春はあけぼの、ではなく、外が本格的に夜の帳を下ろそうとする頃。生徒会との対決という、古泉の脚本に基づく作為的なイベントに巻き込まれ、苦心の末に恋愛小説モドキを書き上げてから数日が経ったある夕暮れ時のことだ。
 いつもより早めの夕飯を食べ終えて自室に戻った俺が、浜辺に打ち上げられた巨大タコのようにダラダラと過ごしていると、
「キョンく〜ん! 電話だよ〜!」
 という妹の声が一階から響き渡り、怠惰に伸びきっていた鼓膜を振るわせた。
 電話……面倒くせえな。誰か知らんけど電話なら携帯に掛けろよ。それともまた中学時代の悪友が俺宛に妄言を届けようと息巻いているのだろうか。だとしたら本気で面倒くさい。もうあんな恥ずかしすぎて便箋が発火しそうなラブレターの代筆なんて二度と御免被りたい所存であり、従って今回は居留守と言う奥の手を使うのもやぶさかではなく、
「はい、キョンくん」
 いつの間にやら部屋に侵入していた妹が、俺の鼻先に子機を押し付けてきた。
「……ご苦労」
 この期に及んで居留守もクソも無いな、と観念した俺は今にも脱皮しそうな気だるい体を引き上げて、古泉のようにニヤついている妹から子機を受け取る。
「誰からだ?」
 中河だったらこのままコネクトオフしてやろうと考え、通話口に手で蓋をしてから一応尋ねてみると、妹は、昨夜見ていたドラマの影響だろう、大人っぽく振舞おうとしたはいいものの完全に失敗している幼稚な笑顔で、
「ふふっ、女の人だよ」
 瞬きだかウィンクなんだか微妙な仕草を残し、ててっと部屋の外に消えていった。
 女の人、ね。SOS団の連中だったら携帯にかけてくるから除外するとして、さて、一体どこの誰なんだ?
 俺は何となくデジャブめいたものを感じながら、電話線の向こう側に声をかける。
「もしもし。電話代わりましたけど」
 一秒ほど逡巡するような間を置いて、
『あ、あの、どうも。お久しぶりです』
「……ああ」
 一声聞いただけで、俺は電話の相手が誰なのか思い至った。心のハローページを捲るまでも無い。予想通りと言えば予想通り。さらに言えばそこそこタイムリーでもある。
「キミか。何、どうしたの?」
 極力柔らかい声で、俺は言う。
 問いかけに対する彼女の答えも、まあ予想通りだった。





「ハルヒ、ちょっと頼み事があるんだが」
 教室での休み時間。席を立とうとしていたハルヒに声をかける。
「何? あんたがあたしに頼み事なんて、えらく珍しいじゃない。先に言っとくけど、みくるちゃんはやんないわよ」
 そいつは実に残念だし、お前にいくら言われようと朝比奈さんを諦めるなんて男として不可能なんだが、生憎と今回はその用件じゃないんだ。
 椅子に座ったまま後ろを振り向いた姿勢の俺は、ハルヒに見下されるという位置関係が自然に感じられてしまう自分に言いようの無い情けなさを感じつつも、
「学生証、貸してくれないか?」
 俺の言葉を聞き、ハルヒの目つきは鋭さを増す。ダーツの的にシンパシーを感じるね。まな板の上の鯉ってこういう時に使うんだっけ?
「あんた随分いい度胸してんじゃないの。いくらお金に困ってるからって、あたしの学生証を売って日銭を稼ごうと考えるなんてね。目の付け所は悪くないかもしんないけど、そんな風営法に引っかかりまくりそうな行為されたんじゃ、いくらSOS団の団員とは言え警察に突き出さざるをえないわよ」
 道端に散乱した生ゴミを見るような視線で俺を睥睨するハルヒ。何て想像してんだお前は。というか、そんなもん売れるのか。
「そりゃ売れるでしょ。洗ってないパンツとかでも売れるご時世よ。なんだって商売にはなるわ」
 確かに、趣向の細分化が激しい昨今だからな。ましてハルヒは黙ってれば結構な美人だ。性格は蚊取り線香並に捻じ曲がり放題だとは言え、そこがまた良いなんていうカーテンレールマニアクラスのマイノリティが存在したって何ら不自然ではない。
「……いやいや、そういうのじゃ無くて。少し借りるだけだ。休みが明けたらちゃんと返却する」
 もちろん売ったりはしない。二泊三日のレンタルも無しだ。んなみっともない犯罪行為に手を染めるほど財政難ってわけでもないし。第一、こいつの学生証が化けた札束なんて恐ろしくて使えないね。木の葉どころか、放射性物質に変化しそうな代物だ。
「じゃあ一体、何に使おうってのよ」
 腕を組み、苛立つように指を上下させるハルヒに見下されて、俺は思わず口篭る。
 そこが問題なんだよな。よこしまな考えがあるわけじゃないんだが、あまり誉められた事に使うわけじゃない。どちらかと言えば後ろめたい行為の類だ。かと言って犯罪行為かと問われればそれ程のものでもなく、有りのままを話すのが一番手っ取り早いとは思うんだが、それはそれでまた別の問題が浮上してきそうな予感がひしひしと。
 俺は冬眠を邪魔された熊のように凶暴な笑みを浮かべたハルヒにマウントポジションを取られる自分を想像して、首を振った。
「いや、やっぱいいわ。すまん。忘れてくれ」
 考えてみれば、こいつは人選ミスだった。最初から長門か朝比奈さんにでも頼んだ方がよかったな。大した考えも無しに、とりあえず身近な人物に声を掛けてしまう俺の生来の単純さは、思っていた以上に憂慮すべき性分なのかもしれない。ただでさえカッパ巻き並に巻き込まれまくりの人生を送っているのだから、いらんトラブルを招くような言動は常日頃から慎むべきなのだ。
 しかし、そんな緊急回避的反省も空しく、
「何よそれ。そんなんで『はい忘れました』って言えるほどあたしは忘れっぽくないわよ。健忘症じゃあるまいし。ま、アロマミュージックでも流しながら目の前に五円玉を吊るして耳元で怪しげな呪文を唱えるぐらい徹底してるんなら別だけど、あんたにそこまで期待しろって方が無理な相談でしょ? だからホラ、正直に言ってみなさい」
 腰に手を当てて顔の毛穴をチェックするかのように爛々とした目を接近させてくるハルヒに、誤魔化しは通用しそうにない。誰かスペインの闘牛士を呼んで来てくれないか。旅費ぐらいなら喜んで出すぜ。
 しかしハルヒは意外にも、すがる藁は無いかと目を泳がせる俺から早々と視線を外し、
「ったく、しょうがないわね」
 ポケットから手早く生徒手帳を取り出すと、俺の机目掛けて放り投げる。ノートの上に無事軟着陸。
「……え? いいのか?」
「いいわ別に。何に使うんだか知らないけど、どうせあんたに大それた事なんてできないでしょ」
 焦れたような声色でそれだけ告げる。俺は、対ハルヒ用の感情としては大変珍しい部類である、殊勝な心持ちになって、
「ああ、大丈夫だ。悪いな。この借りは、今度何かの形で返すから」
 ハルヒは小さく鼻を鳴らし、当然よ、とだけ言い捨て、早足で教室から出て行った。
 ……ありゃ、多分トイレだな。声をかけるタイミングが良かったんだか悪かったんだか。
 高く響く足音を見送った俺は、手元の生徒手帳をめくってみる。
 試しに本人の前では絶対言わないような感謝の言葉を吐いてみても、学生証に貼り付けられた髪の長いハルヒは、つまらなそうな顔でこっちを睨みつけてくるだけだった。
 




 

 で、翌日。休日即ちホリデイである。
 もうすぐ昼の二時を回ろうという時間帯。駅ビルの前に設置された、フランス映画に出てきそうな黒檀の背もたれ付きベンチに座っていた俺の目の前に、すげえ美人がやってきた。
「すいません、お待たせしてしまいました。美容院は早く出れたんですけど、写真の撮り方がよくわからなくって。ホント、ごめんなさいです」
 分度器で測ったかのように完璧な角度でお辞儀する美人。黒いショート丈のコートと、ブラウンのブーツから覗くアーガイルソックスに挟まれて、膝の淡い肌色がシャープに浮かび上がっている。
 一瞬頭が追いつかなかった俺は、往来の真ん中で女性に頭を下げさせる鬼畜野郎め、と言わんばかりの周囲の視線に気づき慌てて腰を上げると、
「いや、時間ピッタリだって。俺が早く来すぎたんだ。それより、ほら、写真は?」
「あ、はい。これです」
 お下げだった髪の毛は肩口で解かれており、顔を上げると背中の方に滑るように流れた。陽射しのせいかと思いきや、少し色も入ってるな。
 差し出された証明写真を受け取るのも忘れて固まっている俺を見上げた彼女は、自分の髪の毛を指で梳いて、
「大丈夫です。これ、洗ったらすぐ落ちるらしいですから」
 見れば見るほど妹と同い年に見えないミヨキチは、照れた顔だけが幼かった。
 ようやく確認できた小学生らしさにほっと一息ついた俺は、ハルヒから借りた生徒手帳を取り出すと、学生証が透けて見える窓の部分に指を入れ、ハルヒの顔写真の上にミヨキチの証明写真を重ねる。ピッタリ重なった所で、今度は窓の後ろに俺の財布から取り出したカード類をギリギリ一杯まで差し込み、写真が落ちない程度に張り詰めさせれば完成だ。
「よし、これでキミは涼宮ハルヒ。花も恥らう、というより全てを我が手にせんと常に画策する高校一年生だ」
 よく見れば露骨に首から上しか写ってなかったり、微妙に安っぽい仕上がりだったりと突っ込みどころはあるのだが、とりあえずベストは尽くした。これで身分証の提示を求められても何とか誤魔化せるだろう。ミヨキチは偽装学生証を受け取ると、手帳の部分を物珍しそうにぺらぺらと捲りはじめた。
 下手したら本気で高校生に見えかねないミヨキチの、そこだけあどけない手元を目にするにつけ、美術室に置かれていたアシンメトリーの胸像を思い浮かべつつ、俺は言う。
「しかし、そこまでしなくてもよかったんじゃないか?」
 女は化ける、なんて慣用句だと思っていたが、あながちそうでもないのかもしれない。街中でミヨキチの年齢アンケートを取っても小学生だと答える人はまずいないだろう。長門でさえ騙せてしまいそうなカモフラージュというか、もういっそイリュージョンといった方が正しそうだ。
 学生証に注目していたミヨキチは、俺の視線に気づくと、ますます顔を赤らめ、
「前からこういう年上っぽいの、憧れだったんです。お兄さんが今日はなるべく高校生に見えるような格好でって言うから、どうせなら思い切ってやっちゃおうって思って。でも、今日だけだから……今日だけなら、きっと誰にも怒られないですよね?」
 最後の?は、不安と願望と俺に対する確認の意味が詰まった何とも言えない?だった。どうもミヨキチはかなり緊張しているようだ。そりゃ、まあ小学生が高校生のふりをしようってんだから緊張するのも頷ける。俺にしても、まさかここまで変身をかましてくるとは思って無かった。カフカもあの世でビックリだろう。芋虫どころの騒ぎじゃないぜ。 
 しかし、意外と大胆な子だったんだな、ミヨキチって。幼さ故なのかもしれんが。うちの妹も大胆と言えば大胆だし。あいつの場合、文明とは逆方向の野生に近い大胆さだけどな。
 俺は妹に大人っぽい印象を付け加えようとしたものの、そんな事は常温のバナナで釘を打つぐらい不可能だと考え直し、いまだ照れた様子で足元に目線を落としているミヨキチに声をかける。
「じゃ、行こうか。去年と同じとこでいいんだっけ?」
 ミヨキチはしゃきっと瞼を上げ、いつもの凛とした姿に戻ると、再度深々とお辞儀をしながら、
「はい。どうぞよろしくお願いします」






 念のために説明しておくと、先日の電話はミヨキチからのものであり、用件は前回と同じく、俺と一緒に出かけたいというものだった。無論、一緒に出かけたいというのは俺に好意を持ってくれているとかそういう類では断じて一片も無く、これまた前回同様、レーティングのかかった映画を見るための付添い人として選出されたに過ぎない。
 前回と違う点はただ一つ。今回ミヨキチが観たいと言う映画が、R指定のサスペンス・ミステリーだという点だ。
 R指定。十五禁である。ちなみにミヨキチは現役バリバリの小学生。少し背伸びしてみた所で、戸籍の数字は四つも揺るがない。
 立ちはだかる年齢の壁を前にして、それでも諦めきれないミヨキチは考えた。次の休みは高校生以上に適用されるカップル割の日と重なっている。高校生の俺と共にカップルとして入館すれば、ひょっとしたら身分証の提示を求められること無しに入れてもらえるかもしれない。少なくとも、一人で行くよりは入館できる確率が高いのではないだろうか、と。
 現実的に考えると、俺もそこまで老け顔ではない(と自分では思ってる)し、顔パスというわけにはいかないだろう。もしも二人分の身分証の提示を求められたらすごすごとその場を後にするしかないわけだが、ミヨキチはそれでも構わない、行ってみるだけでも、と控えめに主張した。
 とは言え、俺にとってもミヨキチは妹の親友であり、可愛い女の子であり、素晴らしく良い子であり、つまる所もうほとんど妹みたいなもんである。よその家の子なので、何も考えず甘やかすことができるのもミソだ。
 そんな俺の甘ったるい兄心が倫理の壁を貫いた結果が、この偽装学生証作戦だった。
 そもそも映画館の入場審査なんてザルもいい所であり、それっぽい形をしていれば子供銀行の証書とかでも通してもらえそうな程ユルい。偽装学生証は、言わばパートのおばちゃん達を欺き館内に入るためのパスポート。灰かぶりで言う所のカボチャの馬車的なアイテムだ。十一歳のミヨキチを、一足飛びで十五歳にお届け。証明写真代三百円ぽっきりの魔法。何とも安っぽいね。やっぱ現代にファンタジーは向いてないみたいだ。
 だが、安っぽいだけに、バレても怒られるぐらいで済むだろうし、その時は俺が無理矢理連れてきたと言えばミヨキチに矛先が向くこともないだろう。誰にも迷惑をかけない分、普段のSOS団の活動に比べれば全然マシだ。下を見れば切りが無いし、こんなことを考えている時点で、ハルヒの影響をモロに受けてしまっているような気がしないでもないけどな。
 俺の作戦を聞いたミヨキチは、はじめ、『そこまでしてくれなくてもいいです』と電話口で恐縮していたのだが、廊下で聞き耳を立てていたのか、急にしゃしゃり出てきた妹の説得に屈したらしく、最終的にはガラスでできた針のように細く儚い声で『お願いします』と一言呟いた。
 小学生のちゃちな願いだ。叶えてやっても罰は当たらないだろ?





 電車の中のミヨキチは去年とは比べ物にならないぐらい緊張しきりで、会話もままならない様子だった。自分の慣れない格好を意識してか、誰とも目を合わせないように顔を俯かせ、時々思い出したように隣に座る俺を見上げては、ほっとしたように小さく笑う。この子には妹とは別の意味で保護者が必要らしい。
 目的の駅に着くと、揺れる床ばかり見ていたためか危うく乗り過ごしそうになっていたミヨキチの肩を叩いて電車を降り、一路映画館へ。
 相も変わらず寂れた雰囲気の劇場前に上映時間より二十分ほど早く到着した俺たちは、自販機で買ったジュースを飲みつつ時間を潰していたのだが、いつまで経っても人が来る気配は無かった。来場者が多ければ年齢確認も疎かになるだろうと踏んでいたんだが、どうも待つだけ無駄みたいだな。
 上映十分前になって見切りをつけた俺は、炭酸の抜けたコーラで喉を潤し、隣でミルクティーを抱きしめるように両手で持っているミヨキチを促す。
「そろそろ入ろうか」
「は、はい。頑張ります」
 頷く顔は、まるで死地に赴こうとする兵隊さながらだ。頑張るよりも、どちらかと言えば力を抜いて自然に振舞った方がいいと思うのだが、ゼンマイの切れかかった人形のような足取りのミヨキチに、それを指摘するのは酷だろう。
 俺はせめて尖兵たらんと、ミヨキチの半歩前に出て、窓口の上に置かれた予告編垂れ流しのモニターにかき消されない程度の声量で、
「高校生二枚、カップル割で」
 穴あきガラスの向こう側で暇そうにしていたチケット売り場のおばちゃんは、まず俺に、ついでミヨキチに目を向けると、手馴れた仕草でピンクのチケットを二枚用意しながら、
「学生証、持ってきてる?」
 俺たちは互いに目配せすると、それぞれの学生証を窓口に向ける。おばちゃんはそれを、見ると言うより視界に映すといった感じで瞬時に確認し、
「はい、じゃあ二人で二千四百円ね」
 財布を取り出した俺の横から、ミヨキチが三千円を差し出す。目で咎めても、首を振ろうとはしなかった。やれやれだ。去年もこの子は頑なだったからな。それに、こんなことで揉めてもしかたない。
 俺は大人しく財布をしまうと、ミヨキチの三千円を受け皿に乗せる。一時的にとは言え、小学生に奢られる自分が情けなさ過ぎて泣けてくるぜ。さっさとチケットを受け取って、自分の分の料金を返さないとな。本当は奢ってやりたいんだが。 
 しかしここに来て、おばちゃんは初めて俺の顔をしっかりと見据えると、
「彼女に全部払わせるなんて、あんまり感心できないわよ」
 下がった目尻は、咎めると言うより面白がっている風だった。人が来なくて退屈だったのだろう。お客との軽いコミュニケーションは格好の暇つぶしになる。俺も普段なら適当な言葉で応じるところだが、どうにもタイミングが悪かった。チケットを受け取る事にばかり気を取られてしまい、愛想笑いを浮かべながらも、どう返せばいいか咄嗟に判断できなかったのだ。
「あら? よく見たら彼女さん、うちの息子の同級生によく似てるわね」
 俺がまごついている内に、おばちゃんの視線はミヨキチをはっきりと捉えていた。
「え? わ、私ですか?」
「そう、あなた。息子の学年写真に写ってた子にそっくりよ。うちの子とは別のクラスだったけど、とっても可愛らしかったからよく覚えてるの。あぁ、うちの子って言っても、まだ小学生なんだけどね。ひょっとしてあなた、妹さんがいらっしゃるんじゃない?」
「あ、いえ、その……」
 その子は多分ミヨキチ本人だな。どうもおばちゃんのご子息は、俺の妹と同じ小学校に通ってるらしい。人の縁ってのはどこで繋がってるか分からないもんだね。まるで蟻の巣みたいだ。
 ……と、しみじみしている場合じゃなかった。ミヨキチも自分の事だと気づいたのだろう、顔を警光灯のように赤らめ、口を開いたり閉じたりしている。軽くパニクっているようだ。
 その様子を見たおばちゃんの目が、微かに訝しげな色を帯びる。何となく危うい静寂。
 ちょっと、まずいかもしれん。
 そう思った俺が、慌てて誤魔化しの言葉を口にしようとした、正にその時。
 予告がクライマックスシーンに至ったのか、モニターからいきなりの大音量が響き渡った。張り詰めた静けさは、路面の霜柱を踏み抜くように思いがけなく叩き壊され、
「きゃっ」
 驚いて大きく体を震わせたミヨキチの手に持たれていたミルクティーが飛沫を降らせ、コートの袖口を白く濡らす。
「おい、大丈夫か?」
 俺は反射的にポケットをまさぐり、いつ入れたのかもわからないポケットティッシュを取り出して、白い水滴を拭ってやる。黒に白じゃ、どうも染みになっちまうな。
「それ、ホットだっただろ。熱くなかったか?」
 されるがままになっていたミヨキチは、一瞬ポカンとした後、風呂に入れた時のシャミセンみたく首をプルプルと震わせ、
「いえ、大丈夫です。もう温くなってましたから……あの、お手洗いは中にありますでしょうか?」
 おばちゃんに向かっておずおずと問いかける。
「ええ、階段を上がってすぐそこに。そのぐらいなら、ちょっと洗うだけですぐに取れるわよ」
「ありがとうございます。おに……キョンくん、私お手洗いに行ってくるから、チケットもらって、上で待っててくれる?」
「ああ。わかった」
 ミヨキチは一度頷くと、生徒手帳をポケットに押し込んで階段を駆け上がって行った。
 見送ったおばちゃんは、場を仕切り直すかのように咳払いをすると、
「随分おっちょこちょいな彼女さんなのね」
「ええ」
 俺は二人分のチケットと、受け皿に落とされた六百円を手に取って、
「困ったもんですよ、ほんと」
 ガラスの向こう側で微笑むおばちゃんに苦笑で返し、人が二人やっと通れるぐらいの狭い階段を、ゆっくりと上る。
 館内に続く扉の前でしばらく待っていると、湿ったコートを携えたカーディガン姿のミヨキチが、女性用トイレからそろりと現れた。
「染みは取れた?」
「はい、綺麗に落とせました。……それよりお兄さん、色々と気を使っていただいて、ありがとうございます」
「いや、俺は何もしてないから」
 またしても懇ろなお辞儀をするミヨキチに、軽く笑って答える。これが情けないことに、本気で何もしていないのである。
 それより、ミルクティーを零したのって、わざとだったりする? なんて聞こうとしたものの、んな事どうでもいいかと思い直し、扉を開こうとしていた俺の手に、冷たく湿った手の平が添えられた。
「お、お兄さん、少し待ってくださいますか? 私、まださっきの緊張が……」
「ああ、悪い。それじゃあ、今の内に払ってもらったチケット代返しとくよ」
 零れたミルクティーの分も込み込みで。
 少しばかり色のついたチケット代を受け取った事にも気づかず、巨人から逃げ切ったジャックのように胸に手を当てるミヨキチの表情は、妹と同じ歳の、幼い小学生のものだった。






 半分居眠りしていたもぎりのバイトの兄ちゃんにチケットを何事もなく渡した俺たちは、狭い劇場内に足を踏み入れた。
 客席はガラ空きで、というか俺たちしかおらず、さして愛着も無い劇場の行く末を憂いながら、毛羽立った椅子に腰を下ろすと、映画館の匂いとしか表現できないような独特の空気が、鼻腔をくすぐる。
 コートを脱いで横の椅子に掛けたミヨキチは、幾分リラックスした様子で小さく伸びをすると、今日は丸めがちだった背筋をぴしゃりと伸ばし、まだ明かりが点いたままの周囲を見渡す。
「これじゃ、貸切ですね」
「本当だな。この映画、そんなにマイナーなの?」
「いえ、それが私もよく知らないんです。好きな俳優さんが出てるとだけ聞いてたもので」
「それって、去年言ってたのと同じ俳優?」
「はい」
 ミヨキチは、心なしか生き生きとした表情で頷く。
 その俳優とやら、出演作品を顧みるにあまり有名ではないのかもしれないが、こんな良い子に好かれているのだから、それだけで俺は羨ましかった。万人の大喝采よりも、たった一人の小さな拍手の方が耳に残るに違いない。
「俺の妹、学校ではどんな感じ?」
 上映までの少しの間を埋めるべく、俺は尋ねる。
「とっても元気で明るいです。おうちでの彼女と同じだと思いますよ」
「なんだ、相変わらず進歩の無い奴だな。もう少し猫を被るとかすりゃいいのに。あの調子で嫁の貰い手があるのか、俺は今からでも気がかりでならないよ。今度シャミセンを頭に乗っけたまま登校させてやろうかな」
「でも、ここだけの話ですけど、妹さんを好きな男子、結構居るみたいですよ。男の子って隠しきれない子が多いから、見てればそういうの何となく分かるんです。当の本人は、自分の人気にまったく気づいてないみたいですけど」
「え、マジで!? ……ミヨキチ、あとでその男子共の顔と大まかなプロフィールを俺に……こら、そんなに笑うなよ。違うって、気になるとかじゃなくて、純粋な好奇心であってだな、深い意味は別に何も……」
 ぽつぽつと会話していると、やがて耳をつんざくようなブザー音が鳴り響き、照明がゆっくりと落とされ、真っ白なスクリーンだけが暗い夜の月のように浮かび上がる。口を噤んだ途端、映写機の回る音がひどく小さく聞こえてきた。
 俺は真摯な表情のミヨキチを横目で見てから、色のついたスクリーンに眼差しを向けた。
 さて、肝心の映画の内容だが、またしてもB級かと思いきや、これがどうしてなかなかの面白さだった。予算の低さは所々に感じられるものの、アクション映画じゃなければそんなのは大して気にならない。脚本や演技に対して偉そうな事は言えないが、少なくとも俺を眠らせない程度のものであることは確かだ。ハルヒが撮ったノンジャンルかつアナーキー極まる映画とは比べるべくもない。当然だけどな。
 目を離せないまま一時間が経ち、しばらくは素直に楽しんでいられたのだが、ストーリーも佳境に差し掛かろうという所で、俺はちょっとした胸騒ぎを覚えた。
 場面は小奇麗なアパートの一室。ベッドに腰掛けた大柄な男が、やたらとマスカラの乗った艶っぽい女とワインだか何だかを酌み交わしている。男が少しでも上手くやれば、今にも組んず解れつコースに突入しそうな雰囲気。
 サスペンスと言えば、その類のシーンはご飯に漬物と言わんばかりの組み合わせだ。一人、もしくは友人と見てれば特に何とも無いのだが、家族と一緒だと途端にシュガーボックスに閉じ込められたような息苦しさを覚える。まして小学生のミヨキチにしてみれば、大して親交も無い年上の男と二人っきりで妙なシーンを鑑賞せねばならないわけで、その気まずさたるや俺の比ではないだろう。R指定ってのも不安を煽る。あんまり濃厚なシーンをぶちかまされたら、流石に俺もどうすりゃいいのかわからん。
 ミヨキチもせっかく映画に熱中しているようだし、変な所で気を削ぐのも可哀想だ。適当な理由をつけて、しばらく外に出てた方がいいかもな。今ならまだ不自然じゃないだろうし。
 俺はわざとらしくならないように気を使いながら首を傾けて、ミヨキチの耳に顔を寄せ、
「ミヨキチ、俺ちょっと」
「ひゃいっ!」
 トイレに、という俺の台詞に被さるように、ミヨキチは素っ頓狂な悲鳴をあげる。銀幕の明かりがなぞる顔の輪郭は、微かに強張っていた。
 俺は自分の失敗を悟る。参ったな。気まずさを恐れるあまり、ミヨキチの大人びた雰囲気を失念していた。おそらく俺と同じようなことぐらいは考えていたに違いない。ただのワンシーンとしてスルーした方が正解だったか。
 己の不覚に対する何とも言えない歯痒さを感じながらも、しょうがないからこのまま押し切ろうと、
「俺、ちょっとトイレに行って」
「あ、あのあの、私、お手洗いに行ってきますね!」
 俺の言葉をやたらと高い声で遮ったミヨキチはあくせくと立ち上がると、クラクションを鳴らされた野良猫のように走り去ってしまった。
 口を半開きにしたまま取り残された俺は、知らず、ため息をつく。
 スクリーンの中では、最後まで生き残れそうもない脇役の男女が、海面を数センチ上昇させるつもりとしか思えないような暑苦しい口付けを交わしていた。モルディブの人々は大迷惑に違いない。ついでに言えば俺も超迷惑だ。ミヨキチはもっと迷惑だっただろう。
 その後、たっぷり十分経ってから俯き加減で戻ってきたミヨキチがチラチラと俺の方を窺ってくるせいで、クライマックスのどんでん返しに驚くことすらままならなかった。
 やっぱB級だわ、これ。





 エンドロールを最後まで待たずに下がり始めた幕に押されるように、俺たちは狭い館内をのそのそと辞した。外に出た途端、街中に影を落とす西日が、暗闇に慣れた網膜に突き刺さる。
 手の平で眉を覆いながら、隣で俯いているミヨキチをひっそりと確認する。
 どうも彼女は、俺の見当違いな気遣いをふいにしてしまった事を気にしているらしく、さっきから一言も喋ろうとはしなかった。一方の俺は、自分のせいで元気の無いミヨキチを見てさらに自己嫌悪に陥っている。ミヨキチはそんな俺を見て、自分のせいだとさらに気にする。つまりは悪循環。息の詰まる正フィードバック現象だ。どこぞの研究所からダイヤモンドカッターをくすねてでも断ち切らねば。
「ミヨキチ、これからどっか行く予定あるのか?」
 今日は情報誌を持っていなかったな、と思いつき、そんな角度から切り出してみる。
 ミヨキチは、ぴくっと戸惑いながらも、きちんと目線を合わせて、
「はい。いつまでもこの格好のままじゃいられないですから、お兄さんの家で着替えさせてもらう事になってます」
 そういや、ミヨキチの家は厳しいんだったな。髪の色も落としちまうのか。ちょっと勿体無いな。
「他は? どっか行きたい所とか無いの?」
 せっかく綺麗な格好してるんだから、すぐ家に帰るなんて言わないで、もう少し街中をぶらついてもいいんじゃないか?
「いえ、小学生がこんな格好してるのは、やっぱり変です。自分でも、ちょっと不自然だと思いますし」
 本当の話、全然変じゃないし、寧ろ五年後に朝比奈さんの対抗馬となるのでは、との目算を二年ほど早めてもいいと確信したわけで、どちらかと言えば隣を歩く俺の方が変に思われるに違いない。
 しかしミヨキチは、そんな言葉をお世辞だと受け取ったようで、ますます所在なさげに、
「いいんです。お兄さんがすごく良くして下さったのに、私、今日は迷惑かけてばっかりでした。これ以上は、本当に……」
 悲嘆に暮れるような表情で、尻すぼみに呟く。
 俺は自分の後頭部に回した手で、軽い頭をコツコツと叩いた。
 参ったね。折角目当ての映画を観れたってのに、こんな顔をさせちまったんじゃ、始めから小さじ一杯分ぐらいしか存在していない年上の面目が丸潰れじゃないか。このままミヨキチを帰したとあっては、妹に懇々と説教されても文句は言えないぜ。
 だがしかし。幸運なことに、蛍の光が流れだすまではもう少し時間があるのだ。ロスタイムこそ踏ん張り時さ。
 俺は凝った関節を弛緩させるべく、一つ大きく背伸びをして、
「なあ、ミヨキチ」
「……はい、なんでしょう」
「去年行った喫茶店、たしかこの近くだったよな?」
「えっと、はい。そうですね」
「あれから誰かと、あの店行った?」
「いえ、行ってないですけど……」
「もう一回、行きたいと思わない?」
 キョトンと音のしそうなミヨキチを見下ろし、
「それともあそこのケーキ、あんまり美味くなかったか?」
 意識して眉を顰めてみる。わざとらしく描かれた八の字。
 それでも、純朴なミヨキチはすっかり恐縮してしまい、
「いえ、そんな、とても美味しかったですよ! 連れて行っていただいて、凄く嬉しかったです!」
 可哀想なぐらいの勢いで首を振り振り。俺って顔芸向いてるのか、ひょっとして。
 今度何か芸をやらざるをえない状況に追い込まれたら、顔芸でいこうかな、なんて割とどうでもいいことを考えつつ、
「そっか。じゃあ、俺も食ってみたい。去年は空腹に負けてパスタ食っちまったからな。ありゃ失敗だった。つっても、あんなとこ一人じゃ逆立ちしたって行けそうにないし。な? 少し付き合ってくれよ、ミヨキチ」
 ちょうど小腹も空いてきたことだし。
 言いながら腹を押さえると、ミヨキチは瞬刻、どうしたらいいかわからないような顔をしたが、俺の意図に気づいたのか、控えめに頷いて見せてくれた。
「お兄さんがよろしければ、是非」
 やれやれ。聡い子だな、本当に。
 これじゃどっちが気遣われてるんだか、わからないじゃないか。
 思わず苦笑してしまいそうになる頬を押さえながら、いつかのアイスコーヒーみたく薄まってしまった記憶をなぞり、場違いな喫茶店を目指して歩きはじめる。
 半歩後ろには小さな気配。
 ファッションビルのショーウィンドウに映った大人っぽい姿のミヨキチは、相変わらず俯き加減ではあったものの、緩んだ口元は、甘いケーキの事を思って微笑んでいるように見えて、俺の足取りは自然と軽くなっていた。