誰もがそうであるように、こんな可愛げのない俺でも一応子供時代というものは存在していたわけで、ご近所で評判の神童では無かったものの、春先に咲いたタンポポと同じぐらいには愛でられていたと思うし、今写真を見てもそれなりに年相応な愛らしさを備えていると自分でも頷ける程度の平均的なガキだったのだ。
 思えばあの頃は見るもの全てが新鮮で素直な驚きに満ち溢れており、宇宙人なり未来人なり超能力者なり涼宮ハルヒなりが目の前に現れたとしても、俺は算数の一足す一を覚えるよりも容易くめくるめく不思議現象の数々を受け入れ、将来的にはオカルト界の権威としてその名を轟かす逸材となった事だろう。危なかった。
 で、一般常識が身につく程度に育ったかと思えば、今度は母親からコブのような妹が発生し、俺の肩書きは一人息子からお兄ちゃんへと変貌を遂げ、やたらと懐いてくる妹を無碍にもできずあれこれと世話を焼いているうちに、気付けば自分はすっかり可愛げの欠片も無いガキになってしまっていたわけだ。
 これは、丁度そんな頃の話。











 遠いあの日のアルデンテ /












 その日、うちの両親は法事か何かで出かけてしまい、さしたる大きさも無いミドルサイズの我が家に残されたのは、スモールサイズの俺と妹の二人だった。
 とは言え、俺はもうすぐ中学に上がろうかという年頃だったし、妹も食べれるものと食べられないものの区別ぐらいはつくようになっていたので、親からすれば食事代ぐらい用意しておけばお兄ちゃんが何とかしてくれるわよという程度の認識であった事は想像に難くない。
 もちろん親は夕方になれば帰ってくるわけであり、実際、俺のやるべき事なんて昼食を何とかするだけだったのだが。





 サルのようにやいのやいのと騒がしい妹の相手をしていると、気付けば時刻は昼の十二時。
 親が置いていったのは千円札が三枚だったが、それは当時の俺のお小遣いと比較すれば目玉の飛び出るような額で、今となっては不思議探索の度にそれぐらい巻き上げられているのだがそこを考えると欝になるのでさて置いて、こいつは豪華な飯が食えそうだいや待てよ敢えて安く済まして残りの残高をちょろまかすのもアリだなって具合に垂涎しつつ、千五百円分の権利を有する妹の意見も聞いてみることにした。
「お前、何か食いたいもの有るか?」
 それまで人形の髪の毛に無理矢理パーマをかけるのに勤しんでいた妹は、何故か目を輝かせて近づいてくるなり、
「おにいちゃんおにいちゃん!」
 そう言えば、まだこの時はお兄ちゃんだった。今やまるで縁の無いフレーズだ。俺は兄らしく耳を傾けてやった。
「何だよ。何が食いたいんだ?」
 まだ声変わりもしていない高い声で問いかけると、妹はピンポン玉みたいに軽そうな頭をぶるぶると振り回し、
「お金いらないよ! あたしが作ってあげる!」
 俺は思った。きっとこいつはまだ日本語が上手く使いこなせていないんだろう。
「はいはい。じゃあ、ピザでもとるから、少し待ってなさい」
 しかし妹は、油断していた俺の手から三千円を奪い取り、
「あたしが作るの! だからお金いらないの!」
「作るって、何を作るんだよ。言っとくけど、砂団子とかは食えないからな」
「砂じゃないよ。すぱげて作る」
 すぱげて?
「……ああ、パスタ」
「違うよ。すぱげてだよ」
「スパゲッティーな。どっちも一緒だ」
 どうやら妹にとって「料理」の定義は、出来合いのソースを電子レンジに突っ込んで指示されたボタンを押し込むだけのものらしい。シャミセンでも教え込めばできそうな操作しかやった事が無いはずだ。この頃はまだ猫なんていないわけだが。
「なあ、料理は今度、母さんがいる時にしな。今日はどっかから出前でも……」
「やだー!」
 妹はそういうと、小さな大口を開けて千円札を食い破ろうとまでしたものだ。俺は躾の意味も込めて、
「こら! お金をそんな風にしたらダメだろ! 不衛生なんだぞ!」
 しかし妹もかくたるもの。恐れるものなしといった様子で、
「じゃあ作ってもいい?」
「ダメ!」
「じゃああたしもだめ!」
 その後も、何分か言い争いが続いたと思う。
 結局折れたのは俺の方だった。漱石だって妹に食われるためにペラペラになったわけじゃあるまいし、何よりいい加減腹が減って面倒になっていたのも事実だ。
 それに、パスタぐらいならこいつにでも作れるだろうという、砂糖水じみて甘い目算があった。
 俺もまだまだ若かったのさ。





 手伝ったり口を出そうとしたりすると手に噛み付いてくるので、俺はとりあえず火の元の監視だけを行なう事になったのだが、ある意味命拾いしたと言ってよかった。
 妹の料理は、もうどこから手をつけていいのかもわからないほど無茶な代物だったからだ。



 まず、それは麺を茹でる所から始まった。
「ふんふふ〜、涙がてれってれってててえ〜」
 空き箱を逆さまにした壇上で、ほぼハミングで誤魔化している鼻歌を歌いながら、妹は棚から数種類の麺を取り出すと、迷わず一番細い麺を煮立った湯の中に突っ込んだ。
 止める暇も無かったので、俺は菜箸で麺を広げはじめた妹の横顔を見ながら、ようやく言った。
「それ、素麺だろ」
「えー、違うよ! そうめんじゃな、…………無いもん!」
 いや、今明らかに気付いた顔しただろ。
「違う! すぱげてなの! う、ぐず、すぱげてなの〜!」
「うわ、わかったよ、わかったから泣くなって!」
 泣かれるとあとが面倒だったので、俺は好きなようにさせる事にした。最悪、あとから俺が作り直せばいいやとも思っていた。
 妹は、めげずに二分ほど茹で続けていたのだが、そのうち一本掴んでちゅるんと食べると、俺に抗議の目を向けた。
「やっぱり素麺だよ」
 俺は拳骨を落とした。



 涙目でパスタを茹でていた妹は、途中で何かに気付いたように顔をあげると、
「入れてなかった!」
 俺がとうとう頭がおかしくなったんだろうかと心配していると、妹は脇に置かれていた調味料をあらかた引っつかみ、いっぺんにばさばさと入れていった。
 やっぱり頭がおかしくなったのかもしれなかったので、俺は一応正気を確認することにした。
「何やってんだ、それ」
「お母さんが茹でるとき、何か入れてた」
「……それは、茹でる前じゃなかったか?」
 だとしたらそれは多分塩であり、味塩コショウや中華スープの素はもちろん、醤油やみりんでは無いはずだ。
 妹はぴたと固まり、おずおずと時計に目をやると、再び鍋に視線を落とし、
「三分ルールだよ」
 俺は色のつき始めた麺を問答無用で三角コーナーにぶちまけ、ついでに拳骨を落とした。



 俺がパスタを茹でている間、妹は涙目で電子レンジの目盛りを睨んでいた。
 拗ねているようだが、自業自得だ。後に引くようならお菓子でもやって機嫌を立て直してやればいい。既に妹の扱いなんて慣れたものだったのさ。
 茹で時間は七分だったが、そのとおりに作ると柔らかくなりすぎるので、五分経った時点でざるに引き上げ、皿に盛る。
「ほら、できたぞ。ソース持ってきてくれ」
 しかし、妹は目盛りを睨んだまま、微動だにしない。
「どうしたんだ?」
 完全にヘソを曲げてしまったのだろうか、と思いながら近づくと、妹は急に立ち上がり、電子レンジを体で覆い隠そうとした。
 何か隠してやがる、と直感した俺は咄嗟に妹の脇の下をひっつかみ、持ち上げる。
 あらわになった電子レンジの窓は、スプラッタ映画に出てくる血のようにごってりと赤く染まっていた。
 とびちった挽肉の向こうに、受け皿に入れられたむき出しのミートソースが見える。
「……お前、ラップは」
「……なくなってた」
「あっためる時はラップかけないとダメだって、母さんに教わらなかったか?」
 妹は、半眼で睨む俺から必死に目を逸らしながら、
「ラップなくても、きっと大丈夫だよ」
 俺はチョップを落とすと、既に大丈夫ではない電子レンジの中を、雑巾で拭っていくのだった。





 食卓には、結局その殆んどの過程を俺が担当したミートソースパスタがほくほく顔で並んでいたのだが、それを目の前にした妹は、心なしか冷めた感じの仏頂面だった。
 どうやら本格的に拗ねてしまったらしく、フォークを手に取ろうともしない。
 お前が作れなかったんだから、しょうがなく俺が作ったんだろ、と理詰めで説得したい所だったのだが、妹はまだそんな歳じゃなかった。本能が理性を駆逐し放題の野生時代なのだ。ガウガウ。
 しかし、このまま放っておくわけには全くいかなかった。
「ご飯を食べさせてもらえなかった」なんてことを親にチクられた日には、俺はどんな目に遭わされるかわかったもんじゃない。兄は頑丈だと思い込まれている節があるが、割とそうでもないんだぜ。 
「あー、美味い美味い。特にこのソースなんて最高だな。さすがシェフのおすすめシリーズだ」
 俺は妹の食欲に訴えかける作戦に出た。
 これはあえなく空振り。小さく頬を膨らませただけだった。河豚の真似か? 知らん間に何か食ってたのかもしれないな。今となってはどうでもいいけど。
 しかし、俺にはまだ奥の手が残されていて、それを使用するのは全くやぶさかでは無かった。
「この麺なんて、完全にアルデンテだな。こんなアルデンテなもの食ったの、生まれて初めてだ。すっげぇなー」
 自分でもよくわかっていないカタカナ言葉を使いまくる。これだ。
 好奇心に訴えかける作戦で、これは見るもの全てに対してキラキラと目を輝かせる妹には効果的だった。
「……おにいちゃん」
「何だ」
「あるでんてって何?」
 俺は内心ほくそ笑んで言った。
「食ってみりゃわかるぞ」
 妹は疑わしげにこちらを窺っていたが、やがて我慢しきれなかったらしく、フォークを持って一口啜った。文庫本を食わされた羊のように飲み込まないまま噛み続け、結局首を傾げながら、
「いつもと変わんないよ?」
「ちょっと麺が固くないか」
「わかんない」
「じゃあ今わかれ。それがアルデンテだ」
 俺は、自分のパスタを一口分フォークに巻きつけ、見せ付けるように掲げると、
「オーウ、アルデンテ!」
 当時やってたCMの真似だった。
 妹はそれを見てしばらくぱちくりしていたが、
「おー、あるでんてー!」
 楽しそうに後に続き、さっきまでの全てを水に流すかのような潔さでパスタを貪りはじめた。
「……美味いか?」
「うん!」
 俺は、必死にフォークに麺を絡ませようとする妹に拳骨をする気力もなく、安っぽい味のパスタを、ずるずると腹が一杯になるまで啜り続けたのだった。



 ちなみに使われなかった三千円は帰宅した親にあえなく発見、没収され、その年の暮れにお年玉として親戚の子に配られていった。
 グッバイ、夏目スリー。



















「……と、こんだけ長々と回想して、何が言いたかったのかというとだな」
 俺は、目の前のガチガチに焦げたガムみたいなカレールーと、これまたからっからに焦げ付いた元白米の黒い粒々が並ぶ食卓と、その向こう側ではにかんでいる愚妹を睨みつけ、餌を奪われた野犬の如く大声で叫んだ。
「どうしてお前は進歩してないんだよ! そもそも米を空焚きって、家庭科の授業で何習ってんだ! 今夜は俺たちしかいないってのに、もう金も食材も無いじゃないか!」
「てへっ、やっちゃった☆」
「やっちゃったじゃねえよ! 星を飛ばしてもダメ! 今後一切、お前がキッチンに入る事を禁止します!」
「え〜、なんでー?」
「食材と俺の腹の虫が不憫でならないからだっ!」





 その後、長門のマンションに行ってレトルト食品をお裾分けしてもらい、何とか飢え死にせずに済んだ。持つべきものは宇宙人と電子レンジだ。




「あ、それあたしがチンするー」
「ダメ!」