バナナ一本、巻き添えで。/





 何だか最近起こし方が優しくなった気がする妹に、とうとう兄の心を汲み取ってくれるようになったのかと感心しつつ、毎度の如く頭を撫で回してやったあと、一般的な滑り台の角度とどっこいなんじゃないかという疑問をそこらの計測技師を捕まえて証明したくなるような上り坂をひーこら呻きながら登っていると、
「やあ、これはマイベストフレンドではありませんか」
 これまた最近妙に距離の縮まった気がする友人が、背後から俺の肩を叩いてきた。
「おう、おはよう古泉」
 相変わらずキシリトールガムの宣伝でもしてんのかよと突っ込みたくなるような白い歯をちらつかせる古泉は、「おはようございます」と慇懃な挨拶を返すと、俺のすぐ隣に並び立つ。
「お前、何か最近調子良さそうだな」
 ここ数日の古泉の顔は、まるで前世から患っていた虫歯が何かの拍子に抜けたかのようなサニーフェイスだった。そのまま選挙のポスターにでも使えそうなぐらいだ。何かいい事でもあったのか。
 俺の問いに対し、古泉は糸楊枝みたいに細めた目をさらに細くすると、
「涼宮さんの機嫌は上々で、僕の私生活も色々と充実していますから。苦節四年、まさかこんなにも平和な日々が来ようとは、夢にも思いませんでした。それもこれも、あなたのお陰に他なりませんよ。やはりあなたは、涼宮さんが見込んだだけのことはありますね。正に僕らにとっての救世主です。そしてマイベストフレンディストです」
 救世主って、お前な。何でもかんでも仰々しくしたがる癖をいい加減改めたらどうだ。そういうのは死んだ後の戒名とかで十分なんだよ。
「いえいえ。今のあなたは僕にとってそれぐらい魅力的に映るという意味です。心無いおべんちゃらや儀礼的なものとは全く意味合いが異なりますので、それだけは覚えておいていただきたいですね」
 魅力的とか言ってもらっといて何だが、俺にそのケはまるで無いぞ。
「僕にだってありません。ただ、やはりあなたは僕の真の友と書いてマブダチなわけですから、心の垣根を置かずに誠の意を交わしたいと思ってしまうわけですよ」
「……何か恥ずかしい気もするが、まあ、そういうことならいいかな」
 実際、こいつとは高校入学以来共に過ごした時間がかなり長いし、気の置けなさランクをつけるんなら男子限定でトップクラスに立つのは疑いようもない。いわゆる親友という奴である。一々言葉にするのは、何か変な気分だけどさ。
 俺は頬を掻きつつ、ふと思い立って、
「そういや俺の家の近くに美味いラーメン屋ができたらしいんだけど、ハルヒたちに紹介する前の事前偵察ってことで、今度一緒に行ってみるか?」
「いいですね!」
 返事早いな。





 古泉と別れて教室の桟を潜った俺は、思わずその場で硬直してしまった。
 しかし、そのままでいると後発のクラスメイトの邪魔になってしまうのは明らかだったので、動揺を咳払いに乗せて温い空気の中に押し隠しつつ、席に座った俺の横では壮大な青空がまるで月曜日に俺んちの近所にうず高く積まれるゴミ収集袋のようにコスモポリタニズムとは程遠い地球を彩って、
「ちょっと」
「いてててててっ」
 現実逃避しようと試みる俺の方を掴んで無理矢理振り向かせたハルヒは、目を逸らし気味のまま口を開いた。
「あんたに聞きたいことがあんのよ」
 俺も何となくカーテンのあたりに視線を逸らしつつ、応答する。
「何だよ」
「今日は髪型を変えたい気分だったのよね」
「……そうか。そういう日もあるんだろうな」
「そうね。でも、こういうのにはちょっとまだ短いかなって思うんだけど、あんたどう思う? 参考までに聞かせなさいよ」
 いや、俺の意見なんてその辺のアブラムシと同じ程度の重みしか持っていないわけで、気にせずにそこらのファッション雑誌と自分の顔とを見比べていた方が何倍も、
「いいからはっきり言いなさい。団長命令。逆らったら拷問」
 ハルヒは目を合わせぬまま鼻息荒く宣言し、しかし、次の瞬間にはひどく小さな声で、
「それとも、そんなに……似合ってないってわけ?」
 少し下に傾いた首の角度に、えもいわれぬ感覚を覚えた俺は、必死に首を振った。
「いや、全然似合ってるって!」
 なんせ、今日のこいつときたら、俺のストライクヘアー即ちポニーテールである。馬の尻尾的なあれであり、俺が最後にそれを見たのはもうおよそ一年前のことだ。ああ懐かしきセピアの空よ。
「……本当に?」
 そんな上目遣いで言われたら、誤魔化すもんも誤魔化せん。
「ああ、マジマジ……というかな、ずっとそのままでいて欲しい、ような……あ、けど、もちろんお前が嫌っていうんなら無理にじゃなくてもだな」
「ふざけんなああぁぁぁぁぁっ!!」
 突然響き渡った叫び声に、俺とハルヒは反射的に耳を塞ぐ。何だってんだ一体!
 捻っていた上体を戻すと、教室前方から、キレイ目ファッションに一部崩した雰囲気を取り入れるためのアクセサリーみたいに国木田を腰に巻いた谷口が、俺に向かって走りこんでくる。この辺は知らぬ間にホームベース的ポジションになっていたのだろうか。
「谷口、落ち着いて! 落ち着いて!」
 しきりに叫ぶ国木田を最終的に振り落とした谷口は、俺の襟元に掴みかかって、ていうか苦しいんだけど、
「おいキョンっていうかキョンじゃない誰か! お前誰だこの野郎! キョンを何処へやったんだ! 騙そうたってそうはいかねえぞ! 俺たちのキョンはな、そんな後ろの席のちょっと気になるあの子とキャッキャやるようなラブコメ要素とは遠くかけ離れた奴なんだよ! 北極とアマゾン川流域ぐらい違うんだ! さあ言え! 白状しろ! ひょっとして食ったのか! 食ってキョンに化けたのか! おい国木田! 今すぐ電話ボックス持ってきて赤い丸ボタンをプッシュしろ! コールセンターのお姉さんが出たらな、ニューヨークのゴーストバスターズさんを今すぐ呼んで下さいっていげるぼぁっ!!」
 いきなり白目を剥いた顔にビビリつつも下を見れば、俺の脇腹を掠めたハルヒの右足が、谷口の腹に深々と、具体的に言うと八センチぐらいめり込んでいた。ヒールだったら百パー貫通。白いカッターシャツに牡丹と薔薇が刻まれていただろう。
「な、なぁハルヒ。ちょっと、やりすぎなんじゃ」
「さっきのもっかい言って」
 あっという間に自分の席で肘つき態勢に戻ったハルヒは、相変わらず窓の外を見ながら言う。
「……さっきのって?」
「マジマジ、の次になんか言ってたでしょ。聞こえなかったのよね、そいつの叫びに被って。だからほら、リピートアゲイン」
 あんまり被っていなかったと思うんだけど。いや、今はそれよりこの状況を何とかせんと。俺というつっかえ棒をなくしたら、谷口はこのまま床と熱いベーゼを交わすことになってしまう。
「悪いけど、こいつを保健室に連れていかないと」
 ハルヒは鬱陶しそうに、泡を吹いている谷口を半眼で睨むと、再び窓の外に視線を固定し、
「じゃあ書いて」
「かく?」
「さっき言ったことを、そのルーズリーフに書き写しななさい。でっかく。ボールペンで。色は任せるわ」
「……書くってお前、そんなもん、一体どうするんだよ」
「書きなさい。団長命令。逆らったら有希のマンションからバンジー」
 谷口の様子を見るにつけ、俺も逆らえば本気で何かされそうだったので、しぶしぶ青のボールペンを取り出して、恥ずかしい台詞を書き起こす。何か、文字にしたらますます恥ずかしかった。
「ちゃんとあんたのサインも入れて」
「…………」
 フルネームで署名した。
 書いた後すぐ国木田を伴って負傷者を保健室へ送り届けたため、そのルーズリーフをハルヒがどうしたのか、俺は知らない。
 ただ、戻ってきた時のハルヒは、やっぱり窓の向こうを眺めていて、周囲の席との距離が人一人ずつぐらい離れていた。何でみんな揃って鼻の穴にフランクフルトをねじ込まれたみたいな顔してるんだろうか。





 昼休みになると、周囲の視線に含まれる何かに耐えることができなさそうだったので、矢鴨のようにほうほうの体で部室へと逃げ込んだ。
 念のためにノックをしてドアを開けると、いつ教室にいるのかノーバディノウズな具合で部室の付属品と化している長門が、ちょこんと手を挙げて、俺に歓迎の意を表した。歓迎云々は、あくまで勘だけどな。
 長門は手を下げたが、本に視線を下ろすことなく、どうやら俺が右手に持っている物体を注視しているらしかった。
「ああ、最近校舎の中によく落ちてんだ、バナナの皮。一昨日なんて十本見つけたぞ。誰かこっそりチンパンジーでも飼育してるのかもしれん。もし見かけたら報告してくれよ、長門。ちょっとばかり注意してやらにゃならんからな」
 こないだ俺が頭を打ったのも、ハルヒ曰くバナナのせいらしい。ペットマナーについて、飼い主と二三論議を交えたいところである。それとも、何か妙な呪いでもかかってたりして、この学校。肌の黒い人たちのブードゥー的なやつとか。
 考えても結論が出るわけではないので、隅のくずかごにぬるっとしたバナナの皮を放り、毎度の指定席に座り込んで弁当箱を開く。最近妙に豪華なんだよな、うちの弁当。
 ほくほく顔でベーコンのアスパラ巻きに舌鼓を打っていると、
「……おわっ!」
 いつの間にやら、窓際にいたはずの長門が、本を読む姿勢のままでパイプ椅子ごと俺の隣に移動してきていた。どれだけクンフーを積めばここまで気配を消せるんだろう。宇宙は気で満ち満ちている。
「どうしたんだよ、長門」
 ひょっとして腹減ってるのか?
 蓋の上におかずをよそってやろうとすると、長門はいきなり顔を上げて、
「わたしとの距離に比例して、あなたの心拍数が増大している」
「は?」
「疑問がある。どうしてこのような不随意運動が発生するのか、あなたの見解を聞きたい」
「え? け、見解?」
 いきなり生物の講義を始めようとする長門に対し、俺は目を白黒させることしかできない。
「例えばこのように」
「ちょ、ちょちょちょっと、長門! 近い! 近いぞ!」
 肩に頬を擦り付けるな! 犬かお前は!
「皮膚同士が接触するようになると、上昇率が急激に高まる」
 抱きつくように胴に回された腕と、高貴な禁色のように惹きつけられる目の色が、熱い俺の顔に近づいて、
「どうして?」
 童女のように、息を漏らす。くすぐったくて、俺はもうたまらなかった。
「そりゃ! お前な! 可愛い女子からこんなことされたら、誰だってそうなるだろ!」
 悲鳴のように言って、首だけでも逃れようともがいてみる。
 なぜか拘束は、あっけなく解かれた。
 恐る恐る振り向いた俺と、半秒目を合わせた長門は、
「そう」
 とだけ言って、再び読書に戻ってしまった。箸を握ったままの俺は、経の一つも賜れないながら半跏思惟像のように硬直するしかない。
 何だったんだよ、今の。





 さて、ここ最近はハルヒの暴走も見られず、生徒会もちょっかいを出してこないし、突然のようにふって湧いてくるイナゴのようなトラブルの類も見あたらない。
 しかし、そんな状況の中でも幾つか頭を悩ませるべき事柄があって、それは例えば、さっきも言ったようにやたらと学校中に落ちているバナナの皮であったり、長門の感触にどきまぎしてしまう自分だったり、部室の宝玉である朝比奈さんの顔色があまりお優れでないことだったりする。
「どうぞ、キョンくん」
「どもっす」
 今日も今日とて放課後の部室で気遣いメイドさんっぷりを十二分に発揮している朝比奈さんなのだが、いつもの永久凍土でさえレンジでチンしてしまえそうな花丸笑顔に、少しばかりの翳りが窺える。ここんところ毎日だ。
「朝比奈さん、やっぱり調子悪いんじゃないですか?」
 マウスをいじり回しているハルヒの鼻歌の影で、やはり毎日のように朝比奈さんに声をかけてみる俺なのだが、
「ぅ、ぜんぜん、ちっとも何ともないですよ。もう、やだなぁキョンくんったら。心配性なんだから」
 でも、何だかちょっとやつれているような気がするんですけど。
「ききき、気のせいですよぅ。睡眠だってちゃんと取ってるし、ご飯も朝昼晩と毎食快調に……うっぷ」
「朝比奈さん?」 
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。まだ食べれる。あたしはまだ食べれるから……」
 何事かぶつぶつと呟きながら、日を浴びたら溶けてしまいそうな足取りで再び給仕作業へ戻ってしまう。毎度こんな調子なのである。
 本当にどうしちまったんだ、一体。悩み事でもあるのだろうか。高校生一般にある程度遍在的なお悩みなら是非とも相談に乗ってあげたいところなんだが、もしもそれが未来絡みであったりした場合は俺が言葉を挟める余地は封筒ののりしろぐらいのものだし、女性特有のものであった場合には見守ることぐらいしかできない。
 どちらにせよ、歯痒い話ではあるな。
「ふぅー、さすがに今のは緊張しましたね。かなりギリギリでした。ささ、次はあなたの番ですよ。この辺なんかが取りやすくておすすめです」
「ああ。悪いな、取りやすいとこまで教えてもらって」
 古泉がどこからか買ってきたジェンガに手を伸ばしながら、俺は頭を悩ませていた。
 とりあえず、今日の夜にでも電話して話を聞いてみようかな。どんな種類の悩みにせよ、聞いてみないことには選り分けもできない。万が一にも、人類の共有財産たる朝比奈さんに病の気色などがあったりすれば一大事だ。注意一秒後悔一生。やれることはやるべきだろう。
 しかし、夜を待つまでもなく、俺の携帯に朝比奈さんからのメールが届いたのは、皆と別れてすぐの帰り道でのことだった。
 




『相談したいことがあるの。あなたの教室で待っています』
 メールの文面を眺めながら、夕焼け色の学校の階段を昇っていると、どうしても朝倉とのことを思い出してしまう。もう一年も経ったとはいえ、学生生活におけるイベントとしてのインパクトはそれこそ隕石級だったため、俺の記憶には未だに深い穴が穿たれている状態だ。癒えぬ傷跡ってやつ。
 自身のトラウマを顧みつつ、ここ一年で本当に色々あったなぁとノスタルジックな気分に浸りながら教室の扉を開いた俺の目の前に広がっていたのは、新しいトラウマとして昇華されそうな光景だった。
「……何だこれ」
 そこにあったのは、床一面に敷き詰められたバナナの皮と、それこそ朝倉のような笑顔で窓際に佇む朝比奈さんの姿。シュールレアリズムの極致である。
 おっかしいなあ俺いつから寝てたのかなと首を傾げつつ瞼をガシガシ擦っていると、
「ふふふ、どうですか? これならどこを踏もうとバナナの皮だらけです。きっとキョンくんは転んでしまうに違いないです」
 朝比奈さんの声に引き戻される。どうやら俺が寝てるわけじゃないらしい。ハレーションを起こしそうなイエローは現実だ。どっちかと言えば夢オチの方が良かった。
 夜中の美術館に一人で取り残されたような孤独に現実と乖離してゆく寂寥感を吹き消そうと、俺はとりあえず口を開く。
「あのー、ですね。何ていうか、朝比奈さん。多感な年頃だし、芸術に目覚めるのは素晴らしいことだと思うんですけど、これは何を表現しようとしてるのか……経済格差を無くそう、とかなのかな? いやとにかくですね、俺にはちょっと難しすぎるみたいで……」
「難しくなんかないです!」
「……はい?」
「ここ数日、毎食毎食バナナを食べ続けて、余った皮をキョンくんの行きそうなところに仕掛けていったのに、ちっとも転びそうな様子もないし、もう黄色いものを見るのも嫌になってきたから鶴屋さんに手伝ってもらおうとしても『太りそうだから嫌にょろ』って断られちゃうし、でもね、ある段階をすぎると太るどころかやけにおトイレが……いえ、そんなことはどうでもいいの。とにかく、これでキョンくんは滑って転んで、以前のキョンくんに戻るんですよ! こんな皮肉の一つも言わないようなキョンくんとは、今日でお別れです! あの天に唾するような態度で近所の小学生から十円ずつ奪ってくるようなキョンくんに戻るんです!」
「えっと……ってことは、今までのバナナの皮は、朝比奈さんが?」
 ていうか以前の俺ってそんなんだったのか。
 色んな意味で驚愕の俺に対し、朝比奈さんはさらに畳み掛け、
「さあ、キョンくん、そのバナナを越えてこっちまで来て! そして本当の自分を取り戻すの!」
 メロスを迎えて殴り合った後のセリヌンティウスのように希望が成就されたといわんばかりの表情で両手を広げていた。
 もう何だかわけがわからない状況なのだが、そのまま捨て置くにもいかず、俺は言われたとおりにバナナの皮を拾いながら朝比奈さんの下へ向かおうとする。
「あ、だ、だめ〜! それは無しですよぅ! ちゃんと踏んでくれなきゃ困ります!」
 泣きそうな顔で両手をフリフリする朝比奈さん。そんなキュートな仕草をされては、新幹線だって止まるに違いない。新幹線じゃない俺だってもちろん止まった。
「それじゃ意味が無くなっちゃいます! いいですか? これは事故当時の状況を再現し、以前受けた衝撃と同じ衝撃をキョンくんの脳に与えることで、逆に元に戻るんじゃないかという予測に基づいたプランなんですよ。マイナス掛けるマイナスはプラスになるの。だからこう、『すってーん』ってやって『ごっちーん』ってならなきゃダメ!」
 非常に痛そうなプランである。
 俺があからさまに嫌そうな顔をすると、朝比奈さんはビスクドールのような相貌をくしゃっと崩して、
「自分が酷いことしてるって、わかってる。でも、あたしは、あたしはキョンくんのことを思って、心を鬼にしているんです。帰ってきて欲しいから、前の、前の素直じゃないキョンくんに、あたしは、あたしは……う、ひぐっ、うぅ……」
 そう言う朝比奈さんの目から、一粒の涙が零れ落ちた。色の無い透明なひとしずく。冬の頃に、公園で目にした泣き顔が思い出された。
 胸の奥がじんじんする。
 俺は、朝比奈さんの涙に何をもって報えるのだろうか。考えるまでもなく、それはたった一つしかない。
「わかりました。朝比奈さん、もう泣かないでください」
「……キョンくん」
 目元に手を当てながら、俺を見つめる朝比奈さんに対し、
「俺、やってみます。滑って頭を打ちます」
 拳を握って、宣言する。
「みんなが気を使ってくれるから、すっかり甘えてしまってました。考えてみたら、俺はまだ、異常な状態のままなんですよね」
 自覚症状がないせいで、いつの間にか忘れちまってた。いや、ひょっとしたら忘れていたかっただけなのかもしれない。病気が発覚するのを恐れて病院に行きたがらないせいで家族に気を揉ませてしまう老人のように。
「キョンくん、あなた……」
「でも今ならやれる気がします。朝比奈さんがここまでしてくれるんなら、俺もそれに応えないと」
 これだけの量のバナナを食べるのは、きっと想像を絶する苦行だったに違いない。中身だけ捨てたりしないでちゃんと食べているあたりも、目頭を熱くさせるじゃないか。
 涙を拭っていた朝比奈さんは、やがて抱きしめるような笑顔を浮かべると、
「あたし、待ってます。キョンくんが帰ってきてくれるのを、待ってますから」 
 俺も、朝比奈さんに向かって笑顔で頷いた。
 しばらく見つめ合った後、床の上で京美人のようにお行儀良くしんなりとしているバナナの皮たちに目を落とす。
 ここはやはり、全力疾走しかないか。けっこうな恐怖感があるが、今更そんなことは言ってられない。バナナの向こう側では、朝比奈さんが祈るような姿勢で待っていてくれるし、さらにその後ろには、俺を待ってくれているみんなの姿があるのだ。
 必ず元に戻ってみせる。
 意を決して廊下まで数歩下がり、クラウチングスタートを切るべく膝を屈ませようと
「あっぶなぁーーい!!」
「ごぶるぉっ」
 したところ、背中に腹を空かした猪のような勢いで何かが突っ込んできたせいで、俺の体はバナナまみれの床をカーリングのように滑りまくり、黒板の下に背骨を打ち付けてようやく止まった。ついでに息も何秒か止まった。
「ふー、危機一髪だったわ。下手したらキョンが元に戻っちゃう……あー、ごほん。あれね、危うく怪我するところだったわね」
 息を詰まらせたまま仰向けになると、俺を突き飛ばしたらしいハルヒが吽の像みたく仁王立ちしていた。続いて、長門と古泉も教室の中に入ってくる。
 被疑者を追い詰めるサディスティックな検事のように笑うハルヒは、朝比奈さんに向かって指を突きつけると、
「残念だったわねみくるちゃん! あなたの考えなんて、あたし達にはお見通しよ! 大人しくお縄につきなさい! 問答無用の現行犯逮捕なんだから、弁解の余地なんてサスペンス物の最後に出てくる崖の道幅ほども無いわ!」
 糾弾に晒された朝比奈さんは、へなへなと床に座り込み、
「み、みなさん……どうして、ここに」
「どうして? ふ、簡単よ。こないだ鶴屋さんが『最近みくるがさ、バナナばっかり食べてんだよねっ。多分なんかの病気だと思うんだけど、そういうのを本人にやんわりと教えてあげられる便利な日本語って無いかなっ』って旨の相談を持ちかけてきたの。あたしはその時点でみくるちゃんが何を考えているのか手に取るようにわかったわ。団長だから」
 ハルヒはいつものように胸を張りながらバナナを踏み越え、朝比奈さんとの距離を詰めていく。シューズが汚れてもあんまり気にしないタイプらしい。
「そのとき鶴屋さんに、みくるちゃんがおかしな行動を取ったら逐一報告してもらうように頼んどいたの。そしたら今日、妙に大きな袋を担いで学校に来たって言うじゃない。だったら何か行動を起こすとしたら今日だろうと踏んで、帰るふりをしてキョンを尾行してたのよ。まったく、甘いわねみくるちゃん。計画に秘匿性のひの字もありゃしないじゃない。もう少し楽しませてくれるかと思ってたから、却って情けないという気持ちもあるのよ、あたしは」
「ま、まさか……鶴屋さんが、鶴屋さんが裏切っていたなんて……」
 さらに打ちひしがれた様子の朝比奈さん。それはそうと、誰か起こしてくれないか。腰が痛くて立てないんだけど。 
「みくるちゃん。お縄を頂戴するとは言っても、あなたのことを責めるつもりなんて無いわ。キョンを元に戻そうとしただけだっていうのも、十分わかってる」
 朝比奈さんの傍に膝をついたハルヒは、うなだれた肩にやんわりと触れて、
「でもね、こんなことをしても、キョンの頭がさらにおかしくなるのがオチだと思うの。もう一回頭に衝撃を加えてしまえば、元に戻るどころか、最悪植物人間になってしまう可能性も無きにしも非ずよ」
「で、でも、それぐらいしかキョンくんを元に戻す手段が……」
「第一、キョンが頭をぶつけたのはバナナって言うか三角す……じゃなくて、何か黄色くてぬるっとしたやつのせいなの。パッと見はバナナに見えたんだけど、今思い出すと違うような気もする。どっちにせよそれはもう遠い過去の一部となってしまってしまっているわ。だから、こんなことをしても何にもなりはしないの」
「そ、そんな……じゃあ、あたしは、あたしは何のために、お腹を下してまで……」
 わっと泣き出した朝比奈さんを、入り口から歩み出てきた古泉がゆっくりと立たせると、そのまま両肩を抱いて教室の外に連れ出した。
「朝比奈さん、」
 何か言わなくてはならない気がして、呼び止めようとした俺を、ハルヒは首を振って制す。
「今は、そっとしておいてあげましょう」
 古泉と長門に連れられて扉の影に消えていく朝比奈さんを、俺は黙って見送ることしかできなかった。後に残されたのは、バナナの皮だけだ。俺のためを思ってここまでしてくれたのに。歯痒いな、チクショウ。
「キョン、立てる?」
 隣で屈むハルヒに気付いて、体を起こそうとする。しかし、背骨と腰の関節が痛んで、なかなか難しかった。
「ちょっときつい。悪いけど、手を貸してくれないか」
 躊躇うことなく差し出されたハルヒの手を握り、壁に手をついてようやく立ち上がる。
 首の下にきたハルヒの顔に、俺は言った。
「すまん、ハルヒ」
「別にいいわ。これぐらい」
「いや、今だけのことじゃないんだ。みんなして色々と気を使ってくれてるのに、俺は一向に元に戻る気配が無い……らしい。何ていうか、申し訳ないし情けないんだ。だから、すまない」
 朝比奈さんをあんなに悲しませてしまったのも、俺の責任だ。下げる頭なんて、幾つあっても足りはしない。
 しかし、そんな俺を見ても、ハルヒは優しく微笑むばかりだった。
「それこそ気にすることなんてないわよ。あんたの性格が変わろうと外見が変わろうと便所コオロギになろうと、SOS団の一員であることに変わりはないわ。無理をしすぎると、却って良くない結果に繋がるかもしれないからね。あんたは別にそのままでも、ぜんぜん構いやしないんだから」
「……ああ。ありがとう、ハルヒ」
 礼を言うと、別に、ともごもごと呟きながらアヒル口になって目を逸らすハルヒ。俺は、つい笑ってしまった。
 ハルヒは確かに誤解されやすい性格をしているけど、本当は心根の優しいただの女の子だ。こういう可愛らしいところもあるってことをSOS団以外の奴も知っていれば、こいつを取り巻く世界はきっともっと楽しいものになるに違いない。
 でも、そんな誰も知らないハルヒの顔を独占していたい気持ちも、俺にはあるんだけどな。
 気付けば、俺とハルヒは息のかかる距離で見詰め合っていた。
 顔中の血管に血液が回りはじめるのがわかる。きっと俺の顔は、染め出し剤によって紅くなった磨き残しの歯のようになっているに違いない。
 握ったままの手に、力がこもる。
「……痛いんだけど」
 少し頬が赤いような気がするハルヒの手を、俺はそれでも離せなかった。
 落ち陽に焼かれた教室に二人っきり。行き場の無い隘路。まるで誰かに踊らされているようなシチュエーションだ。
 でも、俺はこれ以上自分の気持ちを誤魔化せそうにない。
「ハルヒ、俺」
「な、何なのよ」
 上目遣いのままで一歩後ろに下がるハルヒ。やっぱり、嫌がられているんだろうか。
 そりゃそうだよな。これじゃあまりに独りよがりだし、
「あ! ち、違うわ! これはその、あれよ! 間合いを取ったのよ! 何にだって最適な距離っていうもんがあるでしょ! それを、あの、自動的にね!」
 俺の表情の裏を見て取ったのか、ハルヒは慌てて首を横に振った。
 その仕草に勇気付けられ、改めて問いかける。
「じゃあ、その……いいか?」
「…………ま、まあ、しょうがないんじゃない。うん。お互い若いんだし、そういう気分になることもあることもあるっていうか、とにかくあれよね。しょうがないのよね、この状況は。事故って言うか当たり屋っていうか、とにかくそんなこんなで……さ、さっさとやっちゃえばいいんじゃない……」
 ハルヒは小さく言って、そっと目を瞑った。心臓の音は際限なく高まっていく。
 これは、あの灰色空間の時とはわけが違う。ちゃんと現実で、こいつだって、きっと夢だと思ったりはしないだろう。
 なら、これが本当の意味で、最初の、あれだ。やばい。そう考えるとすげえ緊張する。しかし、このままハルヒの顔を見つめているだけではもう満足できないのだから、ここはもう次のステップへと行くしかないのである。
 深呼吸を一つして、腹をくくった。
 では、いざ。
 恥ずかしさと嬉しさがない交ぜになって朦朧とした状態の俺は、それでも本能に従って体を前に押し出し、


「あ」


 ずるり、と、落っこちていたバナナの皮を踏んづけた足が盛大に浮かびあがって、


「あ?」


 訝しげに開いたハルヒの目が、地球に衝突する隕石を見つけてしまった天文学者のような形に変わったのを見たのちに、


「ちょ、あんた近」


 ごっちーん、とデコの真ん中で花火があがって、俺の意識は遠くへ消えた。










 目を開くと、視界に飛び込んできたのは白い天井。
 ……保健室、か?
「俺、何でこんなとこに……」
「キョンくん、気がついたんですか!?」
 勢い良く視界を遮ってきたのは、いつもより若干顔色の悪い朝比奈さんだった。
「いやはや。大事無かったようで、何よりです」
「よ、よかったぁ。ひくっ、あ、あたしのせいで、また何日も起きないんじゃないかって、ひっ、心配で」
「…………」
 よくよく見てみると、朝比奈さんの後ろに古泉と長門まで勢ぞろいしている。
 俺は体を起こすと、さっきから違和感のあった頭に触れた。
 ざらついた感触。額に湿布が貼られているらしい。
 いまいち状況を把握し切れていない俺に気付いたのか、古泉は説明的な口調で喋りはじめる。
「いつまでも戻ってこないものだから教室を見に行ってみたら、涼宮さんとあなた、お二人で倒れていたんですよ。おそらくバナナの皮を踏んづけて滑った上にお互いの頭を打ちつけて失神したんでしょう。意外ながら、現実には多々そういうことがあるようですね」
 そうか、バナナの皮を……って、ちょっと待てよ。何言ってんだこいつは。
「お前な、人が気を失ってたからって妙な冗談はよせ。不謹慎な上に全然つまらんぞ。それより、ハルヒはどうしたんだハルヒは。ひょっとしてまだ怒ってんのか、あいつ」
 ただ一人、俺を気絶させた犯人であるハルヒの姿が見当たらなかった。人をアホみたいに硬い三角錐で殴った末に昏倒させても、あいつの可動橋みたく斜め四十五度に傾いた機嫌は直らなかったのだろうか。まずいな。だとしたらこれ以上どうしろっていうんだ。口で謝るぐらいでお許しが出るのか?
「……少し、宜しいですか?」
 げんなりしていた俺に向かって、珍しく引きつった笑顔の古泉が声を掛けてきた。
「何だよ、その顔は。ひょっとして俺が寝てる間にまた厄介ごとの類が飛び込んできたってんじゃないだろうな」
 だとしたらせめて包帯が取れるまで報告を差し止めていて欲しいね。保健室のベッドで寝てる間ぐらい、安らかな気持ちでいたって罰は当たらないだろ。はかない願いだとわかっちゃいるんだが。
「いえ、そうではなくてですね、その、あなたと僕の関係について、あなたの方はどんな風に考えているのかと」
 わけがわからないことを聞いてくる古泉。んなもん、SOS団の副団長と団員その一だろ。特にクラスメイトってわけでもないしな。
「それは、親友と言うか竹馬の友というか、そういった感じのあれでは……」
「は? なに気持ち悪いこと言ってんだお前。頭でも打ったんじゃないか」
 確かにこいつとはしょっちゅう一緒にいるわけだが、人間関係に属するそういった概念をこいつとの間に結ぶのは、さすがに微妙だ。だって何か腰の辺りがぞわっとするだろ、そういうの。特にこいつに言われるとな。
 正直に告げると、古泉は何故かかつてない角度で項垂れて、
「……そう、ですか。僕の親友は、死んだのですね……」
 ぼそり、と何やら物騒なことを呟いた。
 こいつ、本当どうしちまったんだ? さっきから変なことばっかり口走って。ひょっとしたら、神人との戦いがハードすぎて色んな所にガタが来てしまったのか。最近は出動回数も減ってきたって聞いてたんだけどな。
「お、おいおい。何か知らんけど元気出せって。な? 何ならあれだ、機関の方に休暇願いでも出して、どっかで保養でもしてきたらどうだ? ハルヒの面倒ぐらい、俺たちで見とくからさ」
 さすがに心配になって休養を薦める俺に、古泉は一日中五〇メートルプールを泳がされ続けた競走馬のように青白い顔で、吹けば消えそうな笑いを浮かべると、
「……ではお言葉に甘えて……ラーメン屋にでも、行ってきます」
「あ、ああ、そう。うん、いいんじゃないか。それで心が休まるんなら、行ってくればいいと思うぞ、俺は」
 軽く手を挙げた古泉は、腿の筋肉がそぎ落とされたかのような足取りで、ふらふらと保健室を出て行った。
 しかし、ラーメン屋って。あいつ腹減ってただけかよ。心配して損したな。心を砕いた分、朝比奈さんを鑑賞して補給せねばなるまい。我ながら怪しからん言い訳を考えていると、
「キョンくん!」
「うおっ」
 当の朝比奈さんが、俺の胸に飛びついていらっしゃった。何だ今日は、大安か。一生に三度来るというモテ期がついに到来か。
「元に、元に戻ってくれたんですね!」
 戻ったって、俺の意識が戻ったのが、そんなに嬉しかったんですか?
 だとしたら、朝比奈さんの俺に対する好感度も、そう捨てたもんじゃないらしい。というか、柔らかくて堪りません。
 鼻の下を首の辺りまで伸ばしていると、今度は反対側から、脇腹の辺りに長門が抱きついてきた。その上、匂いをつけようとする猫のように頬をひっつけてくる。
「……大丈夫か、長門」
 お前、そんなキャラじゃなかっただろ。俺が気絶してる間に一体何があったんだよ。
「よかった〜、よかったですぅ〜」
 浮かんだ疑念も、朝比奈さんの声と共に胸の辺りで揺れる柔らかい物体に、根こそぎ持っていかれてしまう。こればっかりは仕方ない。男子の欲望はいつも盲目的に一直線なのさ。
「……そう」
 甘ったるいプリンのような感触に身をゆだねていると、いつの間にか身を離していた長門が、形容し難い目で俺を見ているのに気付いた。体の大事な部分が凍ったような気がする。
「ひっ」
 そんな長門と不運にも目を合わせてしまった朝比奈さんは、しゅばっと俺から飛びのくと、痙攣するかのように膝のあたりを揺らしながら、
「あ、あのあの、えっと、あ、あたし、もう帰りますね! キョンくん、お、お大事に〜!」
 尻尾に火がついたポニーのように飛び出していった。それを追いかけるように、長門もまた呆然とするしかない俺に背を向けたのだが、部屋を出る直前に突如として振り返り、
「失望した」
「ええっ!? ちょっと、おい、長門? 失望したって何!? なあ! おーーい!!」
 無情にも、扉は音も立てずに閉められた。片手を中途半端に挙げた俺だけが、白い部屋にぽつんと残される。
 ずっとそのままでいるわけにもいかず、とりあえず長門を追いかけておいた方が良かろうと思って立ち上がろうとしたのだが、
「いてっ」
 腰のあたりに痛みが走り、思うように立つ事ができない。もう一度同じようにしても、腰と背中を伸ばそうとすると、やはり痛みが襲ってきて立つ事ができなかった。
 参ったな。倒れた時に、腰も打っちまったのか。
 俺はため息をついて、再びベッドに臥した。
 しゃあない。痛みが引くまで、もうちょっと寝かせてもらうことに、
「キョン」
「うわぁ!」
 無人のはずの部屋で不意に聞こえた声に、首だけで飛び上がる。
 見れば、隣のベッドを覆っていた白いカーテンが引かれて、そこにはハルヒが立っていた。
 驚いた拍子に高まった鼓動が、次第に落ち着いていく。
「何だ、お前もいたのかよ。急に出てきてビックリするじゃ……おい、どうしたんだ、その頭」 
 ハルヒの額の辺りにも、俺同様に湿布が貼られていた。そういや、古泉がお互いの額をとか何とか言ってたけど、いや、でもあの時は俺がハルヒに側頭部を殴られたわけで、怪我をしてるのは俺だけの……側頭部? だとしたら、何で俺、額に怪我してんだ?
 暗い窓の向こうで、カラスが一声鳴いた。
 何だ、この感じ。まるで知らない世界にでも迷い込んでしまったような、そういえばみんな様子がおかしかったし、
「ねえ、キョン」
「……何だ。どうかしたか?」
「あたし、思いついちゃった」
 思いついた?
 脈絡の無い話題の真意を探ろうとしたものの、ハルヒのいつになく穏やかな表情からは、何も読み取れなかった。そう言えば、こいつもどこか雰囲気がおかしいような気もするな。
 心の内をざわめきながらも、その思いつきとやらを聞いてみる。
「思いついたって、何をだよ」
「決まってるじゃない。SOS団を恒久的に存続させるための具体的な方法についてよ」
 そりゃまた、随分と壮大なことを思いついたもんだな。今はそれより、腰の痛みを一瞬で消し去ってくれるような斬新なマッサージ法を思いついて欲しかったんだけど。
「で、そりゃどんな方法なんだ。俺にもわかるぐらいに噛み砕いて言ってくれるとありがたい」
「わかったわ。要するに、手っ取り早く子供を作るべきだと思うのよね」
「…………子供?」
「そう。何だかんだ言ったって、血縁は何百年経って腐っても切れない唯一の縁だと思うわけ。家族も一つの組織なわけだし、結婚や出産などを経てねずみ算式に増えていくじゃない? それがずっと繋がっていけば、もう永遠に広がり続けるのと同じよね」
 こいつが血縁なんてこと言うのは違和感があるような気もするが、まあ、話としてはわからんでもないな。無茶苦茶すぎるけど。
「というわけで、早速やりましょうか」
 言い切って、俺が寝ているベッドに膝をかけるハルヒ。どうしようもなく悪い予感がする。俺は早口で尋ねた。
「待て。ウェイトだハルヒ。何をやるって?」
「だから言ったじゃない。子供を作るのよ」
「……誰が?」
「あんたとあたしが」
「……何をするって?」
「子作りを」
 いかん。こいつこれ絶対おかしいよ。俺は腰以上に痛みだした頭を抱えつつ、
「ハルヒ。いいか、よく聞けよ。そういうのはな、一般的に結婚した男女が行なうものであって、まあ子作りを目的としないのなら別だとは思うし、例外も多々あるのは認めざるをえないんだけどな、どっちにしろ、俺とお前がやることじゃないよな? わかるだろ?」
「なら問題無いじゃない。だってあんた、あたしにプロポーズしたんだし、もう結婚してるようなもんよね」
「しない! するか! してねえよ!」
 地球を遠く離れた異星の言葉を喋りだしたハルヒに激しく突っ込む。何だよプロポーズって。俺がハルヒにか? ありえん。宇宙人も超能力者も未来人も信じているし、異世界人だって目の前に現れたら「ボンジュール」ぐらい言ってやってもいいが、そればっかりはありえん。
 むしろ本格的に素っ頓狂なことを口走り始めたハルヒに、俺は本気で深憂の念を抱きはじめていた。
「なあ、大丈夫かお前? 頭打ったんだろ? そのせいで大分おかしくなってるように見えるんだけど」
 しかし、ハルヒは逆に俺を労わるような色を瞳に浮かべると、
「頭を打っておかしくなってんのはあんたよ。記憶が混乱してるの。いいわ。そこまで言うんなら、証拠を見せてあげる」
 ベッド脇に置かれた自分の鞄を開き、中から一枚の紙を取り出した。
「ほら、これ。あんた読んでみなさい」
「……ずっと一緒にいて欲しい……って、書いてあるな」
 ご丁寧に署名までしてあるそれは、なるほど確かに俺の筆跡だった。しかし、
「なぁ、これ『一緒に』の部分だけ何か字が違うっぽいし、しかも微妙にルーズリーフの罫線が白く塗りつぶされてるような気がするんだけど」
「ああ、それ溶けて滲んでんのよ。あんたってばこれを書いたとき物凄い熱の入れようだったんだから。怪気炎が上がってたからね」
 嘘つけよこの野郎。
「いいからほら、ごちゃごちゃ言ってないでちゃっちゃと脱ぎなさい。そして仰向けになるの。何ならあんたはもうそのまま寝てるだけでいいわ。最近流行ってるらしいし、マグロ男って」
 鼻息荒くにじり寄ってくるハルヒの目は完全におかしな方向でマジだ。逃れようとしても、腰と背中が痛くて思いように動けない。詰まる所俺の貞操もマジで危機だった。そして余裕ぶっこいている場合でもなかった。
「ハルヒ、な? 頼むから落ち着いてくれよ。朝比奈さんの画像のことなら謝るし、ちゃんと消しとくから、悪ふざけはもうやめて……」
「ふざけてないわ。あたしはいつだって大マジよ。彼岸に橋を建てると言えば必ず建てるし、子供を作ると言ったら必ず作るの」
 有言実行が美徳なのは、時と場合によるのである。
「あのなぁ、お前……うわ、あ、アホ! 人のベルトに手をかけるな! マジだめだって! お前、いくら無茶苦茶でもそんなんする奴じゃなかっただろーがっていうか寄るな触るなチャックを開けるな!」
「何? 脱がせるよりも脱がせたいの? もう、キョンったら変な所だけ男らしいんだから。この土壇場で魅力新発見しちゃったじゃない。まさに心と体の発掘作業ね。ダブルミーニングね」
 もうホントダメだなこいつ!
「耳の中に五百円玉詰まってんのかお前はっ!! やめれっつーとるんだ! ええいっ、誰か、誰かいないのか! 古泉! 長門! 朝比奈さ〜ん! 誰か助けてくれ! ハルヒが、ハルヒが変な脳の病気に!!」
「でもこの制服けっこうややっこしいし、脱がせるとかは慣れてからにした方がいいわ。とりあえず今日はこのままで下着だけ脱げば出来ないことなんて何一つ」
「人の話を聞いてくれーーーーっ!!」



 俺の悲鳴が、白いカーテンを飛び越え、黒い空にまで響き渡る。
 世界は今日も優しくなかった。