どうしよう。
うちの玄関の前。私は考え込んでいた。
手に持ってるのは漢字の書き取りテスト。小さい紙には、マルが一つ。ペケがたくさん。
0点だった。ぜったい合ってると思った「雨」も間違ってた。「霙」って書いてた。逆にほめられた。
ママに見せたらどうなるだろう。
想像してみる。
『今日の夕食はから揚げね。パパの靴下のから揚げ』
すごくいやだった。
私は必死に考える。
どうしよう。どうしたら靴下を食べないですむんだろう。
……閃いた。
「食べよう」
私はテストを丸めて食べた。鉛筆の味がするけど、靴下よりはきっと美味しいと思う。
翌日、お腹を壊した。
病欠家族 /
「いい、大人しく寝てんのよ? 学校には連絡しといたから」
声を出すのが辛かったから首だけで頷くと、ママは心配そうな顔をしていた。
朝ごはんの途中で気持ち悪くなった私は、私より青くなったパパに連れられて自分のベッドに戻ってきたのだ。
そのままおろおろしていたパパは、ママに蹴られて仕事に行って、今はママと二人きり。
「本当に病院行かなくて大丈夫?」
私は首を振った。病院はキライ。変なにおいがするから。
私は言う。大丈夫だよ。食べ過ぎただけ。
ママは首を振り続ける私を見て、ため息をついた。パパみたいだ。
「あんたって結構強情よね……でも、お昼までに治らなかったら無理矢理連れて行くから。覚悟しときなさい」
私は首を振り続けていたけど、ママはこっちを見ないで、そのまま部屋から出ていってしまった。
もうすぐ九時。お掃除の時間なのだ。
掃除機がうぃーんっていいはじめるのだ。
しばらくして、やっぱり聞こえてきたうぃーんっていう音。
ちょっとだけうるさくて、私は布団の中に潜り込んだ。暗いけど、いい匂いがした。
眠りそうになっていた時、けぷ、と口から息が出た。
まだちょっと気持ち悪い。
お昼までには治りますように。
ママは三十分おきに様子を見に来てくれた。実はすごく心配性なのだ。
私のむかむかが治らないのを確かめる度に、目元をちょっとづつ上げていくママ。
お昼の直前になると、三角定規じゃないまっすぐな定規が縦になったみたいになって、
「やっぱり病院に行かなきゃダメ」
大丈夫だよ。食べすぎただけ。すぐ治るの。
「治ってないでしょうが。いい? 食べすぎでも油断しちゃダメなの。お医者さんに行って薬を貰ってきましょう。市販の薬はあんまり良くないんだから」
まだお昼じゃないもん。
「もう十一時よ」
お昼は十二時からだもん。
「あんた、最近パパみたいなこと言うようになったわね…………わかった。あと一時間で治しなさい。根性よ根性。ダメなら病院。わかった?」
うん。
ママが部屋から出て行って、しばらく経った。
コチコチ時計の音がする。
ママに嘘は通じないから、私はもうすぐ病院に連れて行かれてしまう。
そしたら注射だ。ひょっとしたら、お腹をハサミで切られるかもしれない。
すごく泣きそうだった。誰でもいいから助けて欲しかった。
布団の中でちょっとだけ泣きながら、私は眠った。
コチコチ時計の音がしない。
いつの間にか、部屋の中に女の人が立っていた。ママじゃない。
だれ?
「……モグリの医者」
もぐり。知ってる。もぐらの仲間だ。
でも私はもぐらじゃないから、モグラのお医者さんは必要ないのだ。
「モグリとは法に背くという意味であり、もぐらの仲間ではない。知ったかぶりをしてはいけない」
もぐりさんは私の頭を優しくさわった。
もぐりさんはいい人だと思う。
「具合が悪い?」
もぐりさんは聞いた。お風呂のお湯みたいな声だった。私は頷く。
「そう」
もぐりさんは私のお腹に手を置いた。
「……消化器官に植物性繊維が残留している。情報痕跡を採取した後消去。再構成」
もぐりさんが手を離すと、お腹の中のむかむかが消えた。
すごい。私は感動した。もぐりさんはすごいお医者さんだ。お薬も注射もしてないのに。
「これは食べ物ではない。もう二度と口に含んではいけない」
そう言うもぐりさんの手には、小さい紙が握られていた。マルが一つ。ペケがたくさん。
昨日私が食べたテストだ。
「0点を取ったからといって、隠そうとしてもいけない」
もぐりさんの目は定規みたいじゃなかったけど、何だかちょっと怖かった。
「ごめんなさい」
私が謝ると、もぐりさんの目は怖くなくなった。
「いい子」
もぐりさんの冷たい手が、私の頭を撫でた。
もぐりさんの冷たい手は、そのまま私の目の上に。
まっくら。
何だかすごく眠かった。
「おやすみなさい」
もぐりさんが言った。優しいときのママの声みたいだった。
私も言った。
おやすみなさい。
「……んー、嘘じゃない、わね。本当に治ったんだ? ギリギリで自然治癒させるなんて、あんたそんなに病院が嫌だったの?」
うん。
ママは布団の上で、私を膝の上に置いたまま、おかしそうに笑う。
「お腹触られてお薬もらうだけなんだから、別に怖いことなんてないわよ」
お薬より、もぐりさんの方がいい。
「もぐり? もぐりってあのモグ…………ん? 何よこれ」
布団の上をまさぐったママの手には、小さい紙が握られていた。マルが一つ。ペケがたくさん。
……もぐりさん、置いて行っちゃったんだ。
「何これ。0点じゃないの」
こっそり逃げようとした私を、ママの足が掴んだ。クレーンゲームやりたいな。
「あんたねぇ……」
定規を超えそうなママの目。私はすごく怖くなった。
「なんで『山』を『嶺』とか書いてんのよ! 逆に凄いじゃないの! せめて『川』とか書いとかないと、こっちだって怒りづらいでしょうが!」
心配しなくても、十分怒れてると思う。
「ごめんなさい」
私が謝っても、ママの目は怖い。
「謝ってもダメ! もう、今日は一日勉強よ! いい、よく遊ぶためにはね、まずよく学ばないといけないの。わかった? わかったら漢字ドリル出しなさい。十秒で」
もぐりさんはやっぱり優しい人だったんだ。
机の横で腕組みしてるママににらまれながら、私は思った。
「なんで『犬』を『狗』って書いちゃうのよ! 親としては凄く複雑!」
ごめんなさい。