞄を持って帰るのは、結構な重労働になるだろう。怠け者な自分のことだ。このまま帰ったとしても、風呂に入って昼寝して勉強するのはまた明日ってことになりかねない。
 こういう時はあそこだよな、ほら、図書室。
 あそこは冷房も効いているし、この時期なら夏期講習に出ている受験生のために解放されている。
 なかなかの名案だぜ、などと自画自賛しながら歩く事数分足らず。
 数える程しか行ったことのない図書室に足を踏み入れると、冷房の乾いた風が吹きつけ、服の間で中華の蒸し物みたいに籠もった熱を奪い去ってくれる。獲られてももったいなくないのは、余分な熱量かハルヒのトンデモパワーぐらいのもんだろう。
 耳をすまさなくても聞こえてくる、押し殺したような笑い声や囁くような話し声に押されながら、俺はぽつぽつと埋まった席の間のちょうどいいスペースに腰を下ろした。
 うちの図書室は市立図書館と違って、私語に関しては割と緩い。まぁもっとも、教師が常駐しているわけでもないこの部屋で口を開くなって言う方が無理のある話なのかもしれないが。それでも皆声を潜めているのは、真剣に本を読んだり勉強したりする人もいるってことを知っているからだろう。今時の高校生にだって、それぐらいのモラルと想像力はある。しかし、長門が本を読む時に図書室ではなく部室を好んで使うのは、そういう部分を気にしてるのかもしれないな。
 と、考え事をしながら何となく目を向けた隣の席で思わぬ人物を見つけた俺は、思わず固まってしまった。
「あれ……」
 たしか、喜緑江美里さん……だったっけな。部長氏の件の依頼主であり、黒幕かもしれない人だ。
 座って静かに読書している姿は長門を彷彿とさせるが、ページを捲る所作があいつよりも少しばかり柔らかいような気がする。外見のせいか?
 俺は声をかけようかどうか一瞬迷ったが、結局黙っていることにした。
 口を聞こうにも、何喋ればいいかわからないしな。それにまさか、年頃の女子生徒に向かって昆虫の話なんてできないだろ。
ここは大人しく勉強するに限る。そう決心して、英語教師謹製問題集と向かい合った。
 ……んだけど、やっぱり気になるな。
 シャーペンを動かしながらも、ちらちらと視線を横に動かしてしまう。客観的に見るとかなり不審だ。
 するとその内、嫌な気配でも感じたのか、喜緑さんは小柄な顔をふっと上げるやいなや、思いがけない速さでこちらに顔を向けてきた。
 慌てて視線を逸そうにも間に合わず、俺たちは目を見合わせる。何ともいえない一瞬。それが過ぎると、喜緑さんは華やいだ笑顔を作った。思わぬ場所で知人を見つけたリアクションとしては至って自然な仕草だ。
 しかし、そんなそつのない笑顔も、俺の目にはどことなく不自然に映る。
 今のって、ちょっとびっくりしてたような。
 長門と対することで鍛えた俺の眼力は、まさに明鏡止水。防水スプレー並に水分をはじきまくりだ。
 まぁ、この眼力が長門以外に適用できるのかどうかはまったくの謎であり、つまるところ自分勝手な解釈に過ぎなかったりするのだが。
 俺は偏見に満ちた考えをおくびにも出さないまま軽く会釈すると、改めて手元の問題集に向き直る。
 一度目を合わせてしまったからには、もう横を向くわけにはいかん。じろじろ見てるのが気付かれたら、変に意識してるみたいでかっこ悪いじゃないか。向こうにだって妙な誤解をさせてしまうかもしれないし。いや、もう遅いか?
 若者特有の自意識を誤魔化すために意地になって問題に取り掛かっていると、やがて本気で集中し始め、アルファベットで埋め尽くされた頭の中から喜緑さんの存在が薄れていくのに、さして時間はかからなかった。
 我ながら単純なこった。





 しかし、そうやって調子づいていられたのも少しの間。
 問題が英訳の部分に差し掛かると、俺の頭はすっかり動きを止めてしまった。
 まずい。さっぱりわかんねえ。
 英文を訳すのは割かし得意なんだが、その逆は大の苦手なのだ。文章を繋げるセンスが致命的に欠けている。かと言って英訳を全部飛ばすのはアレだしな。嫌いなものを最後まで残すようなガキっぽい真似はしたくないじゃないか。
 なので、苦心してそれっぽい答えをでっちあげてみた。
 お、何だか本当にそれっぽく思えてきたぞ。というかこれでばっちりだろ。
 もう無理矢理正解だと割り切って、落鳳破に向かう鳳統のように空回る自信満々で次の問題に取り掛かろうとしていると、
「間違ってますよ、それ」
 思わぬ所から声がかかった。
 驚いて首を動かすと、二メートルほどあったはずの喜緑さんとの距離が五十センチに近づいている事に気付いて、俺はさらに驚いた。いつの間に椅子動かしたんだ、この人。
「そのままじゃ文法的に成り立ちません。この文章なら……」
 僅かに身を乗り出した喜緑さんは、俺の筆箱から鉛筆を取り出すと、開きっぱなしの問題集の端でさらさらと走らせる。作り物みたいに細い指。
「……と。ほら、これならマルをもらえますよ」
「え? ……あ、ああ。どうも」
 俺が綺麗な指に見とれている間に、問題集の端の空白に端正な筆記体が描き出されていた。
 少し呆然としたあと、慌ててそれを解答欄の部分に書き写す。
 実は筆記体を読むのは苦手だったりするんだが、喜緑さんの字は癖が無くて読みやすいな。
「苦手なんですか? 英語」
 手を動かす俺に、喜緑さんは問いかけてくる。
「はい。英訳がちょっとキツイですね」
 英語に限らず、成績は全体的にキツイですけど。
「でしたら、私が教えて差し上げましょうか?」
「へ?」
 俺はすっとんきょうな声をあげながら、ほんわかした笑顔の喜緑さんを凝視する。
 勉強を教えてくれる? 喜緑さんが俺に? 思いもよらない提案だ。
 先日の部長氏の件に関して、俺は喜緑さんに多少なりとも疑いを持っていた。長門の共犯か、或いはどこか別口の連中の一員なのか。
 とにかく部長氏の証言からして、ただの美人な上級生ってわけじゃないのは確かだ。そんな彼女がこうして俺に接触してきたってだけでも正直言って意外に思ってたのに、この上個人授業まで申し出てくるとは。さて、今度は一体何の前フリなんだ? コーカサスオオカブト退治とかか?
 考えが顔に出てしまったのだろうか。喜緑さんは俺を安心させるようにそっと頷くと、
「あなた方には先日お世話になりましたし、それに今日は私、とっても暇なんです。本を読み終えてしまったら、もうやることが無くなっちゃって。だから、恩返しと暇つぶしを兼ねて、せめてお勉強を教えて差し上げられたらな、なんて思ったんですけど」
 どこぞの赤球野郎とは違って胡散臭さの欠片も無い仕草で膝の上の両手を組み、
「いかがですか?」
 にっこりと笑う喜緑さん。以前会った時は、沈んだ表情で誰とも目を合わせようとしなかったのに。
 俺は速達で言った。
「お願いします」
 この人がどこの誰かなんてさっぱりわからないが、まぁ、あれだ。危ない奴なら、もっと前に長門が注意してくれているはずだし。
 第一考えても見ろよ。こんな風に頼まれて、俺が断れるわけ無いだろ。おまけに宿題を一緒にやってくれるときたもんだ。カモネギに土鍋セットって感じじゃないか。
 一人より二人。二人より美人。思春期の法則は最優先なのさ。





 少しでも手を止めれば横からすかさず的確な助言がもたらされる、リュケイオンもかくやという理想的な環境で勉学に励む事二時間近く。いつの間にやら英語の問題集は九割方埋まってしまっていた。
 このまま行けば他の課題も今日中に終わらせる事ができるかもしれない。でも、さすがにそこまで喜緑さんを付き合わせるわけにはいかないだろう。
 俺は最後の問題を解き終わると同時に、シャーペンを筆箱の中に戻した。それから改めて喜緑さんに向き直ると、
「今日はどうもありがとうございました。お陰で最終日に泣きを見ないですみそうです」
 ぺこりと頭を下げる。本当に助かりました。
「少しでもお役に立てたのなら幸いですけど」
 いえいえ。少しどころか、めちゃくちゃ大いに役に立ちましたよ。
「なら、良かったです」
 柔らかい言葉に、俺はできるだけ誠意をこめた笑顔で返しながら、鞄を掴んで立ち上がる。
「じゃあ、俺もう行きます」
 汗もすっかり引いたし、教えてもらったことを糧に、残りは家でじっくりやるとしよう。……寝なければの話だけどな。
 喜緑さんはゆっくり頷くと、
「そうですか。それでは、また」
 朗らかな、だけど少しだけ残念そうにも見える顔。
 ……どうも今日は眼球に長門フィルターが張り付いているらしい。
 そう言えば、まだ昼飯食べてないな。
 俺は出口に向かおうとしていた足を止めて、喜緑さんに向かい合う。
「昼、もう食べました?」
 誓って言うが、下心があったわけじゃないぜ。
 ただ何となく、このまま別れるのはもったいないな、と思っちまっただけなんだ。 






 喜緑さんは意外やらそうでないやら、ぶしつけなランチのお誘いを快くOKして下さって、今は俺の隣、というか半歩後ろについて歩いている。
 上級生相手にこの位置関係というのは気を使うのだが、何とかしようにも少し後ろに付き添う喜緑さんの姿がひどく様になっていたため、結局口出しできずにいた。水仙のように清楚な姿。一緒に歩いているのが俺なんかでいいのだろうかと不安になってしまう。
 さて、そんなある意味デコボココンビな俺たちが向かっているのは、学校の近くにある軽食店だ。
 学食は夏季休業中なので、手近な所となるとそこぐらいしか思いつかなかった。俺はあんまり利用したことないんだけど、以前一度だけ谷口たちと行った時は、結構美味しかった記憶がある。
「そのお店なら、私も何回か行ったことありますよ」
 喜緑さんは、少し気後れしてしまっている俺に感付いているのか、さっきからちょこちょこと話題を振ってくれていた。歩く姿だけでなく、気配りも一級品だ。
「うちの生徒で通ってる奴、結構多いみたいですね」
 なんせ近いから。
「でも私があそこに行ったのって、今年の夏休みが初めてだったんです」
 どことなく楽しそうな声。
「何か部活でもしてるんですか?」
 俺は尋ねる。そうでもなければ、夏休みにわざわざ学校の側まで来ることはないんじゃないだろうか。駅前にでも行けば、もうちょっとマシな所が沢山あるんだし。
 しかし喜緑さんは、
「いえ。今は帰宅部です」
 きっぱりと否定した。今はってことは、以前どこかに所属していたのだろうか。
 少し言い回しに疑問を抱きながらも、
「じゃあ学校へは何しに? ひょっとして図書室目当てとか?」
「そうですね。退屈な時はたまに。ですから、お昼に誘われるのは、いつも図書室です」
 なるほど。喜緑さんはいかにも優等生っぽい感じだからな。休みの日に図書室くんだりまで来て勉強するぐらい真面目な友達が、沢山いるに違いない。
 冗談交じりにそんな風なことを言うと、喜緑さんは笑うような息遣いで、
「でも、私を誘ってくれるのはいつも同じ人なんですよ」
 へぇ。クラスメイトですか?
「いいえ。ちなみに言うと、その人は男性です」
 わけもなくドキリとした。他人の、それも綺麗な女性からこういう話を聞くのは、何となく複雑だ。キャベツに砂鉄をふりかけた物を口に入れられたような気分になる。
 内心の動揺を誤魔化すように、俺は言った。
「その人は、喜緑さんに気があるのかもしれませんね」
 それともその人はひょっとして、コンピ研の部長だったりします?
「さあ、どうなんでしょう」
 はぐらかす風でもなく、ただ面白がるように喜緑さんは笑う。俺はそれ以上突っ込まなかった。ミステリアスな魅力に水を差したくはない。





 綺麗と汚いのちょうど中間点に位置するようなその店は、喫茶店とレストランの中間に位置するような内装が特徴的だ。
 何回か来た事があるという話は本当のようで、キョロキョロする俺をさしおいて慣れた風に店内を進む喜緑さんは、学校が良く見える窓際のテーブルに腰を落ち着けた。外見とは違って、意外と引っ張ってくれるタイプの人なのかしれない。
 そして、頼んだ料理を待つ間。
 喜緑さんは自分のことをあまり話さなかったが、その分俺に色んな質問を投げかけてきた。
 最初はそれにぽつぽつと答えるだけだったんだが、料理が運ばれてくる頃には俺の口は開きっぱなしの蛇口みたいになってしまっており、終いには聞かれてもいない中学の時の思い出話やら普段心に閉まっている諸々の悩みやらがダダ漏れ状態。
 いや、俺だって普段ならここまで喋ったりしないんだぜ。しかし偶に挟まれる喜緑さんの相槌なんかがまた絶妙で、口のネジを無理矢理ギャリギャリと回されてるみたいな気分になっちまったんだ。凶悪的なまでの聞き上手。
 気付けばテーブルの上はすっかり片付いており、窓の外ではソーダみたいに青かった空の色が混じり気のある紫に変わりはじめていた。





 派手な色の空の下。
 俺と喜緑さんは相変わらず半歩離れたままで並び、ゆっくりと坂道を下っていた。
 昼間のハロゲンヒーターみたいな暑さも、ストイックに響く部活生たちの掛け声もない。鬱陶しかった分、少し寂しかった。
「すいません。俺、調子に乗って喋りすぎましたよね」
 初対面に近い人の前で失敗するのは、結構へこむ。
「そんなことないです。私って話せることがあんまりないので、すごく助かりました」
 喋りすぎている事は否定しない。複雑だった。
 しかし、それもこれも喜緑さんの口車に乗せられたせいである。責任転嫁しなくては。
「でも喜緑さんって、凄く聞き上手ですね。委員長とか向いてるんじゃないですか?」
 社交辞令抜きで、本当にそう思った。コツを教えて欲しいぐらいだ。俺だってたまには宇宙人とか未来人とか超能力者とかの変人じゃなく、まともな人々から人気を集めてみたい。
「ありがとうございます。そんなこと言ってくれるのは、あなただけです」
 何でもないように答える喜緑さん。
 もしもその言葉が謙遜ではなかったとしたら、周りの奴らの目が節穴だな。いつもあの店に誘ってる男は、一体何をやってるんだ。
「何だか、もったいないですね」
 俺は思わず声に出してしまった。
 だって、本当にもったいない。その巧みな話術を持ってすれば、大抵の人と上手くやれるだろう。とくにうちの薀蓄番長こと古泉なんて、思う存分弁舌を振るえる相手を欲していそうだからな。相性ピッタリかもしれん。
「いえ」
 しかし、喜緑さんはこれもやんわりと否定した。
「本当に私、そういうの得意じゃないですから」
 定型文みたいな声。
 得意じゃない、ね。
 勉強を教えたり人の話を聞いたり、そういうことが苦手な人も確かにいるだろう。もちろん俺だって、全然得意じゃないさ。
 でも、喜緑さんのそれは、どこまで本当なんだろう。
 黙って本を読んでいる長門。悲しそうに口篭る朝比奈さん。偽悪的な発言をする古泉。皆そうだ。俺からすれば、窮屈そうに見えてしかたない時がある。
 そんな皆にも、いつか本当のことを言える日がくるんだろうか。
 そして俺はその時、何を言えばいいんだろうか。
 ……いかん。さっき悩みを口に出してしまったせいで、思考が普段行かないような場所に足を踏み入れたらしい。
 俺のそんな考えを、或いは知っていたのか、喜緑さんは言葉を続けた。
「でも、今年の夏はとっても長くて。ずっと一人でいると、経験したことのない、変な気分になってしまって。だから少しの間だけでも、こんな風に誰かと過ごせるのは楽しい……のかもしれません」
 そうやって語尾を濁したあと、
「私だって、たまには息抜きをしないとやってられませんから」
「……結婚できないバリバリのキャリアウーマンみたいな台詞ですね」
 俺は今日はじめて喜緑さんを振り返る。
 細く整った顔に疲れの色は微塵も見えないが、内側はそうでもないのかもしれないな。
「今度俺たち、俺たちっていうのはSOS団のことですけど、とにかく今度みんなでプールに行くんです。良かったら、喜緑さんも一緒にどうですか?」
 余計疲れるかもしれませんけど、息抜きにはなると思いますよ。少なくともあれこれ考える暇は無くなりますし。
 唐突な言葉に対し、喜緑さんはにっこりと答える。
「ああ、あの人達と。それは、とっても楽しいのかもしれません」
 しかしそれも一瞬のこと。すぐに顔を俯かせると、
「でも、ごめんなさい。一緒には行けません」
 半ば予想していた答えだった。
 この人にはこの人の事情があるんだろう。それも割と特殊な事情が。
 だから俺は、何でもないように表情を崩す。
「そうですか。じゃあ、もし俺たちと一緒に何かしたくなったら、また文芸部室にでも来てください。いつだって歓迎しますよ」
 学校一麗しいメイドさんのお手製緑茶も出してあげられますしね。
 すると喜緑さんは顔を上げ、両手をそっと打ち合わせると、
「はい。もし夏が終わって、あなたがその言葉を覚えていたら、その時は」
 今日一日見せていたそつのないデフォルト笑顔とは違う、悪戯っぽい笑い顔。
 心の片隅の、懐かしいものに触れたような気がする。
 俺は、頭を過ぎ去った何かに気を取られて一拍置いたあと、慌てて間を埋めるように口を開いた。
「いやいや、いくら俺でも自分の言った事を一月足らずで忘れるほど鳥頭じゃないですって」
 小さく手を振りながら否定すると、喜緑さんは子供をあやすように目を細めた。
「その台詞、この前も言ってました」
 ……この前。頭の中を、また何かが過ぎ去った。
 この前って、一体いつだ? 記憶を探ってみても思い当たる節は無い。そもそも喜緑さんと会ったこと自体、今日で二回目のはず。
 たしかに最近の俺は田舎に行ったり孤島に閉じ込められたり祭りに参加したりバイトをしたりと、一昔前のアイドルばりにぎゅぎゅうのスケジュールで過ごしていたわけで、どこかしら見落としがあったとしてもおかしくはないのだろう。
 しかしそれでも、滅多に会わない人と話したことぐらい、いくらなんでも忘れないと思う。 それとも何か? 俺の海馬は使い過ぎた石鹸みたいに磨耗してるのか?
「じゃあ、私はこの辺で」
 気付けば、坂道の下の分かれ道。
 俺が記憶の森で迷子になっている間に、喜緑さんとの距離はもう半歩分開いていた。
 昼とは逆に遠ざかる、寂しい一歩だ。
 空の明かりが、惜しむように暗く落ちる。
「せっかく手伝ったんですから、課題の残り、ちゃんと仕上げてくださいね」
 最後にそう言って、喜緑さんは手を振った。
 暗闇を透かしても、白い制服の裾が笑うようにひらひらと揺れているのが見える。
 俺は何か言わなくてはいけないような気がしたけど、結局それを言葉にすることができずに、ただ黙って手を振り返すことしかできない。
 それでも喜緑さんは満足そうに微笑むと、丁寧なお辞儀だけを残して、ゆっくりと去っていった。


 俺は、小さい彼女の背中をずっと、道の向こうに消えるまで見送って、






 いつの間にか夏は終わった。









































「ちょっとキョン。キョンってば!」
「……悪い、何だっけ?」
 顔を上げると、俺の真横でシャーペンを握っているハルヒが、馬の尻尾みたいにでかい筆で不機嫌と書かれたような表情でこっちを睨みつけていた。
「あんたねえ、人に教えてもらっときながら何ぽけーっとしてんの! こういう時ぐらい、九官鳥でももうちょっと殊勝な態度を取るはずよ!」
「あー、すまん。悪かったよ。夏バテ気味なんだ。勘弁してくれ」
 尚も文句ありげな視線を避けるため、手元の問題集に意識を集中させる。
 そんな俺の様子を見て、ハルヒは不愉快そうに一つ鼻を鳴らしたが、すぐに真剣な声色になって問題の解説を始めた。
 こいつは変なところで気が利く奴だからな。解説に織り交ぜられた細やかな指摘は、教えられる立場として結構有り難い。教師とかにでもなれば、意外といい線いくタイプなんじゃないだろうか。
 まあ、生徒がこいつの罵声に耐えられるほどの精神力を持っていればの話だけど……
「朝比奈さん。度々で申し訳ないのですが、少し質問させていただいてもよろしいでしょうか」
「あ、はぁい。えっと、そこのページは……」
 前言撤回。
 やっぱりもう一人の先生の方がモアベター良い。





 今日は八月三十一日。夏休み最後の日だ。
 そんな切なくも儚いラストデイに俺たちが何をしているのかと言えば、これが何と夏休みの課題だったりする。
 狭い俺の部屋に集まったSOS団の五人は、合計四つのシャーペンをかりかりと鳴らしながら、それぞれの不良債権と格闘の真っ最中。
 ちなみに何で四つなのかと言うと、長門だけは自分の課題をものの数分で終わらせて、何やら難しそうなタイトルの本をいつものように捲っているからだ。
 ハルヒと朝比奈さんも自分達の分は既に終わらせてしまっていたのだが、もう一息というところの古泉と、もう無理だろこれというところの俺に、それぞれ教師役を買って出てくれていた。
 それについては感謝感激雨あられなんだが、どうして古泉が朝比奈さんとペアで、俺がこいつとなんだ。その点が納得いかん。どう考えてもおかしいだろ。不公平だ。
 そんな事を考えてみても、教えられてる立場だから偉そうなことは言えず、出来損ないの競走馬にイラつく調教師のような指導を甘んじて受けるしかないのだった。
 しかし、これが終われば九月一日。待望の新学期がやってくる。
 ハルヒの解析不能な能力により誰もが我知らず円を描きながら歩き続けていた夏も、もうすぐ終わろうとしているわけだ。
 いや、本当に終わるかどうかなんて、明日にならなくちゃわからないんだけど。
 もしこの勉強会でもダメだったとしたら、今日の午前零時ごろ、またしても俺たちは記憶のリセットボタンを容赦なくクリックされて八月半ばに吹っ飛ばされるという色々なバランスが崩れそうな強制イベントに巻き込まれてしまうらしい。
 騒がしくも精一杯遊びまくった夏をもう一度。
 それはそれで悪くない、かもな。





「……いい加減マジメにやんないとシャーペンの芯を眼球の芯に突き入れるから」
 いかん。またボーっとしてた。これはマジで夏バテかもしれんな。
 いや、今はそんなことより眼球の心配をしなくては。物を見るのにHBの黒鉛は必要ない。
「本当にすまん。悪気は一切無いんだ」
 だから失明は勘弁してくれ。
「悪気が無いで許されるんなら、業務上過失致死なんてのはこの世から消えて無くなるっての」
 こんな時にだけ正論を述べやがる。
 ぐうの音も出ない俺に対し、勝ち誇るような顔をちらつかせていたハルヒは、散らばった課題の数々を引っつかんで眉をしかめて見せた。 
「それにしてもあんた、課題してなさすぎ……うげ、英語なんて真っ白だし! このままじゃ日付変更線をまたぐのは間違いなしじゃないの! もう、こうなったら合宿よ合宿! 一度始めたんだから、泊り込んででも終わらせてやるわ! あたしの意地にかけて!」
 口調とは裏腹に、そこはかとなく楽しそうだ。
 泊まるのは別に構わんが、ベッドは朝比奈さんと長門のものだからな。お前は床だ。古泉は、えっと……風呂場?
 浴槽の中で縮こまっている古泉を想像して噴出しそうになっていると、
「あら?」
 英語教師謹製の問題集をぺらぺらとめくっていたハルヒが、怪訝な声をあげる。
「この字、あんたのじゃないわよね」
 ハルヒが指差したのは、真っ白な問題集の端っこに書かれた筆記体の一文だった。
「……そうだな」
 俺、筆記体苦手だし。そもそもこんなに字が上手くない。
 ハルヒは手を田舎チョキの形にして卵みたいな顎に添えつつ、
「誰かの悪戯書きかしら。いや、それにしては、何だか丁寧で控えめすぎるし……意味深だわ」
 はいはい。お前にかかれば、鼻毛の飛び出具合だって意味深になるんだろうさ。
「うっさい。夢もロマンもない奴よりは全然マシ」
 口をアヒルみたいに尖らせながら、ハルヒは俺の筆箱から消しゴムを取り出した。
「ま、このまま提出するわけにもいかないのは事実だしね」
 消した方がいいってんでしょ、と言いながら問題集に向かう、ハルヒの手。
 その手を、俺は思わず握り締めていた。
「……何すんの」
 妙なアクセントの声をあげるハルヒ。
 気付けば、向かいに座った古泉と朝比奈さんだけでなく、椅子に座って本を読んでいたはずの長門まで、俺たちの方を注目していた。
 俺はゴホンと、内閣のお偉方みたいな咳払いをしたあと、
「消すのは、その、何て言うか……もったいない」
 ハルヒはハトが鶏の腿肉を投げつけられたような顔で、長い睫毛をぱちりと瞬かせながら、
「あんたって普段つまんないことばっかり言ってるけど、たまにわけわかんないことも言うわよね」
 八割方わけわからんお前よりマシだ。
 俺は呆れ顔のハルヒから消しゴムを奪い取り、英語だらけの問題集に改めて向き直る。殺到するゴシック体のアルファベット。
 まずは苦手な英訳から解こうと、俺は思う。
 ガキじゃあるまいし、苦手なものを後回しにしたりしない主義なんでね。





 視界の隅で、流れるような書体で描かれた筆記体が、窓から差し込む陽射しを浴びて白くぼやけているのを見た。
 水たまりに映った白い太陽みたいだ。
 それでも俺は、幾度かの夏に出会った指先の綺麗な彼女の事を思い出さなかった。