「うー、寒ぃー……」
 冬の日の朝十時半。校門で一人、チワワのように震える俺。
 二日酔い、かつ寝不足の頭に、冷たい風がナイフのように突き刺さる。いつもの如き脈絡の無さでハルヒが考え付き、有言実行の信念の元、三が日から昨日までひっきりなしで行なわれていた、SOS団・超・新年会のせいだった。
 ハルヒ他二名は、今頃自宅で大いびきだ。なんせここ数日間殆んど寝てないもんな。誰も入院せずに済んだのは奇跡としか言いようが無い。
 そんなわけで、すっかり弱ってしまった鼻の粘膜からは、さらさらの水が次から次へと溢れ出してくる。このまま行けば、俺の鼻が日本の滝百選に指定される日もそう遠くは無いだろう。
 ティッシュで顔を拭う俺の目の前では、ジャージを着た男子生徒の集団が、坂道ダッシュを始めようとしていた。この寒い日に朝っぱらから走るなんて、全員マゾに違いない。
 まあ、こんな所で一時間近く人を待ち続けている俺が言えた義理じゃないけどな。
「……遅いな」
 たしか、約束は十時だった筈だ。あいつに限って万が一ということも無いと思うが、さすがにそろそろ心配になってきた。ひょっとして、すっぽかすつもりじゃないだろうな。
 慌てて携帯にコールしようとしたが、途中で止めた。不安になっているのを見透かされるのは、ナナホシテントウより大きな俺のプライドが許さない。何たって記念すべき初デートだ。今日ぐらいは、格好つけてもいいだろう。
 それでもやはり少しばかり不安で、携帯を開けたり閉じたりしていたら、ゆっくりと坂を上ってくる小柄な姿を発見した。
 やれやれ、やっと来たか。
「おーい! 長門ー!」
 大きく手を振りながら、長門に駆け寄っていく。さっきの男子連中がこちらを凄い目で睨みつけてきたが、ハルヒによって鍛えられた俺の神経は、そんなことで怯みやしない。
「遅かったじゃないか。何かあったのか?」
 長門はいつもの制服の上に、白くてタイトなウールコートを着て、首には黄色いチェックのマフラーを巻いていた。こないだ無理矢理ハルヒに買わされたやつだ。
「……何も」
 白い息を吐き出す俺に向かってそれだけ言うと、再び坂を上り始める……って、ちょっと待て。
「お、おい、長門。何で上に行くんだよ。これから駅前に行くんだぞ?」
 長門はこちらを振り返ると、
「あなたが校門前に集合と言った。距離的に考えて、ここは校門前とは言い難い」
 一休さんかお前は。
 だけど、引き止める気は起きなかった。俺は長門に向かって笑いかけると、後ろに続いて坂を上りはじめる。
 まったく、何やってんだろうな。





 校門まで上り、一度顔を見合わせた後、今度は連れ立って坂を下り始める。その間会話ゼロ。周りからすれば相当不気味な二人組に見えたことだろう。
 無言のまま坂を下り切り、国道に沿って歩き続けると、次第に人が多くなり始める。この辺で今日の予定を確認しておこうと思い、俺は十数分ぶりに口を開いた。
「長門、今日何も食って来てないよな?」
 定規で測らないとわからないぐらいの微妙な頷き。十分だ。
「よし、じゃあまず昼食な。結構高いとこ連れてってやるよ。……あ、ハルヒ達には内緒だからな。あんな所で奢れなんて言われたら、俺はこの歳にして自己破産を申告しないといけなくなっちまう」
 瞬きを一つ。ちょっと嬉しそうだった。
「で、十二時半から映画な。谷口が面白いって言ってたけど、ぶっちゃけ当てにならん。つまらなくても途中で帰ったりしないでくれよ」
「しない」
「そうか。それなら安心だ。映画が終わったら、その辺ぶらぶらしながら図書館にでも行こうぜ。で、夕方になったら、今度は夕食だ。これまた凄い所に連れてってやる」
 全国誌にも載った有名なレストランだ。諭吉が手品のように消えていくが、お味の方はプライスレスらしい。
 長門はさっきよりも大きく、といっても俺でなければ分からない程度に頷いた。どうやらこのプランでOKみたいだ。
 こっちから誘った手前、もうちょっとマシな所に連れてってやりたかったんだが、いかんせん考える時間が短すぎたからな。
 昨日の帰り道にこいつの電撃告白を聞いて、二人っきりだったのをいい事についつい誘っちまったんだ。まったく、酒の勢いってのは恐ろしいね。明日から学校だってのに。
 この歳にして酒の怖さを知るという矛盾した事態について考察していると、いつの間にか駅前に着いていた。
 長門が親鳥を見る目で俺をじっと見つめてくる。わかってるって、そんなに急かすなよ。
「こっちだ」
 いつもの喫茶店を素通りし、角を曲がって信号を渡る。
 隣から聞こえてくる小さな足音に合わせて、できるだけゆっくりと歩くのは、結構楽しかった。





「美味かったか?」
「……なかなか」
「そうか」
 まあ、あの食べっぷりを見れば一目瞭然なんだけどな。隣で悠々と歩く白い子猫みたいな少女は、ライオンさながらの獰猛さで三人前の和牛ハンバーグを完食したのだ。女は宇宙。俺の財布はブラックホール。
「じゃあ、次は映画館な。長門、映画とか見たことあるか?」
 何となく聞いてみると、長門は黒い目を俺に向け、
「出た」
 と呟いた。ああ、そう言えばそうだった。魔女の格好をして、器用な人なら足でも作れそうな適当ステッキを持った長門の姿を思い浮かべる。
「準主役」
 少し誇らし気。悪役だけどな、とは言わないでおく。


 前売り券なんて持っているはずも無かった俺たちは、微妙に割高な当日券を購入し、ジュースを片手に一番後ろの席に座った。
 大き目のシアターは、まだ明るいままだった。席は八割方埋まっていて、周りからは小さな話し声や、ひっそりとした笑い声が聞こえている。
 長門は何も映っていないスクリーンを黙って眺めながら、時折思い出したかのようにジュースを口に近づける。真っ白な画面を見つめながら、こいつは何を考えているんだろう。
「この映画さ、原作は海外の小説らしいぜ」
 俺の声に反応して、時計の短針のようにゆっくりと首を回す。平べったいスクリーンよりか、俺の間抜け顔の方が面白いだろ?
「長門、読んだことあるか?」
「無い」
「じゃあ、ストーリーは知らないんだな」
「知らない」
「良かったよ。結末とか知ってたら、やっぱりあんま面白くないもんな」
 オチが全てって映画も、最近増えてきてるからな。だけど、長門は首を横に振って、こう言った。
「それでも、きっと面白い」
 静かな、だけど笑いかけるように柔らかな目。
 照明がゆっくりと落ちていく。俺は何も言わなかった。
 映画の内容は、割と有りがちな物だった。どこかで見たような恋愛と、どこかで見たような友情の話。だけど、決して悪くは無い。
 谷口、やるじゃないか。
 照明が再び灯る頃、不覚にも俺の目は潤んでいた。横からそっとハンカチが差し出される。
「長門……」
「使って」
 ああ、その無表情。泣いてる自分が少し恥ずかしくなっちまうじゃないか。
「いい歳こいて、みっともないよな」
 照れ隠しにそれだけ言って、ハンカチを受け取った。柑橘系の匂いがする、柔らかいハンカチだった。

 



 図書館に行く途中、大きな本屋に立ち寄った。
 長門は本棚の間にさっさと姿を消したので、出口の雑誌コーナーで時間を潰すことにする。
 数分して戻ってきた長門は、何か購入したらしく、右手に下げたトートバックがさっきより少し下に伸びていた。
「持つぞ?」と聞いても首を横に振るだけだったので、少し後ろめたさを感じながらも、そのまま図書館に向かって歩き出した。


 静かな図書館で、並んで座って本を読む。今俺たちは、世界で一番クールでクレバーな二人組みだろう。さらにその片方は、世界で一番スリーピーでもある。
 三冠王の俺は、ダンベルみたいな重さの瞼を、気力で何とか持ち上げていた。
 何せ初デートだ。途中で寝ようものなら、ハルヒなら世界を消滅させるだろうし、朝比奈さんは悲しそうに笑うだろうな。長門だって、今度ばかりはさすがに許してくれないかもしれん。
 とは言え、昨日は殆ど眠れなかったしな。これ以上活字を見ていると確実に現実世界とおさらばしてしまうだろう。暖かい館内の空気が、今日ばっかりは恨めしい。
 さて、どうしたもんかね。スタンガンとかがその辺に落ちてれば最高なんだけどな。
「寝た方がいい」
 自分の目を仮にグーとして、指のチョキで突いてみたらどっちが勝つんだろうなどと考えていると、本から顔を上げて長門は言った。
「あなたの睡眠時間は、十分とは言えない」
 本に夢中だと思ってたのに、やっぱり目ざといな。
「いや、全然眠くないから」
「いつものあなたなら、すぐに眠るはず」
 長門は俺の強がりを聞かずに、自分のマフラーと俺のマフラーをくっつけて、小さな枕を作った。
 ……そうだな。デートだからって、変に片意地張る事もないよな。
 さっき食ったハンバーグみたいに丸くなったマフラーに、そっと頬を乗せる。暖かくて気持ちがいい。これならすぐにでも眠れそうだ。
 目を閉じて息を深く吸いながら、眠気に任せて、俺は妙な事を言う。
「長門、一つお願いだ」
「……なに」
「手、握っててくれ」
 ああ、でもそう言えば、片手じゃ本が読みづらいだろうな。
 それでも、戸惑うように絡まった冷たくて小さな指先を握りこんで、俺は沈むような眠りへと落ちていった。





 ゆっくりと肩を揺さぶられて、瞼を上げる。
「もう、夕方」
 囁くような声だ。これが目覚ましなら確実に二度寝するぞ。
 それでも根性でマフラーから顔を上げ、凝った首を回す。
 ふと、握り合った手が汗ばんでいるのに気付いた。長門の冷たかった指先は、俺の体温ですっかり温まってしまっているらしい。
 何となく気恥ずかしくなって、慌てて指を解く。
「わ、悪いな、長門。本、あんまり読めなかったんじゃないのか?」
 机の上に置かれた本は、殆んどめくられていないようだ。
「構わない」
 それだけ言うと、本を戻すために席を立つ。カーペットを叩く足取りは、殆んど体重を感じさせない。
 俺はその後姿を目で追いながら、こっそりとあくびをした。少しだけ、視界が滲んでいた。

 



 図書館から出ると、外はもうすっかり暗くなってしまっていた。こんな時間まで眠りこけてるなんて、とんでもなく勿体無いことをしちまったな。
「よし、晩飯だな。昼より凄い所だから、期待してろよ」
 眠った時間を挽回しようと意気込む俺の裾を、長門がそっと引っ張った。
「夕食はいい」
「……腹、減ってないのか?」
 それとも、やっぱり怒ってしまったのだろうか。まあ、そりゃそうだよな。俺だって遊んでる途中に寝られたら怒るさ。
 こんな時って、どうしたらいいんだ? あー、くそ。自分の経験の浅さが悔やまれる。
 しかし長門は、少し緊張したような目で真っ直ぐに俺を見つめながら、
「私が作る」
 射抜く視線は、まるで決闘状を叩きつけるガンマンだ。
「……長門、料理作れるのか?」
 レトルトカレーしか食った覚えが無いんだが。そんな疑問に対し、長門はトートバックを肩の高さまで掲げると、
「本を買った」
 なるほどな。
 その後、公園のベンチに座り、長門が買った『はじめての家庭料理』とかいういかにも入門者ティックな本を二人で読んだ。何を作るか俺に選んで欲しかったらしい。
 といっても、何だか普通に家で出るようなメニューばっかりだったので、かえって困ってしまった。
「長門、何か食いたいものないのか?」
「任せる」
 俺もお前に任せたい。
 散々悩んだ挙句、俺が頼んだのはカレーだった。と言っても、レトルトじゃないぜ。ばっちり手作りの奴だ。
 長門は「いいの?」とでも言いた気に、こちらを窺うような目をしていたが、結局いつものように頷いた。
 マンションに向かう途中にあったスーパーで、本を片手に材料を買い集めていく。料理ってのは、買う時も楽しいもんだ。もちろん長門は笑ったりしなかったけど、野菜を選ぶ白くて細い手は、何となく生き生きしてるように見えた。
 と、急にトイレに行きたくなってきたな。
「悪い、ちょっとトイレ行って来るな。これで精算しといてくれ」
 自分で払わなくていいからな、と長門に財布を押し付けて、走り出す。ここのトイレ、汚いんだよな。


 案の定、長門は材料費を自分で出していたので、代わりに荷物を奪ってやった。この本、薄っぺらい癖に結構重いな。





「おじゃましまーす」
 むやみにでかいマンションの、何にも無いけど暖かい一室。
 上着を脱いでからキッチンに向かい、すぐにカレーを作ることにする。
 長門は一人で作りたかったようだが、俺は一緒に作った方が楽しいって、とか言いながら無理矢理手伝っていた。
「長門。皮はむいた方がいいぞ」
「それは袋のまま湯煎するんじゃないからな」
「リンゴを三玉入れるのは、どうかと思うんだ」
「ハチミツの単位はリットルじゃないぞ」
 岡本太郎も真っ青のダイナミックさでお届けする長門の一時間クッキングには戦慄を感じざるをえなかったが、それでも何とかカレーを作り上げることができた。
 一抹の不安を大切な宝物のように胸の奥にそっと閉まって釘を打ちつけながら、炊き立てのご飯にルーを盛りつける。
 大盛りの皿を小さなテーブルに運ぶ俺の後を追うように、長門が急須と湯のみを持ってきた。カレーに緑茶ってどうなんだろう。和洋折衷か?
「……じゃ、食おうか」
 少し悩んだが、緑茶については何も言わない事にした。まあ、冬は緑茶の季節だしな。
「「いただきます」」
 揃って手を合わせた後、水彩のように色の薄いカレーを口に運ぶ。
 ……おい、これは、
「凄く美味いじゃないか」
 レトルトとは比べ物にならんぞ。さすが長門、稀代のマルチプレーヤー。料理工程と出来上がりの因果関係を超越してやがる。
 本人も割と満足しているらしく、スプーンを動かす速度が尋常ではなかった。というか千手観音だった。
 結局俺たちは、鍋と炊飯器を空にするまで食い続けた。自分の胃袋が若干心配だったが、成長期なので問題ないだろう。





 洗い物をしたり下に降りてゴミを出したりと、諸々の雑用を片付け、ようやく部屋で寛げるようになった頃には、既に十時を回っていた。楽しい時間ってのは、あっという間に過ぎるもんだな。
「長門、今日楽しかったか?」
 楽しんでいたのは自分だけでは無いだろうか、と不安になった俺は、テーブルの向かいに腰を下ろしている長門に尋ねた。
「とても」
 珍しくきっぱりと言い放つ。
「……そうか」
 こいつは嘘をつかないからな。信用してもいいだろう。
「良かったよ」
 本当に良かった。
 長門は黒っぽい瞳を俺に向けたまま、ただ黙って座っている。
 その姿が、寂しそうに見えて堪らない。
「長門」
「なに」
「そっち行ってもいいか」
「……いい」
 じゃあ、お言葉に甘えるとしよう。一度立ち上がってテーブルを迂回し、長門の隣に腰を下ろす。
 そのまま二人とも身じろぎ一つせず、黙って窓の外を眺めていた。
 俺たちの住んでいる街が、とても綺麗に見えた。
 




 少し躊躇しながら、時計を確かめる。……もうそろそろだな。
 俺は長門の方に向き直る。
「長門。何か、無いか」
 さっきからずっと言いたい事がぐるぐると頭の中を回っていたが、口から出たのは、意味の分からない言葉の羅列だった。しょうがないだろ。これでもいっぱいいっぱいなんだよ。
 しかし長門には、それで十分伝わったらしい。ツーカーの仲って奴だな、多分。
「冷蔵庫の中に、今朝作ったケーキが入っている。明日みんなに渡して欲しい」
 ……お前、ケーキ作れたのか?
「去年、三人で作った」
 ああ、バレンタインの奴だな。
「上手くできたか?」
 長門は、成績の上がった生徒を誉めるように頷いて、
「割と」
 そっか。お前がそう言うんなら、きっと美味しいんだろうな。でも俺は馬鹿だからさ、ひょっとしたら皆に渡すのを忘れちまうかもしれないんだ。
「大丈夫」
 そうかな?
「そう。あなたは信頼に値する」
 そこまで言われちゃ、忘れるわけにはいかないな。遺伝子に刻み付けるしかあるまい。
 下手な冗談を聞いて、長門は笑うように目尻を下げた。不恰好な笑顔。
 それを見て、今更のように俺は気付いた。
 ああ、もう本当に、どうしようも無いんだな。
「泣かないで」
 長門の、撫でるように優しい声。
「泣いてなんか無いさ」
「嘘つき」
 指先でそっと、俺の頬を拭った。
「あなたは校門の前でも泣いていたし、映画館でも、図書館でも、スーパーのトイレでも泣いていた。昨日も一晩中泣いていた」
 お前が昨日いきなり、「私は明日消える」とか言い出すからだ馬鹿。
「……覗きは犯罪だぞ、長門」
 長門は、からかうような色を目に浮かべる。
「治外法権」
 俺は肩を竦めてそれに答えた。まったく、宇宙人ってのは便利なもんだな。


 そのまましばらく見つめ合う。子供みたいに小さくて白い顔に、俺には通用しない無表情。少し動けば、唇が触れ合う距離だった。
 だけど、どちらも動かない。俺は代わりに、頭に浮かんだ事を、そのまま口にすることにした。
「ハルヒってさ、最高に馬鹿だけど、最高に面白い奴なんだ。一緒にいたら疲れるけど、それ以上に楽しいから、多分俺は、もう少しあいつと一緒にいるだろうな」
「そう」
「朝比奈さんは最高に可愛くてさ、正直な話、気を緩めるとつい抱きしめてしまいそうになるんだ。特にバニーガールとかもう堪らん。俺がもう少し若かったら、襲い掛かっていたに違いない」
「そう」
「古泉は一々理屈っぽいし、手放しに信用できないタイプで、しかもたまにムカつく。女にもてるしな。だけど、絶対いい奴だと思う。それぐらいは分かるんだ」
「そう」
 壊れたラジオみたいな勢いに任せて、俺は続けた。
「長門は殆んど喋らないくせに、最高に頼りになって、おまけに小さくて可愛らしい。最高だな。皆お前が大好きなんだぜ。知ってるか? 古泉だって、お前のためになら自分の機関を裏切っても構わないって言ってたんだ」
 本当はただ、俺の声を覚えておいて欲しかっただけだ。
「まあ、お前の事を一番好きなのは、多分俺だけどな」
 こればっかりは、胸を張って言えるぜ。
「……そう」
 一瞬伏せられた目は、少し照れているようだった。
 見ろよ、すげえ可愛いじゃないか。プレーリードッグとタメをはれるぐらいだ。
 こんな子が、いなくなっちまうのかよ。
「また、泣いている」
 しょうがないだろ。勝手に出てくるんだよ。
 長門は再び俺の頬を拭おうとしたけど、できなかった。もう腕は消えていたから。
 その代わり、最高の冗談を思いついたように瞳を輝かせながら、冷たく見せようとする表情で呟いた。
「いい歳して、みっともない」
 ああ、まったくだよ。
 俺はこれ以上泣き顔を見られたくなくて、砂のように崩れていく小さな身体を抱きしめた。
 

「私も、大好き」

 囁きが耳元で聞こえて、すぐに消えた。





 一人きりになった俺は、小さな冷蔵庫を開けて、白い箱を取り出した。
 中を見てみると、チョコレートケーキが四個入っていた。去年のバレンタインにもらったのと同じ奴だ。
 俺とハルヒと朝比奈さんと古泉。四人分。落とさないように注意しながら、ゆっくりと胸に抱え込む。
 最後に戸締りを確認し、テーブルの上に残された鍵を拾い上げ、電気を消して玄関に向かった。
 廊下に出てしっかりと施錠した後、鍵をどうしようか迷ったが、俺が貰っておく事にした。
 この部屋に戻ってきた時、鍵が無いことに気付いたあいつは、真っ先に俺のところに来るに違いない。
 そんなことを考えて古泉のようにニヤつきながら、腕に巻いたブレスを外して、自分の携帯に鍵を括りつけた。決して落ちたりしないように、何度も何度も結び目を作る。
 そうして、地味な色の携帯に巻きつけられた銀色の鍵は、ストラップと言うには少しばかり不恰好だった。


 


 冬の夜道は、雪こそ降ってはいないものの、ついつい背筋を丸めてしまうほどに寒かった。
 一歩足を動かすたびに、記憶が少しづつ零れていくのを感じた。五人だった風景が、いつの間にか四人になっている。ポケットに穴が開いてるんだろう。
 それでも、胸に抱いた白い箱の事だけは忘れるわけにはいかなかった。約束したからだ。
 俺は、心の中で繰り返し呟き続ける。
 皆に渡す。皆に渡す。皆に渡す。中身はよく知らない。だけど皆に渡す。どこから持って来たのかも分からない。だけど皆に渡す。誰が作ったのかも、分からない。分からないんだ、長門。だけど絶対、皆に渡すよ。
 寂いのか悲しいのか。それすらもよく分からなくて、とにかく泣きそうだった。
 だけど、我慢する。高校生が泣きべそかきながら家に帰るなんて、みっともないもんな。
 気を抜いたら叫びだしてしまいそうな自分を誤魔化すように、俺は下手糞な鼻歌を歌い始めた。昼間見た映画の主題歌だ。
 あの映画、結構おもしろかったよな。お前もそう思うだろ?
 その前に食ったハンバーグだって美味かった。ま、お前の作ったカレーほどじゃないけどな。
 学校の坂道は静かだったし、人ごみは楽しかったし、図書館は暖かかったし、スーパーは果物の匂いがして、お前の部屋は空が良く見えた。
 なあ、最高の一日だったよな?


 目を閉じれば聞こえてくる小さな足音に合わせて、冷たいアスファルトの上をゆっくりと歩き続ける。
 誰かと二人で聞いた歌を、一人で口ずさみながら。