マンションのエントランスを出た私を、拒むように風が吹いた。制服の上からカーディガンを羽織っただけの体が、凍ってしまいそうなほど冷たい風だった。
 だけど、私を部屋に戻すほどの冷たさはなかった。
 私の心臓は風邪を引いたようにあつくなって、私の足を動かす。開かれた手の平が、じわ、と濡れて、乾いた空気は、その上をただ流れた。
 電柱も標識も、灯の落ちた家やガラス張りのテナントも、しんと静かに冷えていて、カーディガンのポケットの中で、ほとんど空のフロッピーディスクだけが、私の温度にひきずられて、ひっそりと熱を持っている。
 私を暖かい部屋から連れ出したのも、このフロッピーディスクだった。四角いディスクに包まれた、ほんのささいな円盤の中にある、数十キロバイトしかないデータが、私の体を動かした。
 駆けめぐる熱を、散らしたかった。
 手首に巻いた時計の針は、四時を回っている。
 学校の門が開くまで、あと二時間も待たなくてはならず、きっとその二時間は、私から色んなものを奪ってしまう。あたまの中を走り回るあたたかい興奮もなくなって、十二月の朝に、すっかり冷えて縮んだはだかの私だけが残される。凍えて、耐えられなくて、私の足は、部屋に戻ろうとするだろう。
 だから、このディスクはどこにもいかず、誰の手にも渡らず、誰の目にも触れることなく、私のポケットの中で、すっかりと冷たくなるかもしれない。部屋に帰った私は、それを抱きしめて、眠るのかも。
 だけどその予感も、私の足を止めなかった。辺りには、音のしない建物のかわりに、暗い緑が増えて、道の角度は、ゆっくりときつくなっていく。
 深く呼吸をするたびに、砂のように白い息が漏れて、頬に流れて、ちっとも苦しいなんて、私は思わない。
 




 誰とも目を合わさずに教室を見回して、金魚鉢に似ているな、といつも考えていた。
 四角い暖色に囲われた教室の、後ろの方にぽかんと、丸いガラス玉が浮いている。その、綺麗で透明なガラスの内側から、私はじっと他の人を見ている。
 大きな目で、じっと。
 空気がたくさん入った虹色の泡を、こぽ、と吐き出しながら、見ている。だけ。
 たったそれだけで、金属を擦り合わせるようなチャイムが鳴って、四月の終わりの二限目も、いつの間にか終わっていた。先生が礼を済まして、押し込められていた喧騒が帰ってくる。
 私は机の中から本を取り出した。
 親指と同じぐらいの幅しかない、小さな文庫本のなか。細くぺたんとしていた栞が、身の置き場をなくして、すっとページを滑って、おなかの所に落ちても、私はずっと文字を追った。こぽ。
 本を読む間、私はときどき、誰にもばれないように深呼吸をする。息苦しくなんか無いよって伝える。そうやって、誰か来て、って。
「あ、朝倉さん。おはよ」
 私に答えるように、誰かが言った。本を離れた私の目は、教卓の横でドーナツみたいに丸くなっている女の子たちを見た。
 あさくらさん。
 彼女は器用だ。とても上手に呼吸をする。誰とだって。こんな私を前にしても。
「あれ」
 そう言って、朝倉さんは私を見つけた。
 ひろがる唇の角度と、それに吊られた細い鼻の先が、やわく丸くなっていくのを、私は黙って見ていた。肌の奥で、熱っぽいものがきゅっと締まった。
「長門さん、こっちのクラスだったんだ。よかった。昼休みにでも、あなたのこと探そうと思ってたの。きのう聞きそびれちゃったから」
 前の日の夕方、陽が少し欠けた時間。外よりも冷えた、新しい石の匂いのするマンションのエントランスで、私は彼女と初めて会った。私も、彼女も、同じ制服を着ていた。よろしくね、と声をかけられて、私は頷いただけで、彼女より薄い背中を見せて、部屋に帰った。
 その途中、エレベーターのわきの、鏡みたいに磨かれた銀色の枠に映っていたのと同じ笑顔を浮かべて、はっきりとした足音を落としながら、座っている私の目の前に、今日の彼女はやってくる。
 それまで彼女とおしゃべりをしていて、足音まで拾っていた女の子たちの視線は、私の跳ねた髪の辺りを撫でただけで、すぐに離れた。
 ああ、と思って、でも少し安心して、それが私は嫌いだった。
「今日、一緒に帰らない? わたし一人暮らしってはじめてで、この辺のお店とかも、まだあんまりわかんないし。一緒に色んなとこ探せたらって思うんだけど、どうかな? 何か、忙しかったりする?」
 ほんのすぐ傍で、彼女はきっと、私の下向きの眉を探るようにして、そんな言葉をやさしく投げた。
 熱っぽいものが、どんどんぎゅっとなって、ずっとずっと縮んで、冷えていくのがわかった。
 そんなの、私に聞かないで。そんなの、他の子みたいに長くは持っていられない。やけどする前に、黒く焦げた跡が残る前に捨てないと。
 私はいつも、それにばっかり必死だ。
「……ごめんなさい」
 長い時間を置いて、私が言えたのはそれだけだった。
 私とは何の関係もない、ちがう色の大きな笑い声が、廊下の先で鳴った。
「そっか。じゃあ、また今度、暇なときにね。わたし部活とか入ってないから、いつでも誘って」
 ちらりと顔を上げた。
 本当に残念そうな笑いを浮かべて、彼女は手の平を私に向けていた。柔糸で編まれたような指の腹の先っぽで、伸びすぎていない爪が白く光っていた。その向こうに時計があって、たぶん、彼女が自分の教室に帰らないといけない時間を指していた。
 また目を俯けて、思う。
 理由を聞いてくれないの? そうしてくれれば、上手く答えられるかもしれないのに。
 部活があるんだ。でも、私一人しかいないから、大丈夫だよ。本当は、帰れるんだ。
「ばいばい、長門さん」
 私は、手を振り返すこともできなかった。
 息苦しくて、すごくすごく。





 自分の性格を、一度だけ眼鏡のせいにしたことがある。あれは、まだ中学生のとき。
 レンズのせいだ、と思ったのだ。レンズのせいで、平べったいガラスの膜ができるんだ。
 だから私は、その日一日はだかんぼの目で、地球の反対側を覗き込むようにして、黒板と、その上に描かれる白くて粉っぽい文字を凝視していた。
 ひょっとしたら、何かが見えるかもしれないと、期待していた。眼鏡のフレームに邪魔されてしまうようなもの。私の足りない部分が、足りないのではなく、見逃していただけなのだと、思わせてくれるもの。
 そのとき、私の隣に座っていたのは、誰もが大切に磨きたくなる、華やかな模様が描きこまれた絵皿のような女の子だった。その子は、普段とは様子の違う私を見て、理由を知りたがった。私が、眼鏡を家に忘れてきてしまった、と答えると、その子は少し、おかしそうにした。私も、頬が緩んだ。それが嬉しくて、でも、それだけだった。
 声の大きな先生のわるくち。昨日たべたコンビニのケーキの甘さ。今読んでいる小説の風景。隣のクラスの子と、駅の前で手を繋いでいた背の高い誰か。あなたの長いまつげを、とても羨ましく思える私。
 伝えるべきだったそのどれもが、私の喉をのぼりきれずに、いやな音を立てながら剥がれて、からだの奥の方に落ちていった。声を出そうとして、でもできずに、ただ息を求めて喘ぐように口を開くことしかできない私のせいで、その子の優しかった顔は、困ったような怯えるような、そんな色に落ちて、やがて別の席の子に声をかけられると、ほどけるように私から離れた。
 ひるがえったスカートからは、泡立ったハーブの石鹸と同じ、甘い匂いがして、息継ぎするみたいに顔をほころばせて笑う彼女のまつげは、私の方を向かなくても綺麗なままだった。
 彼女の横顔にできる黒いしわを、私はそのとき初めて知った。この子は笑うと、頬と口の裂け目のあいだに、ぽつんと一粒、えくぼができる。
 見つけたものは、それだけだった。愛らしいえくぼが、たったひとつ。
 次の日の私は眼鏡をかけて、いつもみたいにレンズ越しの黒板を見つめていた。
 




 五月の放課後は、四月に比べて過ごしやすかった。
 焼き始めたパンみたいにふつふつと形を変えていく新品の生徒たちの声が、すっかり落ち着いてしまっていたのと、窓のあいだから入ってくる、肌寒かったすきま風が、心地よく思える気温になったからだ。
 私もまた新品で、古びた文芸部室とはどこかちぐはぐだと思っていたけど、それももう、すっかり馴染んでいるのかもしれない。お互いの新しい部分と古い部分をすり合わせていて、だから、こんなに過ごしやすいのかも。
 繋ぎ終えたパズルみたいに本が並んでいる棚から、部屋の中央に置かれた長机までの数歩で、床は二回みしっと鳴った。私が踏んだらそのたびにきしむ、まだらに汚れた床も、今ではすっかり気に入っていた。ひとりっきりの文芸部室は、ほこりっぽくて、狭くて、うす暗くて、何もなくて、息苦しくもなかった。マンションの部屋と似ていたけど、床が鳴るぶん、私はこっちの方が好きだ。
 でも、たまに考えることがあった。
 この部屋にも、前はもっと多くの人たちがいて、その時の火花のような賑やかさを覚えている、黒ずんだ床の木目や、さびた窓の錠や、棚と壁の隙間につもった灰色のほこりは、私をどう思ってるんだろう。
 そう考えると、いつも途端に、居心地が悪くなる。いつの間にか、ガラスの向こうの、私の嫌いな場所になる。肩と膝を畳んで、縮こまることしかできない場所になる。
 だから私は、放課後の一番おそいチャイムが聞こえてくるまで、できるだけここにいることにした。部屋が、私のことをすっかり覚えて、私のことを、いつだって好きでいてくれるようにするために。
 若草色のパイプ椅子に腰掛けて、ページをめくるあいだ、私は一度も深呼吸しなかった。
 ここでは、それでいい。たまに廊下の向こうで誰かの声や足音が聞こえても、ここの扉が開くことは滅多に無いんだから。
 でも、その日は違った。部屋の前で、誰かのモザイク柄の影が足を止めたのを感じて、私は、読んでいた本を自分の膝に下ろした。
 こんこん、と、二度ノックの音が響いた。
「どうぞ」
 きい、と、ゆるんだ金具がゆっくりと内側にまわって、すっかり扉が開くと、舞っていたほこりが廊下に吸い込まれていくのがわかった。
「こんにちは」
 入って来たのは、朝倉さんだった。測ったような大きさの黒目が、私を正面から捉えていた。本に添えていた指が、こわばった。
「一人で部活やってるって聞いたから、遊びにきちゃった。……本、読んでたの? 当たり前か。文芸部だもんね。ひょっとして、邪魔だったかな?」
 私は辛うじて首を横に振った。朝倉さんは、ほっと聞こえてきそうなほどの、分かりやすい安堵の息を吐くと、また、私の傍に歩み寄った。みし、と床が音を鳴らす。
「真面目なんだ、長門さん。部員が一人って、わたしだったら絶対さぼっちゃってるよ。それ以前に、入部する勇気も無いかな」
 私は、彼女がここにいることよりも、部屋の床が鳴ったことに、ずっと気を取られていた。私じゃなくったって、誰だっていいんだって突き放されたような気がして、しばらく身動きが取れなかった。
「ね、文芸部って、本を読むだけなの? それとも、何か書いたりもするのかしら」
「……読むだけ」
 話半分で頷きかけたのを悟らせないように、慌てて答える。いつの間にか朝倉さんは、パイプ椅子を一つ開いて、私のすぐとなりに腰掛けていた。
「ふーん。書く予定は無いの? 今日ここに来たのって、長門さんが書いたものを読んでみたいっていうのもあったんだけど」
「ない」
「ホントに? パソコンもあるし、あれを使って書いたりとかしないの?」
「本当に、ない」
 朝倉さんの話を聞いて、私はおどろいていた。何か書こうなんて、考えたこともなかった。文芸部に入った理由は、本を読むのが好きだったのと、部員が誰もいなかったからだ。
 だから、初めて触れた動物の毛並みのように、それはすごく新鮮な言葉だった。
「なぁーんだ、残念。けっこう楽しみにしてたのに」
 朝倉さんは、両手をぽんと上にあげて、そのまま自分の髪をすくうと、またすぐに放した。私の短い髪では、真似のできない仕草で、それを繰り返しながら、おもちゃのような瞳は私に向かって微笑んでいた。
「ま、いいわ。その代わり、今日こそはわたしと一緒に帰ってもらうんだから。他の友達とじゃ、どの店でタイムサービスやってるか知ってる、なんて聞いてもバカにされるのよ。おばさんくさいって」
 彼女は喋るたびに、胸元のリボンを淡く揺らして、私の肌の奥では、骨の間が、冷えきっていく。同時に、撫で回されているような気もした。透明なガラスの鉢に脂の乗った指紋がべったりと付いて、それは、いつまでも残っていそうだった。
「一人で探すのも寂しいし。前も言ったけど、二人で色々まわって見ましょう。きっと楽しいわ。可愛いインテリアが売ってるところ知ってるから、教えてあげる。長門さんも、行きつけのところがあれば、今日教えてね」
 耐えられなくなって、私は逃げようとした。
「それは、」
「こないだ断ったのって、部活があったからなんだよね? じゃあ、わたしここで終わるの待ってる。気になるんだったら、教室にでも行って、待ってるから」
 でも、諭すような声で朝倉さんは言った。それを私と、私の部室は、聞いているしかなかった。叱られると悟った子供みたいにじゃなく、控え目に物を欲しがる子供のように、口をつぐんで。
「ね? 一緒に帰ろう?」
 ためらいの無い顔だ。笑った桃色の頬には、自信が表れていた。
 朝倉さんは平気なんだ。私の傍にいても、息苦しくない。息苦しくても、気にしない。優しい。いい人。無神経。自分勝手。
 なら、途中で放り出されたって、それでも、私は悪くない。そっちが強引に誘ったんだから、私は、何もならない。失望させたって、私に傷はつかない。やけどだってしない。誰が窒息したって、知るもんか。だって、そっちが。そっちから、無理に。私じゃ、無いんだから。
 私はただ、黙って頷いた。
 私を見ていた朝倉さんは、嬉しそうに頷いた。
 からだの奥の冷えたものを、私は忘れて、彼女が床を鳴らしたことだって、もう、すっかり忘れた振りをした。





「そっくり」
 朝倉さんはたまにそう言うと、照れたように笑った。
 私がはじめて彼女の「そっくり」を聞いたのも、やはり、はじめて一緒に帰った日のことだ。
「わたし達って、そっくりだよね。はじめて長門さんと話したとき、思ったんだ」
 野菜や果物の入ったビニール袋を持って、とおくの信号機を向いたままで、彼女は言った。
 私も、その横で彼女と同じように、惣菜の入ったビニール袋を片手で摘まんで、歩いていた。歩きながら、首を傾げた。彼女と似ているところなんて、私には無かったからだ。
「ほら」
 彼女の空いた手が、私の手を捕まえた。そのまま指を伸ばし、なすがままになった私の手の平を開かせて、そこに彼女の手の平を合わせた。それは、私が思っていたよりずっと、ぴったりと合った。指と指の高さの間に、少しの差もないぐらいに、ぴったりと合っていた。冷たくも暖かくもない体温も、同じようにぴったりと。
「探せば、多分もっとあるわ。似ているところ、もっとたくさん」
 手を離して、彼女は目を細めて、また前を向いた。マンションのエレベーターで別れるまで、私はずっと、何も言わなかった。
 それからたまに、彼女と一緒に歩くようになった。
 私と朝倉さんと、似ているところは確かにあった。たとえば爪を長く伸ばせないところや、甘すぎるものが嫌いなところや、何かで失敗したときに口の裏を軽く噛むのが、そうだ。 
 でも、どれだけそれがあっても、たくさんと言うのかどうか、私にはわからなかったし、どうして彼女がそんなに私と似ていたいのか、大事なものを探し出そうとするように私を手探りするのかも、しばらくはわからなかった。
 彼女がそうする理由に気付いたのは、もう、すっかり夏になってしまったころだ。
 夕方になっても外は明るくて、影のようにしつこく、水っぽい熱気が付きまとっていた。夏の制服を着た私たちが、桟橋のように伸びる軒下の日陰を進んでいる。
「わたしも髪、切ろっかな」
 ひとさし指で前髪を払うと、彼女は言った。水色の鞄から、ぶら下がって揺れていたキーホルダーが、少し角度を変えた。
「長門さんぐらいなら涼しそうだし。やっぱり髪が短いと、だいぶ変わるよね?」
「そこまで伸ばしたことないから、よくわからない」
「そうなんだ。長いのも楽しいからいいんだけど、今みたいに暑いと鬱陶しいわ。それぐらい短い方が、清潔でかわいいんじゃないかな」
 どう思う、と、彼女は首を傾げた。
「朝倉さんなら、何でも似合う」
 だってあなたは学年で一番かわいくて、綺麗だ。もちろん、私よりずっと。
 うらやましさを混じらせた私の答えを聞いて、彼女は一瞬、ヘンな表情になった。引いた頬のうらで、口の裏を噛んでいるようだった。
 言葉が、知らないうちに、卑屈な調子になってしまっていたのかも。
 あせって言い訳を探す私を、つつむように、彼女は笑う。さっき浮かんだ表情は、もう、なくなっていた。
「そうかな」
 彼女は、笑いながら呟いた。さっきまでと、少し違う笑い方。
 私はそれを見て、足を止めた。
 同じだ、と気付いたからだ。
 バターを撫でるナイフみたいに、人の輪に自分を溶かす時の彼女の笑顔と、それは、まったくおんなじだった。うっすらと上がった眉根も、下がる目尻も、崩れない鼻の線も、ぜんぶ。
 立ち尽くした私は、自分のはだかを思い出した。触れても震えない、やわい皮のうらの、固い骨のかたちと、それを鏡に写した自分の、濡れた髪が古いツタのようにはりついた顔を、思い出した。
 朝倉さんも、夜、はだかの自分を覗き見るのかもしれない。
 私の部屋と同じクリーム色のバスルームから、はだしの足から水をこぼしたまま出てきた彼女も、ふくよかで綺麗な体を透かす、とがった骨のことが、嫌いなのかもしれない。
 誰とも似ていない、どの他人とも違う自分が、嫌いなのかも。そういう当たり前のことを、不安に思って眠れないような暗い夜が。
 少し先で私を待つ、まっすぐに立った朝倉さんの姿が、それまでとは違って見えた。細かく揺れて、いつか消えるような。
 その日から、私は彼女の「そっくり」を聞くたびに、頷くようになった。
 声も出さずただ首を傾けるだけで、私と、それにきっと彼女も、ほんの少しだけ安心できるのなら、そうしてもいいと思ったのだ。


  


 でも、今、私のとなりに朝倉さんはいない。
 部屋で眠っているだろう彼女を残したままで、私は坂道をひとり、登っている。
 私は、やはり自分を選んだのだろうか。朝倉さんじゃなくて、一度話しただけのあの人でもなくて、いつか一人っきりになってしまいそうな、かわいい自分を。
 つんと、鼻の奥に痛みが走る。胸から湧いた嫌な気持ちが、血管のなかをぐるりと一周する。あせってポケットをまさぐり、薄いディスクの感触を確認すると、私は、安心した。
 また、ずるく、安心した。そんなことのために書いたわけじゃないのに、私は、また。
 たかぶっていた気持ちが、じっとりと冷めていく。思っていたより、ずっと早く。ほんの数分で。病んだように動いていた心臓が、大きな氷のようになって、沈んだ。
 ディスクの縁を、人差し指でなぞる。
 どうして、学校なんかに行くの。直接渡せばいいって、わかってるくせに。部屋に戻って、もう一度電話を鳴らしてみれば、今度こそ彼女は目を覚ましてくれたかもしれないのに。靴箱にだって、本当は入れる気もないくせに。寒いから、待てなかったって言い訳を、部屋を出たときからずっと、大切に用意してたくせに。日が昇って、学校に行って、渡さなきゃって思う気持ちが、灰色に枯れる時間を、じっと窺っているくせに。
 今までの自分の興奮が、ひどく卑しいものに思えた。たまらなく恥ずかしくて、そのままきびすを返してしまいそうな足を、私は必死で止めた。
 立ち止まって、深い息を、した。
 坂道は続く。ポケットから温もった手を出すと、温度はまたたく間に連れ去られ、私は疲れきったキャラバンのように、空を仰ぎ見た。
 低い雲が、のっぺりと黒い空を覆っている。





 彼と会ったのも、やはり五月だ。
 職員室の横に貼り出されていた、コンクールか何かの掲示物にたまたま目が留まって、市立図書館の存在を知った私は、その週が休みに入ってすぐ、駅前行きのバスに乗った。
 まだうっすらとしか手垢のついていない、背の高い扉を押して館内に入ると、まるで六月のような、緩やかな温度の膜に包まれるようだったのを覚えている。カウンターで、バーコードを照らす赤い光が、ピ、と鳴っていた。
 何冊か見繕い、空いていた木づくりの椅子に腰掛けて、私はずっと、本を読んだ。静かで、誰の声も聞こえなくて、聞こえてもそれは私を息苦しくさせたりはしない、ただの音だった。ただの。
 だから、居心地が良すぎた。気付いたら、窓の外は夕日の色も遠い、夜に近い時間になってしまっていた。
 読みかけの本と、重ねていたうちからもう二冊選んで立ち上がると、周りに人はもう、誰もいなかった。照明のした、カウンターに向かうと、受付に座っていた女性は、奥のデスクで忙しそうにパソコンを操作している。高い場所に掛けられていた、壁紙にあわせた銀色の時計を見ると、閉館時間まで、もう間は無かった。
 私は、どうしたらいいのか、すっかりわからなくなってしまった。小さくて弱い私は、いつだってすぐに竦んだ。本を借りるために、ただ声をかけることだって、できないぐらいに。
 胸に抱いた本の重みが、秒針と共に増していく。こんなのは棚に返して、帰ろうと思った。
 彼の声を聞いたのは、そのときが最初だ。 
「あの、これって並んでるんじゃないんです……の、かな?」
 急に声をかけられて、振り向いた私の崩れた顔が、考えていたより幼く見えたのか、後ろに立っていた彼の口調は、戸惑うように変わっていった。ころころ、と。
 でも、そんな彼の顔や、姿よりも、その手に小さな本が一冊たずさえられているのを、私はまず、見つけた。
「何か待ってるみたいだったけど、手続き待ちとかじゃない?」
 問いかけられたことすらわからなかった私に、もう一回、彼は聞いた。さっきとは違って、小さな子供に話しかけるような、鼻にぬける低い声だった。息を詰まらせたまま、私は何とか首を横に振った。
「でも、それ」
 彼の指の深い部分に、うっすらと青い血管があって、その先に、私が抱えた本があった。
 私は何も答えず、首をいっそう下に向けた。それは苦しいからじゃなくて、ただ、誰にも声をかけられない私を知られるのが、恥ずかしかったからだ。知らない人の前では、せめて、弱い私を取り繕っていたかった。
 床に敷かれたカーペットの模様と、彼の黒いスニーカーが目に映った。
「よかったらさ、少し聞きたいんだけど」
 そのまま、まつげの綺麗なあの子みたいに、彼はどこかにいなくなってしまうと思っていたから、そんな風に尋ねられて、私は意外に思った。
「カードの作り方って知ってる? 借りる時いるんだよね、たしか。どっかに案内みたいなの出てたっけ?」
 私は、俯いたまま首を振った。聞き返されないように、できるかぎり、大きく。
「知らない、か」
 今度は、頷いた。そうしたら、今度こそスニーカーは私の横を通り過ぎていって、彼はカウンターの向こうに声をかけているようだった。カーペットの、網目に沿って別けられた青と紺の模様だけが、私には残された。
 本を、返しにいかなくちゃ。
 でも、歩き出そうとした私の肩は、軽く叩かれていた。振り返ると、通り過ぎてしまって、二度とこちらを向かないはずの彼が立っていて、そのときはじめて、私は彼の顔を見た。
 笑っていないけど笑っているような目をしていて、えくぼは見当たらなかった。
「これ、書かないといけないみたいだ」
 白い紙が二枚、彼の手の中にあった。それは、貸し出しカードの申請書類らしかった。
 二枚。
 彼と、たぶん、私と。
 手招きされるまま、私はカウンターでボールペンを手に取った。受付の女性は、また奥のデスクで、パソコンに向かって難しそうな顔をしていた。
 隣には彼だけがいて、カウンターの上で寝転がる小さな本があった。
「あ、これ違う。俺が借りるんじゃないから。いや、俺が借りるんだけど、読むのは妹なんだ。小学生な」
 幼い雰囲気の題名を目線でなぞった私に、彼は、早口でこたえた。咎められたようで、何とか謝ろうと口を開きかけた私に、今度はゆっくりと、彼は言った。
「けっこう本読んでる?」
 私は、また愛想もなく頷いた。それだけでいいと、言われているような声の調子に甘えた。
「課題があるんだと。そんで、出かけるついでに適当なの借りてきてって言われたんだけど、この本、どうだろう。難しすぎないか?」
 数センチ、私の方にずらされた本を、少しだけめくった。
 そして、今度は首を振ろうとして、伝わらないかもしれないと思って、それより私の声を聞かせてみたくて、私は言った。
「いい本……だと、思う」
 しばらくボールペンの先を鳴らして、そうか、と彼は言った。そのあと、ありがとう、とも。
 それからも、記入欄を埋めるほんの数分の間、彼は、いくつか話をしてくれた。
 耳を傾けるだけの私に、いつもの苦しさは無かった。彼の話は、私に何も求めず、目を合わせることもなく、それでも自然な、年下の子を退屈させないためだけの話だったからだ。
 彼は、真綿が敷き詰められた、何か大切な物のように、私を扱った。彼が実は、私と同じ学年で、同じ学校に通っていると気付いても、私はそれを指摘しようとはしなかった。
 ただ眠気のような、ぼんやりとたゆたうものだけがあって、私は横目で、彼の文字を必死で覚えようとしていた。一人きりの私の部屋に、この文字と、この声があったら、どんなにいいだろうと思った。小さな本を掴んだ彼の手の形が、私の薄っぺらな体にぴったりだと、ひどく当たり前のように、私は考えていた。
 私がカードを受け取ったのを見届けると、短く別れの言葉を残して、彼は扉の方に歩いていった。少し待ってから、私はそのあとを追った。外に出ると、もう、彼はどこにもいなかった。
 一人残されて、大きなものを飲み込んでしまったように、しばらく進むことも戻ることもできなかった私は、暗い道の先を見つめた。電車の音がどこかで、うるさくしていた。
 呼吸が、はやい。
 次の日の学校で、彼を見つけるのは簡単だった。同じ階に、彼はいたから。
 私はそれで満足して、声をかけることはしなかった。気付かれようともせず、それどころか、見つかりそうになったら身を隠すようにした。
 たくさんの中で会ってしまえば、二人きりだった図書館でのことが、重い色に塗りつぶされるような確信が、私にはあったからだ。たまに彼を目にする一瞬、体の中をいい匂いのするものが通って、それだけで、私は満足だった。
 本当に。





 だけど、まいた覚えのない種が開くように、何もかもが嘘になってしまう瞬間があって、それは夏を過ぎ、道の端や革靴の隙間に破けた葉がつもる、乾いた秋にやってきた。
 日ごとに肌寒くなっていく朝の通学路で、ずっと前を歩いていた彼の隣に、朝倉さんの笑顔を見つけたとき、私は何とも思わなかった。
 彼が朝倉さんと同じクラスであることぐらい、とうに知っていたし、たまに二人で喋っているのを見かけることだってある。朝倉さんは誰とだって仲が良いし、彼は普通の人だ。
 だから、それは全然おかしな光景じゃなくて、ずっと前にいる二人が、私のほうを振り返らないのも、当たり前だ。足音は、私たちの他にいくつもあった。
 そんな、何とも思わないことが、けれど以前より頻繁になって、私はまるで日の光にじりじりと炙られるように、焦れていった。文芸部室まで迎えにきた朝倉さんに、とうとう、彼のことを聞かずにはいられないぐらいに。
「珍しいね。長門さんがそんなこと聞いてくるなんて」
「今まで見ない人だったから、ちょっと気になっただけ」
 彼女は、わかってるわ、と頷くと、立ったままで言った。
「席が近くになって、前より喋るようになったからかな。今までも、登校する時間ならたまに被ることあったんだけど、挨拶しておしまいだったから。さすがに今さら、それはちょっとね。冷たすぎるじゃない?」
 感慨もなく、軽い声で彼女は言った。実際、それは大したことじゃなくて、何とも思わないのが、やはり自然なことだったのだ。
 でも、それからの私は、どうしようもなく不自然で、どこもおかしかった。
 以前は気にならなかった、彼女の仕草や、話し方や、歩き方までもが、どこかしら尖って、私の目に映るようになった。ちくり、と刺さって、もぐって、ずっと抜けないような、たちの悪いものだった。
 毎日学校にいくたびに、それは確実に増えていって、私はゆっくりと苛まれ、耐えられなくなったのは、すぐだ。
「最近、元気ないんじゃない?」
 大きな国道を渡りきるなり、彼女は私の顔を、はっきりとした目でのぞきこむ。私は、そこに自分が映っているのが、何だかとても嫌で、同じぐらい恐ろしくて、顔を逸らした。
 わかっていたのだ。今にも切れてしまいそうな、頼りない糸が。
「そんなことはない」 
「本当に? 心配だな。長門さん、いっつも最低限のことしか喋らないんだから」
 ちくり、とした。困ったような眉根が、私を馬鹿にしているような、幻覚だった。
「大丈夫」
 口だけで、答える。
 お願いだから、これ以上は何も言わないで欲しかった。張り詰めていく自分が、怖い。
 でも、彼女は腰に手を当てて、怒るような演技を、した。
「わたしは付き合い長いから、それでもいいけど。でも、ダメだよ、そんなんじゃ。他の人はわかってくれないんだから、絶対。誤解されてばっかりは嫌でしょ? 伝える努力をしないと」
 彼女は、たまにこういう風な物言いをした。教え諭すように、彼女以外の、他の人と、と。他愛もなく、たぶん、私のためを思って。
「ねえ、長門さん? ちゃんと聞いてるの?」
 でも、耳障りだ。
 思ってしまって、もう、私は止まらなかった。
 言われなくてもわかっている。ずっとずっと、あなたに会う前から、私にはわかっている。
 あなたこそ、ちゃんと知ってる? わかってくれないはずの、他の人が、わかってくれたの。彼は、わかってくれたの。そんなことすら、あなたは知らないくせに。どうして偉そうなことが言えるの? どうして、私の前で、彼の隣で、楽しそうに笑ってたの? 私より綺麗な顔で、私より楽しそうな輪の中から、手を差し伸べるの? 本当はね、私とそっくりなその手が、たまらなく嫌なの。爪をつきたてて、破きたいぐらい。
 私は、早足で、彼女を追い抜いた。
 尖ったものは、すっかりと抜けてしまって、かわりに、傷つけるために鋭くなった私だけが、あった。
 どうしたの、と口を開きかけた彼女に、私は微笑みかける。
「あなたにそんなこと、言われたくない」
 それは、初めての感覚だった。
 口が勝手に動くときみたいに、からだと心がはがされていくようで、でも、それは全部わざとだ。
 私じゃなくなったふりをした私は、頭の中で、どうやったら彼女を強く深く、血がでるぐらい傷つけることができるか、どうすれば、私にとって快い、苦しそうな顔を見ることができるのか、ひどく冷静に考えていた。
「どうせあなたには、他の人のことなんてわからない。わかるふりをしようとしても、結局どうでもいいと思って、見下すことしか、あなたにはできない。自分しか大切なものがないんでしょう?」
 わかってるから、自分が嫌いなくせに。自分を隠して、皆から好かれようと必死なくせに。あなたは、そのくせ他の誰とも、私とだって、ぜんぜん違うんだから。よくわかるの。上手く取り繕ってたって、どうせ。
「かわいそうに」
 穏やかに言って、私は彼女に背を向けた。彼女が追いついてこないとわかると、わざと、できるだけゆっくり歩いた。一人の私と、一人の彼女を、見せ付けるように。
 口が渇いていて、ねちゃ、と耳障りな音がした。
 マンションについて、顔をいびつに引きつらせたまま、自分の部屋に入った私は、鍵をしめた瞬間、膝がふるえて、目の奥が熱くなって、涙が出てきた。
 白く、何もなかった頭の中に、後悔が流し込まれた。小さなカップのように、それはすぐにあふれて、こめかみがじんじんしていた。
 どうして朝倉さんでなく自分が泣いているのか、ぜんぜんわからなかった。わからなくて、嫌で、汚かった。汚いまま、ドアノブにすがりついたままで、ずっと眠ってしまおうかとも、思った。
 翌日、遅刻しながら学校に行って、顔を上げることすらできなかった私に、朝倉さんは、いつものように接した。震える私の、昨日のみにくい顔も、行為すらなかったかのように、そのあとも、ずっと。
 彼女は何も言わず、私は、言わなくてはならないことを、何一つ言えなかったのだ。
 日が過ぎていくにつれ、私たちは普通になっていった。前と同じように、私たちは一緒に歩いた。喋りもした。笑顔も見た。そのかわり、私が本当に言うべきだった言葉は、遠ざかっていった。機会は、いくらでもあったのに。部室や、帰り道や、たまに一緒にする夕食の時間に、いくらでもありふれていたのに。
 結局、私は、あの日からずっとドアノブにすがりついたまま、動けなかったのかもしれない。
 せっかく手に入れた、他人の優しさや思いやりすら、価値のない硬貨のように安っぽく利用して、このままでいいんだよって言われて、ずるくずるく、安心し続けるのだ。
 だから、なりたかった自分ですら、いつしか遠く、見えなくなっていく。窮屈で息苦しい場所に逃げ込んだままの私を、置き去りにして。





 そうして、完全に遠ざかって消えてしまいそうになっていたものと、それを見ようともしなかった私との間に、再びくさびを打ち込んだのは、それもまた、朝の通学路で目にした光景だった。
 ガードレールにふち取られた、曲がった道の先を彼が歩いていて、その先を、朝倉さんが歩いていた。それを見た私の胸に、何かがさわった。さわりたくなかったものが、さわった。
 目を逸らそうか、一瞬悩んで、でもそのときはなぜか、逸らさなかった。たき火のあとみたいに、ちろちろと残った何かが、私にそれをさせなかったのかもしれない。
 そのうち、ペースを速めていた彼が、朝倉さんに声をかけた。私はてっきり、そこから二人で歩いていくはずだと、そう思っていた。
 でも、朝倉さんは、彼に笑いかけて、そして、振り返って、私を見たのだ。私の目を、いたわるように笑いながら。そして、彼に何か言って、早足で坂を上っていった。彼が一人、片方脱げた靴のように、坂の途中で残された。
 背筋を伸ばして、どんどん遠くなっていく朝倉さんが、夏の日の、彼女の姿に重なった。髪を切ろうかと言って、切らなかったあの日、私の先にあった、消えてしまいそうなほど、はかない影と。
 歩道の脇の石垣に、私は手をついた。怖くて、立っていられなかった。息が、たまらなく。
 私が奪ったのだ。
 優しくて、綺麗で、怖がりで、他人のことによく気が付く彼女が、クラスメイトと言葉をかわす時間を、私がいやらしく、いきものの皮膚を剥ぐようにして、引き裂いた。ばりり、と、音を聞かせながら。
 それがどれだけ大切で、切実な時間なのか、私は誰より知っていたのに。
 忘れていた震えが戻ってきた。周りから声が消えた。周りから、肩を震わせる私がどう見られているか、そんな勘ぐりも、消えた。
 言わないと。謝らないと。すぐに。できない。ずっと。謝れない。何て言えばいいの。でも何かしないと。友達なのに、私と似ているところを探してくれたのに、こんなんじゃ、いつか全部。
 心の内と、体の外が、ごちゃごちゃしていた。誰かが肩にのせた手に、私は大丈夫だと返した気がする。何もかもが、夢の中のようだった。朝の空気が、もやのように漂った。
 誰かに何かを伝える術も、勇気も、持っていない。私は。
『楽しみにしてたのに』
 だから、五月に聞いた彼女の声が、耳鳴りのように浮かんで、私はそれに寄りかかってようやく、足を動かすことができた。 
 その日の部活を終えると、彼女に断りを入れて、駅前に向かった。小さな専門店で、一番古くて安いノートパソコンを買って、寝室に隠した。
 文芸部室にいる間と、彼女が夕飯を持ってくる日は、彼女が帰ってから、持ってこない日は、眠るまでずっと、寝室にこもってディスプレイに向かって、キーボードをたたき続けた。
 私が寄りかかっているものから、振り落とされないように、つよく、つよくたたいた。
 書き終わった頃には、もう冬の真ん中の、早朝四時を回ろうとしていた。





 私の足は、冷たい朝のなかで、再び動いて、坂道を登りはじめた。
 冷えて固まった興奮や、図書館で借りたたくさんの本や、数少ない、誰かと一緒にいた時間が、ゆっくりとした力を持って、私の足を引きずっていくようだった。
 遠くで車のクラクションが聞こえた。悲鳴のようにこだまする。みんながみんな、朝になろうとしている。凍えながら歩いているのは、動こうとしているのは、きっと、私だけじゃなかった。
 学校が開くのを、待てるのか。どんなに寒くったって、私がすっかり、冷え切ってしまっても。
 待つことができても、彼女の下駄箱に、ディスクを届けることができるのか。
 受け取った彼女が、中身を読んで、笑ったり泣いたり、してくれるのか。
 そのあと彼女に、私は、自分の口で、喉で、何か伝えられるのか。
 私のことを、許してくれるのか。
 ぜんぜん、わからない。自信だってない。何もできないまま、やっぱり私は、何も変わらないままなのかもしれない。三十分さきの私は、弱い自分を慰めながら、あたたかいベッドの中で眠っているのかもしれない。
 けれど、坂道の途中で引き返すことだけは、どうやら私はしなかった。
 カーディガンをすき通る風は、だんだんと刺すようになって、私の足は、まだ、動いている。霜の降りた暗い道を、歩いている。一人でも、寒くても、白い息を吐きながらでも。
 だから、もし。
 もし、と、私は考える。
 もし口に出して謝ることができたら、私も彼女とそっくりなところを探して、教えてあげよう。今まで隠れて見えなかったものを、見つける努力を、またしよう。
 私が気にかけている彼のことも、ちゃんと話してみよう。彼女は気付いているのかもしれないけど、私の口から、ちゃんと。図書館でのことから、ぜんぶ。
 どうせなら、彼にも、私を見てもらいたい。自分だけ金魚鉢の中に隠れて、溺れないように必死な人たちから逃げるだけの私が、みっともなく縮こまって、生きている姿を。
 それでも、もし、彼がまた、私とあんな風に話をしてくれるなら。
 彼と、彼女と、いつか三人で、もっとたくさんで、一緒に笑ったりすることができれば。
 ぜんぶぜんぶ、本当に夢のようなことだけど。
 狭くて小さくて、日が昇れば、きっとまた息苦しい冬の中で、もし、と、虹色の泡を吐くように、私は考える。





 やがて校門の前に立った私に、強い、強い風が吹いた。
 今までの私をまるごと剥ぎ取ってしまいそうなほど、冷たい風が。